緑の褥
大きく、小さく、太く、細く、赤く、白く。
揺らめいて姿を変え、一個に囚われないそれは暗がりを照らし続ける。ぱちりぱちりと火の粉を飛ばし、始原の記憶を呼び起こす。
ひときわ大きい音が鳴ったのを潮に、口を開くものがいた。
「森羅万象。万物には神さんが宿る。山にも海にも、草にも石にもどんなものにも。人には人の、ケモノにはケモノの……もちろん、この大空洞にも神が御座す。そうして俺たちのことを見ているのさ。じっとじゃない。たまに。だから運がよかったな。……いや、お前の足掻きが認められたのかもしれねえ」
かすれた男の声だった。彼は棒切れで焚き火缶の様子を確かめている。
「いい狩人は大空洞の神に好かれる。だがここの神さんは気が多くてな。だからこそ俺たちは忘れられないように一心不乱、潜り続けるのさ。……ああ、いい具合だな、こりゃ。ほら食え。じき、動くからな」
差し出されたものを見やり、幸は顔を上げた。
幸が大空洞に落ちてから半日が経とうとしていた。
半日前、幸は狩人の見習いを卒業するための試験を受けるべく、東山ン本大空洞を訪れていた。一人ではない。試験は、市役所から三名の職員が付き添う形で行われる予定であった。旧市街という階層を無事に抜けることが試験の内容であったが、幸は旧市街へ辿り着く前に落ちた。足を滑らせたのだ。
試験の付添人であった職員、古海が捜索の手はずを整えたが、草の根を分ける捜索活動は実を結ばなかった。古海たちは半日かけて旧市街周辺を捜したが、大空洞で遭難者が発見されるのは稀だ。何せここには底がない。最下層まで歩を進めたものはいないのだ。運よく、落下の途中で木の根や廃屋に引っかかっても負傷は免れない。地の底まで落ちずどこかの階層に叩きつけられたとして独力での脱出も難しい。大空洞は日々の余震でその容貌をがらりと変えて迷わせる。そうでなくとも弱ったところをケモノに襲われるのが関の山だ。加えて、捜索する側も道とケモノに気を配りながらでは人ひとりを見つけることにも難儀する。
幸を捜す古海もそのことはよく知っていた。死体が見つかれば運のいい方だ、と。
炒った玄米と小さなケモノの肉という簡素な食事を済ませると、男は立ち上がって体を伸ばした。幸は座ったままで彼を見た。目が覚めて、胃にものを収めて、やっとそこまでの余裕が出てきたのだった。
男の髭はかなり伸びていたが、髪の毛は短かった。精悍な顔立ちだが、目がぎょろりと、妙に鋭い眼光を帯びている。歳は四〇代、あるいは五〇に差し掛かった頃か。体に無駄な肉はついていない。ただ、生命力に満ちている、野性味のある男だ。彼は軽装で、履いている靴は沢登り用のものなのか幸の目には珍しく映り、特に印象に残った。
既視感があった。幸はこの男を以前、どこかで見たような気がしていた。
「あの」と幸は声を出そうとしたが、上手くいかなかった。もう一度、彼は腹に力を込めて言った。男が顔だけを向けてくる。
「ありがとうございます。その、ぼくを助けてくれて」
男はじっと幸を見据えていた。
「ここ、どこなんですか。そいで、ぼくは、どうなってたんですか」
「ここがどこってこたあないだろうよ」
言って、男は幸の対面に腰を下ろす。
「お前は根っこに引っかかってたんだよ。俺が通りかかった時、寝息までかいてやがったぜ」
「根っこ……」
「落ちたんだろ。覚えてねえのか」
幸は無意識のうちに背中を摩った。
「そりゃ難儀だな。ここは守り人どもの階層だ」
「守り人?」
「……知らねえのか?」
男は訝しげに幸を見た。幸は、自分が市役所のものと見習い卒業の試験を受けに来ていたことなどを話した。話を聞き終えた男はつまらなそうに舌打ちする。
「ずいぶん若いとは思ったが、んな身空で狩人なんざなろうとするんじゃねえよ。大人しく学校行って勉強してりゃあよかったんだ」
幸は何も言えなかった。男の言うことはともかく、彼に助けられたことは事実だ。そのことを男も察したのか、気まずそうに髪の毛をかき回した。
「ま、生きてるんだからやり直しはきくわな。ここがどこだか聞いたっけな。旧市街は分かるか。その下に蔦森とか言われてる階層があって、ここはさらにその下だ。大崩落に巻き込まれた昔の駅前や、ショッピングモールなんかがごっそり埋まってる三つ目の階層にあたる」
「守り人って言うのは」
「ああ、この階層に住んでる連中のことだよ」
幸は目を丸くさせた。
「ここに住んでるって、大空洞の中で、ですか」
「そりゃ当人の勝手だろ。どこに住もうが、何をしようがな」
確かにそうだ。頷いて、幸は、自分の腕に包帯が巻かれているのを知った。
「骨は折れてねえよ。かすり傷と打ち身だけだ」
男は自分の額を指で示した。
「デコも切れて血は出てたが、とりあえず問題ねえよ」
「すみません……」
「ああ、そうだ。荷物もナンボか無事だったぜ」
男は傍に置いてあったナップザックを手繰り寄せた。それは幸のものだったが、穴が空いていて中身はいくつか零れ落ちてしまったらしい。
「得物も無事だった」
鉈だ。幸は咄嗟に手を伸ばそうとしたが、男がそれを押しとどめた。
「先に言っとくが、妙な真似すんなよ」
「そんなことしません」
「どうだか」
言いながらも、男は幸に鉈を渡した。
「いいもんだな、それ。『斧磨』のか?」
「分かるんですか?」
「『摂州鷹羽』なんざ俺ぁ知らねえが、『斧磨』の打ったもんとそっくりだ」
「たかちゃ……斧磨さんとこのお孫さんに打ってもらったんです、これ」
「なに。あのうるせえやつにか? ほーう、小ましなもん拵えやがる」
幸は鉈の刀身を確認し、それを袋に収めた。
「お前がそれを大事に使ってんのは分かってたが、悪党だって何だって得物は同じようにするからな」
「変なことしないのに」
「大空洞にゃあ妙なもんばっかいるからよ。人のふりをするケモノも、ケモノ同然の人間だっていやがる。遭難者装って狩人を襲うやつだって珍しくないんだぜ」
何の気なしに幸のナップザックの中を漁ると、男は渋面を作った。
「ろくなもんがねえな。お前、要らねえもんなんか持ってくんな」
「でも、市役所の人が揃えてくれたんです」
「お前、試験通ったらどうすんだ? 大空洞に潜るのはなんでだ?」
問われて、幸は窮した。
「猟団にでも入るんなら別だけどよ。ここに潜るってことは、少なくともその間はここで生きてくってことになる。予定通りに行かねえのが世の常なんだ。日数分のメシと水がなくなったら飢え死にするつもりかよ」
「ごめんなさい」
「謝ってもよ。……ああ、いや、そうか。そういうのを教えてもらうはずだったんだよな、本当は」
またも男は髪の毛をかき回す。やがて、はたと思いついたように茶でも飲むかと立ち上がった。
男がどこかへ行こうとするので、幸もその後をついていった。
「どこ行くんですか」
「沢」と男は短く返す。彼の足取りは軽く、確かだった。小石も突き出した木の根も、見なくとも分かっているかのようだ。一貫して、男は人工の道を歩かなかった。大空洞にも道はある。先人の狩人たちが作ったそれは大空洞の上層ほど照明が備わっていて明るく、歩きやすい。彼はそこを選ばなかった。むしろ避けているかのようでもある。幸は不思議そうにしながらも男の背を追う。
焚き火していた場所から少し歩くと水の音が聞こえてきた。巨大な木の根やごろごろとした石が転がっていて、周囲の壁にはひびが入り穴が空いている。その中に流れはあった。三野山のそれより規模は酷く小さかったが水が流れている。幸は、自室のテラリウムを何となく想起した。
「大空洞にも川はある」
男は持ってきていた缶を使い、水を汲んだ。幸はその様子を見ながら、同じようなことを誰かが言っていたのを思い出した。
「もっとでけえ沢だって下にあるぜ」
幸は屈み、沢の水に手を浸す。
「そのまま飲むなよ。どうしてもって時はしようがねえが、できるなら沸かしてからにしとけ」
「お腹壊しちゃいます?」
「大空洞で弱ったらケモノに祟られるぜ。ここじゃ弱いやつから死んでいく。ケモノはその臭いに敏感だからよ」
幸は無言で立ち上がった。
「まず水場を確保しとけばどうにかなる。魚だっているしな」
「はあ。でも、どうやって捕まえるんですか」
「そりゃ釣るんだよ」
「……素手で、ですか?」
「今度は釣り竿くらい持ってこい。それから鍋もな」
男は焚き火の方へ戻りながら肩の骨をごきごきと鳴らした。幸は、彼が持っている缶をじっと見つめた。取っ手のついたバケツのような形のものだ。
「変な形の鍋ですね」
「焚き火缶つってな。煮炊きできるし、フタはフライパンになる。まあ、これ一つでたいがい賄える」
男の持つ焚き火缶とやらは黒ずんでいる。使い込まれているものなのだろうと思われた。幸は、彼がこの大空洞をよく知っているものなのだと認識できた。
「水と米があっても鍋がなきゃどうにもならねえ」
「はい」
焚き火の地点に戻ると、男はやはり慣れた手つきで茶を沸かし始めた。
「鉈しか持ってないのか。ナイフも一本くらいあると便利なんだがな」
「はい」
「それから食える草も覚えとけ」
「はい」
幸は茶に口をつけてから、遠慮がちに男を盗み見た。
「あの。どうして急に色々教えてくれたんですか」
「……さっきお前の荷物を見たろ。市役所のやつに揃えてもらったとか言ってたが」
「はい」
「内訳を見て思ったが、ありゃあ、俺の知り合いかもしれねえ。後輩みたいなもんでな。だったらその不始末は取らなきゃいけねえと思っただけだ」
「もしかして、市役所の人だったんですか」
男は喉の奥で笑みを噛み殺した。
「そんなんじゃない。俺ぁここに趣味で潜ってるだけだ」
「趣味」と幸はおうむ返しする。
「狩人ではあるがな。だけどケモノを殺すために潜ってるわけじゃない」
「それじゃあ、どうして」
「さあな」
男は道なき道を行く。まともな道を進まず、隙間をくぐり、藪を払い、時には岩に手をかけて沢の水に浸かりながら上り下りした。
大空洞の中心には扶桑がある。狩人たちは中心部をぐるぐると回るようにして少しずつ進んでいくのが一般的だ。先人たちの作った道もそのようにある。しかし男はそうしなかった。目的地があれば遠回りせず、最短距離を進もうとする。たとえ真正面にどのような障害物があるとしてもだ。
なぜだ。
幸は聞きたかったができなかった。動いている間、男はとても話を聞いてくれるような雰囲気ではなかったからだ。彼がどこに向かっているかも気になったが、その疑問はすぐに氷解した。男に目的地などないのだ。
「今日『は』ここに泊まるか」
手ごろな沢を見つけると、男はタープを張り、水を汲み、沸かした茶を飲みながら釣り竿を担いだ。幸はその手伝いをしながら、彼が易々と魚を釣るのを目の当たりにした。
「そんな簡単に釣れるんですか」
「やってみるか」
「やりたいです」
幸は男から釣り竿を受け取り、見よう見まねで竿を振るった。寝ても覚めても魚はかからなかった。
「見てな。こうするんだ」
男はすぐに二匹目を釣り上げた。その姿を見て、幸は男の正体に気がついた。
「釣り堀屋の写真だ」
「ああ?」
「鮎喰さんって人、知ってますか。そこの釣り堀で、あなたの写真を見たんです。ぼく」
「ああ、あそこか。なんだ。お前も行ったことあんのか」
「はい」
「でも下手くそだなお前」
「……はい」
何匹か釣ったところで、男はまな板とナイフを取り出し、魚をさばき始めた。手際がいい。むつみよりもずっとだ。幸は彼の手捌きを黙って見つめていた。
「大空洞で食えるもんは限られてくる。そりゃ大型のケモノを仕留めりゃあ当分は安泰だがよ」
「やらないんですか」
「他に食えるもんがあるなら、わざわざ死ぬような思いはしたくねえだろ」
「じゃ出くわしたらどうするんです」
「逃げるに決まってんだろ」
「狩人なのに」
男は眉をひそめた。
「確かに狩人はケモノを仕留めるのが仕事だけどよ、何も大空洞でそこまでする必要ねえだろ」
幸は小首を傾げた。
「狩人は街に出たケモノは殺す。危険だからだ。だがよ。大空洞で生きてるもんを殺しに行く必要はねえだろ。誰に頼まれてもいない、必要のない殺しは仕事の領分を超えてんじゃねえのか」
「でも、ケモノの素材を売ったりして生活してる人もいますよ」
「極端な話になるけどよ。マジで生きてくだけならそこまでしなくともいいだろって思う。実際、俺はもう一〇日ここに潜ってるし、お前だって丸一日ここで過ごしてる計算になる。その間、余計なもんを殺したか。生きてくだけのもんしか殺生してないはずだ。その日食う分さえ確保できればそれ以上の殺しなんかしなくともいいんだ」
言ってから、男は躊躇うようにして言葉を発した。
「まあ、そういうわけにもいかねえってことも分かってるが。他人は知らねえ。俺はそう思ってるから、そういう風にしてるってだけだ」
そんなことより火くらい起こせ。男にせっつかれ、幸はまた小首を傾げた。
「火起こしもできねえとは……」
「ごめんなさい。お刺身おいしかったです」
男は苦笑した。
「帰りたいか?」
幸は上を見た。
「怪我も問題なく歩けてるみたいだしよ。俺だけなら本当はもっと潜っていたかったんだが、ほっとくわけにもいかねえし、上まで送ってやる」
幸の脳裏をよぎったのはむつみや古海たち。それから地上にいる皆のことだった。しかしと彼は思いなおす。
「もう少し、色々と教えて欲しいです」
男は面食らった様子で幸を見返した。
「帰らなくていいのかよ」
「試験はまだ終わってませんから。まだ続いているんです」
ここで尻尾を巻いて何もできずに終わってしまうのが嫌だった。今回の試験で落第を言い渡されるのはしようがない。だが、次に活かすために何か一つでも掴んで地上に戻らなければ本当に何の意味もない。幸はそう思っていた。
「神経の太いやつだな……」
「でも、これが試験じゃなかったらって思うと」
「まあ、そうか。ヨネもこんなもん寄こしやがって」
「何か?」
いいや。言って、男は火に目をやった。それから、幸の目を。
「お前、名前は」
「八街幸です。八つの街に、真田幸村の幸で」
「やちまた? ……はあ、やちまたね。そうか。俺ぁ八鳥。短い付き合いになるが、ま、気楽にやろうや」
幸と八鳥、二人の道が交わった。これから長い付き合いになる二人の最初の出会いであった。