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驢鳴犬吠めふFeverズ  作者: 竹内すくね
巫山雲雨メフDiverず
40/121

水の檻<3>



 幸にとって何も予定がない日は久しぶりのことであった。古海には狩人の実地訓練を頼んでいたが、先日、雨中でのことが彼女には引っかかっているのか、首を縦には振ってくれなかった。

 自分が情けないせいだ。幸は自分を責めながら、それでも空腹には勝てないのでリビングにやってきた。既にパンの焼ける匂いが漂っていて、彼は喉を鳴らした。

「釣られて出てきたみたいだね」

 むつみは解いたエプロンを椅子にかけるとテーブルの上に食器を並べ始めた。幸もそれを手伝った。

「美味しそう」

「お世辞をありがと。お腹空いてれば何でもそう見えるもんだよ」

 幸は意気を漏らす。相変わらず素直に言葉を受け取らない女だった。

 朝食を食べ終わると殊更に暇になる。買ったばかりのゲームも、読みかけの本にも向き合う気分ではなく、幸は少し考えて、長田と訪れた釣り堀まで行こうと決めた。そのことをむつみに告げると、彼女は眉根を寄せた。

「釣りなんて何の意味があるの?」

「意味というか、何か、ぼーっとしながら考え事したくって」

「わざわざ釣りしながら考え事するの? 変なの」

 思えば、むつみは無趣味である。彼女はたまに幸の本棚から適当なものを抜き出して読んでいる時もあるが、あまり面白そうな顔はしない。

「叔母さんって趣味とか、何か楽しいことってないんですか」

「そうだねえ」

 むつみは椅子に座って目を瞑る。そうして意地の悪い笑みを浮かべた。

「さち君をからかうことかな」

 これは藪蛇だったかと、幸は逃げるようにしてリビングを辞した。



 釣り堀までの道のりはあまり覚えていなかったが、とにかく川を伝うようにして歩けば辿り着くだろう。幸の心持ちは足取りと同じように軽かった。少し蒸すが今日はよく風が吹き、不快感はさほどでもなく、彼は調子の外れた鼻歌を口ずさむ。

 その鼻歌がぴたりと止まった。川の真ん中から男がぬっそりと姿を現したからだ。昨日も見た男だ。そうでなければ服を着たまま川に浸かる変質者がこの街に二人もいることになる。幸はどうしたものかと腕を組んで立ち止まる。どうやら自分以外には目撃者がいないらしかった。

 男は幸の視線などどこ吹く風で川底を浚うようにざぶざぶと歩く。幸は彼の行き先が気になった。どうせ行き先は同じなのだと彼と並ぶように歩き始める。

 ざぶざぶ、てくてく。二人は歩く。

 男は少し歩くと川の中をじっと見下ろし、躊躇わずに頭から突っ込む。それだけでは飽き足らないのか体を折り曲げて全身を水中に埋めた。幸はその様子を眺めていた。何かあれば飛び込むつもりだったが、一分ほど経つと男は起き上がり、たっぷりと水を含んだ髪の毛をかき上げて振り回すようにした。波紋が立ち、飛沫が散った。少し歩き、少し沈む。男はそれを繰り返す。しばらくすると他の通行人も彼の姿を見ては足を止めたり、携帯で写真を撮ったり、ひそひそ声で話をしていた。

 川の深いところにつくと、男はクロールでそこを泳ぎ切る。足がつけばまた歩き、周囲を見回して川の中に顔を突っ込んでいた。

 幸は、男はこのような行為を以前から繰り返していたのだろうかと訝しんだ。失せものを捜しているように見えるのだが、あまり賢いやり方ではない。あるいはただの奇行で、無意味なのかもしれない。しかし幸は男から何となく目が離せなかった。

 やがて幸は道を少しずつ外れて、草むらを掻き分けて川の方に近づいていった。男は幸を気にも留めていなかった。

「手伝いましょうか」

 幸が声をかけるも、男は答えなかった。

「風邪引きませんかー」

 幸はめげずに声をかけ続けた。男は無視し続けた。二人は随分と長い距離を歩き、幸に至っては釣り堀に行くという当初の目的を忘れつつあった。

「何か探してるんですか」

 男の動きが止まった。彼は頭を振り、重たくなった髪の毛の束を指でつまんだ。幸はにこにこしながら男の反応を待った。逃げ出した魚が戻ってくるほどの時間が経つと、水浸しの男はようやく口を開いた。

「私が、何か迷惑をかけたか」

 いいえ。幸はそう言って首を振った。

「気になったものですから」

「だろうな」

 低く、落ち着いた声だった。幸は意外に感じた。男は周りのことはおろか自分自身のことすら見えていないと思っていたからだ。

 彫りが深く、鼻が高い。立っているだけで絵になっている男に若干の気後れを覚えながらも、幸は口を開く。だが、男は彼の話を聞かずに再び歩き出した。

 幸は仕方なく、男に倣ってまた歩き出す。その内、男は立ち止まる回数が増えた。幸からはよく見えなかったが少し震えている様子である。

「へえっ…………!」

 男の顔がおもむろに上がった。

「んんっ……!」

 そして男は片手を上げて妙なポーズを決めた。幸はふと、中学生の時にクラスメートの石崎君に薦められたヴィジュアル系バンドのプロモーションビデオを想起した。雨風の中、金切り声で歌うボーカルと男の姿が重なって見える。彼はまた違うポーズを決めていた。

「へっくしぃぃぃぃ……!」

 男は声を噛み殺そうとしていたが、くしゃみを誤魔化そうとしているのは誰の目からも明らかである。

「やっぱり風邪引いてる……」

「いや、違う」

 鼻水を啜りながら、男は首を振った。

「ハンカチか、ティッシュ要りますか」

 男は返事をしなかったが、手を差し出しながら岸へ近づいてきた。そうして男は無言で幸からハンカチを受け取り、それを鼻に軽く当てる。

「私は貸し借りを作らない主義だ」

「はあ」

「すぐに返す」

「洗ってから返して欲しいです」

「無論だ」

 二人はまた歩き出した。



 そんな無駄とも無為とも無意味とも呼べることをしていると、橋の上から声がかかった。呆れた風な顔で幸と男を見下ろしているのは、釣り堀屋の女店主である。彼女は咥えていた棒付きの飴玉を取り落しそうになっていた。

「……昨日のお客さんだよな? 何やってるんだ? 何を……特に、その、そこの、何て言うんだ、その人は」

 店主は長髪で美形の男を指差そうとしたが、やめた。幸はどうしたものかと悩んだが、散歩をしているのだと答えた。

「ええ? 散歩って……」

「んんぅ……!」

 男はまたくしゃみをして、それを誤魔化すためにかっこいいポーズをしていた。

「風邪っぴきなのにバカみたいなことをしてるんだな」

「ぼくもそう思います」

「だったら止めろよ。……見てらんないなあ。おおい、うちに来なよ。タオルとか貸したげるから」

 幸は男を見た。彼は悩んでいたらしいが、小さく頷き、ざぶざぶと川の水を掻き分けるようにしながら上陸する。

「世話になろう」

「君、今日は変なのを釣ったな」

 店主はからからと笑った。

 幸と男は釣り堀屋の店主――――彼女は鮎喰垂水あくい たるみと名乗った――――に先導され、釣り堀屋『ニューめふ』に到着した。鮎喰は店に着くなり大声で店員を呼びつけ、タオルや、温かい飲み物の用意を始めた。

 幸は、釣り堀の事務所近くののぼりをじっと眺めていた。そこに描かれた星型と格子型のマークが気になったのだ。

「ほらっ」

 その場に立ち尽くしていた男は鮎喰からタオルを受け取った。

「嫌いなものとかあるか?」

「ないです」

 幸はぶんぶんと首を振る。男は小難しそうな顔で口を開いた。

「できれば、紙コップか、使い捨ての容器でお願いしたい。それから注文をつけるつもりはないが、コーヒーはブラックは好かん。砂糖を二つ半とミルクを少し。強いて言うなら緑茶が好みだが、熱過ぎるのは……」

「ええー? 何だよそれ、緑茶とかあったかなあ……ちょっと待ってて。ああ、そうだ。待ってる間さ」

 鮎喰は釣り堀の池を指差す。

「適当に遊んでていいから」

「いいんですか?」

「いいよ。それからそっちの人、服脱ぎな」

「なぜだ」

 男はさも不思議そうにしていた。

「洗濯したげる」

「いや、結構だ」

「じゃあせめて上着ぐらい脱いどきなよ。風邪が酷くなっちゃうから」

 鮎喰は事務所の中に引っ込んでいく。幸は、とりあえず男を誘って釣りをすることにした。



「人を捜していた」

 男は、餌のついていない釣り竿を軽く握っていた。

「川でですか」

 幸は練り餌をつけながら訊ねた。

「川もそうだ。水場を捜している。私は、雨の日に彼女と出会った」

「雨の日に」

「ああ。彼女は、雨の中に消えた」

「消えたんですか」

 男は小さく頷く。幸は、背中を丸めて座っているその姿を見ると、彼が憔悴しているようにも思えた。弱っているからこそ、こうして話をしたのかもしれなかった。

「でも、どうしてまた水場なんですか」

「分からない。だが、そこにいるような気がしてならないんだ」

 男は続けた。

 雨が降ると、女と出会えるような気がして昼も夜もなくメフを歩き回っているのだと。幸にはよく分からなかった。男の言動こそ不審者のそれだが、顔だけで判ずるならはさして女に困るようには見えない。そのような男が血道を上げて追いかけているものが少し気にはなった。

「お待たせー、ほら、緑茶」

 紙コップを二つ持った鮎喰が、そのうちの一つを男に手渡そうとする。

「ああ、すまない。そこに置いてくれ」

「は? なんで?」

 男はむっつりと押し黙った。

「何だよもう。潔癖症か何かなのか? ったく、はい、君にはココアね」

 幸は礼を言って紙コップを受け取った。鮎喰は適当なビールケースをひっくり返してそこに座った。

「そんで、君たちは何してたんだ?」

「ああ、この人が」

 幸は事情を説明しかけたが、男がそれを目で制した。どうやら他者には聞かれたくない事柄らしい。それならばどうして自分には話したのだろうと不思議がりながら、幸は別の話題を探した。

「あの模様って何なんですか?」

「模様? ああ、のぼりのやつだな。あれはセーメーっていうんだ」

「セーメー?」

 鮎喰は小さい体を大きく反らすようにして頷いた。

「魔除けなんだ。星の模様がセーマン。格子のがドーマン。二つ合わせてセーマンドーマンだな」

「どうして星と格子が魔除けになるんでしょうか」

 それはだなと鮎喰は得意げになり、指で宙に何かを書き始める。

「星ってスーッと一筆書きでいけるだろ? だから悪いやつが入って来られる余地がないんだ。格子は目だな。たくさんの目が悪いやつを見張ってるって意味があるんだ」

「そういう意味だったんですね。でも、なんでまた釣り堀に魔除けなんかが」

「そりゃあ、私たちがダイバーだからな」

 幸は小首を傾げた。

「ほら、私らも狩人やってるって言ったろ? 最近はそうでもないけど、大空洞にガンガン潜ってく連中のことをダイバーとも呼ぶんだ。そんで海女さんっているじゃんか。あの人らも潜るだろ? セーメーはそっからあやかって持ってきたわけだ。で、私らもそうしてた時期があって、ゲン担ぎみたいなもんかな」

「潜ってたんですか」

「まあ、昔はね」

 鮎喰は首の後ろに手を回した。何となく話しづらそうにしているが、幸は大空洞のことを根掘り葉掘り聞こうとした。彼女はえー、とか、あー、とか、呻きながら幸の質問に答えた。

「じゃあ、大空洞にも川があるんですね」

「まあな」と鮎喰は遠くの方を見た。

「川、みたいな場所だけどな。ここいらの川と繋がってるんだよ。だいたいそこで魚を釣ったりするんだ。ここの釣り堀だって川の水を引き込んでるし……あ、そういえば最近、困った客がいてな。金も払わず釣りもしないで出て行ったんだよ」

 鮎喰はぷんすかしている。

「だいたいだなー、近頃の狩人なんかも花粉症になった途端に楽ばっかり覚えるんだ。そういうのはよくないぞ」

「……よくないですか」

「異能で全部解決しないからな。とはいえ、受け売りなんだけど。私だって花粉症だしな」

 鮎喰の話がすべて本当なら、大空洞の第一線にいた狩人が、今はどうして鄙びた釣り堀屋をやっているのかが幸には分からなかった。

「異能を使うのは簡単でさ、楽を覚えそうだから我慢してるんだ。異能に頼るな。道具に頼るな。まずは自分だけを頼れ。って、とある人が言ってた」

「誰ですかそれ」

 鮎喰は事務所の方を指差した。

「ベテランの狩人……というか、ダイバーというか、あれ、あの人って何なんだろ。とにかくさ、ここで釣りしてったこともあって、でっかいのを釣り上げて、写真がどっかにあったと思うんだけどなあ。ともかく、私はその人を尊敬してるんだ」

 その人物のことを話す鮎喰は誇らしそうにしていた。

 話の後、写真を見せてもらおうとした幸だが、件の人物のそれは見当たらず、代わりに、でかい鯉を釣り上げて笑う斧磨鷹羽の写真が壁にでかでかと飾られていた。



 鮎喰が去り、一時の暖をとった後、男はぽつりと呟いた。山に行きたい、と。

「今度は山ですか?」

 男は三野山を見上げていた。

「彼女は美しかった。まるで、私自身を見ているかのようだった。水は低きに流れる。堕ちるに従い、穢れていくものだ。最初から気づくべきだった。美しい彼女が行くべきは下流ではない。上流だったのだ」

「はあ」

「このため池にも大空洞にも繋がる川の源は、あの山にあるのだろう?」

「まあ、そうだと思いますけど」

「決まりだ」

 何かを決意した男の横顔というのは美醜問わず胸に迫るものがある。幸はそう感じた。

「その、捜してる女の人って、どんな人なんですか」

「分からない。私は、彼女の後姿しか知らない」

「背中しか知らないのに、そんなになって追っかけるんですか?」

 男は首肯する。力強かった。

「一目見ただけで充分だった」

「……見ただけで」

 妙な予感がして、幸は脳裏に過ぎったものを振り払うようにして立ち上がった。どうせならもう少し見届けてやりたいと思った。

「山に行くなら神社の人に挨拶した方がいいですね」

「神社か。しかし、私は……」

「女の人が苦手なんですか?」

 男は目を丸くさせた。

「鮎喰さんは潔癖症かって言ってましたけど、綺麗好きの人は川にざぶざぶ入りませんし、ぼくのハンカチだって使わなかったかもしれないじゃないですか。だから、どっちかと言ったらそうなのかなって」

「まあ、そうだな。私は女が得意ではない」

「でも、今は女の人を捜してる」

「彼女は、別だ」

 幸はますます嫌な予感がした。だが、男は一人でも三野山に登り、九頭竜神社の敷地を抜け、あの鳥居を潜って猟地に行くだろう。そのことは容易に想像できた。

「今から行きましょうか。神社に」

 男は鼻を啜り、幸を見下ろした。

 濡れた服も多少は乾いて着心地がましになった。幸は男を伴い、神社へ向かうことにした。



 境内に着くと、掃き掃除をしていた巫女が小さな悲鳴を上げた。彼女は箒の柄を両手で握り締めて、ぼうっとした様子で来訪者を見つめていた。巫女の瞳に映っているのは美形の男である。その横にいる小さいやつは眼中になかった。

「めっちゃ見られてますね」

「いつものことだ」

 男は髪の毛をかき上げた。巫女は奇声じみた声を発して社務所の方へ駆けて行った。

「猟地に行くのだろう? さて、無断で立ち入るわけにはいかないが、誰もいなくなってしまったか」

「もう少ししたら誰か出てきそうですけど」

「待たせてもらうとしよう」

 男は腕を組み、その場に佇む。しばらくそうしていると社務所から、別館から、境内の奥から、あらぬところから全くどこに潜み隠れていたのだろうか、多くの巫女がぞろぞろと現れてきた。女の園の住人たちは遠巻きに男を見つめ、恋に恋する小娘のように、その玉容に一時、うつつを忘れるのであった。

 幸は男からそっと離れた。おまけとはいえ、無遠慮に突き刺さる視線に耐えられなくなったのだ。彼とてれっきとした男児である。異性に囲まれてちやほやされるのを夢見たこともあった。しかし。幸は男を見た。これではまるで檻の中の動物である。

「なんですかあの方は」

 幸の後ろから声がかかった。彼が振り向くと、面白くなさそうな顔をした織星が突っ立っていた。

「猟地に……っていうか、山に行きたいそうです。水源が見たいんですって」

「観光でしょうか」

「確かに三野山の滝は有名ですけど、そういうんじゃないんです」

「先日の山狩りで多少はケモノの数も減ったとは思いますが、あなたたちだけで猟地に入るのは危険では?」

「じゃーあ、私もついてこっかなー」

 幸と織星の足元をうろちょろする影があった。初音である。彼女はにんまりとした笑みを浮かべていた。

「あの人ー、かっこいいしー」

「あ――――」

 何かを言いかけた幸だが、初音に睨まれて言葉を飲み込んだ。彼女はすぐに子供らしい笑みを作った。

「なあにー、さっちー」

「あ。ううん、こんにちは、初音さん」

「うんうん、そうだね。それで合ってるよー」

 織星は二人のやり取りの意味を理解していなかった。

「それじゃあ織星ちゃんは準備してきてちょーだーい。猟地に行くなら武器がなくちゃ。ちゃんと自分のも持ってきてねー」

「ええ……私がですか? あれ? その言い方だと私も行くんですか」

「うん。文句ある?」

 ニコニコ顔で言われては口答えの一つもできないのか、織星はすごすごと社務所の方へ引っ込んでいった。幸は二人の力関係を確かに見たような気がした。

 織星の姿が見えなくなり、自分たちに注意を向けるものがいなくなると、初音は笑みを消した。

「気をつけぇよ、さっちー。何を言いかけたかだいたい見当はつくけどさ、どんなところでバレるか分からないんだから。あの話を知っとるのは私らくらいのもんなんだからね」

「そうでした。あの、今日は豊玉さんはいないんですか」

「珍しく学校の友達と遊んどるよ」

「それはよかった」

 幸は心からそう思った。

「それで? あのかっこいい子はどこの誰だい?」

 幸は簡単に事情を説明した。一つ、気がかりだったことも話した。それはあの男が女を追いかけるようになった理由である。

「ほーん。一目惚れでわざわざ山まで、ねえ」

「ちょっと気になっちゃって。だって、まるで」

「篝火の花粉症みたいだなって?」

 磁恋魔クピドという異能を用いる女がいた。幸の知る限り、人の好意を操る類の代物である。その女はもうここには、この世にはいないはずだった。

「もしかしたらってこともあるのかなって」

「まあ、死体が歩き回ることも珍しくない街だからね。それに」

 初音は苦笑した。

「うちの子がね、山に行く人影を見たって言うんだ。雨が降ってた日の夜に、女らしきやつを。見間違いかもしれないけど、さっちーから聞いた話と合わせると、あのかっこいい子が捜してるって女なのかもしれない」

「それが篝火さんかもしれないんですね」

「さて、どうだろうね。何にせよ行くしかないわけだ」

 社務所から戻ってくる織星の姿を認めると、初音は自分の肩を拳で叩く。

「ついてきてくれるんですか?」

「保護者が必要だろうに。さっちーも織星もまだまだ頼りないからね」



 猟地に行く準備が整った。幸は自前の鉈を斧磨鍛冶店に預けていたので、神社の行きがけに受け取ったそれを携えて、織星から渡されたリュックサックを背負っていた。

「八街くん、そちらの方は」

 織星は空手の男を睨むようにして見ていた。

「ああ、ええと……」

「心配は要らない」

 幸が困っていると、男は髪の毛をかき上げて言った。織星は小さく息を吐いた。

「それより、君たちも付いてくるつもりなのか」

 巫女二人を見下ろすと、男は鬱陶しそうに口を開いた。織星は彼の態度に腹を立てたらしく、眉をつり上げた。しかし何か言うわけでもなく、彼女は先頭を切って歩き出す。

「どうにも気難しい女性のようだ。……いや、女というのは皆そういうものか」

 男は幸に話しかけているのだが、受け答えするのが難しく、幸はえへへとはにかんだ。

 鳥居が近づいてくる。猟地はもうすぐそこだ。ふと、幸は男を見上げた。彼の名前も知らないことに、今更になって気づいたのだ。

「ねーねー、そっちのお兄さんはなんてー名前なのー?」

 初音は男の腕を掴み、ボディタッチを試みようとしたが、彼は初音の腕を振り払うようにして、大きく距離を取った。彼女はきょとんとした顔になる。

「私に軽々しく触れるな」

「えー? なんでー?」

「不愉快だ」

「ええー?」

 男は初音を無視して歩調を速めた。幸の傍で舌打ちの音が鳴った。

「なんじゃあ、可愛げのないぼんめ。しようがないからさっちーで我慢しよ」

 不機嫌極まりない初音だったが、幸の腕に自分のを絡めると多少は満足した様子である。しかしその光景を見た織星の目が細められていた。

「八街くん、遊びに行くんじゃないですからね」

「分かってます」

「だったら今ケモノが来たらどうするつもりですか!」

「え、ええと……」

「織星ちゃん、うるさーい」

「初音さんは何しに来たんですかっ」

 何だか前途多難で、ろくなことしか起こらないような気がしてきた幸であった。

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