猫の手なら借りたい
大空洞と地上を結ぶ裂け目は玖区の中心部にあった。煙が立ち込め、蔦が覆い、木々が生え並ぶ一帯である。背の高い樹木が陽光を遮っていて昼でも薄暗く、ろくな建物がない場所であり、常なら人気がほとんどない場所だが、今は違う。裂け目を取り囲むようにして多様なテントが設営されていた。周りには狩人や、この一帯を調査する研究らしきものたちが大勢いた。しかし違いはある。
今この場所には四種類の人間がいる。
一つはメフに元から滞在している、あるいは住んでいる研究者だ。彼らは、実はあまりやる気がない。既に大空洞を調査しているからである。誤解を恐れず噛み砕いて言えば、ぶっちゃけ飽きているのだ。少なくともここにいるものたちはそうだ。そうでないものは今も自分の研究室で興味深い研究対象と向き合っている。
もう一つはメフの外から来た研究者である。彼らにはやる気がある。気炎万丈である。何せメフに来られる研究者は限られている。誰もが好きな時に来られるわけではなく、自分の順番を今や遅しと待っているのだ。そんな折、新たな裂け目が見つかった。これ以上ないタイミングで。何かしらの発見ができればこんな嬉しいことはないというわけだった。
四種の内、三つめは『強い』狩人で、最後の一つはそうでもない狩人だ。
さて、研究者はメフで力を持つ猟団、あるいは市役所に協力を依頼する。彼らだけでは危険な場所に出入りできないからだ。協力者の力の差が大空洞に入れるかどうかすらをも決める。腕の立つ狩人を雇えれば空洞内の調査、攻略もスムーズになる。有力な猟団なら発言力もあり、他の狩人を牽制できる。しょうもない狩人を雇ってしまうとろくなことがない。研究者はどうにかして安く、上手い狩人に手を貸して欲しいのだ。
しかし、今は地震のせいで市役所にいる正規の狩人や有力な狩人は忙しくなっている。玖区以外に裂け目ができたかもしれない、大空洞でも何か起こったかもしれないと、他所でそういったことを調べている。だから調査に力を貸すのは主にフリーの狩人で、ここにいる有力な狩人は数が少なかった。
そうなると始まるのは人材の奪い合いである。数少ない有力者を雇おうと、メフの外から来た研究者は目を皿のようにして、ぎらぎらとした光を放つ。そして狩人たちも自分を売り込もうとする。しかし外から来たものに狩人の良し悪しなどつくはずもなく、一刻を争う状況下で『では面接を始めます』というわけにもいかない。試されるのは己が観察眼、洞察力である。曇りのない眼で真実を見通すほかない。
そういった状況を高見で見物してせせら笑っているのはメフに元からいる研究者たちだ。彼らは、自分にもこんな時期があったなあと懐かしみ、我先にと高い金を払って味噌っかすを掴もうとする外様のものを哀れむのだった。
「おい、来たぞっ」
「相変わらずはええなあ」
混沌極まりつつある魔区に五種類目の人間が現れた。食料や薬を売りに来た商売人である。これも風物詩というやつだった。彼らが来ると場はより一層ややこしくなる。臨時商店を出すいかるが堂とタダイチの人間は声がでかい。謳い文句を朗々と述べる狩人の声やよそよりも賃金を弾むと声を荒らげている研究者たちのそれと混ざり合い、ケモノが遠吠えを放っても誰も気づかないと思われる喧しい有り様であった。
裂け目が見つかってから二日後、幸はいかるが堂の店員と共に追加の物資を臨時商店まで届けに来ていた。日限と再会したのはその帰り道でのことだった。最初、日限は彼を無視していたが、幸がしつこく話しかけてくるので仕方なく応じた。
日限は相変わらず暑そうに汗をかいており、額のそれをハンカチで何度も拭っていた。
「馴れ馴れしく話しかけないでもらおう」
「日限さんはもう外に帰ったのかと思ってました」
「何もしていないのに帰られるはずがないだろう」
「扶桑を研究したいからですか」
「そうだ」と日限は重々しく頷く。
「あんなことがあったのにですか?」
「喫茶店のことか」
あの後、日限は殺された友人に代わって『喫茶タミィ』を引き継ぐことにした。幸は古海やむつみからそのことを聞いていたが、少し不思議に感じていたのだ。
「元々そのつもりだったからな」
「え?」
「あいつは体が弱くてな、誰か、信頼できる人に任せたがっていた。しかしまあ、これといったやつが見つからないものだから仕方なく私に声をかけてきたのだろう。ちょうど、私もメフに行きたかったからな」
「じゃあ、あの時の約束って……」
幸は日限の目的をおおむね理解しつつあった。
「まさかあんなことになるとは思わなかったがな。しかも、なんだ。あの店を襲った連中はまだ全員捕まっていないと聞く。こんな狭い街なのに、警察はどこのどいつも、使えないやつらばっかりだ」
「メフは狭いようで広いですから」
「ふん、そうかね」
つまらなそうに鼻を鳴らすと、日限は天を仰いだ。禿げかかった頭がきらりと光った。
「君は何をしに来たんだね。まさか大空洞の調査に来たわけでもあるまい」
「ぼくはいかるが堂でアルバイトをやっているものですから」
「ああ、あの、声の大きい連中か」
「日限さんはもう調査を進めてるんですか」
「ああ、まあ、そうだな」
日限は歯切れが悪かった。幸は何となく察した。以前にも揉め事を起こした彼のことである。狩人や他の研究者と諍いがあったのだろう、と。そしてその読みは当たっていた。
「もう色んな人たちが調査をしてるみたいですね」
「まあ、そうだな。……今、裂け目に入ろうとしている、大勢いるやつらが見えるか。あの連中が裂け目の最も奥へ進んでいる。最前線にいるチームというわけだ」
幸は、裂け目の周囲に群がっている白衣の集団を見た。それから、彼らを先導する狩人たちの姿も。
一行のまとめ役らしき若い男は笑っていた。規模が小さいとはいえ、これから大空洞に入るというのに。彼の慣れた様子に幸は嫉妬すら覚えていた。
「確か、長野だったか? そのあたりから来ていると言っていたな。何やらまだ若い女が率いていたが、見たまえ。やる気に満ち満ちている」
「日限さんもやる気ですよね」
「やる気はある」
そして日限は裂け目の周辺にいる目立った者たちの説明を始めた。説明には多分な毒が交えられていた。それで幸は、彼と誰が揉め事を起こしたのかを察する。
「日本だけじゃない。他国の研究者の姿も見えるな。……ここに集まったものは反目し合い、けん制し合っている。だから裂け目内部の調査はあまり進んでいない」
「そうなんですか? でも、ぼくだったら先を急ぎたくなりますけど」
「無論、皆がそうだ。しかし東山ン本ほどの規模でないにしろ、あの裂け目もまた大空洞。どのような危険が待ち受けているか分からん。足を踏み外して死ぬかもしれんし、ケモノに食われて死ぬかもしれん。情報が欲しいんだ。だから二の足を踏んでいるものがほとんどだ。そもそも出入口も裂け目の中もあまり広くないらしいから順番待ちになっている」
「詳しいですね」
「外のことばかり詳しくなる。私が知りたいのはあの中にあるものだというのに」
「日限さんはどこのチームにも入れてもらえなかったんですね」
う。
という声が日限から漏れた。幸にそのようなつもりはなかっただろうが、日限はさっぱりと切り捨てられたような気分を味わっていた。
「よかったらぼくが手伝いましょうか」
「何をだね」
「ぼくも狩人の端くれですから」
日限は値踏みするような目を幸に向けた。
「それに、ぼくもあの中には興味がありますから」
幸は日限の視線を無視していた。ただ、裂け目に、あの先にあるものをじっと見据えていた。
凝っている。
日限は幸の熱意をそのように感じていた。
「行きたいのかね。あの中に」
「はい。日限さんじゃなくても別にいいんです。中に入ってみたい。何があるのか見てみたいなって」
「それは、もしかして駆け引きのつもりかね」
幸は小首を傾げた。日限は苦笑し、膝を叩いた。
「いいだろう。少しどころではなく頼りないことこの上ないが、これも何かの縁だ」
一言余計だったが、幸は日限の調査を手伝うこととなった。
二日後、幸と日限はまだ裂け目の中に入れないでいた。それどころか近づくことすらできないでいた。日限の余計な一言や不躾な物言いがここいらにいる狩人や研究者たちの間に伝わっていたからだ。
狩人を雇おうとすれば礼を失して、研究者を見かければ進捗状況を聞き出そうとして無理に迫り、聞いたら聞いたで鼻で笑う。もはや油どころか喧嘩を売りに来たとしか思えない所業であった。
「性格なんだ。この歳になると曲げられん」
しかも日限は開き直っていた。
「もう日限さんは喋らないでください。ぼくが他の人にお願いしますから」
「ふん、勝手にしたまえ」
幸は勝手にすることにした。裂け目の調査をしているチームはいくつかある。大抵は手が足りているからと断られるが、手伝いくらいならばと答えてくれるところもあった。しかし幸の傍にいる日限に気がつくと、やっぱり帰ってくれ、手伝いは要らないと断られるのであった。さすがにこういった状況になると日限も困ったのか、姿をそっと隠して幸の動向を見守るのだが時すでに遅し。幸は『あのおっさん』と一緒にいる『あのちっこいの』と認識されつつあった。
「金と時間、熱意があっても物事はそう上手く回らんようになっている。コミュニケーション能力が問われるんだ」
日限は訳知り顔で言った。
「なんで、分かってるのにこんな感じになるんですか」
「それが分かっていたなら苦労はしない。わざわざメフまで来ることもなかった」
「……どうしてメフに来たんですか」
幸は日限の横顔を見た。彼は、どこか遠いところを見ていた。
「この歳になってな、確かめたいことができた」
「何を確かめたいんですか」
日限はすぐに答えなかった。渋っているのではない。彼は自分でもよく分からないことを話すのが得意ではなく、考え込んでいたのだ。そうしているうち、人相の悪い男がやってきて幸に声をかけた。
幸は少し怯んだが、顔つきの凶悪そうな男がベルナップ古川なる人物だと気づくと相好を崩した。
「八街の旦那ァ、こんなところで会うたあ奇遇ですね。いや、おれらぁ両方狩人だから、奇遇ってこともねえのか」
古川は頭をがりがりとかき、にっと歯を剥き出しにして笑った。
「おや、そちらの方は」
「なんだね」
古川も日限のことを知っているのだろう。意味ありげな笑みを浮かべた。
「どうやらお困りのようで」
「はい……裂け目に入れないでいます」
「なるほど」と、古川は幸の隣にどっかりと座り込んだ。
「古川さんも調査のお手伝いですか」
「おかげさまで稼がせてもらってやす」
「相変わらず如才ない感じですね」
はっは、と、古川は声を上げて笑う。彼はよく笑う男だった。
「如才ないたあ難しいことを言いますね。でもまあ、そちらは何のつてもないみたいじゃあないですか。いけませんぜ八街さん。おれら狩人は日頃からコネを作っとかねえと。いざ調査が始まるって段になってから売り込もうったってそうはいかねえ。始まる前から売り込んでおくんでさ」
日限が大きく頷いた。
「そういえば、やたらスムーズに狩人と組んでいる連中もいたが、あれは君らのようなものと既に組んでいたからなのか」
「そういう契約でね。何かありゃあ手を貸しますぜって、学者先生たちの『常連さん』になっときゃあいざって時に焦らなくていい。何度も組んでりゃあ互いのやり方だって分かってきてやりやすくもなりやす」
「それじゃあ、ぼくらはちょっと遅過ぎましたね」
「いやいや」
大仰な動作で手を振り首を振ると、古川は口を開いた。
「八街さん、コネならもうあるじゃねえですか」
「いや、ないと思いますけど」
「はっは、おれがいるじゃあないですか。何、ここで会ったも何かの縁。よかったら、おれの雇い主に一声かけてみますよ。別の雇い主からの紹介なんですがね。金払いがいいもんでね、へっへ」
「いいんですか?」
「神社じゃあ稼がせてもらいましたし、やっぱり旦那からは金のニオイがするもんでね」
幸は苦笑する。古川はそれを了承ととらえた。
「お言葉に甘えます。日限さんもそれでいいですよね」
「……仕方あるまい」
「あっ、もう、どうしてそんな嫌な言い方するんですか」
幸と日限のやり取りを、古川は笑いをこらえながら見ていた。
古川に案内されたのは裂け目に設営されたテントのうちの一つだった。大型のテントで、数人が中にいても息苦しさは感じられなかった。そのテントの中に古川の雇い主がいた。車椅子であぐらをかく、人形のように白い肌の少女だった。傍らには大柄の老人がいて、彼女は髪の束と睨めっこをしているようだった。
「あ」と声を出したのは幸と日限だ。二人は車椅子の少女を指差していた。
少女はつまらなそうに二人を見返した。
「おや、こいつら、どこかで見たことがあるな」
そう言うと、傍らの老人が声を潜めて言った。
「先日、玖区の喫茶店で」
「喫茶店……ああ、ああ、いたな、そういえば。日本人は全部同じに見えるから分からなかった。ああ、なんだ。あの時のか。これもめぐり合わせというやつか」
少女は笑った。何も気にしていないという風に。
しかし幸と日限はそうはいかなかった。
「どうしてここにいるんですか」
幸の口調は固くなっていた。おや、と、不思議そうに首をかしげるのは古川である。
「お知り合いでしたか。なんだ、旦那方も人がわりいや」
「そうではない。この女はな」
と、日限は何も知らないであろう古川に事情を説明した。
「へええ、そんなことが。しかし、この人たちが学者先生ってのも本当の話でさあ。確か、どこだかってえらいとこの」
「ええい、どこだ。どこの研究者だ」
「サンクトペテルブルクの研究所だ」
「サンクト……植物研究所だとう? 馬鹿な。どこの世界に喫茶店を無茶苦茶にする研究者がいるっ。いてたまるか」
「いるんだよ」
少女は溜め息を吐いた。
「ここにいるということはお前も学者の端くれだろう。まず真実を真実として受け止めることから探求が始まるんだ」
「真実をそうではないと疑ってこそだろう」
「自分の目で見たものすらを信じないと?」
「私は私自身すら疑ってかかる。何もかも頭から鵜呑みにするのは、ただの甘えだ」
少女と日限、二人の間には見えない火花が飛び交っていた。そう思わせるほどのにらみ合いである。
「お師匠、どうかそのあたりで。これでは話が進みません」
少女は舌打ちすると日限から視線を外した。その代わりに今度は老人が彼に向き直る。
「先日のことでお師匠が謝罪することはありません。我々もあなた方と同じだ。巻き込まれたに過ぎない」
「勝手な物言いだな」
「事実です。そしてあなたはまだ勘違いされているかもしれませんが、我々は決して人殺しではない。先も言いましたがれっきとした研究者です。メフには扶桑を調べたいから来た。それだけです」
日限はまだ車椅子の少女や老人を信じていなかったが、幸は信じかけていた。少なくともこの二人がこの件に関して嘘をついているとは思えなかったからである。
「ぼくは大丈夫だと思いますよ。嘘は言ってないと思います。ただ、言ってないことがあるだけで」
老人は穏やかな顔つきで幸を見下ろす。
「分かってくれて嬉しいです。私はアレクセイ・イリイチ・シュシュノーフ。こちら、オリガ・イリイーニチナ・シュシュノワの助手をやっています」
アレクセイと名乗った老人は口元を緩めた。しかし、オリガと、そう紹介された少女が口を挟んだ。
「勝手に話を進めるな。言っておくがな、手伝いなんていらないんだ。そこの白髪の狩人くんが腕のいい猟団を紹介してくれたからな。調査は順調だ。何も問題はなく、滞りなく進んでいる。だからこれ以上人を増やす必要なんかない」
「だから何だ」
日限は鼻息を漏らす。強気だった。少女は老人にたしなめられたが、気にしないであぐらをかいたまま手のひらを広げた。
「メリットだよ。お前たちを雇うことで私に何の得がある?」
「お師匠。さっきは『猫の手も借りたい』と言っていたではありませんか」
「ああ、猫の手はな。猫の手だったらな。だって猫は可愛いからな。見たことがあるか、あの手を。あれは可愛さの権化だ。そりゃあエジプトの兵士だって降参するだろうさ。しかしこいつらを見ろ。一人はちっこいが小生意気だ。もう一人は冴えないおっさんだぞ。猫の手どころか足元にも及ばない。雇う理由があるか?」
「はあ」と、アレクセイ老人は相槌を打った。
「メリットがない。しかし交渉の余地はある」
オリガはテントの外を指差した。
「あの喫茶店、ここから近いところにあるな」
「それが?」
日限は裂け目の調査に来たが、この近辺で寝泊まりしていなかった。彼は友人から喫茶店を引き継ぎ、そこを拠点にして活動していたからだ。
「お前がそこをねぐらにしているのも知っている。あの喫茶店、そこまで悪くはなかったな。少し小さいのは気になったが」
「何が言いたいんだね」
「あそこを私たちにも使わせろ。そうすればお前らをうちに入れてやってもいい」
日限は絶句した。
「驚くことはないだろ。だってチームになるんだ。助け合わないといけないよな。ここは暑いし、虫も多い。あの喫茶店で調査できるんなら随分と助かる。ほら、メリットだ。お前らが私に提示できる唯一のものだ」
「……だ、誰があの店を元通りにしたと思っているんだ」
「じゃあ、いい。構わない。私も忙しいんでな。ほら、いったいった」
鬱陶しそうに言うと、オリガは幸たちにくるりと背を向けた。
「ぐっ、ぐ……この……!」
「どうどう、落ち着いてください」
日限はオリガをねめつけたが、幸と古川に宥められながらテントを出て行った。