磁恋魔
玉が死んだ。
天満が泣いている。
見知ったものも、そうでないものも死んだ。
ケモノに立ち向かうのは怒り狂ったかのような織星だ。
幸はただ、それを見ているしかできなかった。近くには古川がいたが、何事かを巫女たちに指示するのに精いっぱいで他に気を回す余裕はないらしかった。
「猟犬のっ」
「おお!? ああ、あんたは」
参道を駆け上がってくる若い男がいた。幸には覚えがなかったが、古川とは親しい間柄のようだった。
「無事でしたか。そりゃいい。ちょっとまあ、動けねえのを下まで運ぶのを手伝ってやってください」
「そりゃもちろん。で、例のもんなんですけど」
「ええ、こんな時にですかい?」
「見つけました」
幸は、古川の顔つきが変わったのを見た。
「それから、社務所にいた婆さんも下に逃がしときました。まあ、ついでだったんで」
「……え?」
泣いていた天満が、若い男に縋りつくようにした。彼は困惑したが、自分が助けたという老婆が、この少女の祖母なのだとすぐに気づく。彼は天満の頭を撫でてやろうとしたが、思い直して腰に佩いた鉈に手を当てた。
「おばあちゃんなら大丈夫だから、他の人たちと下に行って顔見せてやんな。ああ、つってもばあちゃん寝てるけど」
天満は何度も頷き、傍らにいた、怪我をしている巫女らと共に石段を下っていく。
「なんか悪いっすね。褒められることはしてねえんだけどな」
男は苦笑し、古川が応じた。
「はっは、もっけの幸いでさあ。いや、こっちこそすいやせんね。妙な真似させちまって」
「その甲斐はあったんでいいっす。二人もじきにこっち来るんで」
「おう」
古川は息を吐き、得物を握り直した。
「そんじゃ狩人の仕事に戻るとしやすか。……八街さん」
幸は目だけを古川に向けた。その視線には様々なものが滲んでいたが、とりわけ嫉妬めいたものが色濃く表れていた。
「おれらぁあのでかいのとやりますよ。できるんなら、あんたにはどっか行ってもらいたいところですが……まあ、せいぜい死なねえように気をつけてください」
言うと、古川は若い男を引き連れてケモノに向かっていく。幸の鼓動が早まった。目の奥が熱を帯びて息が荒くなる。《花盗人》は頭の中で声を荒らげている。今すぐに奪え。そうすれば望むままにできるぞと。幸は痛む頭に手を遣り、目を瞑った。
「おい」
その肩を誰かが叩く。
「息巻いて飛び出たと思ったら突っ立ってるだけじゃねえか」
幸が向き直ると肩で息をする鷹羽が睨んでいた。彼女は酸鼻極まる光景を目の当たりにして息を呑む。
「ひでえもんだ。てめえ、こんなところでどうするってんだよ」
「……たかちゃん」
「ちゃんづけすんない! 親方がうるせえからよ、持ってきてやったんだ」
鷹羽は提げていた鉈袋を幸に渡そうとしたが、躊躇った。
「大切に、使えよ。壊すなよ。貸すんだ。やるんじゃねえからな。だから」
「返す」
袋を受け取ると幸はそこから鉈を抜いた。あの日、あの店で気にかかっていた件の鉈で、鷹羽にとっての逆鱗だ。触れた瞬間、《花盗人》が狂喜したのが分かった。
幸には分かった。この鉈のことが、この鉈を使っていたもののことが。得物を通して使い手の経験が自らに流れてくる。そのような、居心地がよくって、居心地が良過ぎて気味が悪い感覚。
「必ず返すよ。約束する」
「いらねえよ。そんなもん」
鷹羽は来た道を戻っていく。幸も彼女も振り返らなかった。
幸は無力感を思い知った。自分は何もできない。自分だけでは何も。だから使う。あるもの全部を。今は借り物だが、いつか自分だけの、本当の自分でやってみせるのだと。
ケモノとの戦いにおいて生死を分けるのは一瞬の判断と一つまみの勇気である。即ち必要な時に必要な分だけ前へ踏み込めるかどうかだ。ケモノは臭いに敏感だ。人間が怯え竦めばそこにつけ込む。
そのことは古川たちも分かっていたが、狒々色というケモノはやはり恐ろしかった。最前線でやり合っていた織星の疲労の色も濃く、動きにも精細さを欠いている。残った狩人が彼女をフォローするが、攻め手があと一つ足りなかった。このままじり貧で削られ、一人ずつ仕留められるのを覚悟した時、戦場に場違いなものが躍り出た。鉈を持った幸だ。しかし彼を咎められるものはいなかった。声をかける余裕がなかったのもあるが、どうせなら囮にでもなってもらおうかという算段が働いたのである。
狒々色は幸を狙った。お供のサルを彼に投げつけた後で、疾風のような速度で迫る。振り上げられた腕を一瞥すると、幸はケモノの右側面へと転がった。攻撃を躱しながら足を切りつけて後ろへ回り込む。がら空きになった背中に重たい一撃をお見舞いし、ケモノが振り返るまで待って顔面を薙いだ。
噴き上がる血を避けるようにして、幸は後方へと下がる。古川は彼の傍に立った。
「……なんすか、そりゃあ。あんたまるで人が変わっちまったみたいじゃあないですか」
「あの。ケモノの火花、アレはあいつが怒ってる時とか、余裕がない時には使いません」
「あぁ?」
「アレも異能なんです。異能を使う時はそれを意識しないといけませんから」
幸はそう言うと再び前へ踏み込んだ。狒々色は腕を振るったが、彼はそれを屈んで避けて懐に潜り込む。今度は腹を切りつけた。
古川はケモノの様子を注視する。逆立っていた毛も今は萎えたようにぺったりと地肌に貼りついている。周囲を漂う火花も見えない。彼は幸に倣い、一足飛びで距離を詰めるやケモノの肉を削った。
鉈が、鋸が、矢が、狒々色の皮を削り、肉を貫き、その魂をすり減らす。もはや境内に降り立った時の勢いはなく、ケモノは苦し紛れに腕を振り回すだけだった。死屍累々の惨状を生み出した元凶が最期に見たのは、残った片目に突き刺さろうとする、織星の放った矢であった。
狒々色の骸を前にして息を何度か吐いてから、古川はようやく得物をコートの中に戻すことができた。既に生き残った十帖機関の巫女は、買取所のものたちと共に境内の清掃を始めている。彼は気を取り直すと、最初に幸に話しかけた。
「あ、お疲れ様です」
「あぁ、そうですね」
幸は遠慮がちに笑んでいた。先までケモノと戦っていた少年とは思えない表情であった。
「八街さん。耳に入れときたいことがあるんですが」
古川は声を潜めて言った。彼が話したのは、幸が来る前に起こったことについてだ。幸は話を聞き終えると巫女たちを見回す。
「それは、異能だと思います。月輪さんが消えるのも、あのケモノが特定の人を追いかけ回したのも」
「どうにか見えませんかね。おれぁ花粉症方面じゃあ門外漢もいいとこだ」
「全部はっきりとは分かりませんけど、ある程度なら。でも、古川さんはやっぱりあの二人を怪しんでるんですね」
「あー、こいつはまだ言ってませんでしたがね。実は、八街さんとああやって話すよりずっと前の夜なんですが」
古川は歯を見せて笑った。威圧的に見えたので幸は少しびくっとした。
「あの女に誘われたんですよ」
「何にですか」
「何にって、そりゃあ」
幸は察した。軽蔑するような目で彼を見上げた。
「誤解しないでくださいよ。もちろん丁重に断りやした。まあ、そういうことがあったんで、あのアマァきな臭いっつーか、どうにもいけすかねえっつーか」
「とにかく、見ればいいんですね」
「見りゃ分かるってんなら。そいつぁ助かりますよ。そんじゃあ……」
何か言いかけた古川だが、境内から聞こえてくる怒鳴り声に反応し、そちらを向いた。常夏と篝火だ。常夏が篝火に詰め寄る形で何か喚いている。
「お取込み中のようで。日を改めた方がいいかもしれやせんね」
「ちょうどいいです」
「ああ、ちょっと……」
古川が止めるのも聞かないで、幸は言い争う二人へ歩いていく。近づくにつれて常夏が何を言っているのかが分かった。彼女は右足がまともな状態ではないというのにもかかわらず、篝火を食い殺さんばかりの勢いである。顔からは血の気が引き、目は爛々と光っていて常のような余裕ぶった雰囲気はどこにもない。羅刹のようだが、気力だけでそうしているのかもしれなかった。
「言ってみなさいよ。なんであそこで私に撃ったのよ? ええ!?」
「じょ、ジョーさんの言ったとおりにしたじゃないですか」
「殺す気だったのね!」
「天満ちゃんが死ぬのは嫌だったんでしょう? あなたが一番、げ、元気だったし」
「この……売女ァ!」
「それはあなたも同じじゃないですか」
「あんたのせいじゃない! あの日だってあんたが余計なことしなけりゃあ……」
「何を言ってるんです?」
「は。何それ。知ってんのよ私も。この際全部ぶちまけてやろうかしら」
「そんなことしたら、どうなるか分かってるんですか」
「だったら!」
巫女たちでさえ遠巻きにして見ている状況で、幸は二人に微笑みかけた。常夏は気づかなかったが、篝火は彼の存在に気づいた。だから、袖口から抜こうとしていたものを、彼女は慌てて元の位置に収めた。そうして篝火は幸に改めて微笑み返す。
「今、大事なお話をしているの。ごめんね、八街くん」
「東屋さんを殺したのはどっちですか?」
「は。あ?」
常夏が幸を見下ろす。怒りというよりも、驚きが勝った顔であった。
「いいからあっち行ってなさいよ。あんた邪魔だからさ」
「足、痛くないんですか?」
「ちょっと人の話を……!」
「え? 人の話を聞いてないのはそっちじゃないですか」
「何なの!?」
火種が増えていた。そして古川は慄いていた。常夏の勢いにも、それを真っ向から涼しげに受け流す篝火にも、阿呆なことを言い出す幸にもだ。
常夏の顔色は見る見るうちにさらに悪くなり、篝火の顔からは笑みが失せている。幸はそれでもにこにことしていた。彼にはもう見えつつあった。《花盗人》は異能を奪う。そのためには相手が『心を開いていなければならない』。幸はそう認識していた。親しくなる必要はない。そいつの本心が明らかになればいい。怒り、悲しみ、嘆き、感情をぶつけてくることが大事だった。しかし性質が悪いというべきか、幸は計算して常夏や篝火を怒らせようとしているわけではないのも事実である。ただ、その存在が二人を苛立たせているのだった。
「あ。あのね、八街くん」
「はい」
「本当にもう、ど、どこかへ行って欲しいの。今は」
「でも……困ります」
「困ってんのはこっちだっつーの!」
常夏は他の巫女に支えられていた。限界が近いらしい。
理性的なのは篝火の方である。彼女は笑いこそしないが決して声を荒らげず、乱暴な真似もしない。苛立ち、何かきっかけさえあれば爆発するかもしれなかったが。
やがてさっさと幸を退散させたくなったのか、常夏が折れた。
「はいはい殺してないわよ。これでいいでしょ。つーか東屋って名前どっから知ったのよ。あ、いた。痛い。ちょっともう無理かも」
「じゃあ篝火さんは?」
水を向けられた篝火は瞬きを繰り返す。
「言ってください」
「そ、そんなの決まってるでしょ。私は」
「私は?」
「わ、私は」
篝火は幸に視線を定めた。
「あ。糸くずついてますよ」
彼女が口を開きかけた時、幸が篝火の袖口に付着していたごみを払った。
「何か言いました? ごめんなさい。篝火さんの声、ちっちゃくて聞こえにくくって」
それがトリッガーであった。幸は知る由もなかったが、そこが篝火にとっての限界点であった。彼女は粘っこい視線を彼に向けて笑う。三日月のような口だ。幸はぞっとした。
見えた。
見たくもないものが見えた。
そうかと理解する。そうなのかと諦める。
それがお前の大事なものか。
「……ああ、そういう人だったんですね」
「君こそ、そんな悪い子だったんですね」
傍にいた常夏は目をぱちくりとさせる。幸と篝火。二人の周囲の空気が酷く淀んだものに変わったのを察したのだ。何故そうなっているのかは分からない様子だったが。
「そこまでにしときやしょう」
古川が幸の肩を叩き、篝火を見下ろす。彼女は目を見開いた。彼は担いでいた水玉模様のボストンバッグを地面に投げ落とす。
「可愛いやつ使ってるんですね」
「いや、こりゃおれんじゃないですよ。そこの篝火さんの部屋から見つけたもんでしてね。まあ、有志の方が見つけてくれたんですが」
古川はけけけと声を出して笑う。
「ああ、まあ言わんでも分かりますよ。勝手にひとの物を、とか、どうしてこれを、とか、言いたいこと山ほどあるでしょうが、中身見てもらえりゃあ済む話なんで」
古川は屈み、ゆっくりと、焦らすようにしてバッグを開けていく。他の巫女たちもそれを見ていたが、彼女らの中には、何か悟ったような、この場から逃げ出したそうなものもいた。
「何なんですさっきから。片づけの最中にあなたたちは、まったく」
何も分かっていないであろう織星がやってきて、幸と一緒にバッグの中へと視線を注いだ。
現れたのはシーツに包まれた塊だった。芋虫みたいに丸っこく、長い。織星は棒状のそれに触れようとしたが動きを止める。
「何ですか、この臭いは」
幸もバッグから漂ってくる臭気に顔をしかめた。
「そいつは事情を知ってる人に喋ってもらうとしやすか」
古川の視線に釣られて、皆が篝火を見た。彼女は俯いた常夏を一瞥し、息を吐く。
「なんだ。そこまで分かってるんですね」
幼い頃からそうだった。
隣家の子犬や、友達の持っていたアクセサリーが気になって仕方がなかった。篝火自身は物欲に塗れているのだと自己分析したがそうではない。ただただ他人のものが欲しかったのだ。彼女はそれを自覚すると他者から何かを奪うことに快楽を感じるようになった。
人のものが欲しくって、色々と試した。色々なものを奪った。いつしか、自分にとって最も素敵なものを見つけられた。それは異性だ。他人の恋人が、よその男が一番気持ちいいのだとそそられた。
媚び、誘い、寝取って興味がなくなればごみのように捨てた。花粉症に罹り、メフに来てもその悪癖は止められなかった。篝火はある猟団に属していたが、そこでも男女の関係にひびを入れ、強引に横入りし、引き千切って我が物とし、
『殺してやる』
追われた。
メフには逃げ場がない。悪評が立ち、追い詰められた篝火を救ったのは九頭竜神社であった。彼女はそこで名を隠し、名を騙り、十帖機関の巫女としてしばらくは大人しくしていた。
東屋という男が現れた。顔はいいが軽薄で、篝火はあまり興味をそそられなかった。それに彼女は人のものを欲しがるのを悪いことだと気づき、自らを戒めていた。
だが、東屋が別の巫女との逢瀬を楽しんでいるのを見かけてしまい、我慢の限界が訪れた。そして再び気づいた。悪いことは気持ちのいいことなのだと。
篝火は呆気なく東屋を奪った。酷く気持ちがよかった。しかしその後に訪れたのは激しい後悔である。異性と交わってはならないという禁を破り、十帖機関を追い出されれば『可哀想な私』は、自分を捜しているであろう狩人に見つかり、今度こそ殺されてしまうかもしれない。彼女は自分と同様、神社の禁を破り、東屋と関係を持った巫女と共謀し、酔い潰れて足を怪我した彼を山に運んだ。念を入れ、異能を使った。
その名は磁恋魔。二つのものを引き寄せる『恋』の矢を放つ。篝火は自身の異能をそのように認識していた。
冷たい地面に転がった東屋と、山で見かけたケモノにその矢を射かけた時、篝火は心底から安堵した。これで東屋は死ぬだろう。共謀した巫女も簡単には口を割らないだろうし、その気になれば同じようにすればいい。
山で東屋の死体の一部を見つけた時も、それを懐に忍ばせながら安堵の息を漏らした。ああ、彼を殺さなくて済んだ。自分の手を汚さなくて済んだ。これこそまさに神の思し召し。両者を引き合わせた自分に対する恩恵なのだと。
「あなたからはケモノよりも嫌な感じがします」
幸はそう言った。
常夏は自分の知る限りのことを話した後、病院に運ばれていった。残された篝火はそよ風を受け、髪の毛を手で押さえる。
「はあ、なるほど。それがあんたの異能だってんなら」
古川は狒々色の骸とボストンバッグの中を見比べた。
「あのでかぶつはこれを……死体になった、東屋さんだったもんを追っかけてたってわけですか。道理で妙な動きをしてたはずだ。社務所に突っ込んだのもばあさんじゃなくって、こいつを捜してたのか」
「近頃ケモノが下りてきてたのも、このせいだったんでしょうか」
「そいつぁ分かりませんが」
篝火をねめつけると、古川は唾を吐き捨てた。
「そこのアマがやらかしたことははっきりしたようで」
「私が?」
「この、東屋さんの腕が入ったバッグはあんたの部屋から見つけたんですよ」
「それが何か」
「あぁ?」
篝火は何でもなさそうに言った。
「だって、欲しいじゃないですか。自分のものにしたんだって証。欲しくないですか?」
古川は目を丸くさせた。彼は何故篝火が死体の一部を持ち帰ったのかは気になっていたが、そういうことを聞きたかったわけではない。彼はただ、人の話を聞きたかった。人の形をした、人でなしの世迷言に付き合う気はなかった。古川と同様に、織星や他の巫女たちも得物を手にしていた。
「皆さん、何を?」
「罪を償いなさい、篝火さん」
織星は声を荒らげた。
「な、なんで、ですか。だって、私は何もしてないですよ。東屋さんを殺したのは、そ、そこのケモノじゃないですか」
「あっ、アホかてめえは!」
既に鋸を抜き、篝火に詰め寄ろうとする古川だったが、彼女は怯えたように立ち竦み、両手で自らの顔を隠した。
「そんな、わ、私、じゃあどうするんですか。あんまりじゃないですか、あんまりに可哀想じゃないですか。そ、そんなの。ここから追い出されたら、わ、私。女一人でどうしろって」
「追い出すとかそういうこと言ってられる状況かてめえ! 行き場所なんざ決まってんだろうが」
「な、なんで」
「可哀想な女だとか自分で言いますかね普通。だったら可哀想な男はどうすりゃいいってんですか。東屋さんも、あの人のお仲間もそれなりに苦労してたからこそここへ来てたんでしょうが。死ぬほどつれえ目に遭ってんのはあんただけじゃねえ。ガキも老いぼれも男も女もみんなそういう思いをしてんだ。あんたが今そうなってんのは全部あんたの責任でしょうが」
「わ、私は。私は、だって……」
古川は黙った。篝火と話すつもりが失せたらしい。それでも泣き崩れる女を無理に引っ張るのは気が引けたのか、ただ立ち尽くすばかりだった。
ふと、幸は小首を傾げた。古川は何かを察したが、彼が口を開こうとするのをを止めなかった。
「どうして嘘っぽいことを言うんですか?」
篝火は顔を上げた。境内から少しの間、音が消えた。
「腕を持ち帰ったのはあのケモノをおびき寄せるつもりだったんですよね。秘密を知ってる人みんなを殺そうとしてたんじゃないんですか?」
「な、何を? 分からない。わ、分からないよ。八街く――――」
「そうじゃないんですか。河頭葉月さん」
篝火は立ち上がった。袖口に忍ばせていた短刀を握り、一切の躊躇いなく幸の頭に突き立てようとした。甲高い音が響く。古川が鉈で短刀を弾き飛ばしていた。
「篝火さんっ」
織星は弓を構えていた。
「もう何もしないで! 動かないでください!」
「私のっ、名前で呼ばないで……!」
もはや篝火には声が届いていなかった。先までの雰囲気は消し飛び、今や獣じみた顔つきとなり、幸を睨みつけている。巫女たちも古川も、次に何かあれば彼女を仕留めるつもりだった。
「私のっ、私のォ」
「篝火さん」
幸は泣きそうな顔で笑った。
「ごめんなさい」
「うっ、あ、ああああぁあああああああああ」
篝火は背を向けた。彼女は山へ、猟地へと向かっていた。
「逃げたな。これでケモノだぞてめえは! 逃げんなら逃げろっ。戻る場所なんざどこにもねえぞ! おれが追う。花屋も狩人もてめえを追うぞ!」
「やめてっ」
織星は弓を構えていたが、矢を取り落していた。彼女は涙目で古川をねめつけている。
「もう、やめてください」
誰も篝火を追いかけられなかった。彼女の姿が見えなくなり、織星が声を上げて泣き出すと、それにつられて啜り泣きの声が其処此処から上がった。古川は得物を片づけて長い息を吐き出す。
「……東屋さんと本当に好き合ってたのは、どこのどなた様だったんでしょうかね」
境内にはまだ骸が転がっている。人もケモノも一緒くたに。その中にはきっと、古川の言う女もいるはずだった。いたとして、そこに転がっていたとして、咎められるものはもはやこの場には誰もいなかった。
翌日、要請を受けた市役所の狩人や十帖機関の巫女たちが山狩りを決行した。数日かけてケモノを狩り、篝火の捜索を進めていたが、体の一部が発見されただけで、とうとう彼女自身は見つからなかった。