幸、部活をする
「……て、てめえ外部コーチのくせに」
「部外者がこんなんしていいのかよ……」
顔を腫らした若者たちがとある部室の床に三々五々転がって、いてえいてえと呻いている。そこに仁王立ちし、得物を携える女が一人。無造作に垂らした銀色の髪は珍しいだろうが、それよりも野生の獣を思わせるつり上がった目の鋭さが印象に残るであろう。……否、実際、女は獣にほど近い存在であった。彼女は《ワーウルフ》だとか《ルーガルー》だとか呼ばれる亜人である。頭から生えたイヌ科の耳と、尾っぽ。そして見た目では分からないが、人間よりも数段上の力こそが彼らの特徴だ。
「不良の分際で生意気な口を利くな」
女の名は田武高校(通称デン学)剣道部顧問、犬伏浜路。
浜路は幼い頃から正義感が強かった。東に不良がいれば竹刀を持ってすっ飛んでいき、西にいじめっ子がいればやはり竹刀を持ってすっ飛んでいった。そうして己の信念に基づき、悪と名のつくものをしばき回して二十数年。
「君、クビね」
「は?」
「いや、は、じゃなくってね」
浜路はデン学の教頭に呼び出されて正座させられていた。彼女にとって正座するのは苦ではない。苦しいのは生活だった。
浜路の生家はメフの伍区にある小さな道場だ。唯一の家族だった父親が死に、彼女がその後を継いだ。だが扶桑熱が流行り、武道よりも異能が流行った結果、門下生はガンガン減っていった。実際は違うのだが浜路はそう認識している。ともあれ、浜路はやくざに立ち退きを迫られており、メフ内の学校で外部顧問として口に糊するのが現状だった。
事態を把握しかねている浜路を見下ろし、教頭は言う。
「確かに彼らは不良だが、それでも生徒に手を上げますか。しかも凶器で」
「いや、凶器というか竹刀で」
「だまらっしゃい。いき過ぎた体罰ですな、犬伏さん」
「ですが、あの子たちはいじめをやっていました。教頭は部室をご覧になりましたか。煙草に酒、薬に刃物……悪の見本市だ。野放しにはできない」
浜路の言っていることは嘘ではない。デン学は部活動に力を注いでおり、花粉症持ちの生徒の割合が高い。問題行動を起こすのは往々にしてその手の生徒である。教頭もそのことを知っていた。
「しかしあなたはただの顧問だ。警察ではない。悪者を取り締まる権利など持ち合わせていないはずですが。やれやれ、警察沙汰にならなかったのは不幸中の幸いで」
「ですが」
「ですがもクソもありますか。クビはクビ。ここまで言うのはなんですが、生徒からだけでなく、先生方からも犬伏さんの指導を問題視する声がありましてな」
浜路は教頭の話を聞き流していた。それどころかねめつけていた。つまり、こいつは悪党を見逃す悪なのだ。許せなかった。叩き切ってやろうかとも考えていたが、二十数年生きたことでそれなりの理性と処世術を身につけている。
「はい。すみませんでした」
諦めて、頭を下げてやり過ごした。しかし浜路は自分のことが決定的によく見えていなかった。道場から門下生が消えたのも、外部顧問をクビになるのも、彼女の頭の固さと無駄に強い正義感が原因である。要は扱いづらいのだ。
そんなことは露知らず、浜路は明日からどうしようと、ない知恵を絞る真っ最中だった。
ラブソングを弾き語り、田中小と田中大がゲームに誘っても駄目だった。カラオケもゲーセンも無駄だった。せめて昼食を。せめて下校を。少しでも一緒にいてくれませんか。
「ごめんなさいね」
蝶子は相変わらずそっけなかった。息巻いていた男子どもの気は萎えつつあった。もうここまで来たら可愛さ余って憎さ百倍、高飛車な女は凌辱の対象という精神である。しかし行動に移せるはずもなく、結局、男子は次第に彼女との距離を置くことになった。それもまた一つの選択である。高嶺の花は決して手に入らないのだ。
幸はその状況を寂しいと感じていた。蝶子はまるで腫れ物扱いだ。しかし彼女自身がその状況を望んでいるようにも見えるのだった。それよりも自分のことで手一杯である。狩人になるべく日々を過ごさねばならない。
「学業を頑張れって言われてるんだけど、結構ざっくりした言い方だよね」
翔一もすっかり蝶子への興味を失ったようで、遠い目で空を見ているばかりだった。
「テストでいい点取るとかさー、内申上げるとか」
「内申……」
学生にとっては魔法のような言葉である。
「どうやって内申をよくするのかなあ」
「そりゃあ、いい生徒になったらいいんじゃねえの」
さっぱり分からなかった。
幸は、自分たちではよく分からないので分からないことは人に聞いて少しずつ知ろうと思った。
「内申を上げたいんですが」
昼休みになると、幸は鉄を捜して職員室まで押しかけた。彼女は持ち上げかけていたマグカップを机に戻し、椅子に座り直した。彼は息を呑む。鉄の目つきや顔つきがいつもより厳めしく見えたからだ。
「八街さんはユーモアがおありで」
鉄は射るような視線を幸に向けている。彼は目を逸らせなかった。無言が続く。やがて彼女はマグカップに口をつけ、瞬きを繰り返した。
「妙な行動力もおありで。残念ですが、私ではお役に立てそうにありません」
ただ。鉄は付け足した。
「本気なのだと伝わりました。きちんと授業に出てテストでいい点をとる。今の八街さんならそれだけで充分です。強いて言えば、後は課外活動でしょうか」
「部活とか、ですか」
「ええ。ボランティア活動もよろしいのではないかと。ですが、人から良く思われたい。それだけのためにやることは八街さんのためにならないかもしれません」
幸は何も言えなかった。
「焦っているのではありませんか。確かに時間には限りがありますが……ああ、いえ、水を差すのもよくないですね」
「あ……いきなりこんなこと言って、すみませんでした」
「お気になさらず」
幸は職員室を辞した後も鉄に言われたことが引っかかっていた。焦っている。そうかもしれないが、何に対してそうなのかの判断はつきそうにない。
自分は何になりたいんだろう。何者になれるのだろう。そも、この町で自分はどうなっていくのか。漠然とした不安を抱えたまま放課後を迎える。今日はさっさと帰って横になりたかった。
昇降口への道すがら、長田の姿を見かけた。彼も幸に気づき、手を上げて近づいてくる。
「甘いものが食べたそうな顔をしているな」
「え?」
「何か悩みでもあるんだろう。俺もちょうど暇になったところだ。よければ生徒会室に来ないか」
「エスパーみたいなこと言うんですね」
「そうか? 悩みのない人間なんていやしない。どちらかと言えば詐欺師の手管だな」
長田には生徒会室へ遊びに来いと言われていた。幸はてっきり社交辞令だとばかり思っていたのである。
「じゃあ、お邪魔させてもらいます」
幸は長田について歩く。彼は規則正しく、折り目正しくゆっくりと歩く。生徒会室は進路指導室と同じく特別棟の三階にあった。部屋はあまり広くないが、指導室よりかは整頓されていて埃っぽくなかった。
「好きなところに座ってくれ」
長田は手慣れた様子でお茶の準備を始める。幸はパイプ椅子を引き、室内を見回した。
「結構普通なんですね。もっとこう、お堅い場所だと思ってました」
「それはここを使う人によるだろうな。大事なのは中身で、ここで何が行われているかだ」
幸の前に紅茶と茶菓子が置かれた。周世家のものより上等なカップとソーサーである。触れるまで少しばかり緊張した。琥珀色の液体が口内に広がり、それが喉元を過ぎると体中にじんわりとした温かさが感じられた。強張って怖じていた気持ちが解れていくのを実感し、彼は長田を見上げる。
「淹れ慣れてますね。美味しいです」
長田は苦笑して椅子に座った。窓を背にして部屋を見渡せるその場所が彼の指定席らしかった。
「いつの間にかそうなっていた。何でもそうだよな。繰り返して何度もやって経験を積む。そうやって上手くなっていく」
生まれたのが一年しか変わらないのに、長田の言には説得力があった。少なくとも幸はそう思った。だから彼は長田に自分の悩みを打ち明けた。
「そうか。君は何をしたいのか分からないんだな。……俺がどうして生徒会長になったと思う?」
「立候補したんじゃあないんですか? 学校を変えたいからって」
長田はゆったりとした動作で首を横に振る。
「名前だよ。俺は長田 長巻という名でな。『長』が二つも入ってる。だから生徒会長にふさわしいのはお前だと当時のクラスメートに押しつけられたんだ。俺よりも周りが勝手に盛り上がって、うっかり当選してしまった。別になりたくもなかったし、やりたいことなんてなかったのにな」
「でも、やめなかったんですね」
「やってみないと分からないもの、見えないものがある。肩書きが人を変えるのかもしれないが、生徒会長も案外面白くってな。特に今は。忙しいが充実しているよ。八街君。狩人になりたい気持ちは全くの嘘じゃないんだろう? だったらまずはそいつになってから考えればいい。狩人になってもいないのに、なった時のことを考え過ぎてもしようがない。第一、悩みごとのほとんどは考えても無駄なことばかりなんだ。実際、君の中で答えは出ているはずだと思うがな」
長田のシニカルな笑みを見て、確かにこれは詐欺師の手管に近いのかもしれないと思った。自分の悩みがぴたりと言い当てられて、おまけに解決策まで提示されたような気がして、幸は思わず笑声を漏らした。
「もう一つ悩みを聞いてもらってもいいですか」
「いいとも。恋愛沙汰かね」
「部活のことです。どういう部活がおすすめなのかなあって」
「ああ、外してしまったか」
その時、生徒会室の扉が開く。現れたのはツーサイドアップの少女であった。長田は椅子から立ち上がる。
「……? あれ、会長、この人誰よ?」
「ああ、紹介しよう。八街君だ。そして彼女が前に言っていた生徒会書記兼会計兼、スポンサーの鵤君だ」
「いかるが?」
そこでようやく幸は気づいた。少女はあの鵤藤だ。いかるが堂のスタッフジャンパーを着ていないから分からなかったのだ。
「学校で会うのは初めてですね」
幸が笑いかけると、藤はじっと彼を見返す。
「誰よあんた」
「ええ……? ほら、八街って紹介されたじゃないですか。アルバイトでお世話になってるんですけど」
「バイト……」
そこで藤も気がついたらしかった。
「えぁ? 同じ学校だったの? 制服だからちょっと分からなかった……」
何だかどっちもどっちな二人だった。
蘇幌の生徒会は長田と藤の二人がどうにかこうにか回しているようだった。人が足りないので忙しいのだ。
「今は大丈夫なんですか?」
幸が訊くと、藤はクッキーをばりばりと噛み砕いて紅茶を一息に飲み干した。
「ドタキャンされてぽっかり時間が空いたのよ」
ご機嫌斜めなので深くは聞かないことにする。
「それよりあんたこそ、ここで何してんのよ」
「俺が呼んだんだ。鵤君、彼は二年一組のクラス委員長を務めている。その縁だ」
「すごいじゃない。私たち以外に委員がいたのね」
幸は苦笑いを浮かべるしかなかった。やはりこの学校には問題が多いらしい。
「それでだが」長田は幸に向き直る。
「おすすめの部活動の話だったな」
眉根を寄せると、藤は幸をねめつけるようにして見る。
「部活やるの? バイトのシフトが減るじゃない。こっちとしては週六で出て欲しいくらいなのに」
「知ってるよ。それブラックってやつじゃないか」
「週八でシフト組まれてからブラックと言いなさい」
「時を超えてるじゃないか」
「そうよ。真のアルバイターは時間を操れるのよ」
長田は所在なげにお菓子を食べ始めた。
「あ、会長ごめん。部活だっけ。帰宅部がいいんじゃないかしら。活動内容も自由だし顧問もいないからぎゃあぎゃあ言われる心配もなし。早く帰られる技術を磨けばそれだけ早くいかるが堂でバイトできるし」
「鵤君の言うことはともかく、うちの部活動でおすすめできるものは少ないな」
幸は小首を傾げる。
「生徒が少ない。部員が少ない。顧問が少ないから部活自体が少ない。ないない尽くしだ。十一人揃っていないサッカー部もあるくらいだ」
「……どうしよう」
「強いて挙げるなら個人競技の部活動はどうだろう。柔道部に、カラリパヤット部」
「柔道部は廃部になったじゃない」
「そうだったか」
カラリパヤット部は健在である。幸はそこに入るかはともかく、武道を修めるのは悪くない考えに思えた。
「お、そういえば剣道部も残っていたか」
「ああー、部員少ないからそろそろ廃部にするって話が出てたっけ」
「困ります。あの、もう少し待ってもらえませんか。ぼく、剣道部に行ってみます」
長田と鵤は顔を見合わせた。そうして幸を気の毒そうに見る。
「まあ、行ってみれば分かることもあるだろう」
「どういう意味ですか」
「そんな心配いらないわよ。顧問は外部の人だけど、一応美人だし」
「あ、それじゃあクラスのみんなも誘ってみようかな」
部員が増えれば剣道部は廃部を免れるだろうし、一人きりで行くよりずっと心強い。いいことづくめである。幸は明日、剣道部を見に行くことに決めた。
翌日の放課後になる前から、一組の男子どもは剣道部の美人顧問のことで頭がいっぱいになっていた。チャイムが鳴ると同時、全員が規律正しい軍人のように、統率された動きで体育館へ足を運ぶ。彼らは一言も口を利かず体育館へと足を踏み入れた。ハーフコートで練習していたバスケットボール部の動きが止まる。
「美人はどこだ?」
館内を仕切るためのネットの向こう、ハーフコートのど真ん中で正座するものの姿が見えた。剣道着に身を包んだ妙齢の女性である。
「行くぞ」
「おおっ」
一組男子、総勢十一名が進撃を再開した。
「頼もう」
先頭を行く翔一がネットを退けた。
「何をだよ」
「ノリだけで生きてんなこいつ」
鋭い視線が男子どもを捉える。彼らはその視線だけでなく、美人だと聞かされていた女がワーウルフだったことにも気づいて委縮した。話は違うが目元が涼しげで和装の似合う女性なのは確かだ。
「君たちは?」
全員が幸を見た。こういう時だけは頼られる。
「剣道部の顧問の先生ですか?」
「いかにも」
「ぼくたち、入部希望です」
女は立ち上がり、一歩前へと踏み出した。
「入部希望? 本当に?」
幸たちは何度も頷く。女はだらしない顔になった。
「よかったあ」
「え?」
「いや、部員が一人もいないんじゃあ顧問の仕事がなくなる。これでどうにかなりそうだ」
一人も? 生徒会で聞いていた話と違う。幸は嫌な予感がした。
「私は犬伏浜路。外部コーチだけどきっちり剣を教えるから、その辺は心配しないでいいですよ。それじゃあ、今日は初日だし……」
男子どもは期待感に胸を膨らませた。
「着替えて外周走ってきなさい」
「……え。なんで」
田中大が声を漏らす。浜路は彼を見据えつけた。
「ちょ、あの、まずは自己紹介とか親睦を深めるとか」
「剣道にそんなものは必要ないですよ。さあ、早く」
この時点でほとんどのものが察する。あ、こいつそういうやつなんだと。男子どもは輪になった。
「やばくね?」
「俺こういうの求めてなかった」
「つーか入部希望だっつってんじゃん。最初はこう、剣道の面白さとかそういうの教えるんじゃねえの普通」
「ヤチマタお前どういうことだよ……!」
「別に美人といちゃいちゃできるなんて言ってないよ」
「それにしても程度ってもんがあるだろうが」
「亜人こええし」
「おれはさ、蝶子ちゃんみたいに大人しそうな子のが好み」
「蝶子ちゃんのことは忘れろ!」
「じゃあ、和風美人も忘れるってことで」
「どうしました。早く」
浜路は竹刀で床を叩いた。男子どもは逃げるようにして体育館を出ていった。
「そうそう、元気がいいのはいいことです!」
一時間後。体育館に戻ってきたのは幸と、彼に付き合う形になった翔一だけだった。浜路はさも不思議そうな顔で二人に尋ねた。
「他の人は?」
「帰りました」
「なっ……初日からサボりとはいい度胸です」
浜路は竹刀の柄を握り締める。
「いや、つーか退部でしょ。退部っつーか入部しなかったってことで」
翔一は悪びれず言う。
「近頃の高校生は根性がないですね」
こいつ……。幸は溜め息を吐く。浜路は彼に竹刀を擬した。
「何か言いたいことがあるならどうぞ」
「この……!」
翔一が言いかけるが、幸が先に口を開いた。
「ぼくは強くなりたいです。なれますか?」
「強く?」
浜路は竹刀を手元に戻す。幸の言っていることをはかりかねているようだった。
「あなたのやり方で、ぼくは強くなれるんですか」
「……?」
「おい。もういいだろヤチマタ、俺ぁ付き合いきれねーぞ。この人なんかやべー感じがする」
鈍い幸でも何となく分かりつつあった。それに、少し見えてしまったのだ。浜路は恐らく指導者に向いていない。ただ、その強さの一端を垣間見た。だから彼は残ろうと思った。
「マジかよ。お前ってホント物好きな。じゃあ、俺は買い物あるし行くからな? なんかあったら呼べよ」
翔一は荷物を持つと、浜路の呼びかけを無視して体育館を出て行く。彼女は苛立たしげに幸を見た。
「君たちは何をしに来たんですか」
「美人さんと会えるって言うから見に来たんですよ」
「そんな浮ついた理由で! 私は見世物ではありません」
「そこらへんは反省してます」
幸は頭を下げた。
「でも。あなたも教えるつもりはないですよね」
「そんなことありません。私は顧問として招かれたのですから」
「だって、ぼくたち剣道のことなんか何も知らないんですよ。それなのにいきなり走って来いとか竹刀で脅すみたいな真似したじゃないですか」
浜路は幸と持っている竹刀を見比べた。
「初心者でも体作りは大事だと分かるでしょう」
「そうじゃなくって。あなたはたぶん、ぼくたちのことを見下してる」
幸は続ける。
「自分より弱い人のことを。異能を持っていない人のことを。それと、亜人じゃない人のことを」
浜路はずっと黙っていたが、幸に竹刀を投げ渡した。
《花盗人》は強い力に反応する傾向がある。幸は、浜路が今、とても(・・・)怒っていることを理解した。
「弱い人たちに怒っているんですか」
「君。一度打ち込んでみなさい。少し見てあげますから」
「それとも。弱い人たちが相手なのに、どうにもならないことを怒っているんですか」
浜路が踏み込んだ。幸は更にその奥へ。体育館の窓ガラスが震えた。床を伝わった振動は隣で練習しているバスケットボール部にも波及する。空気の壁が幸の体を吹っ飛ばした。彼は床を転がるも竹刀は手放さなかった。
「立ちなさい」
「ぼくは」
幸が立ち上がる前に、浜路が彼の頭を蹴っ飛ばそうとした。幸は竹刀で防ぎ、後ろへ跳ぶ。
「ぼくは、異能をいいように使う人が好きじゃありません。あなたはたぶんそうやってきたんですね。異能を普通の人にぶつけたりして」
「私がむしゃくしゃしているのは本当です。痛いところを突かれたという思いもあります」
「ぼくはあなたに興味がないんですけど、そういう強さには少し興味があります」
また、浜路が床を蹴った。幸の視界から彼女が消える。背を打たれて竹刀を取り上げられた。瞬間、彼は《花盗人》の発動を許容する。
「使いましたね……!」
幸の手に戻った竹刀を認めると、浜路が狂的な笑みを浮かべた。
「花粉症の力を使ったなと聞いているんです!」
「だったらどうしますか」
「悪と見做します!」
既にバスケットボール部は逃げ出していた。二人は竹刀と素手で打ち合いを続ける。幸は、奪った竹刀から浜路の経験が伝わってくるのを感じていた。体の使い方や得物の握り方が頭の中に流れ込んでくる。足と腕が勝手に操作されているみたいに動く。あの日と同じだった。あの夜と同じだった。
「君。いったい何をしに来たんですか」
浜路が距離を取り、息を吐く。幸は竹刀を握る腕をだらりと下げた。
「強くなりたいんです」
「私が教えることなどありません」
「狩人になりたいんです。だから、そのためには花粉症抜きで強くならないとダメだと思うんです」
「戯言を」
幸は竹刀を捨てた。浜路は彼の足を払い、倒れたところへ拳を打ち込もうとする。しかし、その動きをぴたりと止めた。
「……どういうわけですか。君は」
浜路は立ち上がり、息を整える。
「まるで別人。さっきまでの動きと違い過ぎて……」
「そういうわけなんですよ。力を使わなきゃあなたとまともに話せないくらいに」
力を使った後はその分だけの疲労感が溜まる。幸はその場に座り込んで、ごめんなさいと頭を下げた。
「私も、その、たぶんやり過ぎました。でも……でも」
浜路はその場に膝をつき、両手で顔を覆う。
「もうダメなんですううううう。もうどうしていいか、どうしていいか」
幸が訊いてもいないのに、浜路は他の学校で顧問をクビになったことや日々の生活の困窮について喋り始めた。誰かに聞いて欲しかったのだろう。幾分か乱暴な立ち振る舞いに対しての憤りも、情けなく垂れた彼女の耳や尻尾を見ると憐憫の情に変わっていった。
「はあ。そこで情けないぼくたちが来たから、つい怒ってしまったと」
「弱さは罪ですから」
涙目で恐ろしいことを言い放つ女だった。
「強いのと正しいのはまた別の話だと思いますけど」
「いえ。強いものが正しいのです」
歪んだ正義である。しかも凝り固まって生半には剥がせそうにない。
「ふ、ふふ、どうして私がこんな目に遭うんでしょうね」
「話を聞く限り、暴力を振るったからだと思うんですけど」
「痛くしないと覚えませんから。実際、私はそうやって強くなったのです。たぶん」
「門下生の人たちにもそういうことを?」
浜路は大きく頷く。
「厳しくすればその分だけ強くなります。まあ、私はワーウルフですから、普通の人より少しばかり力がつき易かったりするんですけど」
「答え合わせじゃないですか。ぼくは亜人がどうとかよく分かりませんけど、オークやワーウルフと同じことしたって普通の人はしんどいだけだと思いますよ」
「そんなことはありません。きっと」
「それに、そこまで強くなりたいって人ばかりじゃないと思うんです」
幸は竹刀を拾い、異能を使わないように注意して素振りした。
「なんですかその不細工な素振りは!」
「……ちょっと体を鍛えてみたいとか。興味があるとか。それくらいの人もいるんですよ」
「それでは剣に失礼です。スポーツ感覚で向き合うなどと生温い」
「学校の部活なんですよ。そんな風にしてたらそりゃ、みんなも嫌になって逃げますよ」
「だったらどうしろと!?」
浜路が縋りついてくる。幸は彼女を振り解こうとしたがえげつない腕力を発揮されて無理だった。
「それが分からないからこうなったんじゃないんですか?」
「あんまりですうううううう」
幸にはよく分からないが、浜路は物を教えるのにあまりにも不向きな性質を有しているらしかった。強いから、どうして他人が弱いのか、強くなれないのかが分からないのだ。
「このままではここも廃部になって、もう仕事がなくなっちゃいます。そうしたら道場も潰れちゃうし家だってやくざに潰されちゃいますよう」
浜路はちょっと歪んだ正義感の持ち主で、ワーウルフなのに力加減がよく分かっていないが、さすがに可哀想になってきた。お人好しな幸は一計を案じた。
「とりあえず、剣道部が廃部にならなきゃいいんですよね。そしたら簡単です。さっきの翔一君たちに籍だけ置いてもらいましょう。これで部員の数は確保できます」
「ですが、部員がいても誰も練習に来ないのは困ります。バレたら怒られます。怒られたらクビになります」
「ぼくが練習に参加します」
浜路は幸を見上げた。その瞳にはきらきらとした光が宿っていた。
「アルバイトとかがありますから毎日は無理ですけど」
「い、いいんですか。でも、どうしてそこまでして」
「強くなりたい気持ちは本当なんです」
「そういえば狩人になりたいって言ってましたね」
「どうでしょうか。ぼくは強くなれそうですか」
「全然分かりませんね」
「……そこをどうにかするのが顧問の仕事じゃないんですか」
前途は多難だった。