二人三脚<3>
釣り糸を垂らして数分、竿が震えた。魚がかかったのだ。長田は文庫本を閉じた。傍にいた幸が手伝おうとしたが、長田はその手伝いを手で制した。小さな魚だった。彼はそれを見やり、水の中に帰した。
釣り堀は静かだった。平日の午前中だ。深山目当ての女性客も常より少なかった。
「付き合わせてしまってすまないな」
「いいですよ」
「一度な、学校をサボってみたかったんだ」
「ぼくは何度かやってますよ」
長田は苦笑した。
「八街くんは不良だったか。生徒会長にならなくって正解だったかな」
「意地悪言わないでくださいよう」
「冗談だ。しかし、惜しかったな」
「そうなんですか?」
選挙は終わった。生徒会長には藤が、副会長には葛が収まった。下馬評通りのワンツーフィニッシュだった。
「開票には俺も立ち会ったが、票は割れていた。八街くんもリリアンヌくんもあと少しだったよ。……無効票が多かったのが敗因かな」
「ぼくの名前が間違えられてたりってことですか」
「いや。俺の名前を書いた生徒がいたんだ」
幸は納得していた。
「先輩に会長を続けて欲しいって人がいっぱいいたんですね」
「嬉しいが、君たちには申し訳なかったな」
もともとノリと勢いで出馬させられたようなものだ。幸は気にしていなかった。
「あ、引いてますよ」
「おお、今度のはでかそうだ」
立ち上がった長田は、思わず笑みをこぼしていた。
「おっ、悪い……」
教室に入ろうとした翔一とリリアンヌの肩がぶつかった。彼女は冷たい目で彼を一瞥し、
「失礼いたしました」
と言った。感情がまるでこもっていなかった。
翔一は少し腹を立てた。リリアンヌの目はマゾヒストにはたまらないともっぱらの評判だが、生憎と彼にその気はなかった。
「ああ、いいっていいって。でけえ岩があったら避けなきゃいけねえもんな。俺が悪いや」
「……恐れ入りますが、それはどういう意味でしょうか」
「別に―?」
リリアンヌは翔一の足元に白い手袋を投げつけた。
「拾いなさいな」
「やだよ! そういうのはヤチマタだけにしとけよなー」
「決闘! 決闘ですわ!」
リリアンヌはぷんすかとしている。翔一はどうどうと彼女をなだめようとしたが火に油を注ぐだけだった。
「じゃあじゃんけん勝負な! 最初は! グゥウウウウ!」
「ひっ」
大声に驚いたリリアンヌは咄嗟に掌を突き出してしまう。
「はい俺の勝ち―。じゃあ俺も今日から『リリちゃん』って呼ばせてもらおうかなー」
「今のは卑怯ですわ」
「なんでヤチマタだけちゃん付けで呼んでもいいんだよ。みんなリリちゃんリリちゃんって呼びたいって言ってるぜ」
翔一がクラスメートに視線を遣る。みなが一様に頷いていた。
「名前長いし呼びづらいよな」
「しかも噛んだり間違えたら怒るし」
「だ、そうだけど」
「だめです」とリリアンヌは頑なだったが、ふと表情を柔らかいものにする。
「ですが『リリアンヌさん』なら許可しましょう」
釣りのあと、幸は昼過ぎに家に帰った。どうせ誰もいないだろうと踏んでいたのだが、リビングにはむつみがいて、彼女は目を細めた。
「さっき先生から連絡があったよ。八街くんが学校に来ていないって。適当に言っといたけど、どこ行ってたの?」
「釣り堀です。友達と」
「サボりとは悪い子だなあ」
「男と男の約束でしたから」
なんだそりゃ。むつみは口の端を歪めて笑う。特に気にしていないらしかった。それよりも彼女は別のことに気を取られていた。
「やっと仕事が一段落した」
「よかったですね。今までずっと忙しそうだったから」
「まあね。何せ残ってた仕事がいつの間にか片付いてたもんだから」
へえ、と、幸はリビングの椅子に座った。
「君、何かした?」
むつみはじっとりとした目つきで幸を見ていた。彼は首を振った。
「言ってることがよく分からないです」
「ふーん。……古海が言ってたんだけどさ、市役所に請求が来ててね。何だったっけな。『斧磨鍛冶店』だっけ? そこからの請求でね。鉈の修理と新しい鉈の代金とか、こないだも二本分の修理代がどうのって連絡があったんだ」
幸は椅子から腰を浮かしかけた。
「そうなんですか」
「少年。久しぶりに会って話すよね」
「はい」
「久しぶりに怒られたい?」
「いいえ」
むつみはあごをしゃくった。幸は事情を説明した。彼女の表情が見る見るうちに不機嫌になっていった。
「でもぼく一人じゃなかったですよ」
「そういうことを言ってるんじゃないんだけど……なんでそんなことしたの?」
「あの……最近、ご飯を一緒に食べてないなって」
「は?」
幸は俯く。
「だから、叔母さんと、ご飯」
むつみはキレかかっていた。幸はまた言うことを聞かなかったのだ。危ないから勝手に動くなと言っておきながら、彼は恐らく例の団地に行き、ケモノを狩り尽したのだろう。
「お医者さんに花粉症で治してもらうのも、すごくお金がかかるんですよね。ぼく、一人でやれますとか言ってたのに、叔母さんに頼ってばっかりで」
幸はまた俯いた。確かに彼の言う通り、花粉症での治療は普通より金がかかる。そのことを気にしていたのかと、むつみは鬱陶しく思った。経緯はどうであれ、幸を引き取ったのは自分の意志だ。蔑ろにしているつもりはなく、自分なりにできることをしてやるつもりではあった。
「ありがた迷惑という言葉が世界で一番似合ってるよ」
指を差し、むつみは意地悪い笑みを浮かべる。
「ま、怪我がないからよかったけど。……それで? あの団地のケモノ、本当にやったのは君なの?」
「ぼくだけじゃないですけど。手伝ってもらいました」
「ふうん」とむつみはつまらなそうに言った。内心は少し、昂っていた。
「あれだけの数をねえ」
指で机を叩きながら、むつみはかねてから考えていたことを口にした。
「猟団に入る気はない?」
「ぼくがですよね。どうしてですか」
「保護者が増えた方がいいと思って」
「ぼくってそんなに頼りないですか」
「私が百人くらいいて、目が十個くらいついてたらこんなこと言わなかったんだけどね」
幸は監視の目をすり抜けるのが上手かった。
「それ、他の人にも言われました。猟団に入らないのかって。でも、ぼくはどうせなら作りたいなあって」
「じゃあ《百鬼夜行》をあげようか」
「え」
むつみはぐっと体を伸ばした。
「もう私以外に残ってる人はいないし、文句を言う人もそんなにいないでしょ。ああ、気に入らないなら名前を変えたっていいよ。知ってる? 猟団って作るの結構面倒なんだ。市役所に申請しなきゃいけないし。だったらあるものそっくりもらった方が君だって楽でしょ?」
「いや、そうじゃなくて、そんなの、いいんですか」
「いいよ」と、むつみは《百鬼夜行》が自分のものであると信じて疑わないような、そんな風に言った。ただし彼女は見通しが少々甘かった。《百鬼夜行》を幸に譲渡することで、また新たな問題であったり、厄介な人物が口を挟むのだが、この時の彼女は夕食の献立のことと、幸をどういう風にいじめてやろうかという考えで頭がいっぱいだったのだ。