ディアブロ
亜人として、十数年生きてきた。
時に恐れられ時に蔑まれ、時には命の危機にもさらされたが、今は生きている。まだ、生きている。
少女は――――仲間内からはメアリ・リードと呼ばれる少女は、他の仲間同様、椅子に縛りつけられて、目隠しをされた状態で、自らの半生を振り返っていた。
危ないと思ったことは何度もあった。
メアリの生家は裕福だったが扶桑熱患者を手元に置き、可愛がるだけの余裕はなかった。彼女は他の患者と同じように、国の指定する土地へと送られた。
メアリは思い返す。それしかやることがない。……あれは確か、五歳か六歳の時だったか。亜人。それだけの理由で殺されかけた。死んだのはメアリではなく、彼女を害そうとしたものだったが。
そも、亜人とはいえ人と大差ない。体の一部が変質しているだけで人は人なのだ。人の腹から産まれることに変わりなく、そう、ただ、見た目が違うだけだ。羽根、角、耳、腕……一つ足りないだけで、一つ多いだけで、悪魔だとか鬼子だとか呼ばれた。
十歳の時、メアリは、自分と普通の人間は明確に違うのだと気づかされた。それは肉体もそうだったが、この世界が亜人という異物を排除したがっているのだと思えた。だから、角を折った。無駄だと分かっていながらも止められなかった。
角を折っても世界は変わらなかった。変わったのはメアリだ。力の使い方を覚えた彼女は奪われる側から奪う側に回った。いつしかメアリは生まれ育った国を出て、日本に来た。奪って奪って、メフに来た。住人を殺して部屋を奪い、魔区の喫茶店でも人を殺し、同じように奪おうとして、今は――――。
「家族ってのはな、血なんだ。でもな、俺たちは血より濃いぃもんで結ばれてるんじゃなかったのかよ。なあ」
男の声が聞こえた。見知った声だ。メアリがメフに来てから世話になっている男のものだ。
その男はとある猟団を率いていた。そこで自分たちのような亜人や、行き場のないものを受け入れていた。
「んんんんー! んんーっ!」
今、メアリの隣で彼女と同じように椅子に縛られているものたちも、男の世話になっていた。
「おお、どうしたよ『ングじいさん』。何か言いてえことでもあんのか」
「ぐうううううう」
「ああ?」
メアリの隣で身じろぎする気配があった。しかし彼女には何も見えていない。ただ、ングじいさんが話せない理由は知っている。猿轡をかまされたのではない。男にしこたま殴られたからだ。
メアリ。ングじいさん。ヤオガーばあさん。ピラム。ここには四人、拘束されているものがいた。四人は、過日、喫茶タミィを襲った《杭刃》のメンバーである。彼らを拘束しているものこそ《杭刃》のリーダーだった。
リーダーは、またングじいさんの頬を殴りつけた。それでじいさんは黙った。
「そうだったな。そんな顔になってちゃあ喋れねえよな。でもな、今はあんたらが喋る時じゃない。ただ黙って俺の話を聞いてりゃいいんだ。じゃねえともう一発ぶち込むことになる。俺だってそんなことはしたくねえんだ。分かるだろ」
メアリには何も分からなかった。
「いいか。俺たちは、家族だ。それはお前らも分かってると思う。家族ってのは助け合って、支え合って、そうやって仲良くやってく集団のことだ。俺はお前らを家族と思ってる。でも、お前らはそう思ってなかった。今回のはそういう話だろ。違うか」
またングじいさんが何か言おうとして、鈍い音が響いた。椅子ごと殴り倒されたらしく、彼はずっと呻いていた。
「二度だ。俺はもう、二度裏切られた。最初の裏切りはいい。ありゃあ仕方なかった。俺が悪かったんだ。俺がもっとお前らにちゃんと言って聞かせてりゃあ、あのマンションの善良な住人は死なずに済んだし、お前らだって《花屋》に睨まれることもなかった。だから、そのことでお前らが苦しんでいるのなら俺は助けたいと思うし、実際に塒だって用意したし、衣食住に不自由しなかったはずだろう? だが二度目は違う。お前らはこの塒を出て行って、好き勝手にしやがった。いいか。お前らには言ったはずだ。家族を裏切るなって。だが家族を裏切った。お前らは家族を裏切ったんだぞ。だったらどうする。しつけをしなきゃいけない。だろ? 粗相をした子にはしつけをしなきゃいけない」
「ちょ、ちょっと待っとくれよ!」
叫んだのはヤオガーばあさんだった。喫茶店ではングじいさんと夫婦の振りをしていたが、実際は違う。二人どころか、ここにいるものたちはみな知り合って日が浅い。
「確かに、あの喫茶店のことは悪かったよ。でも、それにしたって酷いじゃないか。閉じ込めといて、まるで私らをペットみたいに……」
そこまで言いかけてヤオガーばあさんは黙った。男は鷹揚な態度で続きを促した。しかしその指は苛立たしそうにリズムを刻んでいる。
「ん? どうした? 続けろよばあさん。俺がお前らをペットみたいに、なんだって?」
「あ、い、いや、言い過ぎたよ。でも、私らだって」
「ああ、いい」
男は、相手に見えてもいないのに手を振った。
「お前らの言い分も分かっちゃいるんだ。ただ、許せねえんだ。俺自身をな。俺はお前らを疑ってる。本当は家族でも何でもないんじゃないかって。でも信じたいんだよ。俺のことも、お前らのことも。だから確かめさせてくれ」
見えなくてもメアリには分かった。男は人好きのする『あの』笑みを浮かべているのだと。
「家族ってのは喜びや悲しみを分かち合うもんだ。それこそ病める時も健やかなる時も。俺たちは確かに出会って間もない。だけど過ごした時間だけが血を濃くするわけじゃない。経験だ。いてえ経験。やべえって経験。そういうのを乗り越えて育まれるもんだってあると思うんだ。なあ。ここいらでもう一度、家族の絆を確かめようじゃないか。……ってわけで誰か一人に死んでもらいたいんだけどよ」
「は」
ピラム。喫茶店では店員の振りをしていた女が間抜けな声を発した。
「冗談よね?」
「冗談なもんかよ!」
盛大な物音が立てられた。男が何かを蹴飛ばしていた。
「ああ冗談であってたまるか。言ったじゃねえか。いてえ、やべえって気持ちが家族の絆を深めるってよ。いいか。大事なのは血だ。血によって俺たちは結びつく」
「どうかしてる」
「おお、俺ぁお前らのことになるとな、どうにかなっちまうんだ。それだけ大切に思ってるんだからよ。じゃあ選べ。決めろ」
「な、何を」
「だから誰が死ぬのか決めるってんだ! お前ら手ぇ上げろ! お前らの中でっ、家族のためなら死ねる! 血を流してもいいってやつは手を上げるんだ! 聞こえたな!?」
心臓が早鐘を打っている。メアリは自らの胸に手を当てて、息をした。男が何事かを喚いて、ピラムもヤオガーばあさんも必死になって彼の怒りを宥めようとしていた。その声は、メアリには届いていなかった。
自分たちは縛られて、目隠しをさせられている。メアリは、男が自分たちを試しているのだと気づいた。
「いいかっ、誰も手を上げないなら全員死ぬぞ。家族の命を救えねえってんなら生きていたって意味がねえからな!」
息が荒くなる。
誰が。
誰が死ぬものか。誰が犠牲になんてなるか。もとより《杭刃》に集まったのはならず者ばかりだ。他者を顧みないものたちの集まりだ。家族とは笑わせる。誰が。誰が家族だ。……だが、やる。この男はやると言ったらやる。誰も手を上げなければ皆殺しにされるのは間違いない。メアリは歯を食いしばっていた。
「お前ら静かにしろ。目を瞑れ。耳を澄ませろ。お前らの隣には家族がいる。一人一人のことを想えば自然と体が動くはずだ」
メアリの手は震えていた。膝に置いたそれはへばりついてびくともしない。手を上げねば死ぬが、手を上げたものも死ぬ。一人死ぬか、四人死ぬか。人数が変わるだけで誰かが死ぬのは確実だった。彼女は寸暇考える。四人で異能を使い、一斉に飛び掛かれば男を始末できるのではないかと。だが、その考えもすぐに霧散する。無理だ。既に試している。男には敵わない。既に敗北して、このざまなのだ。
「五つ数える。俺の心の中で。五つ数えて誰の手も上がっていなかった場合、四人とも殺す。四人だ。いいな」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「うるせえぞピラム。静かにしろと言ったはずだ」
「でもっ! でもおっ」
男は黙り込んだ。それで限界だった。
「わ、私っ」ピラムが声を荒らげた。
「子供がっ、赤ちゃんがいるの! お腹の、中にっ」
場の空気が凝って、そして確かに変わったのを、メアリは感じ取った。
「今、なんつった……?」
「妊娠してるのおおお、だからっ、だから私は無理なのおおお!」
「そりゃ、なんだ? は、ははっ、おい、マジかよ」
男は静かに笑った。そうして、大声で笑い転げた。心底から嬉しそうだった。彼はピラムの手を取り、ぶんぶんと上下に振った。
「新しい家族か! そりゃめでてえじゃねえかよ! なあ!?」
「だ、だから」
「おう、おう、なんだよ。いつできたんだ? 言えよー、んだよ水くせえなあ。で、相手は誰だ?」
ピラムは息を呑んだ。
「言えよ。ん? どうしたんだ? 赤ん坊の親父は誰なんだよ? ……おいおい、まさか、俺、とか言わねえよな? はっは、分かってる分かってる。ジョークだよ。笑え」
「そ」
「ん?」
男の顔がピラムに寄った。
「ソロヴェイ、なの」
「……なんだって?」
「ほ、本当。ソロヴェイが相手なの……」
メアリの脳裏にキツネ目の男が浮かび上がって、すぐに消えた。
嘘だ。彼女はそう断じた。確かに、ピラムとソロヴェイが覚えたての猿のように盛り合っていたのは事実だ。何度も見たし、一度だけ混ざったこともある。しかしこの絶妙なタイミングで打ち明けられるはずがない。ピラムが、自分だけでも逃れようとして嘘をついたに違いなかった。
「嘘だよっ、そんなのでたらめだよ!」
ヤオガーばあさんが叫んだ。
「ええ? おいおい、ピラム。なあ、嘘なのか?」
「う、嘘じゃないわ」
「嘘じゃねえってよ」
「そいつだけ逃げようとしてるに決まってる!」
「つってもなあ、確かめる方法もないわけだし、俺はピラムの言うことが本当だって信じてえよ。だってそっちのがすげえハッピーじゃねえか。なあ。家族が増えるんだぜ。新しい家族だ。こんな嬉しいことはねえよ。な?」
「う、うん、うん」
男は先までと違い、ピラムに優しい態度をとった。
「なあ、ちょっとお腹に触ってもいいか? 大丈夫かな。赤ちゃん動くかな?」
「さ、さあ、そこまでは」
「そっか。そりゃそうか、はっは」
男は、ピラムの腹に掌を当てた。
「ところでよ、ピラム。お前の相手がソロヴェイなのは、その、確か、なんだよな?」
「え、ええ」
「じゃあ、こりゃあ、どういうことだ?」
「え……」
ピラムは目隠しのまま顔を上げた。彼女には見えなかったが、男は、羅刹のような形相になって彼女をねめつけていた。
「分かってねえのかよピラムゥゥウウウ……! だったらよ、お前は、お前はよ、てめえのパートナーを裏切ったのか? てめえの腹ん中にいる赤ん坊の父親を裏切ったのか? あ? なあおいどうしてだよっ。ソロヴェイは、あいつは今、ムショん中だろうが! どうしてだか分かるか!? 喫茶店でてめえらに見捨てられて、一人だけとっ捕まったからだろうが!?」
「い、いたっ、痛いっ、痛いって!」
男の手には力がこもっている。
「ソロヴェイは、あいつはいいやつだった。よく働くし、よく言うことを聞く、いい家族だった! お前はっ、お前らはそんな家族を裏切ったんだぞ!? あいつを生贄にして自分たちだけ逃げて逃げて助かりやがったんだ! だ、だからよう。しつけをしなきゃいけない。粗相をした子にはしつけをしなきゃいけないよなあ」
「あっ、ああっ、ち、違うの! 違うの! ソロヴェイじゃなくって、その」
「嘘だったのか?」
男は、ピラムの腹の肉を指でつまんだ。
「言ってくれ、ピラム。お前は嘘をついたのか? 言ってくれ。頼む」
男の声音は優しかった。長い時間をかけて、ピラムは、小さく頷いた。
「そうか」
メアリの体に生暖かい液体が降りかかった。見えなくても分かる。それは紛れもなくピラムの血だった。
ごとり、と、ピラムが倒れた。彼女の体のあちこちに穴が開いていて、まだ温かい血がとめどなくあふれ出ていた。中でもひときわ大きいのは顔の下半分に空いた穴で、ピラムは一言も発せられず絶命していた。
「……こ、殺したのかい」
ヤオガーばあさんの声は震えていた。
「いや、違う。なんつーか、ピラムが家族じゃなくなっただけだ。それじゃ続けよう」
「な、何をだい」
「絆の確かめ合いだって言ったろ。ほら、五つ数えるから、家族のために死んでもいいってやつは手を上げろ。いいか、今から五つ数える。俺の心の中で。五つ数えて誰の手も上がっていなかった場合、三人とも殺す。お前ら三人だ。いいな」
「いいわけないだろ! 落ち着いとくれよ、なあ《コシチェイ》」
男は仲間内で《コシチェイ》と呼ばれていた。《杭刃》では互いを、それぞれに備わった異能の名で呼ぶ決まりだった。
「そこの女は自分が助かりたいからって家族を売った。俺にはもう確かめるつもりもねえが、あいつの腹ん中に赤ん坊がいたってんなら、その子は、母親に売られる為に生まれてきたようなもんだ。許せるかよ。てめえのガキを裏切るような女が、どうして俺たちの家族だって言えるんだ」
「コシチェイ……?」
男は、コシチェイと呼ばれた男は話を聞いていなかった。彼はぶつぶつと独り言ちているだけだ。
「あっ」
コシチェイは何かに気づいたかのようにして、椅子に縛られた三人を見た。
「もう五つ数え終わっちまってたな。お前ら、そのまま動かないでくれよ」
転がったままのングじいさん、何かを叫んでいるヤオガーばあさん、それから、黙りこくっているメアリの目隠しを外すと、コシチェイは笑った。誰も手を上げていなかった。
「あ、あの、あのね、コシチェイ」
何か言いかけたヤオガーばあさんが悲鳴を上げた。
「お前らとは短い付き合いだったよな。本当の家族にはなれなかったけどよ、でも、楽しかったよ。それは本当だ。嘘じゃない。嘘じゃないし、俺はお前らと本当の家族になりたかった。でも、まあ、約束だからな」
メアリの目には、今まさに異能を使おうとする男の姿が見えた。
「約束は守るんだ。俺は」
男の名は《コシチェイ》。だが、それは《杭刃》での通り名だ。彼の本当の名は瓜生晩。瓜生は《杭刃》を率いる一方、まっとうな猟団《救偉人》をも率いていた。
悪魔は――――。
「ディア、ボロ」
唐突に。
メアリの頭の中に、唐突に蘇った言葉があった。
『悪魔は天使の顔で近づいてくる。だって、本物の悪魔には羽根も生えていなければ、角だってないんだからね。君みたいに』
それは昔、彼女が、自分を殺そうとした男に囁かれた言葉だった。