二人三脚
「ケモノは火を怖がるんだって。なんでだろうね。知らないものを怖がるのはおかしくないけど、それで言ったらケモノが怖がるのは火だけじゃないよね。だって周りにあるのは知らないものばかりだもん。人間もそうなのかな? そうだよね? 知らないことが怖い。だから勉強して色んなことを知っていくんだもんね。怖いって気持ちを克服していくことは、すごくいいことだと思う。怖かったものが怖くなくなった時、成長したって言えるんじゃないかな。花粉症は成長する。でも、花粉症の人が成長しなきゃ何も始まらないの。花粉症はその人だけのもの。花粉症が勝手に成長することはないよ」
だから? 幸は問うた。椅子に縛りつけられて目隠しされたままで。
「やちまたくんは火が怖い?」
「うん」
「なんで? だってやちまたくんは火を知ってるよね。知ってるものなら怖くないんじゃないの? 答えて」
幸が言い淀んでいると平手打ちされた。
「答えて」
「知ってるからこそ怖いってものもあるんじゃないのかな」
「違うと思う。やちまたくんは知識として火を知っているだけなんだよ。でも火の熱さを知らない。肌で感じたことがないんだと思う。だから怖いの。本当は何も知らないくせに知ったかぶっているだけなの。だから怖いの。怖くなくすためにはどうすればいいと思う? ……火の熱さを知る必要があるよね」
幸が口を開く前に、腕に何かを押し当てられた。目隠ししているせいで何をされているのかは分からない。ただ、焼けるような痛みが腕から伝わって、彼は叫びかけた。
「痛い?」
答えられなかった。やがて熱が去るも痛みは消えない。何か押し当てられていた腕に、今度はすべらかな感触があった。撫でられているのだ。
「人は切羽詰まった時に成長するんだよ。危ないって時に進化するの。熱かったり、痛かったり、苦しかったり。人は痛がり屋だから、痛いってことを知っていても怖いんだね」
「あの……ぼくに何をしたの?」
「聞きたいの?」
「……やっぱりいいや」
「うん。今はねー、私が撫でてあげてるの。もう熱くないでしょう?」
熱くはない。痛みもじきに消える。しかし頭は熱と苦痛を記憶している。この拷問じみた豊玉天満とのやり取りを、幸はいまだに受け入れていた。理由はある。瓜生と戦った時のことがかかわっていた。
あの時、《花盗人》は新たな力を得た。誰かの力を奪うだけではない。奪った力を他者に分け与えたのだ。幸はそのように認識している。異能は成長する。そのきっかけをくれたのが天満なのかもしれないと、彼は信じかけていた。しかしそのことを彼女に話す気はない。これ以上『ご神託』がエスカレートしては身が持ちそうになかった。
「やちまたくん」
「なあに」と、声のする方に顔を向ける。目隠しが外された。幸は自分の腕を確認する。傷跡はどこにもない。天満の異能で元通りになっていた。彼女は幸に笑いかけていた。
「やちまたくんの怖いものはなあに? 熱いもの? 冷たいもの? 尖ったもの? 細長いもの?」
幸は黙考する。自分が恐れているのは何なのかを。しかし黙っていると天満に叩かれてしまう。
「もう、痛いよ。怖いのは豊玉さんかな」
「私が怖いの? じゃあ、どうやったら怖くなくなると思う?」
「ええ? 分かんない」
ぱあんという乾いた音が響いた。
「意味のないことを言ったらぶつよ」
「……慣れ?」
「うーん、どうやったら慣れると思う? 怖くなくなる? あのねー、私はね、火と同じで、私のことを知らなきゃいけないんだと思うの」
「うん」
「じゃあねー、やちまたくんはー、私の何が知りたい?」
「ええ?」
今度は少し湿っぽい音が鳴った。幸は自由になった手で自分の頬を押さえる。
「あるでしょー。誕生日とかー、血液型とかー、好きな食べ物とかー」
「好きな……? あ、じゃあ、クラスに好きな子いる?」
「え? なんで?」
天満は真顔になった。
「聞けって言ったんじゃないか」
「……まあー、いるかもしれないけどー、いるって言ったらやちまたくんどうするー?」
「うーん、応援するよ」
「え? なんで?」
天満の目が据わった。
その時、倉庫の外から女の怒鳴り声が聞こえてきた。境内で誰かが騒いでいるらしかった。天満は興味深そうにして倉庫を出て行こうとする。椅子に括りつけられた幸は必死になって彼女を呼んだ。
「待って待って、ぼくまだこんなだよ。ほっぺたも痛いから摩って欲しいんだけど」
「えー?」
「お願い摩って!」
小学生に頬を摩って欲しいとねだる男子高校生の姿があった。
幸と天満が倉庫から出ると、境内には人だかりができていた。巫女たちの先頭に立つのは織星と初音だ。彼女らと相対しているのは数名の男女である。幸は彼らに見覚えがなかった。
「誰だろう。豊玉さんは知ってる?」
「最近うちに来る人たち。なんかね、どうにかしろーとか言いに来るの」
ふと、幸は織星がゲーム中に言ったことを思い出した。
二人がゆっくりと人だかりに近づいていくと、話の内容が少しずつ聞こえてくる。巫女たちに文句を言っているのは《斜交い行脚》とかいう猟団のものたちだった。率いているのは眼鏡をかけた女で、彼女は二名という名前らしい。
「どうにかって?」
「十帖機関にケモノを狩れって言うの」
九頭竜神社の《十帖機関》は売布の猟団だが、他の猟団とはその趣が違う。彼女らは売布の重要な地である三野山を守護する狩人であり、たとえ市役所が要請したとしてもその命に応じなくともよい。中立ではなく、いわば独立した組織だ。
「でも、神社の人たちが特別なのはほとんどの狩人が知ってるんでしょ?」
「うん。でも、ちょっと事情があって」
幸は小首を傾げた。
「あの人たち、篝火さんにかかわってる人なの」
「え」
かつて《十帖機関》には篝火という花粉症の女がいた。性格、性質に難のある人間で、他人のものを奪い取ることに喜びを見出す女だった。人間関係を引っ掻き回し、恨みをしこたま買うので同じ場所に長くいられない。本名を河頭葉月といい、彼女を引き取ったのが《十帖機関》というわけだった。
二名という女は声を荒らげていた。
神社に押しかけた《斜交い行脚》は、篝火に人間関係を引っ掻き回された猟団だった。特に二名は付き合っていた男を篝火に寝取られて、挙句その男は篝火に捨てられて廃人のように心の均衡を失ってしまったらしい。そのことを盾にして、自分たちの代わりにケモノを狩り、その取り分を全てよこせと言っているのだった。
「知りません。お引き取りを」
そういった事情を一々鑑みないのが《十帖機関》である。その筆頭が月輪織星という女である。頭が固くて胸が薄くて融通の利かない女である。
なるほどと粗方の事情を察した幸だが、猟団同士による睨み合いは終わりそうもない。
「さっちー」
ふと、幸は声をかけられた。彼を呼んだのは初音という、見た目だけは童女で中身が婆の女である。彼は初音の傍までてくてくと歩み寄った。
「あのね」
初音は背伸びして幸に耳打ちする。彼は目を見開いた。
「どうしてぼくが」
「だってそうでもしなきゃ帰らないよ、この子ら。大丈夫だって安心おし」
「何がですか」
「あの子らは本当に狩りを手伝って欲しいわけじゃないよ。篝火のことで腹立たしかったのと、あわよくばって何かせしめるつもりだけなんだろうね」
「それでどうしてぼくが」
「まあまあ」
初音は二名を見上げて、小さく笑んだ。幸も彼女の隣に並ぶ。近くで見ると二名は酷く疲れているようだった。二十代前半だろうが、その肌には艶がない。余裕のない、ぎらついた眼をしている。
「何度も言ってるけど、うちから人は出せないよ。篝火のことは悪かったなんて言うつもりもない。あの子がしたことだからさ。それに篝火はもう報いを受けたし。これ以上何か言うんなら出るとこ出ようよ、お姉さん」
二名は言葉に詰まった。初音はその様子を認めてにっこりとほほ笑む。老獪な手口だ。傍で見ている幸はそう思った。
「ただし、狩りを手伝うって話ならいいよ」
「……手伝う?」
「そう。この子がね」
初音は幸の背中を押した。彼と二名の視線がぶつかる。
「小さいけど将来有望だよ。私が太鼓判を押したげる。どう? 何なら……ああ、織星ちゃんも連れてっていいかな」
「何を言ってるんですか! どうして私が……!」
織星が憤慨するも、初音は涼しい顔で彼女の怒りを受け流した。
「どうする?」
二名は歯軋りしていた。だが、十帖機関が頑なであることを理解したのだろう。彼女は何も言わず、仲間を連れて境内を去っていった。その後ろ姿を織星がねめつける。
「鳥居の真ん中を通るなとあれほど、あれほど言ったのに」
「塩でも撒いときな」
常夏が集まっていた巫女たちを追い払い、社務所の方までのんびりとした足取りで歩いていく。幸はほっと息をついた。
「妙なことにならなくてよかった」
「協力ありがとうね、さっちー」
「……でも、自分たちでやればいいだけなのに。猟団なんですよね? あの人たち、わざわざあんなことを言いに来たんですかね」
「あー、それはね」
「それはですね」
箒を持った織星が初音を遮って口を開いた。
「狩人にも色々あるんですよ。見たところ、《斜交い行脚》の人たちは……いわゆるアタッカーを失っている状況にあります」
「アタッカー? 何だかゲームみたいですね」
「お姉ちゃんゲームばっかりでオタクみたい」
織星は顔を赤くしていたが、咳払いして話を続ける。
「狩人がみんな鉈を振り回すわけではないんです。猟団に所属しているような人たちには役割分担がありますから」
「織星さんたちは弓矢を使いますもんね」
「そうですそうです。いわば、スナイパー的な、アーチャー的な役割ですね」
「じゃあ十帖機関ってスナイパーばっかりなんですね。バランス悪くないですか」
「私が前に出るからいいんです」
初音がため息をついた。完全に呆れていた。
「前に出るのは織星ちゃんの弓がヘッタクソなだけじゃん」
織星が喚きそうになっていた。
「自分たちだけで何もできないんなら、猟団やめちゃえばいいのにね。まるでヤドカリみたい」
やどかり、やどかり。妙な節をつけて歌うと、天満は倉庫の方へ戻っていった。
「結構きついこと言いますよね、豊玉さんは」
「うーん、けど、ヤドカリね」
初音は眉間に皺を寄せていた。
「何か?」
「いや、市役所からそういうのが出てるって話は聞いてるからね」
「ヤドカリが、ですか」
「貝殻被るあのヤドカリじゃないけど。れっきとしたケモノだよ。飼い犬や飼い猫に取りつく小さなケモノだね」
「寄生虫みたいなやつですか?」
「そうだね、菌みたいなものかな。人間に飼われている生き物……ペットにはあまり天敵がいないでしょ。《宿借》ってのはペットから栄養を奪って、操って次第に意のままにするんだよ。ペットが逃げ出す事件が増えると、このケモノの可能性が高いって言われてる」
そういう報告が近ごろ多くあがっているんだよと初音は言う。
「寄生されるとペットの犬とか猫はどうなるんですか?」
「寄生が進むとケモノの特徴が表れて体が大きくなったり、体色が変わったりして化物になるんだよ。それだけじゃない。《宿借》は小さいくせに賢いんだ。学習能力が高くて言葉を話したりもする。そういった個体が群れを統率する。もともと人と暮らしていた動物を乗っ取るわけだから、だいたい、そのペットの飼い主の口調で喋ったりするかな」
「ちょっとしたホラーじゃないですか」
織星は箒の柄を握り締めていた。幸は、あの団地で見かけたケモノのことを思い出していた。
「でも、ちょっと異常かもね。報告されてる数が多過ぎるくらいなんだよ。《宿借》って珍しいケモノでね、年に数件くらいしか確認されないの。賢いからわざわざ飼い主から逃げなくって、飼ってる方が気づかないまま寿命で死んだりってのもざらだし」
「数件……」
件の団地にはかなりの数のケモノが生息している。それらが初音の言う《宿借》だったなら……。幸の表情は強張っていた。
幸は選挙活動のかたわら、狩人として団地のケモノも狩っていた。そこでリリアンヌと出くわすこともあったが、口を利くことはおろか目を合わすことさえなかった。学校でもそうだった。二人はもう決闘をしなくなっていて、
「リリアンヌさんが?」
「ええ」
いつしか、生徒会選挙の当日を迎えていた。
その日、一時限目が終わったタイミングで、幸は鉄に呼び止められていた。彼女は、リリアンヌと連絡がつかないことを幸に告げたのだ。
リリアンヌはまだ登校していない。クラスメートとはあまり折り合いがよくない彼女だが、今まで無遅刻無欠席だった。くだらない。そう断じていた決闘であってもリリアンヌは受けて立つ。決して逃げようとしなかった。
「選挙なのに……」
「八街さんなら何か心当たりがあるのではと」
幸は首を振った。
二時限目、三時限目になってもリリアンヌは姿を見せなかった。選挙、投票は五時限目。昼休みのあとに行われる。そのことは彼女も承知しているはずだった。
四時限目の直前、幸は教室を見回す。滞りなく、何事もなく、なべて世はこともなし。淡々と日常が過ぎ去っていくことに一抹の不安を覚えた。チャイムが鳴った瞬間、彼は教室の外に出た。その様子に気づいた翔一が幸を追いかける。
「おい、授業始まんぞ」
「……八街くん?」
廊下にいた藤も、張り詰めた顔の幸を認めて訝しげにしていた。
「ちょっと行ってくる」
「ハア? ヤチマタ、今からか? つーか、どこに行くんだよ?」
「リリアンヌさんを捜しに」
彼女がいる場所には察しがついていた。幸は翔一に小さく手を振る。
「ちょっと八街くん! 選挙は今日なのよ!? いやそりゃ二人も候補者がいないのはラッキーって思わなくもないけど張り合いがないじゃない!」
「ごめん!」
幸は廊下を駆けた。階段を下り、昇降口で急いで靴を履き替える。躓きながらも彼は正門を潜り抜けていく。
「……八街くん?」
幸を見ていたものがいた。長田だった。
幸とリリアンヌ。二人の候補者がいないまま生徒会選挙は始まった。最初に葛が、その次に藤が体育館に集められた生徒、教師たちを前に演説を打つ。二人の応援演説も滞りなく進み、次いでリリアンヌが壇上に立つ番となった。
「本人がいないんじゃしようがなくね?」
「……まあ、そうだけど」
「彼女の応援演説をするものは?」
「いや、いないらしくって」
リリアンヌは選挙活動に熱心ではなかった。
「じゃ、応援するやつはいないってことで、最後に……」
「八街くんもいねーし、彼の応援演説で終わりってことで」
傍で控えていた長田が頷く。彼は、ゆっくりとした足取りで壇上に立ち、マイクの位置などを確かめた。体育館の照明が眩しかった。長田は、全校生徒を前にして俯く。常なら堂々とした態度の彼を目にして、一部の生徒がざわついた。
「生徒会長、三年の長田長巻です」
まばらな拍手が聞こえて、長田はようやっと顔を上げた。