幸、考えなしと言われる
水槽のガラスを指で叩いても、何度呼びかけても鬼無里は出てこなかった。大空洞とは違う、切り取られた自然の中に隠れているのだろう。幸は困り顔になった。
「もしかして怒ってるんですか」
朝日の差す部屋の中がしんと静まり返った。諦めかけた幸が椅子から立ち上がりかけた時、げろりというカエルの鳴き声が聞こえた。
「怒られないと思える方がおかしいと思うよ、私は。ご主人。いくら君が少年とはいえそれくらいは察してもらわないと困るし、むしろ私は怒っているというよりも心配しているのさ」
声だけが聞こえてくる。
「やっぱり怒ってるじゃないですか」
「『やっぱり』とは聞き捨てならないね。それじゃあまるで私のことをお見通しのようじゃないか。いいかい。今はこうしてしがないカエルをやっているがね、私だって君よりずっと年上の人間なんだ。私を何でも知ってる、分かってるって言い分はどうかと思うよ」
「鬼無里さん」
「……何だい」
「そんなに叔母さんのごはんが嫌だったんですか」
ややあって、鬼無里が『うん』と認めた。小さな声だった。
「そりゃ確かに三度三度世話をしてくれるが、変わり映えのしないものを水の中に落とすだけだよ君の叔母上は。しかも何だい。あの、人を人とも思わないような目つきは」
「人をって。だって鬼無里さんはカエルですし……」
「それにしたってカエルにしたって酷いじゃないか。私だって小さな虫だってネズミだって生きているんだよ。ああ、思い出すだけでも恐ろしいよ」
「今日は美味しいって評判のパン屋さんで何か買ってきますね」
「素晴らしい。ああ、それからもう一つ。この住環境のさらなる改善を要求するよ」
幸は小首を傾げた。
「大空洞に行ったらしいじゃないか。何でもいい。石でも木の根っこでも、このテラリウムに持ってきて欲しいんだ」
「何でもいいんですか?」
「珍しそうなものなら有り難い。それが大空洞のものだということに意味があるんだ」
よく分からなかったが、要するにお土産みたいなものだろうと幸は納得した。
学校に着くなり翔一らにもみくちゃにされた幸だったが、彼はそのことをありがたく思っていた。
そんなことを考えながら放課後に補習を受けていると、担任の鉄と目が合った。彼女は窓際に佇み、幸が机に向かっているのを黙って見ていた。
「よそ見はいけませんよ、八街さん」
「はい。ごめんなさい」
幸は再び教材と向き合った。この補習にさして意味はない。彼の学力が不足しているわけではなく、出席日数を補うための方便のようなものだ。監督している鉄も、ただ同じ教室にいるだけで、付きっ切りで指導をしているわけでもない。そんなことは幸も分かっていたが、出された課題を片付けなければ気が済まなかった。
「……?」
ふと、苦いような、何かが焦げたような臭いが鼻を突いた。幸が顔を上げると、缶ビールを片手にした鉄がたばこを燻らせていた。窓際の彼女は外に向かって紫煙を吐き、見咎めるような視線を彼に向けた。
「いけませんよ」
「教室でそういうことをするのはいいんでしょうか」
「よくありません。まして生徒さんの前でなど、言語道断です」
真面目くさった顔で鉄は言い切った。
「でも、そういう気分なので仕方がないのです」
どういう気分なんだろうかと推し量ろうとしたが、年上の女性のことなどさっぱりな幸だった。
「皆さん、八街さんのことをとても心配されていました。特にド・ッゴーラさんは何度注意しても大空洞に出向いてしまうほどで」
「そうだったんですか」
そのようなこと、リリアンヌはおくびにも出さなかったので幸は驚いた。
「このクラスは八街さんを中心にまとまっているのですね」
「ええ……?」
幸の脳裏に好き放題暴れ回り喋りまくり女子の尻を追いかけ回しまくるクラスメートの姿が過った。委員長である自分が止めても無駄で、副委員長の蝶子が一喝せねばどうにもならない連中である。
「そうでしょうか」
「皆さん、八街さんに甘えているんだと思います」
「そうでしょうか?」
「そうです」
言って、鉄は缶の中身を呷った。たばこの吸い殻は携帯灰皿に捨て、空の缶を四つ折りどころかそこからさらに小さく畳んだ。
「内緒にしてくださいね」
生徒の姿がほとんど見えなくなった正門前にメイド服を着た少年が腕を組んで仁王立ちしていた。彼の傍らには長い車が停まっていて、幸は小さく手を振った。メイド少年はかっと目を見開いた。
「遅いぞご主人! 余をいつまで待たせるつもりだ!」
「待っててくれたの?」
「ふ。当然であろう。余は主人の召使いなれば」
イシャンである。彼はふんと鼻を鳴らした。
「家まで送ってやるから疾く乗るといい」
「うん。ありがとう」
車に乗り込んでから、幸は用事を思い出した。がらがら通りの斧磨鍛冶店に研ぎを頼んでいたのだ。そのことをイシャンに話すと、彼はそこまで送っていくと言って聞かなかった。
「ご主人」
車が走り出してから、幸の隣に座るイシャンが口を開いた。
「大空洞に行ったそうだな。狩人の試験とやらを受けていたと聞いたが」
どこの誰にそんなことを聞いたのか気になった幸だが、イシャンは市役所のスポンサーでもある。そのことを思い出してわざわざ尋ねるようなことはしなかった。
「まずは合格を心からお喜びするぞ。だがな。そんなものは時間の無駄だ。余が送迎のため、居もしないご主人を待ち続けていた時間に比べればな。最初から余に頼め。見習い狩人を卒業したいのなら話は早かった」
「どうするつもりだったの」
「メフの人間だけではないが、大概の事物は金の前に跪く」
「それって裏口入学みたいなものじゃないか」
「裏口であっても堂々と出入りすれば気に病むこともあるまい。金は力だ。力あるものを従わせるのもまた力であると心得よご主人。ご主人が侍らせているのはこの街で最も強い力を持っているこのイシャン=チャウドゥリーなれば、その力を振るうことに何ら恥じるべきところはない」
「いや、恥じるよ」
「何を言う!?」
イシャンは幸に詰め寄った。
「お金じゃ買えない……買ったらダメなものだってあるよ」
「そんなことはない。買えるものは買えばいいのだ。愚鈍なご主人め。そうしていれば大空洞に潜らずとも済んだのだ。何日も何日も余をほったらかしにした罪は重いぞ」
「あ、ごめん。もしかして、ぼくがいなくて寂しかった?」
イシャンの頬に朱が差した。彼は幸をねめつけて、目を反らした。
「…………そうだ」
おや、と、幸は不思議に思った。イシャンにしては素直だったからだ。
「ご主人がいなければ張り合いがない。この街にいる意味も薄れてしまう。ご主人は余のためにへらへらとしていればよいのだ。狩人などとくだらない。何を好き好んで危ない目に遭おうとする。狩人と言うのはケモノを狩って金を得るのだろう? 金が手に入るのならケモノを狩る意味はないではないか」
「それだけじゃないよ。危ない目に遭おうとする人を助けるのも狩人なんだから」
「何もご主人がそうすることはない」
「ぼくが、そうしたいんだ」
イシャンは言葉に詰まった。
「なら、次は余にも声をかけよ。余の目が届かないところで好き勝手されるのは迷惑だ。それから欲しいものがあるなら余に申せ」
「もしかして大空洞についてくるつもり?」
「そうだ」
「でも、イシャンくんは狩人じゃないし、勝手には入れないと思うけど」
「そうか。そのルールは誰が決めた?」
イシャンは遥か高みから全てを見下ろすような笑みを浮かべた。
「どうせ市役所の連中が決めたルールであろう。であればそのようなもの、余には通用せん。必要とあればルールを変えるし、黙らせる」
「そんなのずるいよ」
「ならばご主人。大空洞に潜るのを諦めるといい。そうすれば余もそんなところへ行かなくて済む」
「……イシャンくんはぼくの言うことを聞いてくれるんじゃなかったの?」
「何を言うか。主人に唯々諾々と従うだけがいい召使いではない。ご主人が道を違えようとしたならば諫言を呈する時もあろう。誤った道へ進ませないために余がいるのだ」
「ぼくの道はぼくが決めるよ。その道が正しいかどうかも自分で決める」
「であるか。ならば余のすることに口を出すこともおかしな話ではないか? 余の道はご主人に付き従う道である。他人の道を正そうとするほどご主人は優れた存在なのか?」
こんなメイドいるはずがないだろう。幸は苦々しく思った。
「分かった。好きにしなよ。ついてきたいならついてくればいいじゃないか」
「うむ! そうであろうな!」
「でも市役所のルールは守らなきゃダメだよ。まずは狩人の見習いから始めなきゃ」
「それでは言っていることが違うぞ! 好きにせよと言ったであろう!」
「あ、ちょっと喉が渇いた」
「な……く、うっ、話を……! ええい、しばし待つがいい!」
待っていると言い張るイシャンをどうにか言い含めて帰すと、幸はがらがら通りにある斧磨鍛冶店を訪れた。いつものように『たかちゃん』と声をかけるが返答はない。それもまたいつものことで、店の中で誰か出てくるのを待った。
幸は少し緊張していた。鷹羽は自分が大空洞で遭難しかけたことを知っているだろうか、と。ややあって足音が聞こえてきた。姿を見せたのは鷹羽で、相変わらず目に毒な格好の彼女は首からタオルを提げて鉈袋を携えていた。突っかけを履きながら、鷹羽は幸を一瞥する。
「ようお客さん。研ぎなら終わってるぜ」
「あ、うん。ありがとう」
無言で鉈袋をカウンターの上に置くと、鷹羽はどっかりと椅子に座り込んだ。
「お代金なら市役所からもらっとくよ。ほら、そいつ持ってさっさと帰んな」
「うん。えーと」
やはり鷹羽はすげない。いつにもまして、である。幸は鉈袋を中々受け取ろうとせず、彼女は眉根を寄せた。
「なんでい」
「……ううん。何でもない」
「別に怒っちゃねえよ」
幸は鷹羽の顔色を窺うようにした。
「は、なんだよそのツラ。もしかしてアレか。アタシがお前なんかのことを気にして怒ってたのかもって思ってたのかよ」
「違うの?」
「自惚れんじゃねえや。だーれが唐変木の心配なんかするかよ」
寂しかったが、それはそれで安心した。幸はホッとして帰ろうとする。
「おや、お客さん」と鍛冶店の主、親方こと斧磨包彦が戻ってきた。彼はどこかで飲んでいたらしく赤ら顔である。
親方は上機嫌だった。
「おうおう、よかったな、おたかや。へっへ、お客さん。こいつときたらお客さんのことばっかりうるせえってもんで。やれ『あいつは何をしてるんだ』とか『無事でいるのか』とか言ってね。大空洞に潜るまで言い出しやがる。あん時ゃあ真っ赤になって鉈を振り回そうとするたかを見てね、肝を冷やしたもんですよ。はっは、しかし、お客さんが戻ってきたなら一安心でさあ。いやあ、これでぐっすり眠れるってなもんですよ」
はっはっは。笑いながら、親方は店の奥へ消えた。その後ろ姿を無言で見送っていた鷹羽が幸をじっと見つめる。
「親方は酔っぱらうと訳の分かんねえことを言うんだ」
「そうなんだ」
「ああ。だから気にしたり、妙な勘違いをするんじゃねえぞ。アタシはお前のことなんかなんとも思ってねえんだからな」
「うん。それじゃあ、ぼくは帰ろうかな」
「ああ、うん。毎度どうも。またごひいきに」
「うん。じゃあね、たかちゃん」
「おう」
幸は小首を傾げた後、もう一度『たかちゃん』と呼んだ。
「何?」
「ううん。何でもない」
自宅のマンションに着くころには陽はとうに暮れていた。幸は建物を見上げ、瞼を擦った。少し眠たかった。ぼやっとする視界の端でカラフルなものを捉える。それが葛の髪の毛だと分かると、彼はへらりと笑みを作った。
「こんばんは、どっか行ってたの?」
「いやー、あんましイケなかったかな。それよりあーし、八街に会いに来たんだけど」
「そうなの?」
そうそう。言って、葛はマンションの壁に背中を預けた。
「葛ちゃんってばちゃーんと約束守る優しい子だからさー」
彼女はいつの間にか、封筒を指の間に挟んでいた。
「約束?」
「何言ってんだよ大空洞に落っこちた時に全部置いてきちゃったわけ? 推薦状だよ、推薦状」
「もしかして《騎士団》の?」
幸が近づこうとするが、葛はそれを制した。
「ありがとう、は?」
「超ありがとう!」
「足りないなー」
「超じゃダメなの?」
「……いや、まあ、八街にそれ以上は無理か」
封筒を差し出すと、葛は代わりにたばこを咥えた。
「あーしが頑張ったわけじゃねーし。頑張ったのは八街なんじゃん?」
どういう意味かと問う前に、幸は封筒に書かれた名前を認めた。
「一雨、塔子? 《騎士団》の?」
「そ」
「でも、どうして」
「一雨があーしの知り合いっつってた《騎士団》だったわけ。あいつ帰ってきたからさ、推薦状よこせって言ったらくれた。なんかごちゃごちゃ言ってたけど? お前のこと話したら書いてくれたみたいでさ」
幸はその封筒を宝物のようにかき抱いた。
「ただ、一雨は《騎士団》抜けるんだってさ」
「そう、なの?」
「さっさと市役所に渡しとけよな」
「どうしてなのかな」
葛は鬱陶しそうに幸をねめつけた。
「知らねーよそんなん」
幸は八鳥の言葉を思い出す。花粉症になった舞谷家の女は《騎士団》に連れられて大空洞に降りるのだと。
「嫌になっちゃったのかな」
「……何が」
幸は葛の髪の毛に触れた。そうして、カラフルなそれをかき分けるようにした。
「やめろよむちゃくちゃすんなよ」
「白髪、ないね」
「は? ……お前。何か聞いたん?」
幸は首肯する。
「全部じゃないけどね」
「知らなくていいよ。知らない方がいい。一雨が抜けた理由も、あんたが思ってる通りかもしんないし、そうじゃないかもしんない。あんまし深入りすんなよ。この街で生きてくんならさ」
「葛ちゃんはそこ聞かれるの嫌?」
「死ぬほど」
「じゃあやめとく」
「そうして」
火の点ったたばこ。紫煙は生まれなかった。葛はたなびくそれを目で追っていた。
「あーしも行ったことあるよ。大空洞。すげー暗くなかった? 見えねーし、聞こえねーの。あんなところに何があんのか知んないけど、葛ちゃんがわざわざ行くことないって思った。見えねーし聞こえねー。でもそれってここも同じじゃん。よくない? 見えなくてもさ」
幸には分からなかった。ただ、葛が色々なことを我慢して自分に協力してくれたことは分かった。
「ごめんね。嫌なのに関わらせちゃって」
「いーよ、別。それに、あんたにはあそこでさ、何か見えんじゃない? そう思ったから頑張ってやったの」
「そうかな?」
「そうだっつってんじゃんうるせーな。犯すぞ」
「怖いこと言わないでよ」
「怖くねーよ気持ちいだけだって。まあ、今日はもういいけどさ」
葛は幸の肩に手を置き、少し迷ってから顎を載せて彼の横顔を見上げた。
「嬉しかった?」
「うん。ありがとね」
「あっそ。そんじゃあね」
去り際、葛はたばこを勧めてきたが丁重にお断りする幸だった。
帰宅するなり、幸は葛からもらった推薦状をむつみに見せつけた。
「これで猟団がもらえます」
むつみはぼけーっと借りてきた韓流ドラマを見ていたが、封筒を指で摘まんで薄く微笑む。
「私がこれを破ったらもらえなくなるけどね」
「酷いことを、また酷いことを言う!」
「暴力はどこにでも潜んでいるんだよなあ」
幸はむつみから封筒を引ったくり、椅子を引いた。
「面白いですか、こういうの」
「さあ」
「『さあ』って……」
「ご機嫌だねえ、幸くん。そんなに猟団なんか欲しかった?」
「……分かんないです」
なんだそりゃ。むつみは呆れたように幸を見た。
「で。猟団ができたら何をするの?」
幸は固まった。
「何をするんでしょうか。猟団の人って」
「あのねえ……考えなしを絵に描いたようなやつだな」
メフを騒がせた《宿借》どもは駆除された。ただし彼らはまた現れるだろう。そも、もう現れている。誰の目にも見えないだけだ。
人は時に見えないものに蝕まれることもあれば、救われることもある。では見えるものは。売布の誰もがいつだって見上げている扶桑の大樹は、彼らを蝕むものか、救うものか。秋も深まり冬の足音が近づいても、桜は満開であった。