無用の長物
門田民子は確かに見た。
ルドラが何か仕掛けようとしたその時、天井に空いた穴から幸が落下するのを。墜死するかと思われた彼が中空で身を捻り、見えざる何かに掬われるかのように、静かに着地したのを。そうして気づいた時には、この場に立っているのは幸だけとなった。自分たちを害そうとしていた燕尾服の男たちは苦しそうにして平伏している。先までまるで王のように振る舞っていたルドラでさえ、幸に頭を垂れて跪いている。
「何、が」
ルドラはこの状況を誤算と断じた。
だが、違う。
人形が独りでに動いたのはルドラが放った雷のせいだ。幸が間に合ったのは、子供じみた復讐心でイシャンを長々と痛めつけていたからだ。そのことが分からないほど、ルドラの心は千々に乱れていた。
幸には見えていた。自分が使ったのはイシャンの異能――――無用の長物だ。今、それが、ルドラたちを踏みつけにしている。彼らを足蹴にしているのは白象だ。無論、実体はない。しかし確かに存在はしている。雲でできた象が、悪漢どもを押さえつけている。これこそがイシャンの異能であった。
長くは持たない。幸はそのように感じていた。
「縄を解いて。早く」
幸は言った。相手は反応しない。彼は声を荒らげた。
「イシャンくん、何してるの。動けるだろ」
イシャンはぐったりとしているようだが意識はある。幸にはそれが《無用の長物》を通して分かっていた。彼の苦しみも、痛みも分かっていた。
「泣いてないでみんなを助けてあげてって……! 動けるのは君しかいないんだ!」
幸の目元が熱くなった。
「早くしろよ!」
その言葉に反応したのはイシャンではなく民子だった。が、彼女が慌てて駆け出すのを認めると、イシャンもまたゆっくりと立ち上がる。彼は救いを求めるかのようにして幸を見たが、彼はルドラたちを抑えるのに必死でそれどころではなかった。
イシャンたちが、縛られている従業員の方へ向かうのを見届けても気は緩められなかった。何故なら、ルドラだけが立ち上がろうとしていたからだ。幸は、彼の悪鬼めいた形相を認めてやはりと悟った。ルドラの中には煮え滾るような怒りが宿っていたのだ。
「オ、おお……オォおおおおおお……!」
ルドラの咆哮はケモノのそれと変わらなかった。彼は《無用の長物》に踏みつけられながらも遂に立ち上がり、足を踏み出した。その先にいる幸は強く目を瞑った。
手指が震えていた。歯の根はがちがちと鳴っていて噛み合わない。視界も、涙で滲んでいる。イシャンは謝意を口にしながら、縄を解こうとしていた。
門田製作所のものはイシャンを許すとは言わなかった。ただ黙って彼の謝罪を聞いて、口を挟まなかった。
「おっしゃ、お父さん、こいつら縛っちゃって」
「よ、よし」
一人、また一人、縛を解かれていく。民子と門田は自分たちを縛りつけていたもので、今度は燕尾服の男たちをぐるぐる巻きにしていく。
イシャンの息は荒かった。彼は苦しそうにしていたが、それでも手を休めなかった。
「……さっきのを見て分かったよ。君はいつもあんな風にしてるけど、手加減してたんだな」
縛られた従業員がぽつりと言った。イシャンは寸暇の間だけ動きを止めた。
「……知らん。だが、貴様らが怪我したら、誰が作業を続けられるんだ」
「そうか。ああ、いや、そうだよな」
「まったく」
髪の毛をがしがしとかき回しながら、門田がやってきた。既にルドラの仲間たちを動けなくしたらしく、疲れ切った表情をしている。彼は作業場を見回して溜め息をついた。
「機材も設備もめちゃくちゃだ」
「すまなかった。もう、余は」
イシャンは顔を伏せた。
「ちゃんと弁償してくれよ。でないと仕事が続けられないからね」
「……ああ」
「君の姉さんは、あともう少しでどうにかなりそうだ」
イシャンは無言のまま、目を見開いて門田を見上げた。
「さっきのを見ただろ? すごいぞ。独りでに立ち上がった。ということは、ここまで間違ってなかったんだ。あの雷だな。とにかくパワーさえあれば上手くいくのは疑いようがない」
「だが、余は……」
「次はもっと上手くいく。明日はきっと上手くいく。そうやってきたんだよ、私たちは」
「よいのか。まだ、余の頼みごとを聞いてくれるのか」
「ああ。だけど、その、こんな時に何なんだが、パワーを上げるのに足りないものがあって、あともう少しだけ融資というかだね……」
「社長、こんな時に何言ってんすか!」
「こんな時だからって時もあるだろ!」
「金、金、金ばっかですか!」
お人よしめ。イシャンは嬉しそうにして呟いた。
「いいよ! 八街くん!」
幸は、自由になった民子たちと、縛られた燕尾服どもを認めた。
「分かった! 外に行ってて! 警察、呼んでるんでしょ!?」
「呼んでるけど、八街くんは」
「早くっ、もう持たないから!」
幸の目から涙が零れた。同時、《無用の長物》がかき消えた。ルドラが、幸目がけて走り寄っていた。
「オッ、オオオオオアアアアアアァアアアッッ」
「いった……!」
ルドラが腕を伸ばす。幸も同じようにして抵抗するが体格と膂力がまるで違う。幸はあっという間に壁際に押しつけられた。民子が悲鳴を漏らすが、門田たちが彼女を引っ張っていく。イシャンだけが最後までここに留まろうとしていたが、幸に睨まれて作業場を後にした。
誰もいなくなった。自分と相手以外は。これでいい。誰もかばわなくて済む。後はもう、自分のことだけ考えていればいい。幸は歯を食いしばり、ルドラを僅かながら押し返す。背後に空間が生まれた。幸は壁を蹴ってルドラへ飛びかかる。二人はもみくちゃになって転がり、二、三発互いを殴り合ってから離れた。
幸は自分の目的を脳内で確認する。警察、あるいは市役所の狩人が来るまで時間を稼げればいい。だが、
「言ったはずだ……! 俺は」
この相手はどうだ。怒り狂ったルドラを相手にどこまでやれる。幸は自問自答する。そしてやるのだと結論づけた。
「後悔するぞと!」
ルドラの目に光輝が宿る。幸も《花盗人》もその所作を見逃さない。見逃しては終わりだった。
幸は天井からルドラの異能を目にしていた。雷だ。いつか見た青天の霹靂も彼がもたらしたに違いない。あのような一撃をまともに受ければ黒焦げになって殺される。使わせるわけにはいかなかった。その一方、奪うまでで、それを使ってはならないとも決めていた。ルドラの異能は強力過ぎる。彼を殺しかねなかった。
対するルドラは違和を覚えていた。異能を使えない。それが幸のせいなのだとは気づいていたが、どのような能力かはまだ考えが至らなかった。彼が考えていたのはチャウドゥリーへの復讐だ。そのために目の前の障害を打ち斃す必要がある。
たぎれ。己を鼓舞したルドラは《喪失の響き》を行使すべく、己が内に宿るものに呼びかける。そのたびに幸が力を奪い、阻止する。互いがその場から一歩も動かない。しかし確かに二人は命のやり取りを続けていた。
焦れたのはルドラだ。彼は身を翻す。燕尾服の裾が少し、揺れた。彼は体に巻きつけていたであろうベルトのようなものを抜き取り、手にしていた。幸は目を丸くさせる。ルドラは手首を回す。手にしたものが連動し、ゆっくりと空を裂く。やがてそのスピードは増していき、周囲のものを傷つけていく。幸は後ろへ下がりつつ、その正体を確かめた。それは剣であった。鞭のように振り回されているのは薄く、柔らかな鉄だ。ウルミ。イシャンから聞いていた剣とはこれだ。幸は確信した。
ぐにゃりとしなる刀身が幸を追い詰める。ルドラは少しずつ距離を詰めていた。ふっと幸が息を吐く。それ(・・)はもらう。《花盗人》がルドラの得物を奪った。彼は、幸がなぜ自分のウルミを持っているのか戸惑った様子だったが、薄い笑みを浮かべた。彼もまた幸の異能の正体を察したらしかった。
今度は幸が攻める番だった。無論、ルドラを殺めるつもりはない。その思考は慢心を生んだ。奪ったウルミからはルドラの経験などが伝わってくる。幸は得物を振るおうとしたのだが手応えがなかった。気持ちの悪い違和を抱えたまま、彼は剣を振るう。しかしルドラと同じようにはいかない。
「固い」
ルドラはウルミを掻い潜り、幸の腹に前蹴りを当てた。動きが止まったところで後ろに回り、得物を取り上げる。幸が抵抗を試みた時には、ルドラは軽く飛び上がって中空に留まっていた。そこから蹴りを放つ。幸はそれを防ぎつつも下がるしかなかった。彼我の距離が開いたところでルドラが得物を振るう。しなやかだった。幸は息を呑む。一度でもウルミを操ろうとしたのなら、彼の手捌きが優れていることをいやがうえにも思い知る。
《花盗人》は武器を奪う。異能を奪う。そうして同時に、目に見えない経験をも。しかしそこまでだ。たとえ武器の扱い方を覚えても幸とルドラでは肉体が違う。ウルミという武器を操作するための体が伴っていないのだ。
構うものかとばかりに、幸は再びウルミを奪った。自在に使えなくとも使えることに変わりはない。薄くとも、柔らかくとも、これが鉄製の凶器であることは確かだ。竜巻のような攻撃はできなくともルドラを怯ませられるはずだ。幸は攻撃を続けた。
ルドラは、踊るような足運びでウルミを躱した。掠りもしなかった。それどころか彼は刀身を手の甲で弾き、速度が緩んだところで武器を奪い返した。
彼の体は柔軟で、ウルミよりもしなやかだった。それは《花盗人》でさえ奪えないものだった。手首の柔らかさも違う。踊るような足運びにはリズムが不可欠だ。幸が彼の力を奪っても同じようにはできない。幸とルドラでは毛色が、系統が違い過ぎていた。
「俺を《盗んだな》? だが、無駄だ。無音で踊るようなものだぞ、それは」
幸は瞼を擦った。熱を持ったそこが先からずっと疼いていた。
「……盗人は、誰もがみな盗みをすると考える。お前にとってそれが普通でも、盗まれた俺としては業腹だ」
「でしょうね」
「罰は天が下す」
ルドラの目に光輝が宿る。幸の反応が僅かに遅れた。《喪失の響き》は既に行使され、作業場には光と音が充満した。
作業場の外に避難していた、門田製作所の従業員らが悲鳴を発した。建物の中から稲妻が落ちた。というよりも、それは横に伸びていったように見えていた。誰もが口々に見解を述べていたが、イシャンはじっと黙り込んでいた。扶桑熱の彼には分かっていた。あれは怒りだ。あの雷はルドラの怒りそのものだ。
イシャンが八つの時、ルドラを負かした。異能を使ったのだ。そうでもしないと彼には勝てないと分かっていたからだ。
当時、チャウドゥリーの継承権争いで最有力だったのがルドラだった。イシャンから見ても彼だけは他の子と違うのは容易に判断ができた。ルドラは孤高であった。無口で、無表情で、勝ち負けにも何にも興味がないようなそぶりだった。イシャンはそんなルドラに憧れすら抱いていた。
ルドラはダミニにだけ心を開いていた。彼女もまた、ルドラには殊更に優しかった。イシャンは、二人の関係が羨ましくて、少し妬ましかった。だから欲しかったのだ。自分にも微笑みかけて欲しかった。認めて欲しかった。ルドラを負かせば皆が自分を見てくれると、そう思い込んでいた。実際、今のイシャンは玉座にその手をかけている。チャウドゥリーのものたちは嘘のように媚びた笑みを向けてくるようになった。しかし、当のルドラは自分に仕えてこそいるが、自分に興味を示すようなことはなかった。挙句、ダミニは死んだ。自らでその命を絶ったのだ。
イシャンは顔を上げた。傍にいた民子が悲鳴を上げたのだ。また、雷が落ちたようだった。
強烈な閃光と衝撃が幸を襲った。だが、彼はすんでのところでルドラの異能を奪い、放たれた雷を外へ放出させて難を逃れていた。それでも無傷とはいかない。ふらつく足元、霞む視界。それらを無視するようにして膝をつかないように耐えていた。
「驚いたな」
ルドラは言った。幸は目元を手で押さえた。彼の異能を奪うたびに記憶が流れ込んでくる。熱くて、痛かった。もう一度《喪失の響き》を撃たれれば凌げるかどうか分からない。
「あなたの……」
幸は息を整えながら口を開く。
「お姉さん。ダミニさん。イシャンくんが話していました。優しくて、強い人だったって」
幸は、人形を見た。つられたのか、ルドラもまたそちらに目を向けた。
「ちょっと不思議だったんです。そんな人が、どうして諦めたのかって」
「……お前」
ルドラは目を見開いた。
「そんなものまで、盗ったのか……!?」
「見えるんです。だって、しようがないじゃないですか」
幸は笑った。無意識のうちにだった。
「ねえ。あなたは誰に仕返ししたいんですか」
ルドラの頭に血が上る。イシャンが作業場に入ってきたのと、ほとんど同じタイミングだった。
「イシャンくん?」
やってきたイシャンは荒い呼吸で、涙目になって、ルドラに頭を下げた。
「兄上。僕を殺して気が済むのなら、そうしてください。姉上のことは、もう、充分に分かったから、だから……」
イシャンは跪いた。
「でも、お願いします。どうか、他の人には手を出さないでください」
幸は驚いていたが、ルドラが受けた衝撃はそれ以上のものだった。彼は何も言えず、ただ、じっとイシャンを見下ろすほかない。作業場は先刻までと違い、しんと静まり返った。
「イシャンくん。頭を上げなよ」
そんな中、幸が気楽そうに言った。
「……貴様には関係のないことだ。口出しするな」
「そんなことないよ。だって君のお兄さんは、君をどうにかしたって意味がないんだから。お姉さんがどうとかじゃなくってさ」
「何を」
ルドラは我に返った。幸が何を言い出すかを察したのだ。
「だって」
「よせっ、イシャンに聞かせるな!」
ルドラは異能を使うことも、ウルミを使うことも忘れて幸を殴った。雑な攻撃だ。彼は簡単に防いでしまった。
幸の話を遮ったのはルドラだけではない。イシャンもだった。
「言うな。いいんだ。余も、そのことは知っている」
「馬鹿な……」
「兄上」と、イシャンは微笑んだ。
「存じ上げております。姉上は優しく、強い人でした。でも、強かな人でもありました。かつて姉上が敗北し、侍女に身をやつして我慢しておられたのは、自分が返り咲くためなのだと。そのために、兄上にも、余にも、あのように優しく振る舞っていたのだと」
イシャンは続けた。
「姉上はあの家で誰よりも気位が高かったのでしょう。最も、王の椅子に相応しい人だったのかもしれません。だからこそ、己の立場に納得いかず、あのような……」
「俺が」
ルドラは声を振り絞るようにしていた。
「俺が、姉さんの期待を裏切ったからだ。お前に、負けたからだ。だから姉さんは」
「姉上は策をめぐらせていたのでしょうが、心根の優しい方でした。輪廻転生を選んだのは、あのような振る舞いに耐えられなかったのかもしれません。そんなこと、兄上の方が、よっぽどよくご存じのはずなのに」
「俺は……」
さあ、と、イシャンはルドラを促した。
「お怒りをお鎮めください、兄上。僕の命で収まるなら……」
「だめだよ。君のことはぼくが殺させない」
「さっきから何度も、何度も……勝手なことを言うな! これは余と兄上の問題だ!」
「だめだよ。だったらせめて自分ちに帰ってからやってよ、そういうの」
「ふざけるな!」
「だって……」
「なんだ!?」
「そういうの、やっぱりよくないと思うし」
「貴様の気持ちなど関係ない」
「あるよ。友達だろ」
「友達か」
ルドラはイシャンに向き直った。幸がイシャンをかばおうとしたが、それは止めた。さっきまで怒り狂っていたルドラは、酷く穏やかだった。
「そういえば、あの家では友達の作り方までは教えてくれなかったよな」
「兄上……?」
「イシャン。子供だとばかり思っていたが、あの時から変わらなかったのは俺だけだったらしい」
ルドラは自らの意志でその場に跪いた。
次いで、ルドラは人形を見た。この作業場にあって、ウルミで切られず、雷で焼かれなかった唯一のものだ。彼自身が甘い幻だと切って捨てた子供の玩具だ。
「俺の負けだ。今度こそ認める。だから、好きにしろ。煮るも焼くもお前次第だ。我が主」