二人三脚<2>
最初にものを殺したのは、八歳の時だった。父親に連れられて弓を射た。放った矢は獲物の腹を食い破った。そうして彼女は――――リリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラは生まれて初めて褒められた。
殺せば褒められる。
それは、亜人であることを疎んじられたリリアンヌの存在理由にもなった。見下され続けていた彼女は、ようやく自己を保てたのだ。他者は脆く、弱い。ただの人間やケモノ風情が亜人に敵う道理はない。そう思うことでリリアンヌという個は形成された。矜持で固めた足場、その居心地は酷く心地よかった。
狩人であることがリリアンヌを世界に居座らせていた。リリアンヌが十五になった頃、並のケモノでは相手にならなくなった。周りには誰もいなかった。いなくなっていた。殺せば殺すほど彼女の孤独は深まった。褒められたくって殺した。人にもケモノにも、誰にも相手にされず、しかし狩りの手管は練られていく。悪循環に陥っていた。
「……Japon?」
リリアンヌに狩りを教えた父親は、売布へ行くように言った。彼女は、自分が家から、生まれ育った場所から追われるものだとばかり思っていたが、違った。リリアンヌの父親だけは分かっていた。何かを殺すことで得られる絆などないのだと。少なくとも、それはリリアンヌに相応しくないやり方なのだと。
売布は扶桑熱、ケモノ発祥の地だと言われている。そこでなら自分の辣腕をふるえる相手もいるはずだ。リリアンヌはそう考えた。
よき旅を。
父親に見送られたリリアンヌは、いまだ彼の真意に気づけないでいる。
捨て置かれた団地。人が住まなくなり、代わりに巣食うのは異形どもだ。リリアンヌは、階段の踊り場で鉈を振り下ろした。階上から飛びかかってきたケモノの頭部がひしゃげた。人馬の力は並の人間の倍はある。ケモノとはいえまともに受けては一たまりもなかった。
階段を上がる。扉が開け放たれた部屋に足を踏み入れるや、リリアンヌは横合いからの気配を察知した。彼女は右腕につけた装置を作動させる。小型のクロスボウだ。機械仕掛けの弓はハンドルが回り、矢を放つ。ケモノの目玉に突き刺さったそれは深く食い込んだ。動きが止まったケモノの腹を、リリアンヌが鉈で切り払う。壁に叩きつけられたケモノは中身をまき散らした。
息をつく間もない。先よりも小さなケモノが、床を這うようにして接近していた。しかし不用意だった。リリアンヌの背後にいたケモノの骨が砕ける。馬の部分に当たる後ろ足で蹴られたのだ。彼女は後ろを見ないままで歩き、他の部屋を捜索する。返り血はそのままに、リリアンヌは部屋を出る。その表情は陰鬱としていた。彼女自身も初めての経験だった。鉈を振り、矢を放ち、獣の命を奪い取る。それだけで充実していた。今は違う。
「いいえ……!」
自分は一人だ。最初からそうだ。今までとなにも違わない。
一人でも構わない。
一人でもやってみせる。
蘇幌学園の体育館で、皆の注目を集めた長田は朗々とした声を放った。
「俺は八街くんの応援をしに来た。そのつもりだった。だが、彼だけじゃない。この場にいないリリアンヌくんもそうだが、鵤くんも衣奈くんも、俺はみんなを応援したい」
「はあっ?」
藤が目を剥いた。葛はへらへらと笑っていた。長田は続けた。
「応援したいのは候補者のみんなだけじゃない。今、ここにいる君たちもだ。最初にそれだけを言っておく」
教師も生徒も困惑していたが、長田は満足そうにしている。
「色々考えていたんだが、あー、俺は八街くんの応援だからな。そうだな……」
長田は、体育館の壁の方にいる教師たちを一瞥した。
「狩人の人たちを悪く言う人だっているよな。でも、今俺たちがこうやって生活していられるのは市役所や、俺たちの周りにいる人たちのおかげなんだと思う。正義の味方なんて言い方は好きじゃないし、狩人だって金稼ぎのためにやってるだけなのかもしれない。だけど結果的に街を守ってるんじゃねえかなって。あ、いや、だからなんだって話だけど。俺には夢があって……もう三年だから、卒業後の進路も考えなきゃって。俺は市役所に入って、狩人の手助けをしたい。それはなんでかって言ったら、学校を守りたかったんだよ」
思い出していた。
長田は、自分が生徒会長になった時のことを思い返していた。適当な理由でクラスメートに推挙されて、ノリと勢いだけで生徒会長になった日のことを。あの時、自分に確固とした信念があればもっといい学校になっていたのかもしれない。
後悔の連続だった。
それにも終わりが来たのだ。
壁に、鉈の切っ先がめり込んだ。勢い余った一撃はケモノを捉えられなかった。大口を開ける異形化した犬。腕に噛みつかれそうになり、リリアンヌは得物を手放した。二本目の鉈を鞘から解き放つ暇も、クロスボウを撃ち出す隙もない。
「ぐ」と声が詰まった。
二匹目のケモノが室内に押し入って、リリアンヌの首元目がけて跳びかかる。両の前脚で押さえつけられた彼女の胸元にケモノの涎がぼとりと垂れた。もう片方のケモノが跳躍した。その腹を、真下から切り裂くものがいた。きゃんと鳴いたケモノの内臓物が漏れ出す。幸だった。息せき切って駆け込んだ彼がケモノを狩ったのだ。
幸は何も言わなかった。ただ、目だけが妙な光輝を帯びていた。その瞬間、リリアンヌは、手放した得物が手の中に納まっているのに気づいた。彼女は足でケモノを蹴り、怯んだところを鉈で叩いた。それだけでケモノの息の根は止まったが、気が収まらないのか死体を蹴飛ばした。
隣室から物音がするや幸はそちらに向かった。リリアンヌは肩で息をする。背負っていた鞄からペットボトルを取り出して、その中身を呷った。温い水だが息は整った。すぐ傍の壁から何か叩きつけられるような振動と音が伝わってくる。隣で幸がケモノと闘っているのだ。戦闘は激しく、古い壁に穴が開いた。捨て置かれたままの家具が倒れて、幸はそれに足を取られていた。
だが援護に行く余裕はない。リリアンヌもまた、この部屋に殺到し始めたケモノの相手をするのに精いっぱいだった。人馬の彼女にとって狭苦しい空間は不利に働いていた。その不利を力任せに押し返す。ケモノの骸が積み上がった。だが、先まで使っていた鉈が根元から折れた。
断末魔が隣室から響き渡った。
リリアンヌは見知らぬ鉈を握り締めていた。持ち手がゴムでできた鉈だ。彼女は幸が異能を使っているのだと悟る。
「……これは」
頭の中に鮮烈なイメージが突き刺さった。初めて見る景色、知らない記憶。リリアンヌは咄嗟に、自分が今見せられているのが幸のものなのだと感じた。
邪魔だった。他者の気持ちや思い出など障害でしかない。それらを掻き消さんとしてリリアンヌは先よりも強く鉈を振るう。初めて触れる得物だというのに、妙に手に馴染んだ。小さなケモノを数匹屠ると彼女の前から生きたものがいなくなった。ふと、壁に空いていた拳大ほどの穴を見ると隣室の様子が見て取れた。幸の振った鉈がケモノの肉に食い込んで抜けなくなっていた。次の瞬間、体が軽くなった感覚を覚える。リリアンヌが佩いていた鉈が一本、なくなっていた。幸が彼女の武器を奪ったのだ。
好きにしろ。
リリアンヌは邪魔になりそうな机を蹴飛ばして、そう思った。そうしてまた、二人はケモノと相対する。目も合わさず、言葉を交わさないまま。やがて室内のケモノを片付けると二人は部屋の外に出た。階段を上ってくるケモノが見えた。
一匹。また一匹。ケモノを狩る。幸の得物がリリアンヌの手に渡り、彼女の武器が幸の手に納まる。そのたびに二人はヒカリを見た。互いの記憶を、剥き出しになった感情を。直に流れてくるそれを、いつしかリリアンヌは不快には思わなくなっていた。
幸もそうだった。
『……ううん。そうじゃなくて、おしゃれな靴だよねって』
何でもない言葉を嬉しがっていたこと。
一〇〇メートル走を勝ったこと。話をしたこと。手袋を拾ってくれたこと。そんな何でもないことが、彼女にとっては鮮烈に残った思い出だった。
幸は歯を食いしばる。そんなことでよかったのかよと。リリアンヌは『ぼくら』と何も変わらない。言葉も生まれた国も足の数も違う。だが、目的や手段は同じだ。同じことで喜んで、悲しんで――――彼はそのことを痛いほど分かってしまった。
だからもう、二人は何も言わなかった。互いの死角にいる敵を打ちのめしながら段を一歩ずつ上る。最後に残った扉は屋上へ繋がっていた。そこには先よりも多くのケモノが待ち受けていたが、二人はほとんど同時に足を踏み出した。
「生徒会長はみんなが思ってるより地味だし、つまらないもんだ。目立つことなんかないし、書類書いたり、読んだりするばっかりで。……俺たちはたかが十六か十七の人間だし、何ができるとも思わない。生徒会長になったって世界が変わるわけじゃない。だけど、何とかしなきゃなって気持ちはあるよな。それでいいし、充分なんだって気づけたのは、今なんだ」
野次が飛び交っていた体育館は静かになって、長田の声だけが響いていた。
「俺たち三年はもうじき卒業して、学校を出て行く。でもこの町からは出られない。卒業したらこの町の会社に入って、大学に入って、この町にいる誰かと結婚したりして、そんで、たいていのやつはここで死ぬ。でっけえ穴が開いた街で自衛隊に囲まれて、誰かに見張られてて……つまらねえし、代わり映えしねえって思うやつはいるよな。みんな一度は思うんだ。ああ、こっから出て行きてえ、一度でいいからって。……でも、そんなに悪いことか? この街で生まれて大きくなって死んでくのって、そんなに悪いことじゃねえって思うんだ。外にいる人たちだってそんなの同じだろ。どっかで生まれてどっかで死ぬだけだ。違うところから転校してきて、ここに思い入れも何もないやつだってたくさんいるよな。それでもこの町は、今の俺たちの故郷で、居場所なんだ。学校だってそうだ。ここだって街の一部なんだ。俺はそこを守れたかなって。いや、たぶん守れてないんだけど、でも、大切には思ってたって今になって分かった」
長田は、自分を見上げる生徒たち全員を見回した。昔から知っているやつの顔が見えた。知らない生徒の顔も見えた。
「狩人とか亜人とか、外とか中とか、タダイチとかいかるが堂とか、そういうのは関係ない。八街くんはこの町で生まれたわけじゃない。だけど、きっと、この学校をみんなが大切に思うような居場所にしてくれるんじゃないかって思う」
長田は知らなかった。彼が知ることはこの先もないだろう。
『俺の憶測でしかないが、これまで問題児が生徒会長になったという話は聞いたことがない』
そうではなかった。
当時の蘇幌学園の教師からすれば、長田以上の問題児はいなかった。ノリと勢いで立候補した生徒など邪魔もの以外の何者でもないのだ。事実、学園側が出馬させた候補者を退けて生徒会長の席に座った長田は誰の言うことも聞かなかった。誤魔化しもごますりも通用しない、頑なな男だった。彼はただ、学校のためになると思ったことだけに邁進し、実行する。この上なく厄介な生徒会長だった。
だが、どうだ。勤続年数二十余年。生活指導に熱心で蘇幌学園の風紀を守り続けてきた体育教師は述懐する。長田長巻には教師の言うことを聞く素直さがなく、学業や家柄など……特に秀でたものはなかった。何せ頭がよく見えそうだからという理由で眼鏡をかけるようなやつなのだ。それでも長田は生徒会長をやり通した。かつてやくざものが学園に押し寄せてきた時にも体を張り、自分と共に戦った。衣奈葛や鵤藤といった問題児を相手にし続けていたのだ。あったじゃないか。誰にも負けないものを持っていた。秀でていないなどとんだ勘違いだった。彼には強固な信念があったのだ。だからこそ彼は生徒会長になれたのだ。真面目にコツコツと努力を続けたからこそ今の彼がある。ああ、そうだ。だからみんな、ここに集まったものが、食い入るようにして長田の話を聞いているのではないか。
オリガが団地に到着したのは、幸からの連絡をもらってすぐのことだった。彼女が目にしたのは、建物の屋上で数多のケモノを相手取る二人の狩人だ。
ケモノは体の大きなリリアンヌに群がっていた。だが、その牙が、その爪が、指一本たりともが彼女に届くことはない。幸だ。彼がリリアンヌに攻撃を試みるケモノを悉く退けていた。跳ねるように戦う彼は周りをよく見ている。それは幸が自分の異能を活かすためにやっていることだろうが、周囲のフォローができるということをも指していた。
幸とリリアンヌは一言も口を利いていなかった。互いの得物が互いの手の中に収まり、また離れていく。鉈は折れ、クロスボウは壊れて、腕も足もまともには動かなくなって、次第に一本の鉈をやり取りしながらも戦いを続行していた。
「なんだ」
オリガはふっと笑んだ。手の中には煌々としたエネルギーがあった。
「知らない間に仲良くなったみたいだな」
二人の狩人は、背中を預けてもたれかかるかのように、あるいは寄り添うようにして戦っていた。
「みんなもう知ってるかもしれないけど、八街くんは狩人になりたいって頑張ってる。一生懸命なんだ。頑張ってるやつを、俺は悪くなんか思えない。亜人だってそうだ。親がどこで働いてるかとかだからなんだって話なんだ。俺たちには関係ないはずだろ。学校にいる全員が全員、仲良しの友達ってわけじゃない。人間なんだ。誰かを好きになったり嫌いにもなるよな。俺にもいるよ。苦手なやつとか、好きなやつが。でも今、この瞬間、俺たちは同じ時間を過ごして、同じ場所にいる。これから先もずっと。俺たちは蘇幌の学生だ。売布の人間なんだ。だから、人を好きになるのにそいつの肩書きとか、生まれとかで判断するのはどうかと思う。もっとそいつのことをちゃんと見て判断してからでも遅くないだろ。好き嫌いを適当に言いたくないんだ。だって俺たちはたかが十代のガキなんだから。分からないことばっかりだし、できないことばっかりで、知らないことばっかりだ。でも真っ暗なんかじゃない。真っ白なんだ。将来の夢も希望もちゃんとあるんだと思う。ここは牢屋じゃねえし病院でもない。だから、ここで俺たちと、新しい生徒会のやつらと楽しいことを一緒に考えようぜって、そう思うのはどうかなって……話が長くなってすまない。俺は、それが言いたかったんだ」
長田は頭を下げた。
「これが俺の、生徒会長としての最後の仕事になると思う。俺は頼りないし、俺のことを今日初めて見て、知ったってやつもいるよな。どこの誰だよって。けどせっかく集まってんだ。だから自分で考えて、こいつにならいいなって人に投票してください。俺たちのことなんだ。ここは俺たち生徒の場所なんだから、俺たちで決めよう。誰にも邪魔をされずに。……先生方も、どうか、公平な判断をお願いします」
体育館はしんとしていたが、三年生のいる方から疎らな音が聞こえてくるだけで、長田は、まあいいかと苦笑した。その少し後、その場から下がろうとする彼を、今日一番の大きな拍手が引き留めた。いつまでも音が止まなかったので長田は上を向いた。照明が眩しかった。