さちのふゆやすみ<2>
二年一組の男子の攻勢は続いた。そればかりか勢いは増すばかりであった。これには大人しく、ガンジーよろしく無抵抗を貫いていた花丸幹一も辟易したのか、遂に音を上げた。
「どこか、静かな場所はないか」
放課後、幹一にそう尋ねられた幸は小首を傾げた。ちょうど昇降口で靴を履き替えようとしていたので、彼は手を止めたまま、ううんと唸った。
「あ、一つあるよ、心当たり」
幸が案内したのは特別棟の図書室だった。室内は薄暗くて利用者は誰もいなかった。
「みんな勉強しないし、本も読まないから」
「ありがとう。助かった」
幹一は適当なテーブルに鞄を投げ出して、椅子に深く腰掛けた。本を読むつもりはなさそうだった。何となく手持ち無沙汰になったので、幸は彼に気になっていたことを投げた。
「どうして家に帰らないの」
「家は静かじゃないんだ」
そういうものかと幸は納得した。すぐに帰ろうとしたが、窓から見える陽光が妙に名残惜しく感じられて、そのままでいた。幹一も同じように窓の外を見ていた。
「八街くんだったか」
「うん。八街だよ」
「君は俺を構わないな。というか、どうしてあいつらはあんなに俺を構ってくるんだ」
「転校生だからじゃないかな」
幸は真実を隠した。
「困ったことがあったら言ってね。ぼく、委員長なんだ」
「ああ、先生からもそう聞いていた」
「花丸くんのこと、ほっといた方がいいのかなって思ってた。なんか、色々あったっぽいし」
幹一はゆっくりと幸に向き直り、困ったように頭を掻いた。
「なんというか、いや、大げさとかそういうんじゃないんだけどな。まあ、ここじゃあどこにでもある話だ。親父が死んだんだ。ケモノにやられた」
「もしかして、こないだの? いっぱいケモノが出てきたやつ」
「そうだ」
「ぼくも狩人なんだ」
「そうか。……俺は、何もできなかった。親父と一緒にいたのに、見てただけだったよ」
幸は幹一の心中を察した。彼も狩人で、自分たちと同じように戦っていたのだ。
「それで、まあ、色々あってな。こっちに転校してきた。考えたいこととか、決めなきゃいけないこととか、山積みなんだ」
「事情は言わないから、みんなにはぼくからもそっとするように言っとくよ」
「あ、いや、それはいいんだ」
「いいの?」
ああ。幹一は頷き、照れ臭そうにする。
「静か過ぎるのも嫌なんだ。話しかけられていると気は紛れるし。わがままだろ?」
「ううん。花丸くんが嫌じゃなかったらいいんだ」
「すまん」
神も仏もサンタもいない。いればいいのに。そう思った。
そう思った幸の行動は早かった。彼は生徒会室に向かい、駄弁っていた生徒会長と副会長を発見した。
「そろそろクリスマスだよね」
「入ってくるなりどうしたの八街くん。というかちょっとびっくりしたじゃない」
「ごめんね、ベストバウトスイートイチゴショートちゃん」
「えっ、それって私のこと言ってるの? 全然名前覚えてないじゃない!」
「たまには言っとかないと忘れちゃうから」
「もう忘れてるじゃない!」
鵤藤は元気だった。そのやり取りをつまらなそうに見ていた葛は、腰かけていた机から飛び降りて、幸をじろじろとねめつける。舐め回すように。
「クリスマス暇なん、八街」
「分かんない。二人ともサンタになりたくない?」
「別に」と二人は声を揃えていた。
藤は髪の毛をさっとかき上げる。
「でも、当日はお店でサンタの帽子くらいかぶってるかもしれないわね」
「サンタの格好で接客するの?」
「そうね。この時期の風物詩はサンタのコスプレをしたピザ屋の配達員よね」
「サンタのコスでして欲しいってんなら考えとくけどさー、何が言いたいん?」
「学校でクリスマス会みたいなのしようよ」
葛も藤も露骨に嫌そうな顔になった。
「あのさ、小学校のお楽しみ会じゃないんだよ? バカみたいじゃん」
「そうね。今からじゃ間に合わないし、面倒だしお金かかるし……あっ、いいこと何もないじゃない」
「でもさ、生徒会って何もしてないよね。目立ってたのは選挙の時だけで、ぼくたち生徒のために何もしてないって思われてもしようがないと思うんだ。実際、ぼくが入ってきた時だってお喋りしてただけだし」
二人は同時に飲み物を手にして、同じタイミングで口につけた。
「八街のくせに生意気なこと言うじゃんか。てか、何? 文句言いに来たわけ?」
「ううん。クリスマスに何かしようって言いに来ただけだよ」
「ふ」と藤が鼻で笑う。
「そもそも、ちょっとアレよね。私たちと知り合いだからって生徒会の権限を私物化するつもりじゃないの?」
「提案だよ。目安箱みたいなもの。だって生徒会はそういうの出してないし、だから直接言いに来たんだ」
「……葛。ちょっと相手なさい。私、八街くんに勝てる気しないもの」
舌打ちし、葛は紙パックのジュースを飲み干してから幸と対峙する。
「具体的に何をするかも言わないからさー。あーし馬鹿だからそういうの分かんないんだよね」
葛は幸を煙に巻こうとしていた。
「そんな難しいことしなくてもいいよ。クリスマスっぽいものが食べたいかなーって。お昼休みに生徒会からですってケーキとか配ってくれれば」
「簡単に言うけど、生徒全員分のケーキだのチキンだの、誰がどこの金で買ってくんだよ」
「あ、チキンもいいよね。生徒会の予算で葛ちゃんたちが買ってきてよ」
「お前、うちらをパシリに使うわけ? やばいんじゃない?」
「でも新しい生徒会になってから何もないし、なくってもあってもどうでもいい状態だったらみんなのために使おうよ。それにほら、あんまりイヤイヤ言ってたら解任されちゃうよ」
「は?」
藤は目を丸くさせた。
「えっとね……生徒会の人も場合によっては途中で解任されるんだって。規則にはそう書いてるらしいよ」
「書いてるだけでしょ。実際そんなことしないわよ」
「予算だって蘇幌の生徒会なら結構あるんじゃないのかって」
「八街……お前、誰かに入れ知恵されたろ」
「あっ! 長田先輩! 先輩に何か聞いたんでしょう!」
その通りだったが情報源は明かせない。幸は無言を貫いた。しかしポケットに忍ばせたメモをガン見していた。
「次は……あ、ケーキはいかるが堂で、チキンはタダイチのでいこうよ。いいものを用意できた方にはちょっとしたクリスマスプレゼントがありますだって。あ、『だって』じゃない。とにかくお願い」
「こいつマジか」
「雑に争わせようとしてるわ。だいたい、教師も黙ってないんじゃない?」
「いまさら持ち込みどうこうに文句言わないと思うけど」
「だって数が数だもの」
「外で騒がれるより学校の中でいったん騒いでる方がガス抜きにもなるし、先生たちだってクリスマスに街を見回りするのも大変じゃない?」
「それ、イベントやらなかったら外で暴れますって宣言してるのと同じなの分かってる?」
「分かんない」
「カンペそのまま読んでんじゃねえよ」
読んでないと幸は首を振る。
「えー、やろうよー。ケーキ食べようよー。準備、ぼくも手伝うからさー」
先に折れたのは藤だった。彼女はアルバイトでの幸の立ち振る舞いも見ているので、彼が粘り強いということを嫌というほど知っている。
「できないこともないというか、できるっちゃあできるんだし、まあ、うん、やってみてもいいんじゃない?」
「は? いいの?」
怪訝そうな顔つきの葛。
「あんたは知らないだろうけど、こうなったら八街くんしつこいのよ」
「いや」
と、葛は藤の物言いに腹を立てていた。
「つーか、何? なんか、あーしより八街のこと知ってる的なこと言ってっけど? それ全然違うから」
「変なとこに食いつかないでよ。気持ち悪い」
「マウント取ろうとすんなや」
「突っかかってこないでよ、バカヅラ」
睨み合う二人。さすがの長田もこの状況を解決する方法は幸に教えられなかった。
「クリスマスイブって一二月二四日のことじゃないんだ」
「ああ、クリスマス当日の夜のことだろ。で、それが何?」
「もう終わったんだなって」
「うん……」
クリスマス当日、二年一組の雰囲気は暗かった。教室の片隅で一人つま弾き、奏でられるギターの音色もそうだ。朝になり、昼になってもその雰囲気は変わらなかった。中の様子を廊下から窺っていたものも哀れむほどであった。
「うわ」
そんな一組にサンタの格好をした葛がやってきた。彼女はやたら丈の短いスカートを履いて、取り巻きであろう男子生徒を引き連れていた。葛は教壇の前に立ち、腕を組んで男子どもを睥睨する。
「げ、出たよ」
「よう、メリクリ、童貞ども。昨日も一人で慰めてたんでしょ。すげー可哀想だからー、葛ちゃんがクリスマスプレゼントを持ってきてあげましたー」
葛は取り巻きを一瞥し、顎でしゃくった。どうせろくなもんじゃねえぞと冷めていた男子だったが、丸い容器に入っているのがチキンなどのオードブルだと気づくと僅かながらテンションが上がった。
「タダイチの惣菜部門に用意させたやつだからー、あんま大したことないけどね」
「おお、なにこれ、食っていいの?」
「あー、いいじゃんそのがっつき。そんくらいの感じでいければ昨日も寂しい思いしなくて済んだのに」
「ほっとけ」
取り巻きの男子は教室内の机をくっつけて、その上にジュースやオードブルを並べ始める。葛は彼らを顎でこき使いながら手近な椅子に腰かけた。彼女がわざとらしく足を組み替えた時、何人かの男子が床に這いつくばってスカートの中身を覗こうとする。
「撮ってもいいよー」
「うおお……!」
葛は面白がって何度も足を組み替えた。幸は彼女をたしなめるも、ありがとうねとお礼を言った。
「別にいーよ、下着くらい」
「そっちじゃなくて」
「もっと早く言っといてくれれば、どっかの店貸し切りにするとかさー、色々できたんだよ」
「学校でこういうのがあるからいいんだよ」
「そうかなー」
「あっ、一足遅かったか……」
今度はいかるが堂のスタッフジャンパーを着た藤がやってきた。サンタの格好ではないが、真っ赤なジャンパーである。彼女と共にいるのはいかるが堂の社員、ハリシャたちだった。どうやらクリスマスのケーキを配って回っているらしかった。
「鵤さんもありがとう」
「ま、タダイチだけにいい恰好はさせられないもの。それよりみんなー、ケーキの感想ちゃんと教えてね。ハリシャさんにきっちり報告すること―、いーい?」
眼鏡をかけた妙齢の褐色美女に男子は興奮を隠せなかった。
「すげー美味いっす!」
「改善点など、ありませんか」
「コンタクトのあなたも見たいです!」
「あの」
「できればミニスカサンタがよかったかなって!」
「ケーキの味だっつってんでしょ!」
藤にツッコミを入れられた男子はすごすごとケーキを頬張った。
「お、普通に美味い。甘さ控えめって感じで」
「やっぱり男の子は甘過ぎない方がいいみたいですね」
ミートボールばかりばくばくと食べていた幸も、ケーキを食べてハリシャに声をかけた。
「ぼくはもっと甘いのでもいいです」
「八街くんは甘党だから」
「あー、なるほど」とハリシャはタブレットを操作し始めた。
「もしかしてこのケーキってハリシャさんが作ったんですか?」
問いを受け、ハリシャは控えめに微笑んだ。
「作ったというより、みんなで開発したという感じ、でしょうか」
「評判がよければ、うちのプライベートブランドとして展開していくの。タダイチよりもいかるが堂をよろしく」
「露骨な宣伝……」
「何でもいいよ。メシもケーキもサンタもいるし」
「あとはトナカイだな」
「トナカイか」
「トナカイ……」
男子がリリアンヌを一斉に見た。既に二つのチキンを胃の中に収めていた彼女は狼狽する。
「なんですの」
「トナカイみたいなもんはいるな。クリスマス感パねえ」
「トナカイではありません」
「馬だもんな」
「馬でもありません。あのですね、皆さま、よろしいですか。私は」
「やめないか!」
がたん、と、席を立ったものがいた。花丸幹一であった。彼はリリアンヌを見やり、彼女をからかった男子を強く見据えつけた。
「そうやって人をからかって恥ずかしくないのか! 亜人だなんだと言うが、誰だって、いつ花粉症に罹るか分からないんだぞ! お前ら、よりにもよってクラスメートに対してまで思いやりの心がないとは! それでも男か!」
シンとした。
クリスマスの浮かれ気分で満ち満ちていた教室内の空気が一変する。近くを通りがかった一組担任の鉄一乃(サンタ帽着用)も足を止めていた。重苦しい沈黙の中、突っ立っていた幹一が訝しげに翔一を見つめた。
「怒るのは、変か」
「え? あ、いや、今更な感じがして」
「今更……」
「まあ、けど、アレだよな。確かにそうだよ。じゃあこれからはリリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラさんには気を遣って接していこうぜ」
「気を遣うって、どういう風にすんだよ」
「うーん。なんつーか、腫れ物に触るような感じで」
「あまりよろしい言い方ではないですわね」
クラスメートたちがやんやと騒いでいても、幹一は難しそうな顔を作ったままであったが、ふと、何かに思い至ったのか晴れやかな顔つきになった。
「そうか。君らはそういう風にするのが当たり前なんだな」
「あ、いえ、あまり当たり前だと思われても」
リリアンヌが訂正を試みるも、幹一は話を聞いていない。
幹一は黙々とケーキを頬張っていた。
「さっきは悪かったっつーか、ヤな感じだったよな。わりぃ」
オレンジジュースがなみなみと入った紙コップを手に、翔一が幹一の近くの席に座った。もがもがとケーキを飲み込んだ幹一は、気にしていないという風に首を振る。
「ド・ッゴーラさんが気にしていないなら俺は構わない」
「リアクションが面白いから、ついからかっちまうんだよな」
翔一は頭を指でかきながら、持ってきた飲み物を幹一に勧めた。彼はそれを受け取って、苦い笑みを浮かべる。
「俺の反応は面白くなかっただろ」
「まあな。そういうやつはこっちに振り向かせてみたくなるんだよ」
「おお……なんか、かっこいいな。その言い方」
「だろー?」
どこがだよ、と、他の男子が声を発した。それを端に幹一の周りに人が集まってくる。
「花丸よ。お前アレだろ。モテるだろ」
幹一は目を丸くさせた。
「いや、そんなことは」
「なんかさー」どっかりと椅子に腰掛けた男子が幹一をねめつける。
「幼馴染がいるんだろ? しかも女の子の。そんな恵まれた環境へ産み落とされる確率がどんだけ低いか分かるか?」
「3パーもねえぞ、3パーも」
「今日びのソシャゲじみたエグい確率だぞ」
「リセマラできねーしな」
「何を言っているんだ」
困惑する幹一をよそに、男子どもはめいめいに口を開く。
「どんな子なんだよ。可愛いんか? あ? だったらちょっと写真だけでも見せてくれませんかねえ」
「写真か。ああ、いいぞ」
幹一はおぼつかない手付きで携帯電話を操作して、ほら、と、ディスプレイを皆の方に向けた。幸は人だかりの向こうで必死に背を伸ばしていた。
ディスプレイを覗き込んだ翔一は、思わず呻きそうになった。
「くそっ、可愛い」
「普通に可愛いな、くそ」
「他にもねえのか。見たい」
「ぼくも見たいんだけどー、ねー、ちょっとー」
「ちょっと待ってくれ。ええと……」
「名前は? なんて子?」
「沢宮だ。沢が名字で宮が名前なんだ」
「宮ちゃんか。古風でいいな」
「いい……」
盛り上がっていた男子だが、沢宮という少女の写真を見るたびに、どこか、浮かない表情になりつつある。人はそれを落胆とも呼ぶ。
「それでこれが……どうしたんだ。なぜみんな落ち込んでいるんだ」
「いや、なあ?」
幹一は不思議そうにしている。
「こんだけ可愛いと、どうせもう付き合ってんだろ」
「さっき男と写ってたのあったよな。あれ、誰? クラスメートか?」
「さあ、どうだろう。ああ、そういえば、今日は同級生と遊びに行くとは言っていたな」
「あっ」
「確信に変わったな」
何がだ。幹一は訝しむ。
「いや、幼馴染の顔をよく見ろ、花丸。可愛いだろ? これはな。もう男と付き合っているという顔なんだ」
「えっ、そ、そうなのか?」
「衣奈に聞いたら分かるんじゃね? おーい、ちょいこの子、この子誰か分かるか?」
呼ばれた葛は面倒くさそうにしながらも沢宮の顔を確認し、ああ、と、小さく頷く。
「タマ校の一年じゃん。……沢だっけ? 宮沢だっけ? つーかこれいつの写真? 一緒に写ってるのってアレっしょ。前の男じゃなかったっけ? 今はもっとこう、眼鏡かけた小さいのと付き合ってなかった?」
「ほらな、やっぱり」
男子が一斉に息を吐いた。
「えっ、あ、ちょっと待ってくれ。今のはなんだ? どうして宮を知ってるんだ? というか、顔を見ただけで分かるのか? 宮、そんな有名だったのか……? あれ? あいつ、ええ……?」
幹一は頭を抱えた。
「いや、大丈夫、大丈夫。衣奈が特殊なだけだからさ」
「ええー、そうか。でも、そうならそうだと話してくれてもよかったと思わないか? 何というか、こう」
「は? いちいちそんなん幼馴染ごときに報告するとかなくない? 先輩頭わいてんスか?」
葛にガンを飛ばされた幹一はとっさに視線をそらした。彼女がいなくなった後、怖い子だとひとりごちていた。
「まあまあまあ、気持ちは分かるぜ。分かる分かる」
一組の男子は幹一に優しくなっていた。
「幼馴染に言えないことだってあるって」
「そうか。そういうものなのか。なんか寂しくないか」
「まあまあまあ、甘いもんでも食えって」
其処此処からケーキの刺さったフォークを突きつけられる幹一。
「こんなに甘いのを食べるのは久しぶりだ」
「食え食え。たらふく食え」
「忘れろ忘れろ。幼馴染の女なんて他にもいるって」
「いや、一人しかいないが……」
幸はまだ背伸びしていた。
「馬鹿じゃないの?」
帰宅した幸は叱責の声を聞いた。むつみが誰かを叱っている。叱られているのはもはや彼女以外には考えられなかった。案の定、リビングにはしゅんとうなだれた入矢がいて、テーブルの上には大量のケーキが並んでいた。
「どうするの、これ」
むつみはじっと入矢を見据えていて、帰ってきた幸に一瞥もくれなかった。入矢は彼の存在にはとっくに気がついていて、助けを求めようと目で必死に訴えていた。幸はひとまず自分の部屋に行き、ゆっくりと時間をかけて部屋着に着替えた。そっとドアの隙間から様子をうかがうも、状況は何も変わっていなかった。
どうするんだろう。幸はそう思った。恐らく。いや、確実に。クリスマス気分に浮かれた入矢が言いつけを破って勝手に出歩き、目についたケーキを端から買って回ったのだろう。幸にも気持ちは分かる。甘いものは好きだ。それを好きなだけ、たらふく食べるというのは誰しも一度は憧れる。しかし実行に移すものはほとんどいない。憧れはそのままで。夢は夢のままで置いておけば輝きを失わずに済む。さっと一度でも触れてしまえばそれらはさらさらと崩れ去ってしまうものだ。
頬杖をついたむつみが口を開いた。
「キリスト教でもないくせに、どうしてそんな盛り上がれるかな」
「……むつみちゃん、仏教徒なの?」
「神も仏もいやしないよ。だから私はなんにも信じてない」
「でもさ、サンタはいた方がいいと思う」
「ぼくもそう思います」
幸はドア越しから声を投げた。ほう、と、むつみの重苦しい声が返ってきた。
「少年はそいつの味方をするんだ。あ、分かった。考えなし同士で気が合うんだ」
「一緒にしないでください。ぼくは入矢さんみたいな考えなしじゃありません」
そんなあ、と、入矢が情けなく鳴いた。