魔区の喫茶店<2>
『喫茶タミィ』は緑の中にある。迷路のような道を抜け、木々のアーチを潜った先に木漏れ日を受けてぽつねんと。来訪者を最初に迎えるのは温かみのあるベージュ色の壁に水色のドアだ。まるで誰かの家へ遊びに来たかのような、隠れ家的喫茶店である。ドアチャイムの音ともに入店すれば、店内のインテリアは木材をベースにしてシンプルにまとめられているのが分かる。ナチュラルテイストみたいなやつ。道に面した窓は大きく、陽光を取り入れているためか開放感があった。店に漂う濃厚な豆の香りを掻き分けるようにしてカウンター席に座り、店主ご自慢のブレンドを一杯。そうしてちょうどいいボリュームで流れるボサノヴァに耳を傾ける。鞄から読みかけの本を取り出してそれを開くのもいい。顔なじみの常連に目だけで挨拶するのもいいだろう。腹が減れば日替わりランチを頼むのもいい。店に時計はない。暗くなるか、気が済めば店を出ればいい。誰に急かされることもないのだ。あなただけの時間がここにある。そう、ここは喫茶タミィ。玖区住人の憩いの場である。そして吾輩は閑古鳥である。客はまだ来ない。
お前は誰だ。
そう問われれば幸はこう返すつもりだった。お客さんですと。
「……ええと?」
喫茶店に入った瞬間、幸たちは無遠慮な、びしばしとした視線を浴びた。彼らは思わず固まってしまう。
幸は視線をさ迷わせる。店内には老若男女、店員と客を合わせて七人いた。その中で最初に声を発したのは、エプロンをつけたアジア系の若い女であった。少し肌が焼けていて、もっさりとした黒髪は特に手入れもされておらず田舎娘と言った風情である。彼女はぎこちない笑顔を浮かべていらっしゃいませと頼りなげに言った。
「あの、あなたたちは」
「は?」
雪蛍が細い目で店員を睨んだ。彼女は慌てて手をぶんぶんと振った。
「あっ、ああっ、お客さんですよね! 違いますよね! えっと、席に案内すればいいのかな……」
店員の女はきょとんとした顔になって、奥のテーブル席を指差した。
「あっ、あっ、それじゃあですね、では、あちらを使ってください」
「いや、そうではなく」
「どうぞどうぞ、遠慮せずに!」
「……君、ここの人間かね?」
「こないだから、は、働かせてもらってるんです!」
日限はため息を漏らし、頷いた。彼らは店員に言われた通り奥のテーブル席に座った。しばらく待っても店員は傍に立ちっぱなしだったので、浜路は彼女にメニューがあるかどうか聞いた。
「メニュー、メニュー、ちょっと待ってくださいね。ええと」
「これじゃないんですか」
幸がテーブルの隅に置いてあったスタンドからメニューを抜き出した。
「あっ、たぶんそうです!」
「たぶんって……」
浜路はメニューを食い入るように見つめてからしこたま注文した。日限は呆れたような顔になった。
「おごるとは言ったが……食べきられるのかね」
「お腹減ってますから。なるべく早く持ってきてください」
店員はくりくりとした目を動かして無言で突っ立っていた。
「あの、聞いてますか?」
「え? あ、ああ、注文ですか。えーと、その」
「聞いてなかったんですか? じゃあもう一回言いますからね。この、日替わりランチと店主おすすめの春風のティラミスと」
「ご、ごめんなさい、できません! あのっ、私、ここに来たばっかりであんまり仕事教えてもらってないので」
先までつんと立っていた浜路の耳と尻尾が垂れた。
「できない……?」
「料理は、そのう。飲み物くらいなら大丈夫だと思いますけど」
「何とかなりませんか」
「料理は苦手なので」
「そこを何とか」
「もう飲み物だけでいいじゃない。別の店で」
言いかけた雪螢だが、浜路に睨まれて仕方なく口をつぐんだ。
「別の店だったらおごりがなくなるじゃあないですかっ」
「できないと言っているのだから仕方あるまい。君もいい大人だったらぎゃあぎゃあやかましいことを言うな」
「じゃあ飲み物でお腹膨らませますから!」
「分かった、分かった。どうせその店員では大して期待できまい。おい、できるものでいいから、何か適当に持ってきてくれ」
「は、はい、ちょっと待っててください」
店員はカウンターの方へ回っていくが、周囲を忙しなく見回してから動かなくなった。何をどうしていいのかが分からないらしく、カウンター席の端に座る、大学生風の若い男に声をかけていた。男の顔立ちはそこそこ整っていたが、視力が悪いのか、睨むようにして本に顔を近づけて読んでいた。
「あのう、コーヒーの淹れ方って……」
「なんでおれが」
「いかにも知ってそうだなあって」
大学生っぽい男は幸たちのテーブルを一瞥すると、面倒くさそうにしながらも席から立ち上がった。その様子を見た雪蛍は浜路を宥めるようにして言った。期待できないと。
「あ、お客さんにコーヒー淹れてもらってますね」
「さっさと帰った方がよくない? コンビニのお菓子くらいなら買ったげるから」
「嫌です。私はここで何か食べていくと決めました」
浜路は頑なであった。彼女はぎゃあぎゃあうるさいが、幸はすっかり慣れたもので、冷房がキンと効いた店内に人心地ついて、聞いたことのない音楽に心を奪われていた。やがて若い男は店員の代わりにコーヒーを入れる準備を始めていた。
しばらく待っていると店員の女がコーヒーの入ったカップを盆に載せておっかなびっくりやってきた。幸の前にカップが置かれる。くるくる回って立ち上る白い湯気と共に、芳ばしい香りが鼻まで届いた。黒々とした中身に目を落とすと、彼は一緒に置かれた銀色の砂糖壺に手を伸ばす。さじですくった砂糖を二度ほど入れた時、隣に座っていた日限がむせた。彼は乱暴な手つきでカップをテーブルの上に置く。熱い液体が少し跳ねた。
「なんだ、これは……!」
まるで毒でも入れられたかのような形相で、日限は店員をねめつけた。
「な、なにがですか」
「こんなものをよくもまあ出せたものだ」
「まずいんですか?」
「ああ、そうだ。まずいと一言で済ませるにはもったいないくらいにな。……なにぃ、一杯八〇〇円だとう? これでか。これで金をとるのか!」
あんまりにも日限がまずいまずいと言うので、幸たちも興味本位で後に続いた。彼はコーヒーを啜った瞬間、吐き出しそうになった。雪蛍は床の上に吐き捨てていた。
「薄いというか、なんなんですかねこれ」
「苦い……」
浜路は美味そうに飲んでいた。
「君、平気なのかね」
熱いコーヒーを飲み干した浜路は、苦虫を噛み潰したような顔になっていた。
「まずいと言えばまずいですが、まあ、害はなさそうですから。ですが口直しに何か別のものをください」
「あ、あのう、コーヒー以外は置いていなくって」
「この際だ。水でも構わんから持ってきてくれ」
店員は泣きそうになりながらカウンターに戻る。日限はハンカチで額の汗を拭った。
「やれやれ、とんでもない店番がいたものだ」
「作ったのはあの子じゃなくって、あっちのやつだけどね」
大学生風の男は席に戻って読書に興じていた。
「これだから最近の若いのは。知らんふりしているではないか」
「間が悪かったみたいですね」
「悪いのは間だけか? しかし客は多いようだな」
日限は店内のあちこちに無遠慮な視線を寄こした。カウンター席に座る若い男。テーブル席の老夫婦。窓際にいる車椅子の女と年のいった男。それから、手洗いから戻ってきたであろう帽子を被った少女。まずいコーヒーと頼りない店員が出てくる喫茶店にしては多過ぎるくらいだった。
「あ、あのう、ごめんなさいお待たせしました」
待望の水がやってきた。幸たちは一斉にグラスの中身を煽ったが、浜路は水に砂糖を大量に入れていた。少しでもカロリーを摂取しようという考えらしかった。
「何ともあさましい。これだから亜人は」
「放っておいてください」
ぐいっと砂糖水を飲み干した直後、浜路のお腹が空腹を訴えて鳴いた。彼女は恥ずかしがるそぶりは見せず、ただただ悲しげな表情になった。あまりにも悲しそうで、日限は店員を呼びつけてどうにかならないかと問うた。
「ですから、あのう、私ではですね」
「もういい」と雪蛍は苛立たしそうに言った。
「店を変えれば?」
もっともだった。幸も便乗して頷いたが、日限の反応は芳しいものではなかった。
「私はここで人と会う約束がある」
「え?」
店員の女が驚いていた。その時、幸はぴりりとした嫌な空気を肌で感じた。思わずあちこちに視線を遣るが、さっき感じたものはとうに消え去っていた。
「だから行くなら君らだけで行くといい」
「そう。そういうことなら」
「じゃあぼくももう少しここにいます」
雪蛍は椅子から立ち上がったが、幸はそうしなかった。彼女は不思議そうに彼を見下ろす。
「幸。仕事は終わったんだけど」
「でもぼくはもう少しゆっくりしていきます」
雪蛍はじっと幸を見下ろしていたが、諦めたように席に戻った。彼女は浜路に一瞥をくれたが、お腹が減って力が出ないのか、浜路はうなだれたままだった。
「そうかね。好きにしたまえ」
「そうします」
店員の女は困ったようにうろうろしていたが、カウンターに戻っていった。まずいコーヒーの後味が尾を引いているかのような、居心地の悪さが喫茶タミィに広がりつつあった頃、一人の少女が立ち上がった。帽子を被った金髪の少女である。彼女はのしのしとカウンターまで歩いていって、躊躇いを見せずに中へ入った。
「借りるわよ」
「ええと……?」
「そこの亜人の人、何か食べなきゃ帰らないって感じなんだけど」
少女は浜路に視線を送った。
「見てられないし、うっとうしいのよ」
「は、はあ」と店員は特に咎めもしなかった。幸たちも興味深そうに彼女のやることをじっと見ていた。
少女は流しや冷蔵庫をごそごそと漁っている。ややあって、封の切られていない食パンやらを見つけ出した。
「サンドイッチくらいしかできないけど、いい?」
「いいんですか」
「これ食べたら帰るのよ。あなたうるさいから」
少女はてきぱきと調理を始めた。幸は彼女の立ち振る舞いを奇妙に思ったが、常連ならばそういうこともあるのだろうと納得していた。浜路は遠慮がちにカウンターに近づき、きゅうりはあるか。あるなら入れないで欲しいと口にした。
「きゅうり? ないけど、どうして? 嫌いなの?」
「ええ。ご存知ですか。きゅうりはマイナスカロリーという食べ物なのだと。食べたら食べるだけ痩せるそうです」
「素敵じゃない」
「恐ろしい。あれは、あの緑の物体は人のカロリーを吸って成長しているに違いありません」
「あ、そう。でもよかったわね。きゅうりならなかったから」
「おお、そうでしたか」
浜路はカウンター席に座り、帽子の少女の軽やかな手さばきを食い入るように見つめていた。
「しかし慣れていますね」
「そう?」
「私は料理が苦手なので、羨ましいです」
「サンドイッチなんか誰だってできるわ」
浜路はすっかり機嫌がよくなって、ご飯を作ってくれる少女に心を開いているようだった。少女の方も褒められて悪い気はしないのか、時折笑顔を浮かべていた。
「あなたたち、この店に来るのって初めてなの?」
「はい。あちらの方がここへ来るまでの護衛なのです。仕事は終わったのですが」
「護衛?」
「狩人なんです。ああ、私たちはまだ見習いというか、免許は持っていないんですが」
手が少し止まったが、少女はすぐに作業を再開する。
「へえ、そうなの」
少女は、浜路が提げている竹刀袋をちらりと見た。
「そちらはここの常連というやつですか」
「そんなところね」
「ははあ、なるほど。でも残念でした。日替わりランチも気になっていたものですから。どんな感じなんでしょうか」
「え、何が?」
「日替わりランチです」と言う浜路の目には期待感がきらきらと見え隠れしていた。
「ああ、ランチね。別に、あんまり珍しいものは出ないわよ。ハンバーグとか、魚のフライとか、そういうの」
浜路のお腹がくうと鳴った。
「ほら、テーブルで待っててよ」
「そうします」
浜路はテーブルに戻ってきて何となくと言った風にメニューを手に取った。彼女はサンドイッチを待っている間、それを楽しそうに見ていたが、ふと首を傾げた。
「どうしたんですか」
「あ、いえ、別に」
今度は幸が首を傾げる番だった。すぱっと言い切るような浜路には珍しく歯切れが悪かったからだ。
「はい、お待たせ」
帽子の少女は切り分けたサンドイッチを大皿に載せると、それを幸たちのテーブルの上に置く。それから自然な手つきで他の客のいるテーブルにも近づき、同じようにサンドイッチを配っていった。
浜路はすぐにサンドイッチに飛びついたが、日限や、窓際のテーブル席にいる車いすの少女とその連れ合いはサンドイッチに手をつけなかった。
「食べないのですか」
日限はうんざりしたように額に指を当てていた。
「この店ではもう飲み食いする気が起こらんからな。しかし、後で材料分の金くらいは出しておくか」
「はあ。りひきれふね」
「君。食べるか喋るかのどっちかにしたまえ」
日限にそう言われて、浜路は食べることに集中し始めた。彼女はものの数分で大皿のサンドイッチを平らげてしまう。
「ごちそうさまでした」と少女に微笑みかけると、彼女はくすぐったそうに手を振った。
「ふう、では八街殿。我々は帰りましょうか」
「ふん、そうしたまえ。まったく」
日限は鬱陶しそうに手を振った。幸たちが出入り口のドアに近づくと店内に弛緩したような空気が流れた。店員の女は今日一番の笑みを浮かべて、ありがとうございましたと頭を下げた。
「あれ」
「……な、何か?」
帰りかけた幸の目があるものを捉えた。それは木の棚の上にインテリアとして置かれていたであろう小さく、分厚い箱だった。
「これってなんですか?」
「え、えーと」
店員は幸の傍に駆け寄ってきて、その箱を注視する。
「ゲームですね、これ」
「ああー、ボードゲームですか」
「え、ええ、まあ、だと思います」
「ふうん」
幸はボードゲームの箱を手に取ってしげしげと眺める。その様を店員の女が、何故だか固唾を飲んで見守っていた。
「これって、ここで遊べるんですか?」
「えっ? いやー、それはちょっと、あくまでこれって置物みたいなものですしー、それにですね」
「あ、そうなんですか?」
幸はゲームの箱を元の位置に戻したが、目ざとくもその近くに貼られたPOPを見つけた。そこにはボードゲームを自由に使って遊んでも構わない、といったようなことが書かれていた。
「おや、遊んでもいいと書いてますね」
浜路はじっと店員を見る。見られた彼女は慌てたように首を振った。
「す、すみません、その、入ったばっかりで分からなかったもので」
「あ、いえ、気にしてません」
幸はまたゲームの箱を手に取った。
「遊びたいの?」
雪螢に問われ、箱の裏面にある説明書きを読むのに夢中になっていた幸は小さく頷く。
「そ。それじゃあ少し遊んで帰ろう」
「え?」
店員の女は目を見開いた。
「私も構いませんよ。お腹いっぱいでご機嫌ですし」
「本当ですか? じゃあ、このゲームちょっと借りちゃいますね」
「え? ええと、あの……はい」
幸たちがテーブルに戻ってきたので、日限は大きく、重たい息を吐き出した。