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ハイクロ  作者:
4/12

三 リトルガール(二)



 あの戦争。リトルガールのこと。



 私はこの一記事のためにブログを開設した。

 これを誰かに読んでほしいというわけではない。ただ記録に残したい。

 先日、余命わずかとの宣告を受け、私はこれを実体のない電子世界に記す決意をした。長く生きたし、幸福も多かった、悔いはないと思っていたがここにあった。軍規則を、任務を忠実に守り続けてきた私だが、こうして死を前にして、それがいかに無意味なことであったかを知った。

 私は戦時中、自国の軍に所属していながら連合軍とつながっていた。

 スパイだ。

 そうなった経緯については、この話には無関係な部分なので省く。ただ、連合軍は物事の洞察に優れた者、つまり戦いにおいてどちらが勝つかを正確に予想することができる者に目をつけ、引き抜くということをしていた。強者の優越。それだけのことだ。

 軍での私の立ち位置は少々特殊なものだった。幸運なことに私は自分の能力のある部分を誇張して見せ、都合の悪い部分を隠す技術――早い話、演技が他の者よりできた。それによって作られた人物、そしてその人物に軍があてがった職務は、スパイである私にとても都合の良いものとなった。

 本国各地を好きに移動でき、時間や制約に縛られず行動ができる。することといえば、軍内部に不審な動きがないか目を光らせることだけ。機密監視。私の職務は、スパイを見つけ出すことだった。

 当然それは、見つかるわけがない。スパイは私の他にも数人潜入していたが、その際に彼らを手引きし、その後の管理をするのも私だった。つまり私は表向きはスパイを探すふりをしながら、実際はスパイを隠していたのだ。

 連合スパイの職務は、軍内の状況を逐次報告することだったが、元々勝ち戦だ、例えば新兵器など、戦局を左右するような情報などなかった。しかしそれでよかった。

 戦争中盤、連合軍の戦略分析の専門家が、私達が送り続けた情報から、この戦いの長期化、泥沼化を予見した。そこからある計画が動き始めた。

 クラッシュザトップ。頭をつぶせ。作戦内容はそのまま、軍上層部の襲撃による軍機能の停止。

 しかしその詳細についての連絡を受けたとき、私は危うく失笑しかけた。それはまさに連合文化的な妄想から生まれたスーパーソルジャー思想そのものだったからだ。

 作戦実行人員はひとり。特殊訓練を受けたこの国の少女が、軍本営に侵入、今この国を動かす軍人連中を皆殺しにする。

 その少女というのを、連合軍がどこから連れてきたのかはわからない。だが、生まれながらに不幸な子供はどこの国にでもいた。裕福な国にもいたし、今の平和なこの国にも少数いるというのが現実だ。これは当時の話だが、親との繋がりがなくなれば、その子の所有権は、本人以外の誰が手にしてもいい。たまたま、彼女を拾ったのが連合関係者だった。それだけのことかもしれない。

 私はこれまでと同様、この作戦でも人員管理を任された。ただ、入国時の手引きと作戦開始までの数日間の匿いだけをすれば、リトルガールは自動的に作戦を遂行するとのことだった。

 数日後、私は彼女とはじめて会った。

 場所は深夜の二字港だった。運搬役の連合兵と私が引き継ぎの会話をする間に、十四、五歳くらいの少女がボートから降りた。小柄だと思った。リトルガール。周囲を見回していた。

 普通だった。

 普通の子供。

 振る舞いは落ち着いているが、子供らしい落ち着きだ。それは大人に庇護されることでしか成立しない。

 なるほど、しかし、これはまず自らを偽る任務。異常なものを普通に見せることができなくては、敵陣に忍び込むなど不可能だ。

 そのとき、その場には私と彼女のほかに現地スパイが二人と、彼女をボートで運んできた連合兵が三人いた。その全員にとっての死角であり、彼女に対して銃を構えられる立ち位置、それを彼女にとってのキルスポットと呼ぶのだが、私は何気なく、服の着心地を直す素振りをしながら体をそこにずらしこんだ。

 まずスパイの二人が気づいた。私は不愉快になった。これでは、彼らの表情を読んで彼女が気づいてしまう。正常なテストにならない。気づいても気づかぬふりができなくては一流ではないのだ。二人には後できつく注意をしなければならない。

 キルスポットに立って二秒。私は外套の下で、実際に銃を構えた。そのとき微かに金属音が立った。メンテナンス不足か。長く使わずにいるとこうなる。本番ではまずいが、今は丁度いい目安だ。スパイなら、雑多な音の中から致命的な音を聴き分けられなくてはならない。

 五秒経った。反応はない。

 彼女は、連合兵の一人と、何かの機械をやりとりして遊んでいた。それは当時作られたばかりのポラロイドカメラだったのだが、連合兵を撮り、自分も撮らせ、さらには私達も撮影しようとしていた。

「ねえ、これ面白いよ」

 と彼女は言った。

 そこでスパイの一人が吹き出した。

「なるほど、確かにスーパーソルジャーだ」

「スーパーとはどういう意味だ」

 と、もう一人のスパイも笑って言った。

「普通とは違うことだろう。別に優れているという意味じゃない」

 一人目がそう言ったところで、私は空咳をして話を打ち切った。

 銃を仕舞った。テストは終わりだ。

 どこの国のどこの軍にも、珍妙な発想をする者がいて、それが作戦として成立してしまう状況が少数あるようだ。戦況的に追い詰められた場合にそれは顕著になるが、優勢でも強者の驕りが同じことをさせる。

 この作戦は成功するか? わからないが、上手くいくならそれは、愛されるべき子供の純真な心と同じように、神という大いなる存在の庇護があった場合だけだろう。

「へい」

 という外国風の呼びかけで、そのとき彼女は私にポラロイドカメラを渡した。思っていたよりも重たかった。現像したての写真も渡された。私達のものと、彼女のもの。私は、彼女は写真うつりがいいと思った。実物は平凡、いや、すこし奇妙な顔と言ってもいいような特徴ある外見だったが、渡された写真に写っていた少女には思わず目を引くような美しさがあった。

 十五歳とはこういう歳か。子供と大人がひとりの中に混在している。私は写真から視線を外そうとしたが、もう一度ちらりと意地汚く見てしまった。やはり、それは美しかった。別人と思えるほどに。

 別人……。そこに妙な引っ掛かりをおぼえて顔を上げた。視界から彼女の姿は消えていた。

 結果だけを述べる。そのとき彼女――リトルガールは、誰にも気づかれることなく我々の前から移動し、波止場にきていた数人の警察を始末していた。

 彼らの首には、細く鋭い絞殺痕が残っていた。リトルガールは、髪紐を縛りなおして言った。

「気の流れを読むべきだ」

 皆の表情が固まった。彼女はつづけた。

「目に見えるものは偽りだ。本質は空気にあらわれる。それを読み続けなければ惑わされる。物を見るな、音を聞くな。遠くの敵の、殺気を読むんだ。君――」

 写真と同じ美少女が、私に言った。

「銃はつねに最上の状態に保っておけ」

 瞬間、私は顔が熱くなるのを感じた。



 軍上層部が集まる本営会議、つまり作戦決行日までには数日の猶予があった。すでに述べたとおり、それまで彼女を匿うことも私の任務だった。

 現在の二字区、三波川沿いの区域は今でこそ古い街並みを活かした観光名所となっているが、戦前から戦時中までは、川などで半孤立した地形もあって極端に治安が悪く、社会の暗部を凝縮したような場所だった。私はそこに、彼女のための小さな家を用意した。しかし彼女は、もっと小さいスペースで充分だと言った。具体的には押入れぐらいの場所で事足りると。

「ずっと座ったままでいる気か。便所等は要るだろう」

 私がそう言うと、

「コントロールできる」

 と彼女は言った。

 だがせっかく用意したのだから、家全部を使うように言った。

 当時無法地帯ともいえたこの区域で、数日とはいえ少女が暮らすのは普通なら危険でしかなかった。しかし何事も起こらないよう、裏でこの近辺を仕切る連中に話を通してあった。その上でもし間違いがあったとしても、彼女ならば返り討ちにするだろう。

 よって私の仕事はこれて終わりといえた。彼女を家に案内し終えた時点で、すぐに立ち去ってよかったのだ。

「どんな訓練を受けた」

 玄関口に立ったまま、私はきいた。

「はい?」

 彼女はどこか間の抜けた聞き返しをした。それからすぐ理解したらしく「ああ訓練ね」と言った。

「つまり君は自分との実力差がどこから生まれているかを知りたいんだな。簡単なことさ。入隊はいつ?」

「八年前。十七のときだ」

「私が七年先輩だ」

 彼女は言った。

 それでは生まれたときから軍にいた計算になる。

「単に年季が違うというだけでは納得しないだろうな。訓練も受けているよ。常人が鍛えない筋肉を鍛えたり。まぁしかし訓練というより教育だな。兵士というより兵器になるための教育だ。私がいた軍の機関では、色々な国の色々な人種の子供が、同じように戦闘術を学んでいた」

 よく喋る、と私は思った。達人は寡黙なものと思っていたが、こればかりは気質かもしれない。

「ちなみに戦闘術だけじゃない。君ならわかるだろう。速やかに任務を遂行するための様々な技術……」

 途端、目の前の彼女が別人になった。

 そうして一言も喋りはしなかったが、そこにいたのは紛れもなく、ただの無知で無垢な少女だった。

 演技だ。そうわかっていながら、私は戸惑った。一般人にこの仕事の会話をしてしまったと錯覚した。認識を塗り替えるほどに強く、一市民の彼女はその場所に存在していた。

「君はまだ場数が足りない」

 暗殺者の顔にもどって、彼女は言った。

「これぐらいのことで動揺するなよ。ひょっとして女を知らないな?」

 馬鹿を言うな……、と私は言いかけた。

「今のような技はそのへんの女児でもやるぞ。まぁ何にせよ、女をよく知るといい。女は実体を持たない化物だ。生まれながらにしてね。女を五十人ほど殺してみろ。よく理解できるぞ。もちろん、ただ殺すんじゃだめだ。痛めつけたり、可愛がったり、色々な殺し方をするんだ」

「お前は殺したのか」

 私はきいた。

「ああ、殺した。男も沢山殺した。老人から赤子まで。世界のどこかで必ず戦闘が起きている時代だ。実践の場には事欠かない。殺して、解体して、中身を見る。それを続けるとわかってくる。人だ何だといっているがそれはただの機能する肉だ。そうだな、今から少し付き合えるか。つまりこうするといい。男を五人、女を五人、首を落として裸にしてこの床に並べてみる。そうすれば、君にもわかるはずだ。一人ひとり個性があるようで、それは機能の違いでしかなく、人間は皆おなじなのだと。私がこわいか?」

 どうやら体の震えをさとられたらしかった。

「私は君を殺さないのにこわいのか? もし敵に回ったら……と考えたからこわいのかな? こわがることはないよ。私も君もただの肉だ。それに守られた骨と、骨に守られた臓器が機能しているだけだ。そういう感情は錯覚だ」

 こいつこそが化物だ。私は思った。私も殺しには慣れたつもりでいたが、格が違いすぎた。

 だが私は若かった。先程から続く恥辱への耐え方を知らなかった。向こうがその気になれば一瞬で葬られるであろう相手に向かって、私はどこか挑戦的に言った。

「もし、戦いが必要なくなったら、お前はどうする」

 これはずっとおぼろげに頭に浮かぶ自分への問いでもあったのだが。

「平和な世界では、人は肉じゃない。お前がこれまで軽んじてきたことが尊ばれる。矛盾に苦しむことになる」

「そうかな」

「お前は、人を好きになったことはあるか」

「……」

「ないだろうな」

 私は言った。私も同じく、ないはずだった。

 なら、なぜ先のような質問がでたのか。その答えは今となってはわかるが、当時は気づかなかった。

「それは、いずれくる。争いがなくなれば必ず。そうなれば矛盾だ。お前は今の自分を否定することになる」

 言い終えるかいなかのときに、悪寒を覚えた。

 踏み越えてはいけない線を越えてしまったのだとわかった。

 彼女は俯いていて、表情が読めなかった。だが、最初に彼女が自ら言った「気」だ。殺気ではない。そんなものより深い何かが、彼女の周囲に渦巻いて混沌としていた。

「君が言うなら、そうなのかもしれない」

 やがてして彼女は言った。私はすでに死を覚悟していて、一瞬何が起きたのかわからなかった。

「まだ私の知らないことが、この世界には多くある。世界とは人を切り開いた中だけのことじゃない。そういうことだな」

 演技とは違う、本当に純粋な瞳を見た気がした。私がこのときに死なずに済んだのは、こういった彼女の元来の素直さのためだと思われる。

「君は私ほど戦いを知らないが、そのぶん知っていることがあるんだろう」

 彼女は言った。

「いや、俺もよくは知らない。実力では及ばないが、一般人よりはお前の方に近い場所にいる。矛盾に苦しむのは俺も同じだ」

 私はそう白状した。彼女は「ほう」と言って楽しそうにした。

「なるほど。君と私は同じではないが、近い。これがもう少し離れた者であったなら、殺し以外のことをもっとよく知っていただろうが、接点の薄さから私とこのような会話をすることはなかっただろう。つまりこれはいい出会いだった」

 私は思わず顔をそむけた。彼女には様々な欠落があったが、男女間の恥じらいのようなものもそのひとつだった。私は自分がうぶな乙女になったように感じた。

 そんな私を見て首を傾げながらも、彼女は続けた。

「私の知らないその世界が、苦しみを生むほどにいいものなら、見るしかないな。戦争を終わらせよう」



 それから数日間の彼女とのやりとりは、特別語るほどのことではない。私は彼女という兵士を管理する立場から何度か家を訪れ、とにかく雑多な、殺しの話や、花の話や、生物の話をした。私は個人的な教養として、この国にはいない珍しい生き物の知識があったので彼女に披露したが、次にくる質問はかならず「その生物の筋肉や体内器官はどうなっている?」だった。

「親はいる?」

 彼女がそうきいてきたことが一度あった。

「いるともいないとも、いたとも言える。生物学的には、いる。まともな親という意味ならいない。健在かどうかと問われれば、いた」

 そのようなややこしい言い方にこだわったわけではない。私の中での親の認識はそれ以外になかったのだ。何かを教わったという意味なら、この国や外国で黒い商売をする連中が親だろう。

 などと説明をすると、

「そういうニュアンスか」

 と彼女は言ってから、

「私にも親というのがいるのだろうな。私を捨てたか軍に売ったかした親だが。君の言う、まともな親とはどういう親なんだ」

「まとも、というのは」

 私は、宇宙の果てを手探りするように、しかしそんな苦労は表に出さないよう気をつけながら言った。

「愛が……あって」

「愛とは?」

「それは、まぁ、平和な世界で尊ばれるものだ」

 彼女は感嘆した。

「そう繋がるのか」

 そこで時間がきた。作戦決行は翌朝だったが、私には連合軍に情報を送る定常の任務がつねにあった。

「親とか愛の話を、君ともっとしたいが」

 それを彼女は真顔で言った。

「しばしおあずけだ」

 私は事務的に、作戦の成功を祈っている旨を伝えて、顔を背けたまま家を出た。



 そこから先は、誰もが知るとおりだ。

 作戦など存在していない。

 抹消されたのだ。いや、私が抹消したのだ。


 夕刻だった。私は一人の男を、二字港倉庫の袋小路に追い詰めた。彼は二重スパイだった。

 どこでその無謀な愛国心が生まれたのか。全く理解できなかったが、それこそが私の敗因なのだろう。「愛する人を持てばわかる」それが彼の最期の言葉となった。

 日が落ちた。私にはもう一人、始末せねばならない者がいた。

 向かったのは軍事収容所だ。二字港は以前の戦争で軍港として機能していたため、すぐ近くに捕らえた捕虜の収容所が作られた。反対の海が敵国側である今は放置されている場所だが、今朝、一人の敵性国民がそこに収容された。

 下水をさらに醜悪にしたような臭いが漂う地下牢へと私がおり立つまでに、使用した銃弾は五発。五人の死体。見つかれば騒ぎは免れない。だが、スパイの発覚は何に優先しても防がなくてはならない。

 そこは薄暗い上に、牢はいくつもあった。しかし細くかすかに聞こえる呼吸の音が、私を導いた。

 彼女は鎖に繋がれていた。

 その手足からは血が流れ出て、力なくついた膝を濡らしていた。ろくな手当などされていない。赤黒く染まった包帯から、その下の銃創のかたちを見ることができた。

 作戦決行時、軍本営会議場はもぬけの殻だった。

 会議はまったく別の場所に移されていた。

 さらに、二重スパイの男は、敵意を察知する彼女の能力も密告していた。会議場に踏み込んだ彼女を、離れた建物に潜む狙撃兵の銃弾が容赦なく撃ち抜いた。

 そのような『対応』を、軍は全くの秘密裏に行った。銃撃の跡はすみやかに修理され、早朝の銃声は抜き打ち訓練によるものだと伝えられた。

 二重スパイの言葉を信じるのなら、彼は連合スパイに関しては一言も漏らさなかった。彼女のことも、軍部襲撃を企てる敵性国民としか知らせなかった。しかしそこに連合の影を感じ取った軍の連中は、あえて情報を伏せることで他のスパイのとる作戦行動を浮き彫りにしようと考えたらしい。その旨は、機密監視の特別権限を持つ私にのみ伝えられた。よって、このような迅速な処理が可能となったのだが……。

「すべては俺のミスだ」

 私は言った。まず、二重スパイの動きに気づけなかったこと。そして、恐らく上層部の誰かか、密告者自身が漏らしたのだろう、根も葉もない噂という形ではあるが、襲撃のことが兵士達の間で広まっていた。ああして彼女の家に入り浸らずに軍内の情報に耳を澄ましていれば、直前で作戦を中止することもできたのだ。

 彼女の反応はなかったかに見えた。が、先程から聞こえる呼吸の中に、かすかに声が乗った。「そうか?」と言ったように聞こえた。

 そのとき、彼女と目があった。その目が語っていた。

 何も怖がったり、悔いたり、悲しんだりすることはないのだと。


 肉がひとつ、形を変えるだけだ。

 それはこれまでに起きてこれからも続く、数えきれないほどの死のうちの一つだ。

 少なくとも私は、こわくないよ。


「さあ君は」

 かすかな声で彼女は言った。

「君の仕事をするんだ」



 私は彼女を殺した。

 使用した銃を一丁、見張りの兵士の死体に握らせて、もう一丁を他の死体のそばに転がした。そうしてすべての殺人を死者の間で完結させた。

 その後私は、どちらの軍からも責任を問われることを覚悟したが、そのようなことはなかった。襲撃の関連人物がなぜか全員死亡という疑惑は残ったが、現実問題、戦局がそれどころではなくなった。連合側も、襲撃計画にそもそもの無理があったとされ、別方面での戦争終結を進めはじめた。今回のことは、数名の死体以外になにも残さなかったのだ。

 それから六ヶ月、私は職務を全うし、戦争が終わると両軍の任務から解放された。町を離れて他県で起こした仕事がうまくいき、暮らしには不自由しなかった。だが気持ちは混乱した。

 これでいいのか、という想いが常にあった。

 予想したとおり、矛盾にやられた。平和の毒だ。他の元兵士も、国の勝ち負けに関わらず患っている戦争後遺症、これに該当するものだと最初は思った。事実は違った。

 私の違和感は現在ではなく過去にあった。家の施錠をしたかどうかが何度も不安になる者がいるが、あれと同じ感覚。なにか、過去にやり残したことがあるようで、ずっと精神だけが置き去りにされている……。

 私は、専門治療を必要とする元軍人としてではなく、普通に医者にかかった。

「今話していただいた、あなたの分析そのままです」

 と言われた。

「過去のなんらかの選択を悔いているのでしょう。そして、それが漠然としか認識できていないせいで処理できずにいる。向き合うことです。ゆっくりでいいので、まず心にひっかかっているのが何なのかを思い出してください」

 それ以降、言われたとおり時間をかけて、ゆっくりと自分の内面を探った。すると見えてくるものがあった。最初は信じられなかったが、それは紛れもなく私の想いだった。


 あのときに、地下牢で彼女を助けられたなら。

 牢の鍵を探して開け、どこにあるかわからない鎖の鍵も外し、みずから動けない彼女を背負って、誰にも見つからずに、逃げて、

 逃げて逃げて逃げて、軍からも連合からも逃げて、戦争のない場所までいけたなら。

 それができるほどに無謀だったなら。


 無謀。まさにそのとおりで、現実ではありえない。あのとき、いつ異常が発覚するとも知れず、一刻の猶予もない中で、それは命をもうひとつ無駄に捨てる行為にしかならなかった。職務において常に最善の選択を必要とされてきたスパイには、考えも及ばないはずのことだった。

 だが私は考えてしまった。自覚しないうちに。命も、任務も、なにもかもすべてをなげうって彼女のそばにいきたいと願っていたのだ。

 このような私個人の特別な感情は、本来なら書かずに済ませたいところだがそうはいかない。私がこの記事を遺すそもそもの動機に関わってくるからだ。

 その後、私は精神的な違和感に苦しむこともなくなり、穏やかに日々を過ごしていった。結婚はしなかったが、様々なありがたい縁に恵まれた。歳をとるほどに、体の自由がきかなくなるほどに、私は逆に幸せになっていった。

 リトルガールと呼ばれた彼女のことは、医者が言ったとおり、胸の中で処理できたと思っていた。だが、最初に書いたとおり、私は余命宣告を受けた。

 私が得た機密情報は、すべて墓の中に消える。スパイとしての任務は完遂される。

 それにより、彼女を知る者もいなくなる。

 書かなくてはと思った。誰かに伝えたいわけではない。むしろ極力知られたくはないが、消えてしまうのは嫌だった。誰も見ないであろうインターネットのブログがいい。私は、ただ書くことによって、もう死んだはずの彼女を生かしたかった。

 手元に一枚の写真がある。彼女が写った写真だ。あのとき二字港で渡されたポラロイドのものだが、これを長年処分できずにいたのも同じ思いからだ。彼女を写した唯一のもの。軍事機密である以上、私の死後に遺品として発見されるわけにもいかない。よってこの記事にアップロードののち、処分する。


 最後に、あとひとつだけ、彼女について語っていないことがある。

 名前だ。リトルガールとは別の、潜入用の名。

 それを私は作戦通達の時点から聞かされていたが、ここには一度も記していない。この文章を書く直前に調査した際、珍しい名だが、同じ姓の者が数人存命していることがわかった。彼女がコードネームとして使っていたそれが本名である可能性が出てきたのだ。

 この国に、彼女の血縁かもしれない者が暮らしている。この記事の公開によって、彼女がしたことの影響によって、誰かが何らかの害を被ることを私は望んでいない。万に一つの可能性もつぶすために、その名は伏せることにする。


 以上。

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