生体解剖者
日限から連絡を受けたのは、幸が夕食を食べ終えて、むつみに意地悪いことを言われて、自室で明日の学校の準備をしていた時のことだった。彼はすぐさま部屋を飛び出した。
「何、慌てて。どうしたの?」
ちょうど、むつみも自分の部屋から洗面所へ向かおうとしていたところで、幸は思わず舌打ちしそうになった。
「その、忘れ物を……」
「もう遅い時間じゃない。明日じゃだめなの?」
じき、日付が変わろうとしていた。
「明日だったら、たぶん、間に合いません」
むつみは眉根を寄せた。彼女は幸の顔を両手で捕まえて顔を寄せる。至近距離でガンつけられて、幸は目をそらしそうになった。
「裂け目に行きます。玖区の」
「今から?」
「ケモノが出たんです。たくさん」
「なんで君が行くの」
「なんでって」
むつみは力を加えた。幸の顔が潰れそうになり、彼は叔母の腕を払う。
「呼ばれたからです」
幸は睨むようにしてむつみを見上げていた。彼女は顔をしかめる。
「……玖区の裂け目。嘘は言ってない?」
「言ってません」
「古海をやるから、そっちで合流して」
「え?」
「行ってもいいけど、一人で勝手なことしないでってこと。分かった?」
「分かりました」
「得物は?」
「向こうで調達します。お店、閉まっちゃってるし」
むつみは小さく頷いた。
あいつ、すごい目で睨みやがった。
むつみは携帯電話を操作していたが、自分の指が怒りで震えていることに気がついた。それでもお目当ての人物に連絡を取ることに成功した。
「はぁい……? 何? 何なの?」
眠そうな声の古海が電話に出て、むつみは用件を告げた。
「……んえ? え、なんて? 今から玖区に? 私が? え……私が行くの?」
「お願い」
「は、はあああ!? 今何時だと思ってんの!? あんたが行きなよ! つーかさっきまで幸くんと一緒にいたんなら、そのまま一緒に行けばよかったやん! よかったやん!」
「お願い」
「や、やっと寝れたんだけど……ここ最近、市役所が忙しいって、あんただって知ってるじゃん。ぜんっぜん手伝ってくれないけどさ、あんたさ」
むつみは同じ言葉を繰り返した。
「なんであんたが行かないのよ」
「為にならないから」
「幸くんの? まあ、あんたが出張ったら一人で片付いちゃいそうだけどさ」
嘘だった。
むつみは、幸が痛い目に遭えばいいと思っていた。そうすれば大人しくなる。少なくともベッドの上にいる間は。
幸は言うことを聞かない。嘘もつく。さっきも自分が見つけなかったらこっそりと家を抜け出していたに違いなかった。
「くっそう。なんかおごってよね。それかいい男連れてきてよ」
「幸くんなら向こうで待ってるよ」
「嘘つけ。過保護め」
「過保護?」
むつみは愕然とした。
「こんな時間に人を叩き起こして、可愛い甥っ子に付き合ってくれって言ってんのよ。それが過保護じゃなかったら何なのって話。まあいいけど。とりあえず、すぐに追いつくから」
「……ごめん、お願い」
「はいはい。あっ、そういやどうしよスッピンなんだけど私」
むつみは電話を切った。ふらふらとした足取りでリビングに戻り、椅子に座って髪の毛をかき回した。
「過保護?」
無性に腹が立った。幸が絡むといつもこうだ。
『可愛い甥っ子』
古海はそう言ったが、幸を引き取ってから数か月経ってもそのような実感はなかった。むつみは、彼が自分にとって何なのかが分からなかった。
駆ける、駆ける、暗がりを駆ける。夜が明ける前に、朝が来る前に、何もかもが終わる前に辿り着かねばならない。
幸は息を切らしながら足を動かし続けた。もう一つ、彼を動かしていたのは彼自身にも制御できないほど昂り、荒ぶった感情だった。ぐるぐると渦を巻き、若い熱を糧にして幸の中を好き勝手に走り回る。彼はそれをよしとした。
拾区を過ぎ、玖区に足を踏み入れた時、前方の大きな木から音がして何かが降り立った。幸は咄嗟に足を止めて目を凝らす。降りてきたのは女だった。サマーニットを被り、眼鏡をかけ、マスクをした古海だった。
「あっ、こんばんは古海さん」
「え」と古海じみた女は珍奇な声を放った。
「私って分かるの? マジ……?」
「……? 古海さん、眼鏡かけてましたっけ?」
「こういう時はかけるの。はああああ」
古海はゆっくりと呼吸して幸に向き直った。
「やあっと追いついた。幸君、結構足速いんだね」
幸はそこで、古海との合流が早過ぎるのではないかと訝しんだ。
「古海さんこそ、えっと、走ってきたんですか?」
「というよりまあ、ぶっ飛ばしてきたって感じかな。それより、魔区の裂け目って向こう?」
「そうです」
「ケモノが出たんだって? ぞろぞろとまあ、そこの狩人は何をやってんだかホント」
幸と古海は森に向かって走り出した。彼は道すがら事情を説明するつもりだったが、無理だった。彼女のスピードについていくのがやっとで、話をする余裕などどこにもなかった。もはや幸からすれば人のそれではない。まるで獣だ。疾駆する矢のようだった。それでいて古海はまだ加減をしている。幸がぎりぎりついていける速度を維持しているように見えた。
「おっと」
と言って古海は立ち止まった。幸は、自分たちが喫茶店の近くにいることに気がついた。彼女は店を指差していた。『元』喫茶タミィ『現』オリガたちのラボの前には日限がいた。幸が呼びかけると彼は焦った様子で近づいてくる。
「どうなっていますか」と訊ねれば、森でケモノが暴れ回っていると言う。狩人も学者も研究者もてんてこ舞いだとも言う。幸は小さく頷き、先を急ごうとした。
「君、本当に行くのかね」
古海は話が長引きそうだと察したのか、それとも日限が『すっごいうっざいおっさん』だと気づいたからなのか、先に森へ向かった。
「いや、君に連絡をしたのは私だが、私は、『誰か狩人の知り合いはいないか』と聞いただけだ。君に『来てくれ』だとか『ケモノをどうにかしてくれ』などと言った覚えはなかった」
「はい」
「だから、私は君に行くのかと訊いたんだ」
「ぼくは狩人ですから」
幸は日限に背を向けた。その背に声が投げられた。幸はその声を無視した。聞こえなかった振りをして駆け出した。
八街幸は武器を持っていなかった。身一つでケモノがひしめく森へ向かった。目をそらしてしまいそうなほど若く、眩しい後姿をしていた。それは日限にとって羨ましくもあり、哀れでもあった。
日限は頭をかく。喫茶店に戻ろうとしたが、人の気配を察して立ち止まった。
「君らはどうするんだね」
「なんだ。バレていたのか。案外鋭いな、日限」
きいきいと車輪が軋む音がする。暗がりから現れたのはオリガとアレクセイだ。
「あのちいこいのは行ったのか。前から思っていたが、やっぱり死にたがりだな」
「お師匠」
「だって本当のことだろう。あいつ、喜々として向かっていったぞ。……ああ、そうか。お前がそこで突っ立っていたのは、あのちいこいのを止めるためだったのか」
オリガは口角をつり上げた。
「だが止められなかったな。いや、気に病むことはない。同じ羽根の鳥は生まれないということだ。お前とあいつは同じ人だが、生き方が違う。お前は引っ込み、あいつは飛び出て行く。それだけのことだ」
「君は私のことを知っているな。……それはいい。不快だが我慢できる」
「ほう」
「だが、我慢ならないことがある。君のその目だ。その声だ」
オリガは笑みを深めた。
「私とお前は似たような目をしていると思うが」
「似ているだけだ。同じではない」
「……そうか」
「一つ、頼みごとがある」
オリガは笑った。そら来たと言わんばかりに。
「ケモノを殺せと言うんだろう? この喫茶店を滅茶苦茶にしたみたいに」
「そうだ」
「嫌だね。断る。心から」
「私は君らの正体を知っている。君らが私のことを知っているようにだ」
日限は言い切った。彼は、試すような目でオリガたちを見ていた。
「正体? おかしなことを言うものだ」
「その代わりに私の論文を君らにくれてやる」
オリガの顔つきが変わった。人を馬鹿にするための作り笑いは消え去っていた。
「この世の真理を知ったかぶって白痴とまで言われたが、そんなものでよければくれてやる」
「どういうつもりだ」
オリガの声は震えていた。彼女は明らかに怒っていた。子が親に裏切られたような、そんな形相をしていた。
「そこまでしてあの子を助けろと言うのか! アレはなんだ! お前の稚児か!」
「思ってもいないことを口にするのはやめたまえ」
「そうやって逃げるのか! 見ろ! 扶桑はここにある! 真実を確かめたくはないのか! 自分は間違っていなかったんだと! お前らが間違っていたんだと!」
「ならば、なぜ君は裂け目に行かないんだ」
オリガは答えなかった。
「怖いんだろう。私もだ。ああ、そうだ。真実が明らかになるということは、それ以外の全てが間違いであることをも示す。そこに辿り着くまでに自分の人生すらかけたものもいるだろう。……全てだ。己の思考も、仮定も、道程も、情熱も、真実の前では何もかもが無駄になる。たった一つの答え以外が無に帰すことを怖がらないものはいない」
「黙れっ」
「怒ったかね。図星を突かれたからか? そうか。案外と人間らしいことをするんだな、君も」
オリガの目は血走っていた。
「落伍者が偉そうに言うんじゃないぞ」
「君は逃げたと言ったが、私は逃げたんじゃない。止まっていただけだ。体が重くなって、随分とゆっくりしてしまったがな」
「な、何を」
「君はどうだね。逃げるためにここへ来たのか。それとも休みに来たのか」
そうだ。
そうだと己を鼓舞する。日限は自嘲した。だが、止まっていた針がくるくると回り出すのを実感していた。
「いいだろう」
オリガは言った。
「ちょうどいい。今、どうしてだかとても腹立たしい気分なんだ。ケモノどもをぶち殺してすっきりした後、お前の人生とやらをとっくりと読ませてもらう。おい、二言はないな」
「ああ、ないとも」
「アリョーシャ! 私は先に行っている。一等強いのを持ってこい」
「かしこまりました」
日限はため息を漏らした。安堵の息もそこには混じっていた。
「上手くやりましたな」
アレクセイは微笑を湛えていた。
「お師匠の動かし方をよくご存じのようだ」
「そうかね」
「あと少しで私の方が先に切れていましたが」
「……そうかね」
アレクセイは店の中に戻ろうとしていた。
「だが、嘘を言った覚えはない。それが分かっていたから、君の師も森へ向かったのだろう」
アレクセイは小さく頷いた。
木々のアーチを抜けると、そこには戦いの光景が広がっていた。
裂け目の周辺では巨大なカエルどもが跳ね回っている。げろげろげろげろ鳴いていてやかましかった。幸は耳を塞ぎそうになったが、それを我慢して辺りを見回す。
狩人たちは劣勢だった。ケモノの数がやけに多い。研究者との諍いで大半が調査から降りていたというのもある。先行した古海は、散り散りになって戦う狩人たちを良くまとめて指示していたが、それにも限界があった。
「旦那ァ!」
右方からくるくると回るものが見えた。鉈だ。幸は異能を使い、それをキャッチした。手の中に収まった得物からは違和感だけが伝わってきた。
幸に鉈を投げた古川は返り血塗れである。
「状況は見りゃあ分かるでしょう!」
幸は頷いて返した。やることは一つだ。
最初、幸は手近なカエルのケモノを見た。鉈を投げつけるとケモノの腹に当たる。血飛沫が上がった。空手になったが、すぐさま《花盗人》で別の鉈を引っ張ってくる。死ぬか、逃げた狩人がいたのだろう。地面には多様な武器が転がっていた。それら一つ一つに蓄積された使い手の経験が、幸を戦いのるつぼへと引っ張り上げるに違いなかった。
この力は自分のものではない。借り受けたものだ。それでも今、自分には戦う力がある。幸は両手に得物を持ち、くるくると弄びながら次の獲物を探した。