チャンドゥルドゥルー<2>
「そこまでですわ」
「余の邪魔をするな!」
律儀に反応したイシャンは声のした方に向き直る。そこには人馬の少女、リリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラが凛として立っていた。登校中だったであろう彼女は髪の毛をかき上げると、この場にいるものを睥睨した。
「朝から騒ぎ立てるなどみっともない。そうではなくって、委員長?」
「おはよう、リリちゃん」
「ちょっと……! 今そういう呼び方をされると緊迫感が薄れてしまいますわ」
リリアンヌは腰を抜かしている中学生らを踏まないようにしながら幸の傍に来た。
「どなたかは存じ上げませんが、学校に遅れてしまいますので」
幸はリリアンヌに促されてイシャンたちに背を向けるが、やはり、イシャンが彼らを引き留めた。
「八街幸! お前のことはだいたい調べがついている! 余から逃げられると思うなよ」
「じゃあ、放課後ならいいよ」
「何?」
「君も学校があるんじゃないの? 終わったらまた会うよ。それでいい?」
イシャンは腕を組み、くくくと忍び笑いを浮かべる。
「いいだろう。放課後までの間、自らの行いを悔いるがいい」
「うん、分かった」
「絶対だな、約束だぞ! 迎えに行くから門のところで待っているがいい!」
放課後、幸は学校の昇降口でリリアンヌと話していた。
「本当に待つつもりですの?」
下校する生徒たちの数はまばらで、殊更に彼女の声が大きく聞こえていた。
「約束しちゃったし」
「はあ」とリリアンヌは吐息を漏らした。
「そういえば、ぼく、猟団を作るって言うか、もらうんだ」
リリアンヌはじっとりとした目つきを幸に向けた後、何か納得したように小さく頷いた。
「猟団をもらうとは、また。どなたがそのようなことを」
「ぼくの叔母さんが。叔母さんも狩人なんだ」
咳払いの音がよく響いた。
「団……と言いますと、お一人のものではないと存じますが、委員長はどなたかと、その」
「え? ううん。今はぼくひとりだけだよ」
「はあ、委員長お一人で。それは、少し……」
「だめかな?」
「やはり頼りになるものがいた方が、何かとうまくいくのではないかと」
幸はその通りだとリリアンヌに同意する。
「そうだね。でも、どんな人だったらいいんだろう」
「委員長の危機にはせ参じ、狩人としての技量も高く、人格的に何一つとして問題のない方がよろしいかと」
「えー? そんな人いるかなあ?」
リリアンヌは舌打ちした。
「もしかしてすっとぼけていらっしゃいます?」
「何が? あっ」
正門の前にやたらボディの長い車が停まるのが見えて、幸は声を上げる。
「お迎えが来たみたい。行ってくるね」
「ちょっと……大丈夫ですの? 委員長一人で何かあっては」
幸は逡巡するそぶりを見せなかった。
「大丈夫だと思う。じゃ、また明日ね」
車からは既にイシャンが降りており、周囲に執事を侍らせていた。その光景を下校する学園の生徒が物珍しそうに眺めていた。
イシャンは腕を組み、駆けてくる幸をねめつけた。
「余を待たせるとは、貴様、どうやら物事の重大さをはかりかねているらしいな」
「ごめんね。それで、どうしたいの?」
「乗れ。話はそれからだ」
幸は車を見やり、柔和な笑みを浮かべた。
「いいよ。その代わり、一つ約束して欲しいんだ。花粉症は使わないでね」
「たわけめ。約束だと? よいか。余と貴様では身分が違う。立場が違う。約束などと陽だまりのようなことを言うな」
「それから喧嘩とかもなしだよ」
「一つと言ったではないか! それでは二つだ!」
「喧嘩するつもりなら乗らないよ」
イシャンの頭には血が上っていたが、彼はふとあることに思い至り、口元を歪める。
「よかろう。元より『喧嘩』とは野蛮で、粗野だ。そも、喧嘩など起こるはずもない。それは対等な者同士でなければ起こりえないのだろうからな」
嗜虐的な考えに身をゆだねたイシャンは幸との約束を守ると口にした。
動き出した車は酷く静かだった。幸は車内の座席で居心地悪そうにしていて、何度も座り直していた。一方、対峙するイシャンは悠然としている。
「ふふん、どうだ。広いであろう? 歓喜せよ平民。ここでなら余に平伏しても余人の目には晒されん。余の寛大さに咽び泣くといい。さあ、早くせんか」
「え? 何が?」
幸は車内の設備やふかふかの座席に気を取られて話を聞いていなかった。
「跪いて謝れと言っているのだ!」
「なんで? 嫌だよ」
「貴様……余が生まれた国ではな、民草は余に頭を垂れるのがならわしなんだぞ」
「そうなの? でもここはイシャンくんの国じゃないし」
「なれなれしく呼ぶな!」
幸は勝手に冷蔵庫を開けようとしたが、イシャンがそれを止めさせた。
「余の前で勝手なことをするでない」
「ぼくが君の国に住んでて、頭を下げろって法律があったらそうするよ。そんなルールがなくっても、たぶん、君の国の人たちは、君たち家族を敬ってるんだろ。だったらぼくもそうしてると思う。でもここは君の国じゃないし、ぼくは君の国に住んでないし、知らない。ぼくは目の前の君しか知らないから」
「だからなんだ。よもや、余が頭を下げるに値しない輩だとでもいうのか」
「そこまでは言わないけど」
「では余が尊敬に値する人間だと、貴様の脳みそが理解すればいいということだな」
「そういうことじゃないんだけど」
「いいか! 余はな!」
イシャンは身振り手振りを交えて自分のことを話し出した。楽しそうだった。
ふと、幸はイシャンの話に口を挟む。
「君がすごいのは分かったよ」
「そうであろう」
「でも、どうしてメフに来たの? そんなすごいのに、わざわざここに来ることないんじゃないの」
イシャンはぴたりと動きを止めた。話を邪魔されたことに対しては何も触れず、目を丸くして幸を見返していた。
「貴様は何も知らんのだな。無知は恥だ。いや、愚民が知恵をつけることもないか」
「何の話?」
「まあ、よかろう。一つ世の中の仕組みについて教えてやる。余は何も門田のスポンサーというわけではない。この街のスポンサーでもある」
幸は眉根を寄せた。
「ここに莫大な金を落としていることに間違いはなく、余の街とメフは友好都市の契りを結んでいる。もっとも、余はここが好きではないし、大して好かれようとも思っていないがな」
「友好……それで君が来たの? ホームステイみたいな感じで」
「愚民風に言えばそうだ。ふ。貴様は言っていたな。市役所の狩人がどうだのと。しかし余にはそのようなもの関係がない。市役所は余に逆らえん。よいか。余はな、いつでも、堂々と正面からこの街を出ていけるのだ。それだけの力がある。この街においてもな」
「だから敬えって言うんだ?」
イシャンは大きく頷いた。
「貴様、話を聞いていると市役所を敬っているような口ぶりだ。城を見上げ、王に憧れるような、子供のような目をしておる。であれば貴様にとって市役所は絶対なのだろう。その市役所が余には逆らえん。つまり、貴様もまた余には逆らえんのだ」
「それは違うと思うけどなあ」
「ぐだぐだと」イシャンはつまらなそうに窓の外へ視線をやった。
「くだらんのだ。お前らは」
車の外。流れていく景色が少し見覚えのないものに変わっていく。幸はどこへ連れていかれるのだろうと、ぼんやりと思う。
「くだらん街に、くだらん愚民ども。どうして余に従わぬ。貴様も尻尾を振る相手を間違えるな」
「何がくだらないんだよ」
「余の国には石油がある。この街には何がある?」
名物とか、名産のことだろうか。幸は少し考えたが、彼もメフに来て日が浅い。ろくなものが思いつかなかった。
「ここは大崩落の後、陸の孤島と化した。外界から隔絶されたようなものだ。それから一世紀経ったが何もない。あったものは全て穴の底だ。人も物も自由には行き来できん。貴様。どうしてこんな街が存在を許されているのかが分かるか」
幸は分からないと言った。そうであろう。イシャンは満足げに頷いた。
「あるのはほら、あの桜の木だけだ。扶桑とか言ったか? アレなくしてこの街は存在できん」
「それってもしかして、補助金のこと?」
「そうだ」
メフは扶桑熱患者を受け入れることで補助を受けている。それは幸も知っている話だった。
「つまりだ。花粉症がなくなれば金は入ってこなくなる。あの桜を切り倒して見よ。この街にはもう何もない。なくなるのだ。全部何もかもな。貴様らはな、世界中を苦しめている病を餌にして生き長らえているわけだ。くだらん。そう断じて何が悪い」
「好きでそんな風にやってるんじゃない」
「下郎。好き嫌いの話ではないというに」
そうしてイシャンは幸をねめつける。
「そうだったとしても、ぼくが君に謝る理由なんかないよ」
「強情なやつめ」
話し疲れたのか、イシャンは目を瞑って黙り込んだ。幸も彼に倣おうとしたが、いつの間にか車が家の近くを走っているのに気づいた。
「ねえ。イシャンくんはすごいと思うよ。本当に」
「なんだ。急に」
「ぼくが中学生の時はもっとこう、何も考えてなかったよ。今もそうなんだけどさ……こんな遠くまで来て、それだけでもすごいと思う」
イシャンは鼻を鳴らした。
「ねえ。そんなにすごいのに、君はどうしていつも怒ってるの?」
「……何?」
「あ、この辺でいいです。停めてもらっていいですか」
幸が運転席に呼びかけると、ややあって車が停まった。
「おい。貴様」
「送ってくれてありがとうね」
降り際、幸はそう言った。
「案外図々しいやつだな。って、あ! 貴様! 謝罪はどうした! 謝罪は!」
「また今度ね」
「くそう、ああ、もういい! 今日のところは見逃してやる!」
幸は小さく手を振った。背中越しに妙な視線を感じて振り向くと、運転手の執事がこちらをじっと見つめているのが分かった。彼がいつもイシャンの傍にいる男だと分かるも、車は去っていった。
「ああ、なるほどね。あの国か。知っているとも」
帰宅した幸は、机の上の鬼無里カエルにイシャンの国について尋ねた。彼女は訳知り顔で話を始める。
「石油の産出国として知られているが、その利益を得ているのは一部の王族だけで貧富の差が激しい。まあどこにでもあるような途上国さ。そこに付け足すなら、強烈な差別……というより身分制度かな。君も学校で習ったはずだけど」
「カーストってやつですか。インドの」
「というよりヒンドゥー教のものだ。今は廃止されているけれど、だからと言って『はいそうですか』と今まであったものが即座に消えてなくなるわけじゃあない。根強く残るものはある。例えば名前だよ。かの国の人は姓を名乗らなかったりする。姓にはどういった身分に属するものなのかが表されているからね。名前を言えばその人がどういう人なのか分かるんだ」
鬼無里は話を続ける。
「そんな馬鹿なって思うかな。でも身分や肩書きは大事だよ。人は社会の中で生きるものだし、生きてこその人間だ。帰属意識に欠けているやつはおかしい。そう思われても仕方がない風に世の中はできている。ああ、そんな顔しないでくれよご主人。それにね、カーストって言っちゃうとよその国の話に聞こえるかもしれないが、結局そういったものはどこにだってあるんだ。ほら、君の学校にだってあるだろう? スクールカーストさ。この国にだって士農工商ってのがあったじゃないか。習っただろ?」
「しのう……? ありましたっけ。そんなの」
「え? なかったか? そうか。聖徳太子が厩戸王になったりやっぱりならなかったり、教科書の中身も変わるんだなあ。ジェネレーションギャップを痛感しているよ。同じ時代を生きている気がしない」
鬼無里は感傷に浸っていた。幸が水槽を指で叩くと、彼女はげろげろと笑った。
「前にも言ったかもしれないが、差別区別なんてどこにでもあるものだ。人が人である以上避けては通れないし、そうする意味だってないものさ。それが嫌なら改宗でもするか、そうだな、インドならIT企業に就職するとかね」
「あ。そういえばインドの人たちって数字に強いイメージありますよね」
「うーん。インドでITが発達する下地があったからね。よく言われているのが時差だね。アメリカとだいたい、半日ほど差があるんだ。となると、頑張って作ったソフトを夜のうちにインドに送っとけば、朝になったインドの方でまた作業の続きができる。言葉もそうだ。インドの共通言語として広く使われているのはヒンディー語じゃなくって英語なんだ。そして最後にもう一つ。カースト制度から抜け出せるというのも大きい」
「ITの会社に入ったら身分が関係なくなるんですか?」
「自分の好きな仕事ができないんだよ。世襲が関係しているからね。親の仕事をその子もやるしかないってのが当たり前だから。でもITってカースト制度ができた後に生まれた分野の仕事だろう? だからカーストとITは無関係と言えば無関係なのさ。誰にだってチャンスがある。もちろん誰もがそのチャンスを掴めるわけではないけど」
「それでも駄目だったらどうするんですか」
「何がだい」
「たとえばですけど。ぼくがインドで生まれてそういうのが嫌だなあと思うじゃないですか。でも改宗もしない。IT企業にも入れなかった。そういう時はどうしたらいいんだろうって」
「もう一つ道はあるよ。来世に望みを託すんだ」
幸は鬼無里を睨むようにして見た。
「本当だよ。輪廻転生というやつだ。私のご主人さまはそうは思わないだろうけど、そうするしかないって人も、そう思うしかないって人もいるんだ」
「そうですけど……」
「それより、また変な子と知り合いになったものだ。そうだ。ケンタウロスの子も今度連れて来てくれないか。一度この目で見てみたい。できれば全身くまなく見てみたい」
「うちに呼ぶんですか? 叔母さんがなんて言うかなあ」
「そういえば、ご主人は家に友人を呼ばないね」
「なんていうか、ぼくの家ってわけでもないですし」
「ふうん。そんなものか」
幸は話題を変えることにした。
「鬼無里さんは外国に詳しいですよね」
「そうでもないが、実は趣味が旅行なものでね」
「意外です」
「とはいえ、空想旅行だよ。ガイドブックを読んだりして外国に行った気分になるのが好きだっただけで。仕事をやっている時は忙しくってね。まとまった休みも中々なかったし、たまの休日は家で眠るのが精いっぱいだった。それにね。ああいう旅行者向けのガイドブックなんかにはスリや引ったくりに気をつけろだの、この国ではこういうことをしたら失礼に当たりますだの、ここには危ないやつがいるから近づくなだの、そんなことも書いていて、私はそれでやっぱり家にいるのが一番だと気づいたものだ。海に行かなければ溺れることはないし、山に登らなければ遭難することもない」
鬼無里らしい考え方だったので、幸は思わず苦笑してしまった。
翌朝、幸が登校するためにマンションの外へ出ると、近くに見覚えのある車が停まっていた。イシャンのものだ。
「おはよう、イシャンくん」
幸が近づいて挨拶すると、イシャンは座席でふんぞり返っていた。そうして幸に乗れと言うのだ。
「どうして?」
「どうしてもこうしてもあるか。昨日の続きだ」
「ぼくは謝らないよ」
「ふん。分かっている。その理由もな。貴様が余のすごさをまだ理解していないからだ。よってだ。これから余のすごさを教えてやる。そうして貴様が余を理解した時、余の望みは自然と達成されるわけだ」
幸はなるほどと思った。
「でも、今から学校だから」
「ええい貴様がそう言うのも分かっている! だから、とりあえず登下校の間だ! 余に付き合ってもらう! 嫌とは言わさん! よいな」
「一緒に行き帰りするってこと?」
「気軽に言うでない!」
しかし実際はそのようなものだ。幸はイシャンに付き合うことにした。車で送り迎えしてもらえるならいいかと軽い気持ちで引き受けたのだった。