篝火
「八街さん」
職員室前の掲示板。いつものように連絡事項を確認しに来た幸は鉄に呼び止められた。
鉄は判を押した書類を幸に見せる。狩人の研修についてのものだ。
「お待たせしてすみません」
「そんな、ありがとうございます」
幸は書類を受け取ろうとするが、鉄は腕をひょいと上げた。彼の背では届かない。
「あのう……?」
鉄は片手で眼鏡の位置を押し上げる。
「申し訳ありませんが、一つ条件を付けてもよろしいですか」
「許可を出す条件ですか?」
「ええ。中間考査のことです。八街さんなら大丈夫だと思いますが、全科目平均点以上は取ってもらえますか。そうしないと納得してもらえない方も……」
「もしかして他の先生が」
「いえ。八街さんの保護者さんがです。先日、そのような連絡がありまして」
幸の脳裏にむつみの意地悪い笑みが浮かび上がった。ちくしょうとも思うのだが、逆に考えれば平均点さえ取れば彼女の許可を取ることにもつながる。大手を振って三野山に行けるというものだった。
「平均点以上でいいんですね」
「全科目です」
「分かりました。約束します。だから、あの、その書類を」
幸は背伸びしたりぴょんぴょん跳んだりしている。鉄は意地悪するつもりなどなかったが、何となく書類を渡すのを焦らしてしまうのだった。
テストは来週の火曜日から数日かけて行われる。幸は発奮していた。平均点以上とは生温い。絶対に良い点数を取ってむつみを驚かせてやろうと企み、目論んでいる。
「だから図書室で勉強してくるよ」
「お、おう? そうか?」
放課後、幸は翔一たちに宣言した。一組の生徒はテストに興味がない。点数にも成績にもだ。彼らだけではない。それは蘇幌学園の生徒だけでなく、デン学やタマ高の学生も基本的に同じだ。何故ならいい点を取っても少し褒められるくらいで進路にはさして影響がないからである。メフには進学先が基本的には一つしかなく、就職先も限られている。だからメフの外から来たものはともかく、幼い頃からこの町に住んでいるものはむやみやたらに努力を忌避するのが習い性となっていた。
幸は不思議なものを見るような目つきで送り出された。彼は特別棟の図書室に向かい、重たい扉を開く。予想はしていたのだが誰もいなかった。だが好都合ではある。ここなら静かに勉強できそうだ。そう考えて窓際のテーブルに歩いていくと、奥まったところから物音が聞こえた。慌てたような声すらも聞こえてくる。そこからは中年の男性教師が出てきて、ハンカチで額の汗を拭いながら幸をちらちらと見遣り、ペンギンのような歩き方で図書室から立ち去ってしまう。
テーブルの上にリュックサックを置きながら、先の教師は資料でも探しに来たのだろうかと訝しんでいると、今度は派手な格好をした女生徒が出てきた。衣奈葛である。彼女は目が合ったものを睨み殺すような顔つきだった。煙草を咥えて火を点けようとしていたが、幸を見るや相好を崩して近づいてくる。
「八街じゃーん。どこのバカが来たんかと思った」
「あれ、葛ちゃんも勉強?」
「まあー、テスト近いからさー」
その割には葛は筆記用具はおろか鞄すら持っていない。
「さっきの人は?」
「あー。アレ? あれ一年の主任」
「……何してたの?」
「何もしてねーし。する前に八街来たんじゃん。そんでビビって逃げやがんの」
葛は椅子に座り、胸元を幸に見せびらかした。
「テスト範囲教えてもらおうと思ったんだよね」
「ええ? そういうのやめなよ」
「じゃあどうやって教えてもらうっつーの?」
「だから教えてもらうのをやめなってば。ずるいじゃないか、そういうの」
「進級かかってんだけど?」
だったらなおさらである。幸は諭そうとしたが、葛には何を言っても無駄な気がして自分の勉強に取り組むことにした。教科書とノートを開いて彼女を無視していると、横から脇腹をくすぐられたり耳を触られたりして邪魔なことこの上なかった。
「邪魔するんならどっか行ってよ」
「いひひひひ、怒ってやんの。何してんの? あー、数学? 葛ちゃん数字並んでるの嫌いなんだよねー。そこ間違ってんよ」
葛は幸が解いている最中の問題文を指で突いた。
「……あ。ホントだ」
「ねー、なんかしようよー。ヒマー」
「ぼくは勉強するから、遊ばないからね」
「あっそー?」
葛はぽちぽちと携帯を操作し始めた。幸はその間に教科書に目を向ける。
しばらくは大人しくしていた彼女だが、幸の鞄から別の教科書を取り出して落書きを始めた。
「ねー。確か二年の社会教えてんのって中山だっけ?」
「うん、中山先生だよ。って、あ、もう、落書きやめてよ」
「中山はねー、つまんない。問題もつまんないの出すよ」
幸が教科書を取り上げると、テスト範囲の箇所に下線や丸文字が書き込まれていた。
「うわあいっぱい書いたね。これ消せないじゃないか」
「その辺からテストに出るっぽいから」
「え? そうなの?」
「ヤマ当たったら何かしろよなー。何でも言うこと聞いてもらうから」
「そんなのイヤだよ。何されるか分かんないし」
「そっちがする方かもしんないじゃん」
「それも嫌だよ」
葛は他の教科書にも下線を引き始めた。幸は止めようとするのだが、よくよく見ると『確かに当たるかもしれない』と止めるに止められなくなってしまう。そうしていると図書室の扉が開き、威勢のいい声が響いた。
「つづるぁあああああああああ! この私が来てあげたわよ!」
鵤藤が腕を組んだままずかずかと近づいてきた。彼女の傍らには困り顔の長田もいた。彼は幸に気づくと申し訳なさそうに手を上げた。
「会長? どうしたんですか?」
「いや、何。衣奈君に呼び出されてな。まったく。今日は生徒会室で簡単な会議をするつもりだったんだが、副会長は待てど暮らせど姿を見せない。まさか図書室にいるとは。……それで、急ぎの用とは何だ?」
「そうよ。私らをわざわざ呼びつけておいて」
藤は葛を見下ろす。どことなく満足げだった。
「あー。八街にベンキョー教えてやってよ」
「はあ? なんで? わけ分かんない!?」
「なんで? 日本語通じないの?」
「ちょっと馬鹿にしないでくれる?」
藤は、テスト勉強をしている幸の様子を確認した。長田は幸の対面の椅子を引き、適当な教科書をぱらぱらとめくる。
「ああ、そういうことか。衣奈君は友達想いだな。俺は別に構わないが」
「構いなさいよ!」
「相変わらずうるさいなー、こんなんなら藤は呼ぶんじゃなかったかも」
「呼びなさいよ!」
死ぬほどうるさくなったが、生徒会との勉強会は幸が思っていたよりも捗った。彼は心の中で葛に感謝するのだった。
土曜日。幸は鞄に教科書やノートを詰め込んで九頭竜神社の参道を上っていた。テスト勉強するのもそうだが、天満の神託に付き合うのが一番の目的である。
境内に到着して鳥居の端っこを潜ると、不審そうにこちらを見ている織星と目が合った。幸は会釈する。
「また来ましたね」
「まるで来たら悪いみたいな言い方ですね」
織星は咳払いした。
「あの子を捜しに来たんですか」
「まあ、そんなところです」
「……お二人で何をしているんですか」
幸はすぐに答えられなかった。織星の視線が鋭さを帯びた。
「答えられないことをしているんですか」
「神託を受けてるんです。異能のことで話を」
嘘ではないが、嘘のようなものだった。これは言い逃れできないと思った幸だが、織星の反応はどこかおかしかった。
「ご神託を……あの子から、ですか?」
織星は視線をさ迷わせた。幸はその反応から彼女が神託のことを知っているのだと察する。
「本当に? でも」
何か言いかけた織星だが顔つきを険しいものにさせた。彼女は、向こうからのろのろと歩いてくるものを認めて呆れたように息を吐く。
「ごめーん、遅くなっちった」
軽い感じで謝ったのは織星と同じく巫女装束に身を包んだ女である。しかし二人には確かな差異があった。それは着こなしである。やってきた女は服を着崩しており、所々肌が露わになっていて、端的に言えば幸の目には毒だった。
緩くウェーブのかかった髪の毛と共に豊満な胸が幸の近くで揺れた。だらしない雰囲気の巫女はへらへらと笑っている。
「あれー、この子また来たの? 天満ちゃんが喜ぶなあ」
「あのですね常夏さん」
「んー?」
織星は着崩し巫女を見据えつけた。
「何度言ったら分かるんですか。服はしゃんと着てください」
「えー? だってサイズきつくってさー」
「一回り上のを着ればいいじゃないですか!」
「あっ、ちょっとおっきい声出さないで。頭痛くて、織星ちゃんの声はよく響く……」
「また二日酔いですか!?」
涙目で説教される女は、まるで一回り大きくなった葛のようである。幸は、常夏と呼ばれた女に対して苦手意識を持ち始めていた。
幸はそっとその場を立ち去った。その時、常夏が彼に対して小さく手を振っているのが見えた。
「どうして来なかったの?」
叱責する声と共に平手打ちが飛んだ。
幸は天満と共に蔵にいた。彼は神託を受けるため、相変わらず縛りつけられて椅子にくくりつけられている。しかし今日は両手が自由になっていて、教科書を持っていた。
「今日はいつもより力が入ってるね」
「せっかく待っててあげたのに。やちまたくん、昨日も一昨日も来なかった」
幸は教科書を掲げた。
「テストが近くて」
天満はまた幸の頬を打った。そうして自分で張り倒した箇所を優しく撫でるのだった。
「言い訳してもぶつからね」
「先に言っといてよ……」
幸は、天満の異能のことをまだ把握できていなかった。それでも殴られた部位は彼女に撫でられれば元通りになるので、やはり怪我を治療する類の力があるのだと推測している。
「それで、どう? やちまたくん、何か成長した?」
「うーん。どうだろう。あっ、いだだだ」
「意味のないことを言ったら抓るからね」
もう抓られていたし、何だったら打たれるより地味に痛かった。
「ああ、痛かった。……そういえば、さっき知らない人に会ったよ。常夏さんとかいう巫女さんに」
「ジョーちゃん?」
幸は小首を傾げた。
「うん。自分のことはジョーって呼べって言うんだよ。常夏って呼ばれるのあんま好きくないんだって」
「ふうん。豊玉さんはさ、ぼくが来たら嬉しい?」
「なんで? 別に嬉しくないよ」
「さっきそのジョーさんって人がそんなこと言ってたから」
天満は表情こそ変わらなかったが頬に朱が差していた。ここにきて初めて彼女の少女らしい反応が見られて幸は少しほっとした。その代償は往復ビンタだった。
「そういうこと言ってもぶつからね。それで、何それやちまたくん」
「教科書。テストが近いんだよ」
「……ふーん。高校生は忙しいんだね」
「まあね」と幸は皮肉を適当に受け流した。その態度が気に入らないのか、天満はまた彼の頬肉をつまみ上げた。
「やっぱり。ちょっと痛いのに慣れてきてる」
幸は頷きかけたが、やめておいた。確かに殴られれば痛いが、それでも天満は小学生である。彼女の腕力の底は見えていた。
天満は蔵の奥からあるものを持ってきた。
「そう思ってたから、違うことでやちまたくんを目覚めさせてあげる」
「それ。何?」
先が鋭くて細長いものが覗いていた。
「釘。やちまたくん、お靴脱いで?」
「なんで?」
「刺すから」
「どこに!?」
「分かり切ったこと聞いてもぶつよ」
昼前になったところで神託は終わった。幸はふらつきながら蔵を後にする。一方、天満は元気いっぱいで溌溂としていた。
「ねえねえやちまたくん、縄跳びできる? できるんなら教えて」
「縄跳び?」
幸は、ひも状のそれを見て『ああそういえばアレはそういう風に使うんだったっけ』と打たれたところを無意識のうちに摩っていた。
「やった。じゃあね、教えてくれたらお昼ご飯を一緒に食べようよ。お姉ちゃんたちが用意してくれるんだって」
「うん、ありがとう」
天満は境内に向かって駆けていく。幸は後を追おうとしたが、自分の足を見て動きを止めた。
足だ。
そこはもう何ともないが、ついさっきまで見るも無残な状態になり果てていた。
神託を受けたことで何かが変わったという自覚はない。だが、天満との会話の中で何かを掴めそうな、そんな予感がしているのも確かだ。
新しい痛み。
新しい苦しみ。
そういったものが脳みそを駆け巡っている間、郷愁を覚えているのもまた事実である。痛くて苦しい。逃げるのは簡単だ。だがその先に得難いものが待ち受けているのならそれを手放す道理はない。幸はそう考えていた。
この日、幸はほとんどの時間を神社で過ごした。
天満の縄跳びを見てやったり(死ぬほど下手糞だったので指摘したら殴られた)、十帖機関の巫女が用意した昼食を食べたり(死ぬほどじろじろ見られた)、客間で勉強をして過ごした。その間も天満がちょこちょことちょっかいをかけてきて、その度に傷を負って癒されるのだった。
幸の知る限り、彼が教えてもらった限り、十帖機関には十数名の狩人兼巫女が在籍していた。
規律にうるさい月輪織星。
乱れた風紀の常夏(本人は『ジョー』と呼んで欲しいらしい)。
双子の玉と初音。
料理が上手いともっぱらの評判の篝火。
他にも巫女はいるらしいが、幸は覚えきれそうになかった。
最初こそ神社の巫女たちに警戒されていた幸だが、天満に甚振られている様を見られたり、中性的な顔つきのせいか無害と判断されたらしく、神社を後にする頃には何人かの巫女とそこそこ親しく話せるようになっていた。
「でも調子に乗らないでくださいね」
「え」
外がもう暗くなり、幸が神社の社務所から出ると何故だか織星がついてきた。
「勝手にどこかへ入り込まれては困りますから」
「入らないですよ」
「それでもです」
どうやら麓の山門まで送ってくれるらしい。幸は厚意に甘えることにした。実際、参道には街灯がほとんどなく、ホラー映画に出てくるようなロケーションではある。
二人で並んで鳥居の端っこを潜ると、織星は立ち止まって境内を見回した。
「八街君は狩人になりたいんですよね。それだけ、ですよね」
「それだけっていうのは?」
「あまり、詮索しないで欲しいんです」
織星は先に石段を降り始めた。
「そういうことされると困る人たちがいるので」
「あんまり馴れ馴れしくしちゃうつもりはなかったんですけど、気を悪くされたんなら謝ります。ごめんなさい」
「あ。いえ、そういう意味でもなく……」
「月輪さんだけ仲間外れなんですね」
織星は立ち止まった。幸は彼女を追い抜いてから振り返る。月明かりに照らされた織星の表情がどのようなものなのか、判別できなかった。
「どうして、そんなことを?」
「名前です。ぼく、本を読むのが趣味なんです」
「……ああ。ああ、ええ、そう、ですね」
織星はゆっくりと段の先に足をかけた。
常夏。玉鬘。初音。篝火。
それは恐らく源氏名だ。彼女らの本当の名前ではない。どうして神社の巫女が名を隠すのか知らないが、幸にはそれを暴く意味も趣味もなかった。
「月輪さんだけちゃんとしたっていうか、普通の名前なんだなって思って」
幸はそれ以上何も言わなかった。
「ご神託は続けているんですね」
幸は頷く。石畳に爪先を引っかけそうになって、彼は少し慌てた。後ろからは織星の気配がしている。
「月輪さんは神託を受けましたか」
「巫女は皆、受けたはずです」
「豊玉さんの神託をですか」
「ええ」
短い答えが返ってきたが、そこには様々な感情が滲んでいるように思えて、幸は息を呑んだ。
「でも、私は耐えられませんでした。他の人もそうだと思います」
「皆さん、何も言わなかったんですか」
「あの子は……」
織星がまた立ち止まった。幸もそうした。
「あの子のこと、よろしくお願いします」
彼女は微笑を湛えていた。作り物めいていて、冷え冷えとした顔だった。
夕食後、幸はリビングでテストに向けて勉強をしていた。むつみはそれをつまらなそうに見ている。彼はその視線に既視感を覚えた。
「少年、勉学に励むのはいいことだと思う」
むつみは、幸の広げていた教科書を手に取って適当にめくり始める。
「んー、私の時はこんなんだったっけ?」
「返してください」
「邪魔されたくなかったら自分の部屋でやりなよ。ここにいるってことは多少なりとも私に構われたいってことじゃないの」
「部屋の椅子は座りにくいんです。固くて」
「じゃあリビングのと取り換える?」
「もうー、返してくださいよう」
教科書を取り返すと幸はそちらに集中した。むつみはしばらくの間、彼がノートや教科書と睨めっこするのを眺めていたが、思い立ったかのように席を立ち、コーヒーを淹れ始めた。
「平均点以上は取らないと狩人の研修も許さないって言ったもんね」
「取りますよ」
「そうかい」
まあ頑張りなと差し出されたコーヒーを一瞥すると、幸はまたノートに視線を落とす。
「……ああ、そういうこと」
むつみは口の端を歪めた。
「そうやって頑張ってるところを見せようっていうんだ」
幸の表情が強張った。
「別にそういうわけじゃ……」
「ま、無理しない程度にね。テストでいい点取れなくたって何も死ぬことはないんだし」
「叔母さんは死ぬような思いとかしたことありますか」
「いきなりだなあ。でも、そりゃあ、あるんじゃないかな。長いこと狩人やってると麻痺しちゃうけどさ、そういうのが当たり前っちゃ当たり前だからね」
むつみは大したことなさそうに言った。それは彼女が常から死を意識しているからなのか、あるいは死ぬことをどうでもいいと捉えているのか、無頓着な物言いだった。
「《百鬼夜行》って猟団にいたんですよね」
「古海が喋ったんだな。また余計なことを」
「何か聞かせてくださいよ」
「勉強に集中してなよ」
「ちょっとうるさい方が集中できるんです。雑音とか、そういうのがあった方が」
「私の声は雑音か。……まあいいけどね。でも、そんな話せることはないよ」
むつみは頬杖を突いた。
「あんまり覚えてないからね。私は好き勝手にやってたし」
「でも、そんな大昔のことでもないじゃないですか」
「そうだなあ」
むつみはぽつぽつと話し始めた。幸は雑音だのと冗談半分で言ったが、彼女の声は聞いていて心地がよかった。
《百鬼夜行》に入った時のことや、仲の良かった人、悪かった人。面白かったことや面白くなかったことをむつみは話した。それを聞いている内、幸は気にかかっていたことを尋ねた。
「どうして百鬼夜行はなくなっちゃったんですか」
「ん? ああ、それね。それも古海から聞いてるんじゃないの?」
「古海さんはほとんど何も知らないって言ってましたけど」
「そう? まあ、そのことについてもね、私が話せることなんか何もないんだ。覚えてないからね。何せ必死だったから」
大空洞で何があったのか。むつみは核心には触れなかった。
「春かな。ちょうど今くらいの時期に大規模なケモノ狩りがあってね。大空洞のケモノを一掃するって名目でさ、ほとんど全員で潜ってったんだよ」
「名目、ですか」
「そう。実際、大空洞の一番奥を確かめたいってのがあったと思うよ。何かあったらお金になるかもしれないし」
「叔母さんもそうだったんですか?」
むつみは首を振った。
「私はそうじゃないし、他の人もそんなこと考えてなかったと思うよ。上の人たちがそういうこと考えてたんだと思う。何せ猟団は大きかったし、たくさんの人が在籍してたし、関わりのある人も多かったからね。デカブツが食べていくにはお金とか、色々必要だったんだよ。ま、失敗したけどね」
「……本当に、生き残ったのは叔母さんだけなんですか」
「さあ、どうだろう。その時一緒に行かなかった人もいるだろうし。そもそも人が多かったし、みんなが常に一緒に行動してたわけでもないの。だから私の知らない人だって大勢いたよ。ただ、解散って形になってからは《百鬼夜行》の名前もとんと聞かなくなったかな」
むつみがそのことを悲しんでいるのかどうか、幸には分からなかった。ただ、彼女だけでも戻って来られたのならよかった。そのことだけは伝えた。
「そういうこと言ってくれるのは君くらいだよ」
「そんなことないと思います」
「そうかなあ。ところで、どう。勉強は進んだかい」
「少しは」
むつみはあくびを噛み殺す。
「そ。そりゃよかった。さて、疲れたし、そろそろ寝ようかな」
「おやすみなさい」
「ん」
むつみは自分の部屋に戻ろうとしたが、ふと、立ち止まった。
「他に古海から何か聞いた?」
「え? ……あ。叔母さんはいい狩人だって言ってましたよ」
「いい? いい狩人?」
「何がいいのか具体的には言いませんでしたけど。いい狩人って何なんですかね」
「さあ。何なんだろうね」
幸はむつみから話を聞いたが、彼女のことが分かるどころか、分からないところが増えるばかりだった。
一人になって境内に戻る。
否。自分は常に一人だ。
幸と別れた後、月輪織星は社務所に戻るべく歩いていた。その時、人影が別館の方に行くのが見えた。涼しくなったとはいえ必要以上に薄着の女だ。
「……篝火さん」
暗がりに呼びかけると、人影の動きが少しだけ止まった。視線がこちらを向いている。その気配こそ感じたが返答はなかった。いつも通りだ。篝火はいつもこうだ。そも、織星は彼女とまともには会話した覚えがない。
篝火は別館に向かっていた。何のつもりなのか、織星には分かっていた。
指の爪を噛もうとしていた自分に気がつき、織星はその癖を中断した。彼女は社務所に戻る。先までくすくすという笑い声が聞こえてきたが、織星が帰ってくるやその声はぴたりと消えた。
廊下を歩いていると常夏とすれ違う。彼女は織星と目も合わせようとしなかった。
「あの」
「何」
常夏は仕方なさそうに立ち止まる。
「夜はあんたの時間じゃない。一々話しかけないでくれる?」
「あ……いえ、そういう意味では」
「じゃあ何? 鬱陶しいんだけど」
睨まれるとそれだけで織星は何も言えなくなった。
そして、常夏はいつものように天満のいる部屋の中へと入っていく。
織星は自室に戻った。彼女は青ざめていた。服を着替えていると幸の言葉が脳裏を過ぎり無性に腹が立ってくる。八つ当たりだった。
『仲間外れ』
「うっ、ああぁ……」
絶叫しそうになってその場に蹲る。それでも我慢できそうになかった。押し入れから布団を引っ張り出し、それに噛みついて口を無理矢理塞ぐ。
「ぐうううううぅうううう……!」
噛みつき、掴み、爪を立てる。
ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。
悔しい。悔しい。悔しくてしようがない。
どうしてこんな目に。
どうしてこんなところに。
分かっていた。この身に巣食う病のせいだ。
だからこれ以上はどこにも行けない。もう逃げ場はなくて、ここより下に落ちることもない。
髪も服も乱れ、涙目になった織星の姿からは、いつものまっすぐさも掻き消えてしまっていた。
「うん、うん」
「だからね。怖かったの。ね、私大丈夫かな」
「うん。大丈夫だよ。そういうの気にしないでいいからね」
「本当? 大丈夫?」
暗がりの部屋に少女が一人。女が一人。
「大丈夫だよ、大丈夫。何も考えないでいいんだから」
優しげな声に安堵すると、女は目を瞑った。
「大丈夫。大丈夫だよ」
常夏は、天満に膝枕されて髪の毛をずっと撫でられていた。
「今は何も考えなくていいからね」
「うん」
「ここには何も怖いものなんかないよ」
「うん、うん」
常夏は縋りつくようにして、天満の下半身に顔を埋める。
九頭竜神社にも夜の帳が落ちていく。その中を覗けるものは、今は誰もいなかった。