黒衣の花嫁<2>
記憶が断ち割られる。
幸福が頭を砕かれ、夢と希望の手足が断たれる。分かたれた体は抜け殻で残骸だ。致命傷を受けても悲鳴一つ上げず、血の一滴を滲ませることもない。自分を呼ぶ声は確かに醜悪かもしれない。《宿借》が声帯を動かして音を発しているだけなのだろう。既に彼らは自分の家族でも仲間でもない。それでも、塔子は許せなかった。
幸は苛烈だった。幼気な横顔からは想像もつかないほどの腕前で鉈を振るう。四方八方から降り注ぐ触手の打擲を返し、払い、躱す。手元の武器を失えば、いったいどういった原理なのか、いつの間にか別の鉈を手にして戦いを続けていた。それがまた塔子の怒りを買った。彼が使っているのは仲間たちのものだ。幸は、一雨心の鉈で心を打ち据え、巽の鉈で巽を切り刻む。どこまで彼らを辱めれば気が済むのか。
やめて。
お願い。
何度言っても叫んでも無駄だった。
《花盗人》がまた、記憶をも奪った。
骸の得物からは狩人としての経験も、彼らの記憶も伝わっていた。それらが訴えている。終わらせて欲しいのだと。むべなるかな。塔子の仲間たちは死してもなお、死して四肢を切り離されて頭を砕かれてもまだ戦わされていた。眼には見えない極小のケモノである《宿借》は寄生先から離れても、また彼らに取りついて寄生を続ける。それはもはや骸でもなんでもなくなって、生き物としての生も死も踏みつけにされたまま向かってくる。
塔子は叫ぶ。やめて、と。幸だってそうしたかった。だが彼女に何が分かるのだ。他ならぬ彼女の仲間が言っている。こうして欲しいのだと。
「立って……戦えないんならどこかへ行ってくださいよ!」
天井が、床が、深緑のドームが震えていた。絡まった蔦は撚り合ってより太くなり、幸たちを襲う。
「嬢ちゃんの頭ぁ下げさせろ!」
八鳥の声に従い、幸は塔子を押し倒す勢いでその場に諸共倒れ込んだ。分厚い触手が通り過ぎていくのを確かめながら、背中が痛むのを感じた。今の一撃、掠めたのだ。手で箇所に触れるとぬめった。血だ。幸は顔をしかめながらも立ち上がる。触手には茨のような棘が生えていた。
ケモノの攻撃は、次は足元からだった。茨の触手が天井を衝かんばかりに伸び生えて幸らを突き上げんとしていた。走れ走れと八鳥が塔子に肩を貸す。
逃げ回りながら、幸は《花盗人》でケモノを、木屋瀬という女を見た。とうに人の体をなくして、草木と同化し、蔦森に囚われたような姿のそれを。意思も意識も失った彼女の生い立ちにも経緯にも触れられないが、あまりにも無防備であった。それが彼女の大事なものかは分からなかったが、幸は奪うことに成功する。
「《緑の褥》……!」
木屋瀬の異能は植物を操作する類のものだ。が、今の彼女は植物に支配されて操られている。それどころか《宿借》にさえ好き勝手にされている。木屋瀬もまたケモノの被害者なのだ。
襲ってくる触手を幸は見た。奪った《緑の褥》でその動きを止めて別の触手と衝突させる。次いで幸は棘付きの触手を操り、木屋瀬にぶつけようとした。が、ケモノもまた新たな触手を盾とする。巨大な草木が互いを食わんとするかの如く、打ち合ってぶつかり合った。
幸の頭に血が上る。熱によって浮かされる。彼の背に縋りつくものがあった。塔子である。
「どうして、そこまでしなくてはいけないんですか。どうして邪魔をするんですか」
「どうしてって……」
「私は」
塔子は涙目で幸を見下ろした。
「死にたかったのに」
八鳥は舌打ちした。やはりそうだったのかとでも言いたげである。
「ぼくは嫌だ。殺されるのも嫌だし、死人に殺されるのなんてまっぴらごめんだ」
「死人なんかじゃないっ。みんなは、みんな……!」
巨大な触手が倒れるようにして幸たちを叩いた。彼は咄嗟に塔子を突き飛ばした。自らは鉈と奪った《緑の褥》を使い、紙一重で攻撃を回避する。
「坊主っ」
「ぼくは平気です!」
粉々に引き千切れた蔦と草花が粉塵のように舞い上がった。その時、子供のような泣き声が聞こえた。見なくとも幸には塔子が泣いているのだと分かった。
「嘘だ。死んでるって分かってたんでしょう、一雨さんだって」
だから逃げたんだ。あなたは。
幸はそう言った。塔子は目を見開いて泣き止んだ。
「嘘つき」幸は続けた。
「死にたいなんて嘘だ。痛いのも怖いのも死ぬのも嫌だから逃げたんじゃないんですか」
木屋瀬の攻撃を防ぎながら、幸は《花盗人》を使った。彼は八鳥から塔子の鉈を奪い、それを彼女の手の中に握らせていた。もうそれ以上のことをするつもりはなかった。本当に死にたいのならその鉈を使って自らを傷つければいい。あるいはケモノに向かっていけばいい。まだ《騎士団》の骸も健在だ。彼らの手にかかるのもいい。
「死人はあなたじゃないですか。ぼくは弱いから、死人を守って戦うのなんか無理なんです」
幸はケモノに向き直った。
ふざけるな。
ふざけるな。
許さない。必ず報いを受けさせてやる。
塔子は歯を食い縛り、血走った目で幸をねめつけた。
「…………こんなの、嫌なのに」
幸を許せなかった。彼は仲間を傷つけた。巽を切り裂き、心を無茶苦茶にした。やめてと言ったのに。あんなに叫んだのに。何も言うことを聞いてくれなかった。挙句、彼は塔子の何もかもを剥き出しにさせた。泥濘のような幸福に沈んでしまいたかったのに、これでは全てご破算だ。
幸を許したくなかった。だがそれよりも許せないのは自分自身だ。
塔子は、一瞬でも仲間や家族のことを忘れてしまった。そうさせたのは幸と八鳥だ。彼らに助けられて、釣り上げた魚を食べた。何も話すつもりがなかったのに絆されて名前まで教えてしまった。皆を見捨てて見殺しにしたのに、自分だけがものを食い、笑顔を浮かべてしまった。だから二人のもとから離れたのだ。
息が荒くなる。怒りが自らを塗り潰す。視界が狭まり手足が震えた。何もかもが憎くて憎くて仕方がない。この世の全てが憎くて殺して回らなければ気が済まない。心身をすり減らした塔子を立たせたのは復讐心だ。それがここから出せと叫んでいるのが分かる。飼い殺しにはできない。一刻も早く解き放たなければ、熱と痛さで死んでしまう。もはや彼女に許されたのはどいつから殺すのか順番を決めることだけだ。
「こんなの嫌だったのに!」
喉から迸るのは声だけではない。
「使いたくなかったのに使わせて! そうさせたのは……!」
復讐心を糧に力を得る。それが塔子の異能、《黒衣の花嫁》である。
「お前かああァァァァああ――――!」
塔子がケモノ目がけて駆け出した。獣のような速度で突き進み、雄叫びを上げて。彼女の行く手を触手が遮るが、それら全てを切り払って打ち滅ぼした。ぴかぴかで新品同然だった鉈が唸りを上げる。体の使い方も腕の振り方も無茶苦茶だったが塔子はまるで嵐のように突き進んだ。獣の懐に潜り込んだ彼女は木屋瀬の脚を一本伐採して見せる。
「ただのお飾りじゃなかったらしいな」
八鳥は額の汗を拭って言った。
「だが無鉄砲過ぎらぁな。坊主、お前、ケモノの植物を動かしてたよな」
「はい」
「まだいけるか」
「はい」
幸の目にはまだ強い輝きが残っていた。
「でも八鳥さん、一雨さんを見つけても何もしないとか言ってませんでした?」
「うるせえな」
ケモノの疑似餌が音を発する。本当にうるせえと毒づき、八鳥はそれを払って駆け出した。幸もその後に続く。向かってくる巨大な触手は彼が《花盗人》を使い、支配権を奪った。あらぬ方へと突進する触手を横目に二人はケモノに接近する。だが塔子の視界には二人は入っておらず、遮二無二暴れるだけで邪魔そのものだった。
「巻き込まれるんじゃねえぞ」
頷き、幸は塔子のフォローに回る。《騎士団》の骸が左右から迫るも、それは八鳥が斬り、蹴って退かせた。
木屋瀬の体躯は巨大だが、それを支えているのは植物の脚である。体勢を崩すならそこだ。
「斬り落とせ!」
八鳥も足を狙うことを示唆していた。幸は鉈を振るうも、ケモノの脚は他の部位より頑丈だ。とてもではないが両断などできない。彼は自分では無理だと判断し、塔子に任せることにした。《花盗人》が《緑の褥》、その力の一部を奪った。
塔子の前にケモノの脚が投げ出された。彼女は目についたものを襲う。髪を振り乱しながら、地を蹴って中空から鉈を振り下ろした。幸の目論見通り、塔子は見事ケモノを切断する。
いける。幸の目が光輝を帯びる。木屋瀬の体全てを操ることは無理だったが、脚の一本程度ならどうにでもなる。奪った脚を塔子に差し出せば、彼女はそのたびに仕事をやってのけた。だがケモノも無抵抗ではない。体を揺すると緑のドームも連動して震え、天井を形成していた蔦が落下した。棘の生えた大きなそれが地面に突き刺さり、近くにいた八鳥が肝を冷やした。
天井だけでなく、壁や足場の植物もまた幸たちを捉えんとしていた。それを抑えるのは《花盗人》だ。幸は声を荒らげた。不可視の力比べだ。その声に反応したのか、塔子もまた声を迸らせた。
切断と両断は加速する。やがて木屋瀬の体がつんのめるようにしてバランスを失った。同時、深緑のドームが崩れようとしていた。撚り合った蔦は解け、茨が我を失って暴走する。二足のけだものが吼えた。塔子が鉈を振り下ろそうしたが、木屋瀬は彼女を遠ざけんとして植物を生やして盾にする。それを幸が別の触手をぶつけて破壊した。
趨勢は決した。触手の残骸を足場にした八鳥は、木屋瀬の隙を衝いて跳躍し、ケモノの上半身と下半身の寸断に成功する。投げ出された木屋瀬の上半身が転がった。その先にいるのは塔子だ。彼女の鉈は既にぼろぼろで使い物にならなくなっていた。《黒衣の花嫁》によって箍の外れた膂力である。無理からぬことだった。
「一雨さん」
「……余計な」
幸が塔子に鉈を持たせた。それは巽という狩人の使っていたものだった。
まず、一撃。木屋瀬の頭部がひしゃげた。勢い余った鉈が足場の蔦をも砕いた。得物が壊れるまで振り下ろし続けた。次いで、幸は一雨心の鉈を塔子に渡した。彼女はもう何も言わなかった。
ケモノが動きを止めた後で、幸は塔子の傍に寄った。彼女はその場に座り込み、荒い息をして地面を見つめている。
「あの」
幸が声をかけた瞬間、天地が逆様になった。八鳥が短く叫んで、幸は、自分が塔子に押し倒されたのだと分かった。見上げる塔子の髪の毛はだらりと下がって、およそ理性の欠片も持ち合わせていないであろう目がこちらを見据えている。少し息がつまった。彼女は幸の首を絞めようとしていたが、あまり力は入っていない。
足音で八鳥が駆け寄ろうとするのが分かり、幸は彼を止めた。
「大丈夫、です」
「ああ?」
「大丈夫ですから」
塔子は泣いていた。
「もおおぉおおお、どうして邪魔ばっかりするの……」
「して、ませんけど」
けほっと幸が小さな咳をすると、塔子は顔をしかめてもっと泣いた。
「どうしてえええええぇええ」
彼女は幸を抱きすくめるようにして顔をぐしゃぐしゃにして泣き続けた。零れた涙とまろび出た鼻水が彼の服を濡らした。ふと、幸と八鳥の目が合った。
「やかましい嬢ちゃんだな」
幸は苦笑を返して、真顔になった。影が差そうとしていた。自分たちを何か、大きなものが見下ろしている。さんざん叩かれ嬲られ、それこそ塔子の泣き顔と同じようにぐしゃぐしゃになった木屋瀬が、窪んで目玉を失った眼窩が、自分たちを――――。
「うッ、おおッ?」
八鳥が後ずさりして、幸が塔子を力ずくで押しのけて蹴り飛ばす。重たい尻を蹴られた彼女はぐずぐずと鼻を啜りながら立ち上がった。
ケモノはまだ生きている。動きこそ先よりもひどく鈍く、重たい。されど《宿借》ども、数こそ減ったが健在だ。幸の戦意も衰えてはいない。彼は鉈を引っ掴み、跳ねるようにして起き上がった。
ああ、と、その場に駆けつけた古海は息を漏らした。
あの子はもう、私の手を離れてしまった。遠くへ行ってしまったのだ。
正体不明のケモノと戦っているのは幸だ。死んだとばかり思っていた少年だ。叱りつけてやりたかった。滑落し、旧市街よりも下の階層で何をしているのだ、と。
――――そんな資格、私にはない。
古海は鉈を抜いた。彼女に続き、他の狩人も同じようにした。
「むつみ」
「……何?」
古海はむつみを見ないまま言った。
「幸くんが生きてるって、信じてた? それとも知ってた?」
返答はなかった。
狭まった視界。熱に浮かされた体。自分以外の何もかもがどうでもよくなりそうな感覚の中、背中に触れるものがあった。
「や」と声をかけられ、幸は古海が傍にいるのだと分かった。
「……なんで笑ってんの」
問われ、幸は自らの頬に手を遣った。
「ちょっと追いついたのかなって」
「誰に」
「古海さんに」
古海は目をまん丸くさせた。
「私か」
そう呟き、古海は鉈を振った。
「幸くん」
鉈は触手を払い、ケモノが操る《騎士団》の骸を薙いだ。《緑の褥》から繰り出される植物の連撃を全て回避し、手痛いカウンターを入れて丁寧にけっ飛ばす。
「甘い」
言い切って、古海は迫りくるケモノを全て退かせてみせた。彼女は幸に向き直り、棘の生えた触手を輪切りにしながらも話を続ける。
「そこのおじさんに何を吹き込まれたかは知らないけど、狩人の本分はケモノをブッ……狩りまくって倒しまくることにあるの。現に私はそうしてきたし、これからもそうする。それをまあへらへらと」
「えーと……」
「まだこれから。見習いじゃなくなるからって君自身は何も変わらない。教えることだって山ほどあるんだから。こっからは私も手加減しないし、君が狩人になって大空洞でどうこうしたいって言うんなら力を貸したげる」
「それって」
木屋瀬の首が飛んだ。《騎士団》の狩人たちの四肢が失われた。それをやってのけた古海は髪の毛をかき上げる。
「合格よ。……ごめんね。しんどい目に遭った君にしてあげられるのは、私にはこれくらいしかない」
「試験は、生きて帰るまでって言ってませんでしたか」
「私が来たんだからそれはもう確定よ。こっからはもう見ているだけでいいから。ただししっかりとね」
張り切っちゃって、まあ。
むつみは適当にケモノの相手をしつつ、いつになく気合の入っている古海を面白そうに見ていた。
薄暗く薄ら寒い大空洞に潜り、ケモノの相手をする。ここ数年の古海はこの行為を鬱陶しく思っていただろうし、ある程度の仕事をこなすが、そこには熱どころか感情の入る余地などなかった。そも、仕事に対してだけではない。古海ヨネというのは外面がよく、明るく振る舞い、恋多き女というのが、彼女を知る大方の人間のイメージであろう。しかしその実、古海は大抵のことに興味を示さない。情熱もなく、あったとしてそれを向ける対象もない。異性を求めるのは他に何もなく寂しいからだ。特定の相手と長続きしないのはもっともである。興味がないのだから仕方がない。極端に言えば誰でもいいのだ。多少なりともそれを察した男から去っていく。その繰り返しだ。彼女は冷めて乾いている。
自分と同じか、酷く似ている。むつみは古海をそう評していた。だから自分とも長く付き合っていけるのだと認識している。それが今はどうだ。
――――ひとの甥っ子に血道を上げるつもりじゃないだろうな。
今の古海は本気だ。この階層程度のケモノでは相手にならないどころか、大抵の扶桑熱患者でさえ物の数ではないはずだ。市役所の記録保持者は伊達ではない。男に振られるたびケモノを狩り、失恋のショックを血で癒し続けた女だ。憂さ晴らしと八つ当たりで上位の狩人となった女だ。あのような古海を見るのは久しぶりだった。数年前、自分とどつき合って殺し合い寸前に発展した時以来か。あれはよかった。あの目だ。本能剥き出しで感情を何もかもぶつけてくるような視線だ。必要とされている。お互いがそう思ったはずだ。そのことをむつみは懐かしんだ。
すっかり何もかもが片付いた後、古海は、荷物をまとめている八鳥に声をかけた。
「お久しぶりですね」
「ああ」と八鳥はすげなく返し、頭に手を置いた。
「あの坊主、お前が担当してんのか」
古海が頷くと、八鳥はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「何も知らねえやつを放り込んでんじゃねえ。だいたいだな、お前。俺がここにいることを知ってたろ」
「いいえー? 全然知りませんでしたけど」
「ああ、そうかよ。……もっとちゃんと面倒看てやれよ。あいつは俺じゃなく、お前向きだぜ。大空洞で生きてく術にゃあ疎いし、合わないし、向いてねえし、驚くほど才能がねえときてる。ただ、活殺自在……殺すことには長けていやがる」
八鳥は続けた。
「危なっかしくて俺じゃあ見てられねえよ」
「そうするつもりです」
「そうしてやんな」
荷物を背負うと、八鳥は古海に背を向けようとした。
「人の心配とは珍しいですね」
「そっくりそのまま返してやるよ。他人様の面倒看ようとするたあな。……悔しいがな。あの坊主、大空洞に好かれてやがる。滑落して、それで大した怪我もなく、おまけに俺に見つけられて生きて帰れる。一生分の運を使い切ったとしても驚かねえよ」
「大空洞だけじゃありませんよ。あの子は色々な人から心配されて、好かれてる。変な人ばっかりに好かれてる気がしますけど」
「お前が言うか」
「また見かけたら、色々と教えてあげてください。あなたの言うように、私はケモノの殺し方しか知りません」
八鳥は苦い顔になった。
「あの坊主とは二度と会わねえ」
むつみの傍をうろちょろしている幸を一瞥し、八鳥は古海を睨むようにして見た。
「てめえの面倒も看られねえのに他人の面倒まで背負いこもうとするやつがな、俺は一等嫌いなんだ。もう顔を合わすこともないだろうよ」
「あら、あら? 私も似たようなことを言われた気がしますが」
「うるせえ。ちったあまともな男見つけろよ」
八鳥は去っていった。その後ろ姿に、古海はうるせえと毒づいた。
「あれ? 行っちゃったんですか?」
すぐ後で幸が来て、八鳥がいないことにがっかりしていた。
「お礼、言いたかったんですけど」
「どうせまた会うからその時に言いなさい。……変な人だったでしょ?」
「はい」
「でも、いい人だったでしょ?」
幸はにっこりと笑った。
その後、幸は古海たちに連れられて地上へ戻った。久方ぶりに、まともに日の光を浴びたことで、彼は何となくではあるが生きているんだなという実感を得られた。気を失って運ばれた塔子はどういう気分なのだろうかと、幸は思った。
帰り道で幸はむつみにたくさん話した。大空洞であったことを取りとめもなく。
「おしゃべり」
むつみは小さく笑った。
「だって、何か久しぶりですし」
「君が不様に情けなく格好悪く滑って落ちてから、まだ一週間も経ってないと思うけどな」
「そうなんですか」
幸は背中に手を当てた。むつみはそれを認めて目を細めた。
「何も言わないの?」
「え。もういっぱい喋りましたよ」
「私が君だったら古海とかに怒ってるかもしんないな。『ちゃんと面倒看ろよ』って」
「ぼくがヘボかっただけですし。それに、来てくれましたから。叔母さんも、古海さんも」
「そうかい」
歩きながら、むつみは幸の頬を指で突いたりした。
「お」
「なんです」
「ちょっと髭が生えてる、かな?」
「ぼくだって成長してるんですよ」
「生意気さんめ」
「えー。してないですかー」
むつみは立ち止まり、意味ありげに幸を見つめた。
「そう言われれば、少し背が伸びた気が」
「ホントですかっ」
「いや、気のせいだった」
幸がむくれたので、むつみは大いに満足げだった。