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驢鳴犬吠めふFeverズ  作者: 竹内すくね
磑風舂雨しぃたぉちぇんつぷぅ
17/121

黒焦げ美人<2>



 ある朝のホームルームのことであった。常なら鉄が教室に見えるまでギターの弾き語りをしている男子生徒が今日は大人しかった。幸はそれだけで妙な予感がしていた。

 だから、鉄が猪口蝶子の欠席を告げても幸はそうだろうなとしか思わなかった。

「蝶子ちゃん大丈夫なんかな」

 誰かがぼそりと呟く。その声に乗じて他の男子も蝶子のことを話し始めた。連休明けから彼女は登校していなかったのである。彼らは適当にあしらわれて距離こそ取っていたが心配なものは心配だった。この際である。蝶子にはただ、この教室にいてくれるだけでもいいと思うものがほとんどだった。

「せんせー、なんか聞いてないんすかー」

 教壇で突っ立っていた鉄に視線が集まる。

「欠席の連絡は受けております。それ以上のことは」

「いや、病気だったら心配だし、なんかあったら」

「ですから」

 鉄は語気を強めた。

「転校とかしないっすよね」

「えー? マジかよ?」

 喧々囂々。

 鉄は表情を変えず男子どもを睥睨するが彼らには耐性がついていた。美人は三日でも飽きない男子どもだが鉄の厳めしさには慣れ始めている。そもそも勝手に怖がっているだけで彼女が暴力を振るったり生徒に嫌がらせを行うようなことはない。それが分かっているからこそ好き勝手にしているのだった。

「おい、ヤチマタ」

 翔一に促された幸はこの場を収めるべく立ち上がりかける。だが、弾き語り系男子がギター片手に立ち上がった。注目を浴びた彼はスロウテンポの曲を弾きながら話を始めた。

「昨日見ちまったんだ。俺だけお前らとの野球で全然ヒット打てねーから、特訓のためにバッセンへ行ったんだ。したらバッセン休みで途方に暮れてた。そこで見ちまったんだ。なんかやべーやつと一緒にいる蝶子ちゃんを。俺はその時何もできなかった。ただ見ているしかできなかった。俺の悲しみ、辛みをお前らにも分かって欲しいから歌ったんだ。俺の歌を聞いて欲しかったんだ」

 拍手が沸き起こった。そうでもない歌唱力だったが聞いたものの心を強く揺り動かした。

「で、やべーやつって誰だよ」

「完全にやくざにしか見えんかった」

「なんで蝶子ちゃんがやくざと一緒にいるんだよ? 目玉焼きにソースくらいありえねー組み合わせだろ」

「微妙なたとえはやめろ! そっちに話がいっちゃうだろ!」

「普通にあり得るだろぶっ殺すぞてめえ」

「ほら見ろ!」

「俺はー、やくざとー、蝶子ちゃんがー、一緒にいるのを見た―」

「醤油の方があり得ねえよ!」

 上がるBPM。刻むノーツ。熱狂するフロア。アッチェレランドに。だんだん早くだんだん楽しくなってくる男子ども。幸は立ち上がって皆を見回すと深く息を吸い込んだ。

「……先生?」

 鉄の姿がなかった。彼女は教壇の陰に隠れるようにして蹲っていた。幸の怒気は掻き消える。彼は訳が分からないまま鉄に駆け寄った。彼女の額には脂汗が滲んでおり、顔からは血の気が引いていた。

「どうしたよ」

 翔一たちが近寄ってくる。彼らも鉄の様子を見て熱が冷めたようだった。

「保健室か? 保健委員いたっけ……いなかったっけ」

「ぼくが連れてくよ」

「お前だけじゃ無理だろ」

 幸と翔一が肩を貸そうとするも、鉄はそれを拒み独りで立ち上がった。

「お気になさらないで」

「いや、そういうのいいっすから」

 強引に教室の外へ連れ出すと、騒ぎを聞きつけたのか隣の教室から男性教師が顔を覗かせた。幸が事情を説明すると、彼は保健室へ行くようにと告げて戻っていく。

 幸は、今の教師から鉄を心配するような素振りが見えなかったのを不思議に思った。むしろ、呆れているような雰囲気さえあった。

「ヤチマタ」呼びかけられて幸は思考を断ち切った。

 翔一と二人で鉄を支えたが、幸は声を上げそうになった。軽いのだ。今まで教師として頼りがいのある存在だと思っていた彼女が、まるで幼い子のように体を預けてくるのを見ると言い尽くせない思いでいっぱいになった。翔一もそれを分かったようで、幸と目を合わせてからはお互いが無言を通した。

 保健室は開いていたが誰もいなかった。鉄を適当な椅子に座らせると、翔一は養護教諭を捜してくると言って出て行ってしまう。幸は所在なげにしていたが、彼女が苦しそうな声を出すもので戸惑った。

 鉄は目を瞑って口元に手を当てている。吐き気を堪えているようだった。

「あの、寝ますか?」

 幸は空いているベッドを指差す。鉄は彼とベッドを睨むようにして見据えた後、のそのそと動き始めた。幸は車道を横断する亀を見守っているような気分になった。

 ベッドに辿り着いた鉄はスーツを脱ぎ捨てた。幸はそれを拾って椅子に掛ける。彼女は倒れ込むようにして枕に顔を埋めた。

「……先生?」

 返答はない。やがて鉄は寝息を立て始めた。



 視界が狭まって熱に浮かされる。

 ぐるぐると回る世界に一つ、二つ、雑音が入り込む。虫の羽音が肌に貼りつき、均衡を失った体は宙に浮く。いつもそうだ。トルエンに狂った頭が夢幻の区別をなくし、現実に割って入るのは。

 羽音はやがて人の声に変わる。景色は見慣れたものになり、熱が引く。人殺しという声が耳に届き、鉄一乃は前を向く。

「先生。どうして生きてるんですか」

「どうして死なないんですか」

「どうして生まれてきたんですか」

 鉄は息を呑んだ。学生服の男女が笑っている。メフに送られるよりずっと前、教職に就いて間もない頃の記憶だった。それは未だ鮮明だった。

 縮んだ脳が瞼の裏っ側へ記憶を照射している。映像が乱れた。

 彼女は中学時代、荒れていた。環境に問題があったわけではない。ただ流されて、ただ落ちただけだ。

 そんな鉄に救いの手を差し伸べたのは当時の担任教師だった。雛傘ひながさという定年間近の女だった。ふくよかな体型で忙しなく動き、鉄にしつこく付きまとった。学校に来るようにと、時には手を上げられた。あんまりにもしつこいので彼女はしようがなく悪い友達との付き合いを断ち、まともになろうと考えた。流されて落ちたことに理由はないが、まともになるのにも理由は必要なかった。ただ、そのきっかけをくれたのは雛傘だったから、鉄は内心で彼女に感謝した。

 鉄は、こんな自分でもまともになれるきっかけをくれた、教師というものに興味を持った。自分なりに努力をして大学に入り、当たり前のように教師になっていた。卒業後、赴任先が決まるのと前後して彼女は恩師である雛傘へ報告することにした。

「あなたはだあれ?」

 雛傘は老人ホームのベッドの上でにっこりと微笑んだ。鉄たちは彼女にとって最後の教え子だった。その時から認知症を患っていたらしい。帰る間際になって、居合わせた雛傘の身内から聞いた。その後、鉄が彼女と言葉を交わすことはなかった。

 それでも、鉄は教師というものにある種の幻想を抱き続けた。胸に抱いたそれが砕けるのに時間はかからなかった。初めて受け持ったクラスで、彼女は教師と生徒の壁であったり、距離感というものをはかりかねた。立ち入り過ぎた結果、話はもつれにもつれて大きくなって数名の自殺者が出た。

 いい教師というものは、生徒と仲がいいものだとばかり思い込んでいたのだ。しかしそこには絶対的な壁がある。思春期の少年少女は誰にも立ち入って欲しくない聖域を確かに持っていて、彼らは侵入者に対して容赦をしない。鉄は学んだ。痛いほど分かった。しかし転任先の学校でも学んだことが足を引っ張った。どうしても駄目だったのだ。教師と生徒の距離感をはかりかね、掴み損ねた時、彼女に刻み込まれた記憶が、彼女に教師であることを許さなかったのである。そうしているうち、扶桑熱に罹りメフに送られた。今度こそはという気持ちでいたが、生徒に厳しく接して距離を取っているつもりでもどうにもならなかった。

 記憶は混濁する。酒精は巡り、窓に映った人影が歪む。そうやってまた視界は狭まり、熱に浮かされて何も見えなくなった。



 座って本を読んでいるとベッドから身じろぎする気配がした。幸がそちらに目を向けると、鉄が体を起こそうとしていた。

「平気ですか」

 鉄の前髪は乱れていた。彼女は相変わらずの無表情だったが、涙の痕があった。幸は小さく息を吐く。

「申し訳ありません。どうぞ、教室へ戻ってください」

 チャイムが鳴った。幸はそれが終わるのを待った。

「今から二時限目になるところです。保健の先生呼んできましょうか」

「八街さんは教室へお戻りになってください。付き合わせてしまって、すみません」

「ぼくはいいんです」

 幸は椅子に戻る。鉄の視線が痛いほど刺さった。

「ぼくも体調が悪いので」

「八街さん」

「先生は人殺しなんですか?」

 鉄の目が見開かれた。

「さっき、一回教室に戻った時、先生たちが言ってたのを聞いちゃったんです」

「それは……つまらないことを聞かせてしまいました。お忘れになって。八街さんには」

「ぼくもそうなのかもしれません」

 幸は読みかけの本を開いた。

「ごめんなさい。傷をなめ合うとか、そういうつもりじゃないんです。ただ、先生の話を聞いちゃって、ここでぼうっとしてたらそういうこと考えちゃって」

 本を開いたはいいが文字が頭に入ってこない。幸は少し気恥ずかしかったが、鉄に向き直った。彼女はシーツを引き寄せて、立てた膝に顔を埋める。いつまで経っても彼がいなくならないので、仕方なさそうに話を始めた。それを聞き終えた後、幸は何となく安心した。

「ですから、私が笑わないのも、冷たくしているのもあなたたちのためではないんです。全部自分のためなんです。そうしないと、分からなくなって、気持ち悪くなるから」

「なんだ。別に先生が本当に殺したとか、そういう話じゃなかったんですね」

「……え?」

「結構よくある話だったから」

 鉄は気を悪くしたようで、恨めしそうに幸を見ていた。

「八街さんはどうなんですか」

「ぼくのは内緒です」

「そうですか」

 椅子にかかっていたスーツの内ポケットから、鉄は煙草の箱をつかみ取る。幸はぎょっとしたが、彼女は気にした風もなく、ベッドの上で煙草に火を点けた。甘い香りが漂った。

「吸うんですね」

「滅多には。落ち着くものですから。こうしてると、強かった時に戻れるような気がして」

 鉄は煙草を吸い終わるまで口を利かなかった。幸もそうした。やがて、彼女は吸い殻を流しに捨てて窓を開ける。

「私、ここの常連なんです」

 ああ、と、幸はその時に分かった。他の教師が鉄を見る目は、やはり想像していたとおりのもので間違いなかったのだ。彼女の苦悩、その全てを分かってやることなど誰にもできないが、彼はその苦悩の一端が自分にもあると思い知る。

「すみません、先生。あの時、ぼくがもっと早く皆を静かにさせてればよかったのに」

「いえ、そういうことでは」

「そう考えちゃうんです。ぼくが情けないから、誰かに嫌な思いをさせてるんじゃないかって」

「私がこうしているのは私のせいですから」

 幸は本を閉じた。

「先生はいい先生だと思います。ぼくの進路のこと考えてくれたじゃないですか。あんなたくさん本を持ってきてくれましたし、きっと、他の皆のことだって考えようとしてくれてる」

「振りなんですよ。全部」

「それでもいいんです」

 誰だって失敗を引きずりながら息をしている。やり直したいことがある。幸は、自分たち扶桑熱患者はその機会を与えられたのかもしれないと思っていた。

「何かあったら言ってください。ぼくは委員長ですから。大きな声を出したり、皆の前に立つのは苦手ですけど、少しずつ頑張っていきますから」

「……私も、大声を出すのは苦手です」

「先生もですか」

 鉄は小さく頷いた。

「ご心配をおかけしました。八街さんは教室にお戻りになってください。私に付き合って授業をサボるのは感心しません」

「三時限目から出ます」

「八街さん、いけません」

「先生が大丈夫だって言ったら戻ります」

 鉄は幸をじっと見るが、その視線には力がなかった。彼女は諦めたように俯くと、二時限目が終わるまでずっとそうしていた。

「じゃあ、ぼくは戻りますね」

 鉄はまた寝息を立てていたので、幸は静かに戸を閉めた。



 この日、教室に鉄が戻ってくることはなかった。代理の教師がホームルームで連絡事項を伝え終えると、一組の生徒は彼女のことには触れずに下校していく。

「よう、帰りどっか寄ってく?」

 翔一は笑っていたが、いつもの無邪気さは影を潜めていた。幸は少しだけ迷ったが、今日はアルバイトもない。彼に付き合うことにした。行き先はセンプラである。ゲームセンターの騒音の中にいると、余計なことは考えずに済みそうだった。

「あっ、ちくしょうダメだな今日は」

 翔一はゲーム機の筐体から離れると、髪の毛をわしゃわしゃとかいた。

「なんつーか、体動かしてえ気分。……バッセン行く?」

「バッセンって、もしかして今朝のこと気にしてるの?」

 幸が言うと、翔一は気まずそうに笑う。

「まあ、気にならねえ方がおかしくね? あいつが蝶子ちゃん見たのも何かの勘違いかもしれねーしさ」

 幸はどちらかと言えば蝶子より鉄の方が気になっていたが、自分の目で確かねばならないような気にもなっていた。

「ぼくも行くよ」

「オッケ。一回行ったことあるから、まあ任せとけって」

 不案内な先導のもと、幸はてくてくとついていく。バスに乗った方がいいんじゃないかとか、誰かに道を訊いた方がいいんじゃないかとも思ったが、翔一は自信満々なので口には出さなかった。小一時間ほどメフを歩き回って、翔一は立ち止まった。

「ないね、バッセン」

「言いたいことがあるんなら、今なら何でも聞くわ」

「そう?」

「あ、やっぱやめてくれ。なんかお前に言われんのが一番堪えそうだ」

「とりあえず、通りの方に出ようよ」

 幸はここいらの地理に明るくない。陽が暮れる前に知っている道に出たかった。翔一も頷き、二人して来た道を戻ろうとした。どこからか、車が急ブレーキをかける音が聞こえてきて心臓に悪かった。二人とも何も言わなかったが、足は自然と、音の聞こえてきた方へ向かっていた。

 路地を抜け、角を曲がり、新たな路地に。足は早まり、幸と翔一は遂に走り出す。男の怒鳴り声が聞こえてきた。翔一はゴミ箱を跳び越えた。バッティングセンターが見えた。しかし今はそちらを気にする余裕はない。一台のバンが道を塞ぐようにして斜めに停まっており、柄の悪い男たちが、一人の少女を取り囲んでいたからだ。

「おいっ」

 翔一は咄嗟に声をかけたがすぐに後悔した。相手の人数が多かったのもあったが、その中でもひときわ目立つものがいる。あの猿喰よりも巨大な男がいたのだ。優に二メートルはあるだろうか。今にも千切れてしまいそうなタンクトップを着た長髪の男は、オークじみた体型を見せびらかすようにしている。

「……ほらー、あんたが粘るから人が来ちゃったじゃん」

 周りの男たちが粗野な笑声を漏らした。翔一はタンクトップの大男に対して喋りかけた。

「ケーサツ呼んだから、そこら辺にしといた方がいいっすよ」

 大男は声に応じない。顔立ちも日本人とは少し違っていた。

「そりゃどうも」と年若い男が翔一に返す。何も気にしていないらしかった。

「で? お兄ちゃんたち、何?」

 翔一は答えに窮したが、幸はずんずんと歩き出し、若い男の目の前で立ち止まった。

「お、おいって……」

 幸は、取り囲まれている少女を見た。それは猪口蝶子に間違いなかった。それだけで充分だった。

「その子、離してあげてください」

「あァ?」

 チンピラが幸を見下ろす。彼は怖じずに見返して、少しはにかんだ。

「ンだ、てめ……」

「手ぇ上げるんかい」

 蝶子がチンピラを見ていた。彼女の言葉遣いに幸と翔一は驚いたが、口を挟む余地はなかった。

「女一人ろくにさらえん三下が、おのれの不手際棚に上げてカタギ甚振ろうゆうんかい。あ?」

 チンピラたちは無言で刃物を握った。

「おまけに長いの使う気かい。笑われんでお前ら」

「上等じゃねえかガキが!」

 幸の目に光輝が宿った。チンピラたちの手から刃物が消える。《花盗人》で奪ったそれらを、幸は器用に弄んでから彼らの足元へ放って返した。

「離してあげてください」

 チンピラたちは黙り込み、蝶子は舌打ちした。

「あんたらも調子乗って出張ってきとんなや。もうええから、はよ去ねや」

「猪口さんだよね」

「あ?」

「すごい喋り方だね……」

「……なんや、そのアホみたいな呑気さは」

 チンピラはうろたえていた。幸が扶桑熱患者だと気づいたのだろう。だが、彼らを押し退けるようにして大男が前に出た。凄まじい威圧感を受け、幸の体が僅かばかり冷える。

 大男は若いチンピラを片手で放り投げ、足元のナイフを踏み砕いた。そうして幸の前に立つと、ゆっくりと手を伸ばす。

 幸は異能を使おうとしたが通じなかった。彼はてっきり大男がオークだとばかり思っていたが、それは間違いだった。男はただ大きく、腕力があるだけの人間だった。

「あっ」

 呆気なく掴まれて、幸は大男に両腕で持ち上げられた。翔一は止めに入ろうとするが間に合わなかった。男は幸を地面に叩きつける。それだけで彼の意識が飛びかけた。鈍い音が辺りに響いてそこにいたチンピラでさえ目を覆う。しばらくの間、誰も声を発さなかったが、幸が呻くのを潮にチンピラたちが車に乗り込もうとした。

「逃げるんかい!」

 蝶子が彼らの背に声を放る。チンピラたちは大男を車へ乗せるのに必死になっていた。彼女は声を荒らげた。

「藍鶴会の看板背負ったもんがなァ、ハンパな真似して覚悟できてんのかって聞いとんねん!」

「ええ……」

 翔一は幸を起こしながら、蝶子の剣幕に完全にビビっていた。チンピラを乗せたバンは走り去っていき、彼女は翔一たちを睨みつける。

「余計な真似しくさって」

「つ、つーか! そっちがやべえから俺たちが」

「そのへっぴり腰で助けてやったとかくだらんこと抜かすなや」

 蝶子は翔一を押し退けると、未だ痛みに呻く幸の胸ぐらを掴んで無理矢理立たせた。彼がふらつくのでフェンスに押しつけると、顔を近づけて低い声で言った。

「うちはな、さっきのアホみたいに情けないやつも嫌いやし、お前みたいにとろこいやつが嫌いなんじゃ。お前らみんな嫌いや」

 幸はへらっとした顔になる。蝶子は平手で殴ろうとしたが、翔一が彼女を止めた。

「さすがにそりゃねえだろ」

「ありがとうなんか絶対に言わんからな」

「いいからヤチマタ離せって」

 蝶子は叩きつけるようにして幸から手を離す。彼は咳き込みながら背中に手を回した。どうやら酷いことにはなっていないらしく、ほっと息を吐く。幸はふと、蝶子の髪の毛が気になった。長い黒髪から赤いものが覗いていた。

「猪口さん、それ」

「あ?」

 凄まれたが、幸は気にしないで蝶子の頭を指差した。

「髪の毛、赤いんだね」

 その言葉を聞くや否や、蝶子は再び幸の胸ぐらを掴んでフェンスに押しつけた。

「誰の毛ぇが何やて? お前このこと吹いて回ってみい、ただじゃ済まさへんぞ」

「明日は学校に来なよ」

「誰が! お前らこそ二度とうちに近づくなや、分かったら……」

 幸はズボンのポケットから折り畳まれた紙をつまみ上げた。

「はい、これ。署名のプリント。生徒会がさ、学校のことで皆に書いてもらうようにって。よく読んでよ」

 蝶子は怒りのあまり言葉を忘れていた。

「ぼくに付きまとわれたくなかったら、自分の手でそれを書いて出してね。じゃないといつまでも猪口さんのこと捜して回るから」

「や、ヤチマタ。もうその辺にしとけよ」

「駄目だよ。ぼく委員長なんだから」

 幸は蝶子を睨むようにして見た。彼女の息は荒いものに変わっている。顔は真っ赤で目は血走り、しかし何をどうしていいのか分からないといった風に視線が定まっていない。

「殴っても蹴ってもいいよ。でも、ぼくは言ったことは守るから。逆に言えばそれを出せばもう猪口さんにはかかわらないよ。悪い人とつるんだって学校に来なくなったってどうでもいいよ。今決めてもいいからね。生徒会に賛成するかしないか教えてくれるだけでもいい。用はそれだけなんだ」

 蝶子の視線がゆっくりと定まっていく。彼女は幸からプリントを受け取ってポケットに突っ込むと、息を一つ吐き出した。

「お前と話しとってもどうにもならんのが分かった」

「分かったの?」

「約束したるわ。破ったら殺す。どんな手ぇ使ってでもお前のことだけは絶対に殺す」

「うん、分かった」

 蝶子が幸を放す。翔一は迷子になっていた子供を引っ張るかのようにして彼を両腕で抱えた。彼女が歩き去っていくのを見届けることなく、彼らはその場から逃げた。

「バカ! バカじゃねえのお前!? 何であんなこと言ったんだよ!?」

「だって」

「だってじゃねえよ! ちくしょう赤萩組とか骨抜きがいなくなったと思ったらこれかよ!」

「痛いから離してよう」

「本当意味分かんねー! 背中へーきかよ!」

 幸は、わかんないと素っ頓狂なことを言った。まったくもって分からないことばかりだった。

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