喪失の響き
「八街くん」
イシャンのあとを追えず、作業場に留まる意味もなくなった幸は通用口から門田製作所を後にするつもりだった。そこで民子の父親で製作所の社長である、門田民雄に声をかけられた。
門田はタオルで汗を拭い、それを首に巻きつけながらこなれた笑みを浮かべた。
「どうも、君にはお世話になっているね」
門田は背丈が大きく肩幅もあったが、幸が威圧感を覚えるようなことはなかった。
「あ、いえ、そんなことは」
「いや、君がいなければうちはもっと大変だったと思うよ。ああ、よかったら……」
門田は休憩所の自販機で飲み物を買い、幸をベンチに座るように促した。
「ジュースの方がよかったかな」
「いえ、そんな……じゃあ、いただきます」
幸は飲み物を受け取ってベンチに座った。それを手の中で弄ぶようにして、プルタブに指をかける。
「私たちのせいなんだろうな」
独り言ちるようにして門田が言った。幸は黙ったまま彼の様子を窺う。ややあって門田が口を開いた。重たい口調だった。
「彼がイラついているのは、作業が進まないからなんだ」
「そうなんですか?」
「ああ」と門田が工場の方を向いて目を細めた。
「私たちが作っているのは作業用のロボットでね」
「ロボット」
「君が想像しているようなものとは、まあ、違うかもしれないが。先代……亡くなった親父の遺志でね、大空洞に潜る狩人の手助けをできればと、そう思って開発に取り組んだ」
幸は飲み物をベンチに置き、門田を見上げた。
「民子から聞いたかもしれないが、会社が危なくなってね。助け舟を出してくれたのがイシャンくんたちだった。ただ、彼は我々に作って欲しいものがあったようでね」
「イシャンくんは何を作って欲しいんですか」
「詳しくは言えないが、少なくとも、メフではうち以外に作れと言っても無理な話だとは思うよ」
「作業が進まないのは、やっぱり、難しい注文なんですね」
門田は頭に手を遣った。
「不甲斐ないよ。……全体像は掴めているんだ。あと一歩というところなんだが、どうにも。起動するのに、いわゆる、エネルギーが不足しているんだ」
ふと、幸は先ほどの落雷を思い出した。
「電力が足りないんだったら、その、雷とか利用できないものなんですか?」
「ああ、いいところに気がつくね。うん。確かにそうなんだ。うちにある設備じゃあどうしても限界がある。実は、社員の一人が、ほら」
門田は敷地内のところどころを指差していく。それは、民子が『UFO』だの『ガラクタ』だのと言っていたものだった。
「避雷針を作ったのはいいんだが、雷を受け止められるだけの装置がないってことに途中で気づいてね。いや、そもそも、恐らくこの世に存在しないと言い換えてもいい。雷ってのは凄まじいパワーを持っているから、大抵の装置は耐えられずに壊れてしまう。それに、装置が作れたとして雷がいつ来るかも分からないからね」
「現実的じゃないんですね」
「今はね。……春先からずっとそうなんだ。起動するのにエネルギーが足りない。かと言って他にあてはない。イシャンくんがイラついているのはそういうことなんだよ。彼も、あんな風に花粉症をむやみに振り回すような子じゃない。そうは思うんだがね」
それに。門田は付け足した。
「彼にも時間がない。いずれ国に帰らなければいけないだろうからね」
「……そう、ですよね」
そうか。幸は口中で呟く。イシャンには帰る場所があるのだ。
「君が来てから」
門田はぽつりと言った。
「イシャンくんは穏やかになったような気がする。いや、その分だけ君が嫌な思いをしているのかもしれないが」
「そんなことないですよ。イシャンくん、案外いい子です」
「ああ、そうだね。だからこそ力になってやりたいんだが」
幸は不思議に思った。民子が言うほど、門田はスポンサーであるイシャンに悪感情を抱いていないように見受けられたからだ。
「それと、その、聞きづらいことなんだが」
「なんですか」
「八街くんは、民子と……娘とはその、どういう……」
「え」
「いや、いやっ、そういうアレじゃないんだけどね。どうにも気になって。民子に聞こうとしてもまともに話してくれないだろうし。でもねー、『八街くんが』『八街くんがねー』って、最近は話してくれたりもするからね。うん。まあ、親としては気になるから、他意はないんだがね」
何か勘違いされていることが分かり、幸は苦笑した。その様子を見て門田も少し落ち着きを取り戻していた。
「ぼくがここに来たのは葛ちゃ……衣奈さんの紹介なんです。実はぼく、狩人になりたくて、色々やってて。そいで」
「ああ……」
門田は目を見開いて、それから、幸の目をじっと見た。
「ああ、そうか。そうだったか。じゃあ、我々ももっと頑張らないといけないな」
幸はプルタブを開けた。中身は温くなっていたがやけに美味かった。
門田製作所のとある一室で、イシャンは跪いていた。
暗く、埃っぽい室内には物が少なく、作業台が置かれているくらいだった。台の上には何かがあった。いや、何かがいた。一見するとそれは、若い女が眠っているように見えるが、正体は血の通った人間ではなく、作り物の人形だった。
血も肉もなく、魂も宿らないであろう抜け殻の前で、イシャンは目を瞑って跪いている。そうして彼は胸元のロケットペンダントを握り締めながら囁くようにして声を絞り出した。姉さん、と。その声を聞き届けるものはこの部屋にはいない。
「今日は来てねえのな」
翔一が笑っていた。昇降口で靴を履き替えている幸は、不思議そうにして彼を見返した。
「リムジン? みてーなバカ高そうな車だよ」
「ああ、うん。そうみたい」
「知らねーの? 結構話題になってんだぜ。あの車に乗ってんの誰だーとか、誰を送り迎えしてるんだーとかさ。で、誰なんだよ?」
幸は簡単に事情を説明した。翔一はマジかよと声を荒らげた。
「石油王かよ! ヤチマタお前また変なのとツルんでんなー」
「石油王じゃなくって王子さまなんだけどね」
「やっぱすげー金持ちなん? つーかどこで知り合ったんだよ?」
「葛ちゃんの紹介……みたいな感じで」
「アー……そういうこと。お前も大変だよな」
翔一は幸の肩に手を置き、首を緩々と振った。諦めろとでも言わんばかりだった。
「よう。そいつ、悪いやつじゃねえんだよな」
「うん。イシャンくんはいい子だよ。きっとね」
「そか。だったらいいんだけどよ」
翔一は頭をかき、手を振りながら立ち去っていく。心配してくれているのだろうかと、幸は温かな気持ちでいっぱいになるのを感じた。
イシャンが迎えに来なくとも、幸は門田製作所へ向かうことにした。彼がなぜ自分の執事たちに力を使ったのか。誰に頼まれなくとも何があったのか知りたかった。
門田製作所の敷地内には一人の男が立っていた。執事服を着た、浅黒い肌の男が。幸は彼のことを知っていた。男はイシャンの執事で、他の執事を取り仕切っているまとめ役のようなものだった。
幸はその男が少し苦手だった。じっと、こちらを見定めるような目が苦手だった。だから幸は男を見ないようにして工場の中へ入ろうとしていた。
「君」
呼び止められて寸暇迷ったが幸は振り向いた。男はやはり、幸をじっと見つめていた。
「……今日はイシャン君の傍にいなくていいんですか」
「もうアレと関わらない方がいい」
執事服の男はそう言い切った。
幸は訝しげに男を見返す。彼がアレと称したのは仕えているイシャンのことに違いないだろうが、その口調にはどこか棘があった。それがイシャンに対するものなのか、自分に向けられているものなのかを頭の中で精査し、幸は後者だと受け取った。
「イシャンくんがお金持ちで、ぼくとは身分が違うから、だから、ぼくとイシャンくんを引き離したいんですか」
幸はルドラがそう考えているのだと思ったが、男は目を丸くさせていた。そうして男は、額に手を当てて笑った。
「はっは、身分か」
「違うんですか」
「俺はイシャンの兄だ」
「お兄さん……?」
「なんだ。アレから聞いていると思ったが……」
イシャンの兄だと言った男は愉しそうだった。
「俺はルドラだ。『ルドラ・チャウドゥリー』ではなく、ただのルドラだ」
幸には何のことだか分からず、ルドラという男が話すのを待った。
「チャウドゥリー家は成り上がりだ。たまたま、自分の家の庭から石油が出た。それだけだ。だからか、チャウドゥリーの資産を狙うものたちは後を絶たない。舐めてかかっているのさ。誰もかれもが。それが我慢ならなくて、あの家にはあるしきたりができた。『強くあれ』だ。頭が悪くても舐められる。力が弱くとも舐められる。真に優れたものだけが家督を継げるのさ」
ルドラは自嘲気味だった。幸はその態度が何となく気に入らなくて、少しだけ噛みつこうとした。
「その話と、イシャンくんのお兄さんのあなたがどうして執事をやっているのか、分からないんですけど」
「俺はイシャンに負けた。八つの頃のあいつにだ」
「負けた?」
「チャウドゥリーには子が多くいる。多く産ませる。競い合わせるためにだ。兄弟家族でたった一つの椅子をかけて戦わされる。そうして勝ち残ったものが家を継ぎ、そうでないものは……」
そこで幸も察しがついた。自分には縁遠い話ですぐには受け止められなかったが、イシャンの家では家督の継承権についてしきたりがあるらしい。そうして、その争いの敗者は勝者に仕えるのだ。負けたものの気分はどのようなものだろうか。屈辱に満ち満ちていて、自分が手に入れたかったものを悠々と手にするものに仕えて、どのような気分なのだろうか。幸はルドラを怖ろしいと感じた。
「負けは、負けだ。認められなかったものはチャウドゥリーの家から去るしかない。俺は認めた。腐らずにな。たとえ相手が年下で、自分にはないものを持っていたせいで負けたのだとしても」
「……花粉症のことですか」
「そうだ。イシャンはあの力で他の候補者を全て跪かせた。持たざる者の心が分からない、アレは。だから、君は関わらない方がいい。そう言ったんだ」
心なしか、先まで険しかったルドラの表情が和らいでいた。
「それでもぼくは、イシャンくんの友達ですから」
言って、幸はルドラを背にした。
「後悔するぞ。近いうちにな」
背に投げられた声を聞いてもなお、幸の気持ちが揺らぐことはなかった。
陽が落ちかけたころ、幸は自分の携帯電話が震えていることに気づいた。珍しいことに電話の相手はむつみであった。
「もしもし。あの、どうしたんですか」
「どうしたと思う?」
幸の脳裏にむつみの意地悪い顔が浮かんできた。
「用がないんなら切っちゃいますからね」
「ああ、そう。でもいいのかな。いい話があるんだけど」
まさか。幸の胸が期待感でいっぱいになった。
「よく利用してるごはん屋さんがあるんだけどね」
「ん?」
「定休日じゃないのに閉まってたの。おかしいなと思ってたら張り紙がしてあってね。『子供が生まれそうなので本日はお休みとさせていただきます』ってさ。で、その紙に誰かが『無事をお祈りしています』って書いててね」
「それ本当にいい話のやつじゃないですか」
「私はそのやり取りを見て少し感動したよ。でも古海は『ふざけんな前もって言っとけよ』って怒ってたけどね」
「言ってねーし! 怒ってねーし!」
通話口から古海の声が漏れ聞こえてきた。
「……それで、話ってなんですか?」
「今から市役所においで。君の猟団のこと、何とかなりそうだから」
確かにいい話だった。幸は急いで市役所に向かった。
環境整備課扶桑熱係というのぼりが立ったプレハブ小屋の近くにむつみが佇んでいた。その横にはぶぜんとした様子の古海もいる。
「早かったね」と、むつみはあくび混じりで言った。そうして彼女は古海を肘で突く。
「こんにちは、古海さん」
「ん。こんにちは……あのね、幸くん」
古海は一度溜め息をつくと、困ったような笑顔を浮かべた。
「テストをします」
「はい」
「幸くんの次のお休みの日に、私たちと旧市街に行ってもらいます。そこでの立ち振る舞いで、君がいっぱしの狩人として相応しいかどうか確かめます。分かった?」
「はい! お願いします!」
幸はにこにことしていた。
「言っとくけど、遊びじゃないし、何かあってもすぐには助けないからそのつもりで。それに狩人として認めると言ってもあくまで仮だから。仮免許あげるくらいのことだから気を緩めないように」
「でも、そのテストに受かったら猟団をもらえるんですよね?」
「そういうことだけど……本当に分かってる? あのね、舐めてたら怪我だけじゃすまないんだし。めっちゃ笑ってるけどさー、君さー」
「分かってます! 古海さん、いろいろとありがとうございます。あの、こないだは嫌いだーとか言っちゃってごめんなさい。本当は古海さんのこと好きです」
「取ってつけたような言い方ー! けど私も幸くん好きだよー!? むつみのとこじゃなくて私んちに住まない? いってらっしゃいとおかえりなさいって言ってくれるだけでいいからさー!」
「うるさいなあ、いいから書類準備してきてよ」
「チッッッッ」
バカでかい舌打ちをかました古海はプレハブ小屋の中にずかずかと入っていく。その後ろ姿を見届けた幸はむつみを見上げた。
「叔母さん、ありがとうございます」
「何が」
「叔母さんが古海さんに何か言ってくれたのかなって……」
「別に。何もないよ。それよりあんまりへらへらしてちゃだめだよ。テストも形式上みたいなもんだけどさ、大空洞じゃあ何があるか分からないのは本当だからね」
「はい。ありがとうございます」
「うん。こちらこそね」
「……?」
どうしてむつみが自分に礼を言うのか、その時の幸にはよく分かっていなかった。
大空洞に潜ることになった。幸はそのための準備を進めた。鷹羽に鉈を研いでもらうように頼み、装備や靴を新調し、それを履いて慣らした。《十帖機関》や釣り堀屋の狩人たちから心構えを説いてもらった。心強かったのはむつみの存在である。幸のテストには彼女も付き添うと聞き、彼は何の心配もいらないと決めつけられるほど落ち着いていた。
門田民子からの連絡があったのは、テスト当日の朝だった。