表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
驢鳴犬吠めふFeverズ  作者: 竹内すくね
富貴浮雲चक्कर काटता रहा
85/121

チャンドゥルドゥルー<3>



「余の家には象が三頭いた」

「あ、それはすごい」

「そうであろう!」

 車内にイシャンの高い声がよく通った。彼は得意げな顔になって幸を見る。

「しかもただの象ではない。白象である」

「白い象なの?」

「うむ。白象は神聖なものでな。余の国においても然り。それを三頭も集めたのだから余のすばらしさがとくと身に染みたであろう」

「象を集めたのはイシャンくんなの?」

「いや、違うが…………だが」

「じゃあちょっと違うかな」

「何が違うと言うのだ! 余の家のものだ、余のものも同然であろう!」

 イシャンの車で登下校するようになって何日か経っていた。幸は特に何も考えていなかったが、イシャンが彼に付きまとうようになってから、門田製作所はトラブルの種がなくなって平穏無事に過ごせていた。そのことを門田民子から喜々とした様子で伝えられて、幸はイシャンを無下に扱うこともできなくなっていた。そも、そうするつもりもなかった。

 案外、イシャンは悪い人間ではなかった。少なくとも幸はそう思うようになっていた。

「何か他にないの?」

「他に他にと小うるさい。……そういえば、昨日、小テストで満点を取った」

「すごい!」

「ちょっと待て。何か違う。余をあしらっておるな、貴様」

「そんなことないよ」

 幸は備えつけの冷蔵庫を開けて、『愚民』という紙が貼られたペットボトルに手を伸ばした。

「でも意外かも。イシャンくん、ちゃんと授業に出てるんだね」

「そういう約束だからな」

「約束? 誰との?」

「父上だ。余が国を出られたのは、いついかなる時でも自らを磨き、高めることを誓うと約束したからだ」

 少し妙な言い回しだったが、幸は追及しなかった。

「門田さんのスポンサーになったのはどうして?」

「貴様には関係ないだろう」

 イシャンはどんなに機嫌がよくても門田製作所のことに触れると気分を害してしまう。語りたくないことがあるらしかった。

「お父さんを尊敬してるんだね」

「……当然だ。だが、余は父上よりも姉上が好きだ」

 そう言って、イシャンは掌にロケットペンダントを乗せた。チャームが開くと、そこには写真が入っているのが分かる。

「イシャンくん。自分の写真を入れてるの? どんだけ自分のことが好きなのさ」

「違う! 余に似ているが、この方は余の姉上だ」

「へえ」と幸は写真をもう一度よく見た。イシャンとうり二つの、侍女服に身を包んだ少女が微笑んでいる。

「美人さんだね」

「見とれるなよ」

 イシャンはチャームを閉じ、ペンダントを元の位置に戻した。

「喜べ愚民。姉上を見せたのは家族以外で貴様が初めてだ」

「ありがとね。お姉さんもすごい人なの?」

「うむ。余の姉上なのだ。当然であろう。……姉上は何でもできた。こと思いつくことは全て、余では到底追いつけぬほどにな。特に素晴らしかったのは舞踊だ。姉上の舞は見るものを虜にする。ウルミの腕前も筆舌に尽くしがたい」

「ウルミ?」

 幸は市役所で働くちょっと意地悪な彼女を思い出す。

「剣のことだ。貴様が想像しているものとは少し違うだろうがな」

「剣? イシャンくんもそういうのやるの?」

「無論だ。チャウドゥリーの血に連なるものは文武を極めねばならん。だが、やはり姉上には勝てんだろうな」

 姉のことを話すイシャンの顔つきはいつになく穏やかだった。宝物を撫でるように柔らかだった。

「姉上は強かったが、それだけでなく余にも優しく接してくれた」

「じゃあ、今は寂しい?」

「うん」と頷いてからイシャンは違うと首を振った。

「余が女々しいと、貴様はそう言ったか」

 言ってない。幸は首を振った。

「ふん。本当だ。寂しくなどない。もう慣れた。姉上は、余が九つになる前に亡くなったのだ。もう五年も前のことだ」

「寂しいね」

「寂しくなどあるものか」

 イシャンはそっぽを向いた。その横顔は言葉とは裏腹に物憂げだった。

「貴様は……」

「ん?」

「貴様には兄弟はいるか」

「いるよ。妹が一人」

「そうか。息災でいるか?」

「たぶんね」

 イシャンは眉根を寄せる。

「妹は、っていうより、家族はメフにいないんだ。花粉症になったのはぼくだけだったから。今年の春にね、ぼくだけでメフに来た」

「そうか。余と同じだな」

「寂しくはないけどね。叔母さんがいるから」

「うむ。そうか」

 車が停まった。蘇幌学園のすぐ近くだ。幸はリュックサックを手にしつつ、あることを口にした。

「日曜日はどうするの?」

「何のことだ?」

「だから、日曜日は学校がないじゃんか。ぼくんちまで迎えに来るの?」

「当然であろう」

「当然なの?」

「何度も言わせるな。貴様が謝らないのが悪い」

「えー? 日曜日だよ? 他にやることないの? 友達と遊びなよ」

 イシャンの頬が朱に染まっていく。

「貴様が平伏せばいいのだ!」

「じゃあそうするよ。ぼく、休みの日は他にやりたいことあるし」

 幸は車を降りて外で跪こうとする。それをイシャンが止めた。

「余への謝罪を『なあなあ』で済ませるな! 駄目だ止めろ! 頭が低いぞ!」

「謝ったらいいんじゃなかったっけ?」

「本心からだ! 貴様が余の偉大さを理解し、余に働いた不遜を知り羞恥し、改心せねば意味がない!」

「しようがないなあ。じゃあ日曜日もね。何時くらいに来るの?」

「いつもと同じ時間だ」

「お休みなのに? 朝から?」

「そうだ。喜べ愚民。朝から晩まで余の偉大さを叩きこんでやる」

 なんてことだ。幸は膝から崩れ落ちそうになった。



 怠惰。

 それはひとたび受け入れてしまえばとてつもなく気持ちがいいものである。朝、布団をはねのけて、起きる。嫌だ。温もりを手放すのは愚かな行為だ。幸はカエルの鳴き声を無視しつつ目を瞑り続けた。

「ご主人。今日は約束があるんじゃなかったのかい。しかし君も酷なことをする。カエルはいつだって日曜日みたいなものさ。そんな私に目覚まし役を押しつけるだなんて。ほら、ご主人。いい天気だよ、今日は」

「ううーん、カエルが喋ってる……」

「それは夢じゃないよ、ご主人。紛れもない現実さ」

 ハッとして目を覚まし、体を起こす。幸はベッドから飛び起きた。時刻は午前九時を回った頃だ。いつもなら学校に着き、授業が始まっているであろう時間である。

「遅刻かな?」

「どうですかね」

 幸はイシャンが待っている可能性について考えてみた。今朝迎えに来るというのは金持ちでわがままな少年の気紛れかもしれない。それに彼は待たされることをよしとするような性質ではないはずだ。自分が降りてこないならさっさと帰っているだろう。そうは思うのだが、幸は急いで身支度を済ませて、眠っているであろうむつみには声をかけず、部屋の外へ出た。マンションの廊下から道路を見下ろすと、そこにはやたら長いボディの車はなく、幸は少しだけホッとした。

「なんだ」

 独り言ちて、それでも念のために外に出てみると、アーチ形の車止めに腰を落ち着かせているイシャンの姿が見えた。今日の彼は制服ではなく、ポロシャツを着てジーンズを履いていた。足元はサンダルだ。ラフな格好だがのりが効いているのか衣服に張りがある。しかしイシャンの表情には陰りがある。先から足をぶらぶらとさせてしきりに時間を気にしていた。

「……おはよう?」

 幸が声をかけると、イシャンの表情はパッと明るいものになる。が、それも一瞬のこと、彼は幸を指差して声を荒らげる。

「遅いっ! 余を待たせるとは何事か!」

「えへへへへ、ごめんごめん、寝坊しちゃった。でも本当に待ってたんだね。ね、今日車じゃないの? あの執事の人たちは?」

「軽く謝るな! それにいっぱい質問するな!」

 イシャンは腕を組み、憤慨していた。

「車ではない。余が一人で来た。歩いてな」

「そうなの?」

「とはいえ、あいつらは余を監視しているだろうがな」

「監視って……」

「ふん、そんなことはどうでもいい。それよりも今日はどうするつもりなのだ」

 幸は眉根を寄せた。

「どうするって、イシャンくんが誘ったんじゃないか。ぼくは何も考えてないよ」

「く、そう言うと思ったぞ。今日はな、趣向を変えるつもりだ。余は貴様に余のすごさを教えているが、貴様は一向にそれを理解せん。そこでだ。貴様がすごくないということを知ろうと思う」

「ぼくが?」

 イシャンは自信たっぷりに頷いた。

「ぼくがすごくないって、どうすれば分かるの?」

「いつも通りでいい。貴様が休日をどのように過ごしているか余に教えるのだ」

「ああ、遊びってことか」

「遊びではない! 余にそのような暇はない。だが、下々の生活を知るのは上に立つ者として大事だ。よいか。これは学びである」

 どのように捉えるかは各人の自由だ。ともあれ幸は気が楽になった。

「友達と遊ぶ時はー、うーん。カラオケに行ったり、ゲーセンに行ったりかなあ。イシャンくんは行ったことある?」

「ない」

「イシャンくんは友達とどういう風に遊ぶの?」

「貴様には関係がないだろう」

 幸はイシャンの顔を盗み見た。

「じゃあ、元の国でどんな風にしてたの?」

「それこそ遊ぶ暇などなかった。舞踏に、剣に、勉強に、社交の場に出されることもある。余が十人いても足りないほどに忙しかった」

「うーん? あ。そうだ。ぼくの友達も呼ぶ? 賑やかな方がいいんじゃないかな」

「そっ」

「ん?」

 イシャンは右手を突き出すようにして首を振った。

「それは、いい。呼ばなくていい。呼ぶな」

「どうして?」

「それは……余は、賑やかなのは好かぬ」

 幸は少し困っていた。彼は自分から率先して場を盛り上げるタイプではない。どっちかと言えばクラスの誰かが何かを企画し、それに乗っかって一緒に笑っているだけだ。そのように自覚している。彼は無意識のうちに腹を摩った。

「何か食べに行こうか。イシャンくん、朝ごはんは?」

「まだだ」

 それならばと、幸はセンプラの方へ行くことを決めた。



 センプラに着いたはいいが少し時間が早く、空いている店はほとんどなかった。結局離れたところにあるファーストフード店に入ろうとしたが、イシャンが難色を示した。

「余にこんな安っぽい……いや、安いものを食せと言うのか」

「ぼくは食べるけどね」と幸が半ばイシャンを無視して店に入る。イシャンは慌ててその後を付いてきた。

「よいか愚民。余はこのような、このようなものなど」

「いらっしゃいませー」

「えーと、単品のてりやきと……あ、朝はないんですか。じゃあマフィンで」

「余の話を聞くがいい!」

 幸はイシャンの分の注文も済ませており、適当な席を確保するや彼をそこに座らせた。

「大人しくしててね」

「子ども扱いするな」

 イシャンはぐだぐだと文句を言い始めた。幸はそうしている間、注文していたものに次々と手をつけていく。お腹が空いていることもあってイシャンの話はほとんど耳に入ってこなかった。

「食べないの?」

「……少しだけだぞ」

 イシャンは適当なものを口に運んだが、すぐに渋面を作った。

「貴様らはこんなものを出されて文句を言わないのか」

「まずい?」

「いや……分からん。肉は薄く味がない。パンも……パンなのか、これは? 正直、自分が今、食べていいものを口にしているかどうかすら分からんのだ。飲み物も酷く薄い。これに金を払うというのか」

「安いからね」

「どれくらいだ?」

「これくらい?」

 おお、と、値段を知ったイシャンが呻くようにして声を発した。

「悲しさで満腹になりそうだ」

「後で君が食べた分はお金出してね」

「無論だ。いや、いい。余が全て払う」

「ちょっと、何哀れんでるのさ。いいよそういうのは。というかイシャンくん、ちゃんとお金を払うって概念があったんだね」

 イシャンは少々ムッとしながらも財布を取り出して見せた。ぱんぱんに膨らんでいた。

「うっ、ぼくの財布とまるで圧が違う……」

「一つで足りるだろうか」

「何が?」

「今日は愚民のすごくなさを体感すると決めていた。だから大して金は使わんだろうと思っていたのだが、余はまだこの街に来て間もない。少し多めには持ってきたのだが」

「一つって、もしかして財布のこと? いや、一つでいいよ。充分過ぎるよ」

「そうか! うん、ならばよい」



 幸はイシャンを思いつく限りの場所へ連れて行った。彼はそのたびに文句を言った。

「なるほどな。余を侮っているわけだ。貴様ら下民のやることを余にもさせようというわけだな!」

「今日はそうするつもりだって言ってたじゃないか」

「いいか! 余はな!」

 しかしイシャンは何だかんだで全てを受け入れており、メフを粗方歩き回る頃には陽が落ちかけていた。幸はイシャンを公園のベンチに残し、自動販売機で飲み物を買った。ここいらでお開きにしようと思ったのである。

「……イシャンくん?」

 缶ジュースを手にした幸がベンチに戻ってきたが、イシャンの姿はなかった。彼がひとりでどこかへ行ったのかと考えるが、すぐに思い直す。イシャンはわがままも文句も言うが、基本的には人の言うことに逆らわない。待っていろと言えばぐだぐだ言いつつきっちり待つ。

 幸は近くにいた人たちからイシャンを見ていないかと聞き回った。すると一人の老婆が、男の子がお友達と一緒にどこかへ歩いていくのを見かけたと言う。幸は駆けた。慌てていたものだから缶ジュースを持ったままで。

 人気のない場所や物陰をよく探した。走って走って走り回った末、幸は、公園の公衆トイレの傍で物音を聞いた。裏側に回ると誰かが倒れているのが見えた。若い男だ。顔は見えないが呻いている。彼のスニーカーの側面が汚れているのを認めて、幸は顔を上げた。

「貴様か」

 イシャンが立っている。そのすぐ傍では、倒れている男の仲間であろう、別の男が蹲っていた。幸はこの状況を把握しつつある。イシャンは二人組の不良に絡まれたのだ。

 自分たちは今日一日でメフを歩き回った。色々な場所へ行き、イシャンはその都度パンパンに膨らんだ財布を取り出していた。もしかするとずっと目をつけられていたのかもしれない。

 幸の目を見たイシャンは取り繕うようにして口を開いた。

「余は花粉症を使っておらぬ」

 幸はその言葉を信じるのに数瞬の時間を要した。その場に缶ジュースを置き、息を吐く。

「本当だ。余は……」

「大丈夫。怪我は?」

「ない。それにこいつらが絡んできたのだ。余からは何もしていない」

「分かってる。行こう」

 幸はイシャンを引っ張るようにしてこの場から離れるべく早足で歩き始めた。

「『財布を出せ』と言ってきたのだ」

「うん。ぼくを呼んでくれてよかったのに」

「荒事には向いていないだろう、貴様は。余が一人で片づければいいと思ったのだ。貴様を呼ばずともご覧のとおりになったろう」

「そうだけど……」

「造作もないことだ」

 公園から出て、川沿いの道を少し進んだところで幸は立ち止まった。追いかけてくるものもいない。彼は安堵の息を漏らした。

「イシャンくん。本当に大丈夫?」

「くどいぞ」

 イシャンは幸の手を振りほどき、鼻を鳴らした。

「何かあったら次はぼくを呼んでね」

「呼んでどうなる。助けるとでも言うのか?」

 そこで幸はううんと唸った。イシャンはチンピラ二人を相手にしても問題なさそうだった。相手はただの人間だ。自分がいたところで何かできただろうか、と。

「君の盾にはなれるかも」

「いらぬ。その心がけは殊勝ではあるが」

「でも」と幸が言いかけるが、イシャンは彼の言葉を遮った。

「もうよい。余は帰る」

「一人で平気? 帰れる?」

「子ども扱いするな!」

 イシャンは憤慨した様子で幸の前から歩き去っていく。

 幸は彼の後ろ姿を見送ってから帰途に就く。気にかかっていることがあって足取りは重かった。イシャンの執事たちのことだ。常なら傍に控えていて、彼自身も『監視している』と言っていた。しかし実際はどうだ。イシャンがろくでなしに絡まれた時にも執事たちは姿を見せなかった。それが気がかりだった。



 あくる日、幸の登下校の際に待ち構えているはずのイシャンが姿を見せなかった。幸は開放感よりも寂寥感を覚えた。昨日は最後の最後でけちがついた。イシャンはそれを気にしているのかもしれない。

 一人きりで帰っているうち、幸は携帯電話が震えているのに気づいた。電話だ。相手は門田民子だった。

「はい、八街だけど、どうしたの?」

「あっ、いきなしゴメンね。ちょっと助けて欲しいんだけど」

「いいよ。何かあったの?」

「今から工場に来れる? 実はさ、あのスポンサーが暴れてて」

 分かった。幸はそれだけ言って通話を止め、走り出した。民子はまだ何か喋っていたが、彼には彼女の声を聞くだけの余裕はなかった。

 イシャンが暴れている。それはとりもなおさず自分との約束を反故にしたということだ。幸には不可解でならなかった。工場に辿り着くと通用口の傍にいた民子が幸を見つけて手を振った。

「呼びつけてごめんね」

「イシャンくんは?」

「え? っと、中、作業場んとこに」

「うん」と幸は通用口を抜けて駆け出す。ものが乱雑に置かれた工場の中を彼は突っ切り、段ボールの箱を飛び越えるようにして速度を上げる。スイングドアの先、作業場にはイシャンがいた。その周囲には、跪くようにしているものたちがいた。門田たちはその様子を遠巻きにして見ていた。

 幸は声を上げられなかった。イシャンは約束を破った。花粉症を使っていた。だがその対象は門田たちではない。執事たちに対して異能を行使していたのである。

「イシャンくん?」

 声をかけられたイシャンは弾かれるようにして振り向く。幸が自分を見ているのに気づくと、観念したかのように目を瞑った。

「何があったの?」

「……話しかけるな。近づくな。余の前から失せろ」

「だめだよ。花粉症を使うのを止めて。でないと」

「来るな……!」

 イシャンに歩み寄ろうとした幸だが、思わず立ち止まった。イシャンは何かに怯えている。恐慌に陥る一歩手前のような様子であったからだ。かくなるうえは《花盗人》でイシャンの異能を奪うしかないと諦めかけたその時だった。

 轟音が工場内に伝わり、誰もが耳を塞いだ。雷が落ちたのだと皆が気づいた時、イシャンは既に異能を使うのを止めていた。幸は咄嗟に窓の外に目を向ける。空は晴れていて、先の雷は正しく青天の霹靂であることが分かった。

「随分と近くに落ちましたね」

「計器類やられてないよな?」

「や、建物に直撃していないと思うんで……大丈夫じゃないすかね」

 工場の人間が慌ただしく動き始めると、イシャンはそれに紛れるようにして作業場を出て行った。幸は追いかけようとするのだが、彼の顔色が蒼くなっているのを認めて、結局、声すらかけられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ