チャンドゥルドゥルー
放課後、幸は葛に連れられて、メフの捌区まで足を伸ばしていた。
道すがら、幸は葛から捌区には工場が多いのだと聞いた。タダイチの関連企業の工場や実験施設などが軒を連ねているのだという。煙突から上がる煙が、風でたなびいているのが見えた。
「タダイチの商品のいくつかも捌区の工場で作ってんの。外からじゃ仕入れたんじゃ余計に金がかかるんだってさ」
鉄を叩くような音を聞きながら歩いているうち、小さな工場の前で葛が立ち止まった。『門田製作所』という看板があり、幸はそれをじっと見つめる。
「ここ?」
「そ」と葛は携帯電話を操作していた。
「『ちょい待ってて』だって」
「誰が?」
ん、と、葛は工場の敷地内を指差した。そちらから葛と似た雰囲気の少女が歩いてくるのが見えて幸は警戒の色を強めた。
学校の制服を着た少女は微笑んで、小さく手を振っている。アシンメトリーの髪をツートンカラーに染めていて、幸は、この年頃の少女は極楽鳥のようにカラフルでなくてはいけないのかと思惟に耽った。
「葛、久しぶり」
少女は遠慮がちに笑っていた。応える葛もまた、どこか居心地が悪そうにしていた。
「用って何? どしたん?」
「ん……ああ、とりあえずこっち来て。休憩所の方空いてるから、そっちで。あ、工場から伸びてる線とか触らない方がいいよ」
少女についていくと、工場の裏手に屋根の造られたスペースがあった。スタンド式の灰皿とベンチがあって、葛は慣れた様子でそこに腰かけた。手持無沙汰の幸は自動販売機を眺めていた。
「あの、そっちの子は? 葛の……弟?」
「弟」と幸は思わずオウム返しをする。葛はくつくつと笑っていた。
「ぼくは八街。葛ちゃんの友達だよ」
少女は目を見開いた。次いで抗議じみた声を上げた。
「こんなとこまで男連れてこなくてよくない?」
「そういうんじゃないから。言ったじゃん。そいつが花粉症の友達なんだって」
「そうなの?」
少女は幸を一瞥し、門田民子だと名乗った。
「門田……? あ、じゃあ、もしかして」
「うん。うちの親、ここの社長」
「社長令嬢だね」
「そんないいもんじゃないから」
屈託のない幸に毒気を抜かれたのか、民子の表情が和らいだ。
「小さいとこでしょ? なんかね、変なのばっか作ってんの。作業用のアンドロイドだかロボットだか、そんなの。ここまで来る途中でもそこらへんにガラクタあったじゃん?」
幸は歩いてきた道を振り返った。ガラクタかどうかは分からないが、作りかけの何かがところどころに放置されているのは見えた。
「あのUFOみたいなのは?」
「なんだろ?」
「いっぱい伸びてる線は?」
「えー? なんだっけ。なんか、電気をためるやつ?」
民子は自嘲気味に笑った。
「全然儲かんなくて、会社も潰れる寸前までいったり、気づいたらお母さんが逃げちゃったりとか。ま、色々あったけどさ、だいたいあれでしょ。世の中どこも不景気なんだからしようがないよねって感じで」
「用ってなんなん?」
一向に本題に入ろうとしない民子に焦れたのか、葛はぶっきら棒な口調で言った。
「あ、うん」
「先に言っとくけど、タダイチはここのスポンサーにはなんねーから」
「そういうのじゃないから」
葛と民子が視線を交錯させる。幸は息がつまりそうになった。
「よく分かんないんだけど、門田さんが葛ちゃんを呼んだのって花粉症が関係してるの?」
そこでようやく、民子は葛から視線を外した。
「うちも何度か潰れかけて、本当にヤバかったみたいなんだけど、こないだ……スポンサーっていうの? お金出してさ、援助してくれるとこが出てきたの」
幸は小首を傾げた。
「いいことじゃないの?」
「それが」
民子が言いかけたところで、作業服を着た男が工場から出てきた。通用口をくぐった彼は休憩所にいた民子たちを認めて焦ったような様子で身を翻す。その背に、民子が声を放った。
「どうしたんですか」
「や、いや、その」
男が口ごもるや、民子は通用口の扉に手をかける。
「だめだって民子ちゃん!」
作業服の男が止めようとしたが、民子はもう扉をくぐっていた。
「こっち! ついてきて!」
訳が分からぬまま、幸と葛は民子のあとを追いかけた。工場内には物が乱雑に置かれていて走りにくかった。民子だけがするすると廊下を走り抜けていく。
「先行っといて……あーし、こういうの無理だから……」
葛は既に息切れし、壁に手をついていた。幸は頷き、足元に転がっているものを飛び越えて速度を上げる。
「門田さんっ」
「こっちだって!」
「どっちだよ」
声の聞こえる方へ進んでいくと開けた場所が見えた。どうやらそこがメインの作業場らしく、出入り口近くで民子も立ち止まっていた。追いついた幸は中を覗く。巨大な機械や、いつか玖区の喫茶店でも見たような機器類もあったが、今はそちらに気を取られることはなかった。作業場の中央に人だかりがある。作業服を着たものに混じり、どこか場違いな格好をした男たちがいた。
「……あの人たちは?」
燕尾服を着用し、白い手袋をはめた男たちが数人いる。民子は彼らをねめつけていた。
「うちのスポンサー」
「あれが?」
「そう。執事なんだって」
人だかりの中心部に、その場に跪くようにしているものがいた。初老の男だ。作業服を着ており、眉間には皺が寄っている。門田製作所の社員だと幸はあたりをつけた。
「……お父さん」
「え?」
「あれ、お父さん」
「ええ……?」
どうやら一介の社員ではなく、社長が跪いていたらしい。幸は困惑したが、さらに驚くようなものが目に入った。民子の父親を跪かせているのは学生服の若者だ。赤い髪に褐色の肌。ここから見える、中東系であろう横顔には幼さがにじんでいる。幸は最初、その人物を女学生かと見間違えた。だが、着ている制服は男子のそれだ。少女にも見える紅顔の美少年が、民子の父親を冷たい目で見下ろしていた。
「あの子、どうしてあんなことをやってるんだろ」
「腹いせだと思う。あいつら、うちに何か作れって言ってきてるんだけど、それがあんまり進んでないから」
「じゃあ、あの子がスポンサーの?」
「正確にはあいつの親がお金を出してるんだろうけど。あっ、あのね、八街くん? その、葛には『どうにかして欲しい』って頼んだんだけど……でも」
幸にも民子の言いたいことは伝わっていた。花粉症を使えるとはいえ自分は学生だ。たった一人でこの状況を変えられるとは思っていない。ただ、門田製作所を困らせているものに対しての抑止力を期待したのだろう。
難しい話だった。
幸には推し量ることしかできないが、それでも大の大人である門田製作所のものたちが頭を下げ、跪かざるを得ない理由には見当がつく。民子がやろうとしているのは、子供同士の喧嘩でなら通じるが、ここではまかり通らない。
「八街くん。なんか、ごめん。あいつ、私らよりガキだろうけど、花粉症だし、スポンサーだし、みんな手が出せないって私も分かってるんだ」
「……花粉症? あの子も?」
「え? た、たぶん、そうだと思うけど」
その時。幸と、件の少年との目が合った。その瞬間、幸は物陰から出て、少年へと歩み寄る。民子や製作所の社員、傍にいた執事らの制止の声を振り切って。
「なんだ。お前は」
少年は、初めて幸を認識したらしかった。気の強そうな瞳が幸を捉えている。そして、そこには光輝が見え隠れしていた。少年はくっと口の端を歪める。
「無礼であろう。跪け」
少年の高い声の後、誰もがあっという驚きの声を発した。
「な」
背に、不可視の何かが圧し掛かったような重さを感じた。抗えず、片膝をつく。そうして少年は、憤怒の形相で幸を見上げた。
「……貴様……! 余に、何をした……!」
「今のは見逃すね」
幸は幼い子を相手にするかのようにして言った。
「だけど、次やったらまたぼくが来るよ」
跪いたのは幸ではなく、少年の方だった。彼は何が何だか分からないまま、ただ、屈辱的なポーズをとらされている。
「覚えていろ」と少年は言う。幸は分かったと頷いた。
その光景を見ていた民子は『そういうことをして欲しいんじゃなかったのになあ』と後悔の念に駆られていた。
幸はまだ知らなかった。
自分が跪かせたこの少年が、とある石油産出国の王族に連なるものであることを。彼の過去も、思いも。民子のことも、門田製作所のものたちのことも、この町に来て最も長く付き合ってきたはずの葛のことでさえも。
幸はまだ、何も知らなかった。
メフのことも、花粉症のことも、扶桑のことも、自分のことでさえも。
門田製作所からの帰途、葛は携帯を弄りっぱなしだった。
「八街の連絡先さ、タミに言っといていい?」
「門田さんに? うん、いいよ」
「ん。なんかー、さっきの中坊いたじゃん? あいつお前のこと聞き回ってんだって」
へー、と、幸は気楽そうに返事をした。葛は彼のそういった部分が嫌いではないが、傍にいると不安になる時がある。さっきもそうだった。彼女が工場に駆けつけた時にはもう幸はやらかしていて、門田製作所のスポンサーである異国の少年を跪かせていた。結果的にその少年の興味が幸に向いたからよかったものの、そうでなければ彼らがスポンサーを降りていてもおかしくはなかった。
「葛ちゃん?」
「え? 何?」
「なんか怒ってない?」
「意味分かんねー、怒ってねーし」
葛は幸を相手にしていると調子が狂う。どうにも感情を持て余してしまうのだった。そんなことは露知らず。幸は《騎士団》と会えるかどうかを尋ねてきた。
「セッティングはするけどー、結構時間かかるかも」
「そうなの?」
「オメー《騎士団》のこと何も知らねーの?」
「メフの猟団で一番大きいんでしょ?」
幸が得意げに言ったので葛はイラっとした。
「でかいってか、人が多いんだよ。だから一枚岩じゃないっつーか、《騎士団》はいくつかのグループに分かれてんの。寄せ集めの狩人を一人で管理すんのってめんどいじゃん? そんで《騎士団》っつっても、あーしはそのうちの一つとしかコンタクトが取れないようになってんの」
なるほどと幸は得心した様子だった。
「で、そのうちの一つ……あーしの知り合いのいるグループってのは今まさに大空洞に潜ってんの」
「他の《騎士団》の人とは連絡が取れないの?」
「無理じゃないけど、後でめんどいことになる」
「じゃあ、その人たちを待つよ。そいで、その人たちはどこまで潜ってるの?」
扶桑の下、東山ン本大空洞には階層がある。幸はそのことを言っているらしかった。
「葛ちゃん知ーらない。あーしはそういうの興味ないし。ただ、あいつらは潜れるとこまではずっと潜るよ」
「どうして」
「そうじゃなきゃ意味ねーから」
葛はそれ以上話そうとしなかった。
「やることやってくれたんだし、ご褒美はもうちょい待っといて」
「うん、分かった。えへへ、お手数おかけします」
「何それ? 気持ちわりーの。……ね、それ以外何もいらねーの?」
幸は不思議そうにして葛の横顔を見た。
「さっきのやつチューボーだったし、八街も花粉症だけど、一応、なんつーか危ない橋渡ったわけじゃん。それなのに《騎士団》に会うだけでいいわけ? だって推薦状もらえるかどうかなんて分かんなくない?」
「もらえるかどうかはぼく次第だし、そもそも会えるまでどうすればいいか分からなかったんだから、もう充分だよ」
「金とか、女の子とか、そういうの欲しくないの?」
「あははははっ、何それ?」
「や、何それって」
「葛ちゃんはそういうのが欲しいの?」
「八街のクラスの男子はそうなんじゃないの」
「あー、田中くんたちはそう言うかも。でも、たぶん言わないかも」
「んだよ、いらねーの?」
幸は少し立ち止まって、それからまた歩き出す。
「お金ももらえたら嬉しいし、可愛い女の子がいても嬉しいよ。でも、何か欲しくって葛ちゃんのお願い聞いたわけじゃないから」
「《騎士団》に釣られてんじゃん」
「バレたか。でも、お金なら大丈夫だよ」
「じゃあ女は?」
「葛ちゃんがいるじゃん」
「……あーしとヤりたいの?」
「あっ、そういう意味じゃないのに……友達としてって意味で」
「セフレって意味っしょ?」
「『セ』はいらないよ」
「『セ』がつかない男友達なんかねーよ。いねーよ」
「えー、ぼくは?」
今度は葛が立ち止まった。彼女は改めて幸について考える。彼は自分にとって何なのだろうかと。
「わっかんない。一回ヤったらわかんじゃない?」
「冗談ばっかり。ね、葛ちゃんって普通に付き合ったことないの?」
「普通って何?」
「えー……なんか、どっか遊びに行くとか」
「だってここメフだよ? 水族館も遊園地も何もないんだけど」
「そういやそっか。あ、今度うちに来る?」
「えー、家でヤんの? 八街って一人暮らしじゃないじゃん。家の人と会ったら気まずくね?」
「じゃなくって、ぼくカエル飼ってるから」
「お前……マジ? 犬猫ならともかくカエルを口実にするやつ初めて見たんだけど」
葛は引いていた。
「だって葛ちゃん水族館とか言うんだし! カエルならちょっとは水族館っぽいかなって!」
「はいはい、デートはまた今度な。あーしの気が向いたらしたげるから」
「その時は鵤さんにも声をかけてみようか」
「マジで言ってんなら医者紹介するけど」
幸は不服そうだった。
その日の夜、家のリビングでテレビゲームをしている幸は背後から視線を感じた。視線の主は言わずもがな、むつみである。彼女はつまらなそうに画面をぼんやりと眺めていた。
「それ、何やってるの?」
「家を作ってるところです」
「その、変なブロックみたいなやつで?」
「何でも作れるんですよ、これ」
「へー」とむつみは頬杖をつく。
幸はコントローラのボタンを押しつつ、むつみに訊いた。
「メフって水族館とか、動物園ってないんですか」
「……ないんじゃない? というか、メフには許可なく生き物を持ち込めないし」
「それって、ケモノになるかもしれないからですか?」
「そんなとこ。それで言ったら人間だってそうだけどね。ま、人が花粉症に罹ってもどうにかなるけどさ、動物だと大概は凶暴化するし、手が付けられなくなるから」
幸は世知辛さというものを痛感していた。
「ふと思ったんですけど、鳥はどうなんですか。自衛隊が周りを見張ってますけど、空の上とか、土の中とか、そういうとこから外に出て行っちゃいますよね」
「ああー、鳥ね。うん。まあ、そうなるかな。どっかの偉い学者先生は、扶桑熱が拡がったのは鳥のせいだとか、そんな風に言ってるらしいけどね。私は鳥じゃなくて虫だと思うけどね。あいつらだって飛ぶし、鳥より小さいじゃない。見張ろうとしたってやるだけ無駄だよ。それにもうメフの外どころか世界中で花粉症になってる人がいるんだし、どうでもいいよ、そんなん」
むつみは疲れているのか、どこか投げ遣りだった。
「なあに、君は水族館に行きたいの?」
「あったら行ってみたかったなって」
「カエルで我慢しときなさいよ」
ううん、と、幸は低く唸った。
「叔母さんはデートの時にどこ行ってました?」
「なんでそんなこと聞くの」
「学生の時はどうしてたのかなって」
幸が軽い気持ちで振り向くと、暗く淀んだ瞳と目が合った。
「もしかして、何か嫌な思い出が……とか?」
「や、嫌なっていうか、思い出とかないからさ。優等生じゃなかったからね。狩人として大空洞に潜ってばっかで」
「へー。なかったんですか、そういうの」
「ちょっと。今、何か、勝ち誇ったでしょう?」
「誇ってませんよ」
幸はゲーム画面に向き直ったが、むつみは彼の背に声を放り続ける。
「いいかい。私が暗い青春を送ったのは他でもない君のお母さんのせいなんだよ。それをまあ、息子の君がよくもまあ口にできたな」
「じゃあ、今だったらデートはどこに行きます?」
「……今?」
幸はむつみを見ないまま頷いた。彼はゲームに夢中だ。ブロックがどんどん積み上げられていく。
「別に」
「別にって答えになってないですよ。どこかには行くんじゃないんですか?」
「本当に何もないからなあ、ここ。ご飯食べたり、お酒飲みに行くくらいじゃないの?」
「『ないの?』 ってことは、叔母さんはそういうの詳しくないんですね」
「あれ? もしかして君は私に喧嘩を売ろうとしている……?」
「古海さんはそういうのいっぱい知ってそうですよね」
怒髪天を衝く寸前だったむつみだが、古海の話題を出されると少しだけ怒りも和らいだ様子だった。
「あいつが? 君はあいつのことをよく分かってないね」
「ええー、そうですか? だって少なくとも叔母さんよりかは」
「『恋多き女』に見える? でも言い換えちゃえばその分だけフラれてるってことなんだよ。相手をとっかえひっかえしてるのはそいつ自身に問題があるからなんだよなあ」
「じゃあ叔母さんは一途なんですか」
「そうかもね」
「あっ、ブロックずれちゃった」
「やっぱり喧嘩売ってるでしょ」
そこから二人はしばらく口を利かなかったが、ふと、むつみが呟いた。
「昔はあったみたいだけどね、動物園とか」
「そうなんですか」
「大崩落で全部飲み込まれたんだって。……大空洞にそういう残骸みたいなのが転がったりしてるし、明らかに日本産じゃないケモノもいたりするしね」
落ちて飲まれたのは動物園だけではないのだろう。幸はそのことを悲しんでいいのかどうか分からなかった。自分たちの足元には、まだ、知らないものが眠っているのかもしれない。そのことを考えて、彼はゲームを中断した。
翌朝、幸は学校へ向かう途中で妙な連中に呼び止められた。相手はメフの学生服を着た少年たちだった。その制服を幸は見知っていた。
「えっと、何?」
聞くと、幸を呼び止めた少年らは顔を見合わせる。そうして、一番気の強そうなものが口を開いた。
「お前が蘇幌の八街ってやつか?」
「うん」
よく分からなかったが、自分が蘇幌学園に通う八街なのは間違いないので、幸は素直に頷いておいた。
「ぼくに何か用?」
「あんたを連れてこいって、そう言ってる人がいる……んだけど」
「そうなの? 誰が?」
「カンケーねーだろ!」
「めちゃめちゃ関係あるじゃないか。もしかして今から?」
「おう!」
幸は困った顔になった。
「遅刻しちゃうよ」
「んなの知るかコラ!」
「困ったなあ」
「お前が来なきゃ困るのはおれたちなんだぞ!」
「そうなの? じゃあ、今日の放課後じゃだめ?」
「だめに決まってんだろ!」
押し問答は続いた。このままではどっちにしろ遅刻してしまう。そんな時、幸らの近くに車が横付けされた。高級感を長く引き伸ばしたような車だった。ぶっちゃけ幸らは遠くからでもそれを見ていたので驚きこそしなかったが、少年らは軽く怯えていた。
「みっ、見ろ! お前がごちゃごちゃ言ってっから来ちゃったじゃねえか!」
「誰が?」
「やべえ……!」
車から降りてきたのは燕尾服に身を包んだ若い男だった。日本人ではない。昨日、幸が門田製作所で目にしたことのある男だった。そこでようやく彼も車内にいるであろう人物に思い至った。
少年らは逃げようとしたが、それよりも速く車のドアが開かれた。降りてきたのは赤毛の少年だった。
「これだから下民は嫌になる。使い一つまともにこなせんとはな」
幸はその少年を強く見据えつけた。逃げようとしていた中学生らが少年に媚びを売るようなしぐさを見せた。
「い、言われた通り『蘇幌の八街』を見つけたんですけどー」
「黙れ。余は『連れてこい』と言ったのだ。わざわざ時間を割かせた事実は揺るがぬ。であれば」
赤毛の少年は口の端をつり上げた。
「非礼を詫びるのが! 先であろう!」
少年の目に光輝が宿るや、中学生らが一斉に跪くような体勢になった。彼らはどうにかして抗おうとしているが、小刻みに震えるくらいでほとんど何もできないでいる。
「ふはははっ、そう、そうだ! やはりそうでなくてはならん! これこそが世の理よ! 余が平伏し、跪くようなことがあるはずも……」
「君」と幸が少年をねめつける。その瞬間、中学生らは異能から解かれた。幸が、腕組して高笑いしていた少年のそれを奪ったのだった。
「なっ……! 何を」
無論、少年は自身の異能が奪われたなどとは気づいていない。しかし幸が何かやったのだとは気づいており、彼を怒鳴りつけた。
「余に歯向かったな! それも二度目だぞ!?」
「だから、普通の人に花粉症を使っちゃだめだって。言ったよね。もうしないでねって」
「ふ。余が余以外の命令を聞くとでも? 片腹痛いとはこのことだ! はっはっは! 笑い過ぎて本当に腹が痛くなってきたぞ!?」
赤毛の少年の傍に控えていた執事たちが咄嗟に彼の腹を撫でようとしたが、少年はそれらを鬱陶しそうに払い除けた。
「ええい、触れるな。……お前が八街幸とやらか。昨日は世話になったな」
「どういたしまして」
「ふははは、捜したぞ。どうだ。ぐっすりと眠れたか? 余から逃れられるはずもないだろうに、昨夜は生きた心地がしなかったであろう?」
「わざわざぼくを捜してたの? どうして? 用事でもあったの? 暇だったの?」
「誰が暇か! 余と貴様とでは価値が違う! 時間も、未来も、何もかもな。余の貴重な時間を割いたのだ。疾く詫びろ」
「ごめんね」
それじゃあと幸は学校へ急ごうとしたが、赤毛の少年が鋭い声を放って呼び止めた。
「貴様……余を知らんのか」
「えーと、門田さんとこのスポンサーさんでしょ?」
「それだけではない! 余はイシャン・チャウドゥリー。おい愚民。余が自ら名乗ってやったのだ。礼を言え」
「ありがとう。ぼくは八街だよ」
「黙れ!」
それから、イシャンと名乗った少年は身振り手振りを多用しながら、自分がいかに優れているのかを語った。幸は途中から別のことを考えていたのでよく話を聞いていなかったが、彼がどこかの国の王子様のような存在であることは理解した。
「どうだ! 分かったか!」
「うん、すごいね」
「そうであろう!」
じゃあまたねと幸は背を向けるが、イシャンが彼の前方に回り込む。
「そんなすごい余に貴様は何をした。跪かせて衆目に晒し、屈辱の味を教えてくれたな?」
「君が社長さんたちにやっていたことじゃないか」
「屈辱の味は酷く甘美である! その時はほろ苦いが、後になればなるほど甘くなる。そう、相手に屈辱を味わわせてやることで!」
「君は何がしたいの?」
「決まっている。詫びるがいい。余にやったこと全てをな。この場で跪き、赦しを請え。だが、簡単に許されると思うなよ。そうだな……できる限り無様に、みっともなく泣き喚いて見せろ。そうすれば許してやっても」
「嫌だ」
幸は言い切った。イシャンが門田製作所のスポンサーだとか王族だとか、そのようなことはどうでもよかった。ただ、彼がいたずらに花粉症を使うことが気に食わなかった。この街でそれを行うのなら、イシャンは狩人の障害だ。
「言っとくけど、ぼくだったから見逃されてただけで、市役所の人たちや他の狩人が見てたらクロ判定されちゃうんだよ」
「なんだそれは? ふん、知らぬわ。貴様らの考えやルールなどどうだっていい。余には余のルールがある。第一、余には市役所ですら手出しできんのだからな。どうしてか知りたいか? それはな、余が……」
「イシャンくんのルールなんて、ぼくだってどうだっていいよ」
「気安く余の名前を口にするな! どうしても呼びたければ敬え。そうしてフルネームで呼べ」
「イシャン・チャンドゥルドゥルーくんのことなんかどうだっていいよ」
「貴様ァ! 敬ってないし名前が違う! もういい!」
イシャンが幸を強くねめつける。異能を行使する前兆が、彼の瞳に纏わりついた。