緑の褥<2>
目覚めた幸が最初に目にしたのは、全裸で水浴びをする八鳥の姿であった。締まった尻が水を弾いていた。
ここは東山ン本大空洞は第三の階層、守り人と呼ばれるものたちが跋扈する場所である。パンを焼いた匂いもせず、カエルの鳴き声も聞こえない。暗がりでの朝だ。
だが、メフの地下とはいえ真っ暗闇というわけではない。先人たちの置いていった照明があり、太陽の光はひび割れなどから漏れてここまで届いている。
幸は腹を摩った。空腹で少し頭も痛い。先行きの見えない不安感もある。しかし確かに生きている。そのことを実感する。彼も服を脱ぎ捨てると真っ裸になって沢に足を踏み入れた。
「八鳥さんはどうして大空洞に潜るんですか」
昨晩釣った魚をおかずに、炒った玄米を食べながら幸は尋ねた。八鳥はぎょろりとした目を彼に向けた。
「言ったろ。趣味だって」
「でも変な趣味じゃないですか。他に理由があるのかなって」
「……俺ぁ煩わしいのが苦手なんだよ。ここにいると、そいつを一時でも忘れられるじゃねえか」
朝飯を平らげた八鳥は、棒で火を突いた。
「なるだけ荷物を減らして軽くしてよ、ぎりぎりまで潜るんだ。そうして向き合う」
「大空洞と、ですか」
「自分とだ。長く潜ってるとな、余計なもんが削ぎ落とされていく。他人とか、金がどうとか、そういうもんがどっか行っちまう。最後に残るのはシンプルだ。自分と、生きてえって気持ちだけになる。たまんねえのよ、そいつが」
変わった人だと幸は思った。しかし生きているという実感、それが得られるのは間違いなさそうだった。
また、道なき道を行く。
八鳥は昨日とは違い、何か見つけるたびに一々立ち止まった。彼が幸に説明することもあれば、何も言わないこともある。
「こいつは食える」
地面に生えている植物を指し、八鳥はそれをもいだ。
「なんですかそれ」
「たぶんゼンマイ。に、近いものだろうな」
「たぶん……?」
八鳥は周囲をぐるりと見回した。
「地上とは違うからな。似たようなものがあっても、上と全く同じ生き物はここにゃあいねえ」
「どうやって食べられるかどうか判断するんですか」
「経験しかない。一度口にするしかねえな」
幸は難色を示した。
「安心しろ。人間ってのはマジでやばいもんを飲み込もうとするとな、体が勝手に拒否するんだよ。草でもケモノでもよ、ちいとちぎって舌の上に乗せてみりゃどうにかなる」
「めちゃめちゃ強い毒を持ってたら。舌の上に乗せただけで死んじゃうやつとかだったら」
「そりゃお前ここの神さんに嫌われたと思って諦めるしかねえな。まあ、この辺に生えてるもんは大丈夫だろ。だいたい食った。下の方に行くとやべえのがいるがな」
ケモノが食べているものは人が食べても案外平気なのだと八鳥は付け足した。
「あいつらをよく観察すりゃあ、俺たちが何をすればいいのか、何をしたらだめなのか分かることもある。昔な、水に困ってケモノのあとをついてったら沢に行き当たってよ。助かったこともある」
「おお」
「そのケモノに見つかって殺されかけたがな」
「おお……」
「お。ちょっとそこ掘ってみろ」
何が何だか分からぬまま、幸は折り畳み式のスコップを持たされて、言われるがままに背の低い木の根元を掘った。柔らかな土で湿り気がある。目当てのものはすぐに見つかった。昆虫の幼虫である。白くて丸くてうごうごしている。
「うわ。何の虫ですかこれ」
「甲虫の一種だな。そのままでいけるから、ちょっと食ってみろ」
幸は縋るような目を八鳥に向けた。彼は駄目だと言わんばかりに首を振った。
「普通に美味い。噛んだら甘いぞ」
指でつまむと幼虫は蠢いた。
「マジですか……」
「大空洞に潜るってのはそういうことだ。お前、腹減って死にそうな時でも躊躇すんのか。そいつを食えばその分だけ生きられるんだぞ」
「ぐ」と幸は覚悟を決めて幼虫を口にし、一息に噛んだ。しかし味わう余裕はなく、すぐに飲み込んでしまう。その様子を見て八鳥は楽しそうにしていた。
幸は他の幼虫をつまみ、八鳥に差し出した。
「俺ぁいいよ」
「どうして」
「いや、虫ってあんま好きじゃないんだよ」
藪を突っ切り木と木の間をするりと抜け、岩肌や積み上がったコンクリートをよじ登る。斜度のある道を下り、時には穴の中に半ば飛び込むような形で進む。
「あの。どうしてこんな風に進むんですか」
「あー?」
「だって道はあるじゃないですか」
幸は、大空洞の外周部に造られた道を指差した。
「ありゃ狩人の……人の通る道だろうが」
「いやぼくらも人ですよ」
「人じゃねえ。ここに潜ったら俺は俺でお前はお前だ。それ以外の何者でもない。なくなるんだ」
「はあ」
「ただ一個の命になるんだよ。人もケモノもここじゃあ何も関係ねえ。それにどっちかと言えばここはケモノの世界だ。街じゃあいつらが異物だが、ここじゃあ逆。ケモノのルールに則る方が自然じゃねえか。よう。ケモノがお上品にあんなとこ通るか」
つまり八鳥は人の通った道を行かないということだ。敷かれたレールを蹴飛ばすような性格の持ち主なのだ。
「それにな。ここを隅から隅まで知り尽くそうとすんのは悪いことじゃねえだろ」
「あ、それはそうですよね。普通の道がなくなったらその時どうしようかなって困りますもん」
「自分でできることは自分でやりたいんだよ。俺ぁ」
「はあ」
「それに普通の道じゃつまらねえしな」
そっちが本音か。
別の沢に着くと、八鳥は火起こしなどの準備を始めた。どうやら今日はここで夜を明かすらしい。そこで幸は、彼が沢から沢へ向かっていたのではないかと感じた。目的地はないが目的はある。彼にとっては大空洞にいることこそが目的であり、すでにこの階層の大部分を掌中に収めているのかもしれなかった。
「よう。お前は今晩のおかず釣ってこい」
幸は釣り竿を受け取ったがすぐには動かなかった。というより動けなかった。八鳥の釣り竿は、釣り堀屋のそれよりずいぶんと短く、毛ばりがついているシンプルなものだ。幸にはなじみがなく扱いづらい。そもそも幸は釣りが下手だった。
「コツとかないですか。すごい簡単にびっくりするくらい釣れる方法とか」
「そんなもんあるか。俺だってまだまだ下手くそなんだからよ」
「今日はお刺身食べられなくても知りませんよ」
「そん時は採って集めた草があんだろ」
たんぱく質が欲しい。幸は諦めて釣り竿を担いだ。
沢に糸を投げ入れるが待てど暮らせど魚はかからない。水面は自分の心と同じように無だ。凪いでいる。そもそもここには魚どころか微生物の一匹だっていないのではないか。そんな思いが幸を支配する。
「おー、どうだー」
茶を飲み尻を掻きながら八鳥がやってきた。彼はボウズの幸を認めると溜め息を吐き出した。
「才能ねえな……」
「八鳥さんだって下手くそだって言ってたじゃないですか」
「それでも俺ぁ釣る時は釣るからよ」
むきになった幸は場所を移動するためにざぶざぶどたどたと歩き出したが、それを八鳥に咎められた。
「物音立てると魚が逃げるぞ。バレないようにゆっくり動け。そんでほら、隠れられそうな岩があんじゃねえか。そっから投げろ」
幸は頷き、言われたように物陰に姿を隠し、竿を振り、糸を垂らした。魚は釣れなかった。
いくぶんか寂しい食事の途中で幸が申し訳なさそうに謝った。八鳥はぎょろりとした目を動かす。
「俺だって何も採れないことはある。いや、そっちの方が多いか。米だけで過ごすことばっかりだ」
「そうなんですか。お腹空きません?」
「おう、泣きそうになる」
でもそれもいいんだと八鳥は言う。
「今日は全然いい方だ。山菜がある。これも大空洞の神さんからの御恵みよ。ありがたくいただこうぜ」
「はい」
幸はもしゃもしゃと食事を続ける。
「お前。歳いくつだ」
「十六……あ、十七になりました」
「なんで一回誤魔化したんだよ」
幸はナップザックから携帯電話を取り出した。大空洞内では無用の長物だが電池が切れていなければ時間の確認くらいはできる。彼はそれで日付を認めた後、小さく笑った。
「今日がぼくの誕生日なんです」
「お……」
八鳥は何か言いかけたが、茶で飲み込んだ。
「……そうかよ。なんで言わねえんだ。最初に言っときゃあお前、上で家族と過ごせただろうが」
「忘れてたんです。さっき気づきました」
「アホウ。自分の誕生日くらい覚えとけ。変わったやつだなお前」
「八鳥さんも変わってます」
「はっは。そうかよ」
お、と、幸は口の端を緩めた。八鳥が笑ったのを初めて見たからだ。常は神経質そうで声をかけるのもためらわれるほど怖そうな顔をしているが、笑うと案外普通そうに見えた。
「じゃあ、家に帰ったら食いたいもんのこととかよ、会って喋りてえやつのことでも考えときな」
「余計なものを削ぎ落さなくていいんですか」
「ま、それもそうなんだが。ここから本当に生きて帰る時はやっぱりよ、家族の顔とか、思い浮かぶわな。そういうのがここ一番でてめえを助けてくれんのさ」
八鳥は飯を平らげて、棒で火を突いた。
「よう。明日は肉でも食うか」
「魚ですか」
「ケモノだよ、ケモノ。耳つきバッタって知ってるか。明日はそれ食うぞ。決めた」
「えー。バッタってまた虫じゃないですか」
「うるせえ。もう寝ろ、寝ろ」
火の始末は任せた。言ってごろりと横になると八鳥は口を利かなくなった。
翌日。大空洞に八鳥の勝ち鬨がこだました。
「取ったぞおおおおおおおおおぉおおい! やったぜ今日は肉だ、肉!」
八鳥は大空洞の壁面に空いた穴の中に手を突っ込み狂喜の声を上げていた。そうして威勢のいい声と共に腕を引っこ抜くと、耳を掴まれて大人しくなったケモノの姿があった。
「それが耳つきバッタなんですか?」
「鍋だ鍋!」
虫ではない。哺乳類で、ウサギによく似たケモノだ。というかほとんどウサギそのものである。
「あのう」と言いかけた幸だが、八鳥は既に解体作業を始めているので声をかけられなかった。ナイフ一本で皮を切り開き、血抜きするさまは幸の目からも手慣れているように映った。
小型のケモノだったこともあり、解体作業はスムーズに行われて滞りなく終わった。八鳥はバラした肉の欠片をその辺に放置し、行くぞと幸に声をかけた。
「どうしてお肉、そこに置いていくんですか」
「そいつはここの神さんの分だ」
そういうものかと幸は納得した。
沢を見つけ、八鳥はさっそく食事の準備に取り掛かった。道すがら、彼は山菜や香草になりそうなものを採っていて、どうやら肉ごと煮込んで鍋にするらしかった。
「耳つきバッタってのは隠語みてえなもんだ」
ぽつりと八鳥が口を開いた。
「あんまりウサギウサギって上で言ってるとよ、うるせえ連中もいるからな。知らねえか? 愛護派のことだよ」
「ケモノを保護してる人たちがいるんですか」
「いねえよそんなもん。口先だけだ。なんであれ生き物を殺すのは可哀想だって抜かすやつがいんだよ。でもな。生きてくには他の命を食わなきゃなんねえ。そうやって主張する連中は、じゃあ何を食ってどうやって生きてるんだ? 俺から言わせりゃあこのウサギだろうと魚だろうと採った草だろうと同じに見える。命は命だ。ケモノを殺すな可愛がれってな、そりゃあ無理な相談だぜ」
八鳥の言い分は極端かもしれなかったが、幸にも彼の言いたいことは分かった。
「ただ殺すより食うんだ。ずっといい。そいつを食うために殺すならまだ納得できる。だから俺も、ここにいる以上は他のケモノに食われてもいいと思ってんだ」
「襲われても抵抗しないんですか」
「する。必死でな。その上で食われるんならしようがねえって話だ」
ん、と、八鳥は釣り竿を幸に渡した。
「俺ぁこっちに付きっきりだからな」
幸は仕方なく沢で魚釣りを始めた。しかし全く釣れないのでこれはもはや水に向かって竿を振り、糸を垂らすだけの拷問に近い何かである。ただ、物陰に隠れて息を殺し、水面と向き合っていると余計なことがぽろぽろと、かさぶたのように剥がれていくような感覚に耽った。
戻ってきた幸の顔は少し晴れやかだった。
「ボウズのくせに笑ってんじゃねえよ」
「気になってたんですけどボウズってなんですか。ぼくのことですか」
「違う。一匹も釣れねえことをボウズってんだ。ほらへたっぴ、メシの時間だぜ」
幸は座り、鍋の様子を確かめた。今日の昼には生きていたウサギのケモノがぐつぐつと煮えていた。
「八鳥さん」
「あー?」
「ぼくが誕生日だったから気を遣ってくれたんですか」
八鳥は露骨に嫌そうな顔になった。
「……お前。分かってても……分かってたら言うなよ。ンなこたあよ」
「だって無駄な殺生はしないって言ってたから」
「そういう時くらいはな、神さんだって何だって目こぼしくれらぁ。いいから食え食え」
言われるがまま口をつける。幸もケモノの肉を食べるのは初めてではない。そもタダイチではケモノ肉を売っているのだ。
「おいしい」
だが、美味かった。
「だろ」
「と、思います」
「なんだそりゃ」
鶏肉に似た触感と味わいだったが、もっとシンプルで野性味がある。温かくて腹から力が伝わってくる気分だった。
「大空洞に潜ってんだ。ここのもんを食わねえとな、やっぱ」
「八鳥さんって食べ物は持ってきてないんですよね」
「コメと調味料くらいは、さすがにな。あとはなるだけこっちで採るようにしてる」
「ふうん。あ、おかわりいいですか」
「おう」と八鳥は鍋からよそってやった。
「八鳥さん」
「おう」
「明日もお肉食べましょう、お肉」
「調子乗りやがって……」
幸が八鳥と行動を共にしてから数日。二人はあるものを発見した。
「冗談だろ」と八鳥は荷物をその場に置いて頭を掻きまわす。
大小さまざまな岩と廃墟と化した建物の破片が転がる、ガレ場と呼ばれるような場所に人が倒れていた。若い女だ。幸は咄嗟に駆け寄ろうとするが八鳥に止められた。
「モドキかもしれねえからすぐに近寄るな」
「でも」
「でもじゃねえよ」
八鳥は幸をその場に置いて、鉈を抜いた。彼は倒れているものに声をかけながら一歩ずつ近づいていく。しばらくして、八鳥は幸を呼んだ。もちろん鉈を抜かせてだ。
「モドキは酷く臆病でな。金物の臭いに敏感だ。こうして光もんぶら下げてりゃ逃げ出すのがほとんどだ」
「逃げてないってことは……」
「人間だな、こいつは。おい。こいつの得物剥がせ」
幸は訝しげに八鳥を見上げた。
「ケモノじゃなくとも悪党かもしれねえ。死んだふりしてこっちの隙窺ってんのかもしれねえ」
釈然としなかったが、幸は女の佩いた鉈を抜いた。……やはり若い。彼は彼女をじっと見る。息はあるようだ。泥や土に塗れているが大空洞には不釣り合いなほど綺麗だった。
気になったのは女の髪だ。長い黒髪だが、ところどころに白髪が混じっている。
「鉈ぁ取ったか? よし。そんじゃ他に何か隠してないか調べてみろ」
「どうやってですか」
「触るんだよ」
「どこをですか」
「そりゃあ、まあ……」
八鳥は言い淀んだ。
「そこまでしなくてもいいじゃないですか」
「分かった、分かった。見える範囲で構わねえよ」
「持ってないですよ、何も」
女の荷物は鉈くらいのものだ。だから、彼女がここで行き倒れているのは奇跡に近しいことなのだと幸は考える。八鳥も念のために言っただけで分かっていたのだろう。彼は自分の荷物を幸に持たせ、女を背負った。
「おお。ずいぶん軽いな」
「大丈夫ですかね」
「とにかく沢に戻るぞ。……はあ。どうしてこう、二人も見つけちまうかね俺は」
独り言ちて歩き出す八鳥。幸は周囲の状況を確認してから彼の後を追った。




