さちのふゆやすみ
鋼の筋肉。
二メートル近い体躯。
どんなものでも掴んで壊せてしまいそうな圧迫感。
求めるものがすぐ傍にあった。幸は嘆息する。しかし戦いにおいてはともかく日常生活を送るうえでは邪魔な存在なのも確かだった。自分の部屋に居座る男鬼入矢を見やり、彼は今日何度目かのため息をつく。
「ムカつくなこれ。ぶっ壊してえ」
ベッドに寝転がって携帯ゲームに興じる入矢。彼女は冷めた目で液晶の画面を見上げていた。
「そんなことしないでください」
「だって」
「もう、返してくださいよう」
ゲーム機を取り上げられた入矢はふて寝の体勢に入った。
放課後、家に帰ると彼女がいる。しかも自分の部屋に。幸はその日常を受け入れつつあった。彼女が外で暴れ回るより、ここでじっとしている方がメフのためなのだ。
「ねえ入矢さん。どうして春までなんですか」
「んー?」
「や、前にそんなこと言ってたじゃないですか」
入矢は無言で尻を掻きながら、そんなこと言ったっけかと体を起こして胡坐をかいた。
「まあ、冬は寒いからよ。温くなったら花守んところに戻るんだ。あと、それまではダラダラしてたい。お腹とかがプニってきたら大空洞に潜る。そんでケモノを狩る」
「するんですか、プニっと」
「する。触ってみるか?」
ぺろん。
入矢が服の裾をためらいなくめくると、板チョコのように艶めいたガッチガチの腹筋が露になった。幸は思わず見入ってしまう。
「めっちゃ筋トレとかしてるんですか」
「えー? したことねえよ、そんなめんどいの。メシ食って寝て狩りまくってたら自然とこうなんだよ」
「なりませんよ……」
「さっちゃんはもっといっぱい食わねえとな」
ちっ、と、幸は舌打ちする。入矢は彼のことをちゃん付けで呼ぶのだ。どうやら気に入ったものはそう呼ぶらしいのだが、幸はどうにも彼女をよく思っていなかった。知人を傷つけられたこともあったが、それ以上に恵まれた肉体に嫉妬していた。
周世家に入矢が来てから何日かが経っていた。その間、彼女は意外なほど大人しくしていた。幸にだけはしつこくちょっかいをかけ続けていたが。
「逆にもう何を知ってるんですか」
幸は百鬼夜行のことを何度も入矢に尋ねたが、ほとんど何も知らないという答えばかりが返ってきた。彼女から聞き出せたのは、そもそも群れたやつらから死んでいっただの生き残ったのは変わり者ばっかりだという話である。そして最後には『どこの猟団も相手にしてくれねえんだ。お前んとこ入れろよ』とガンを飛ばしてくるのが決まりとなっていた。もはや人の言うことを聞かない大型犬を相手にしているような気分である。
「というかだな、さっちゃん。イリヤは《百鬼夜行》の狩人なんだけど。だったらさっちゃんとこの猟団に入るのが筋だろ」
「もうぼくの団になりましたから、《百鬼夜行》はなくなっちゃったと思ってください」
「認めてねえ」
「市役所で手続きも済ませましたし」
「イリヤが認めてない」
入矢は自分のことを『イリヤ』と呼ぶ。子供っぽいことを気にしているのか、外ではそんな風に喋らないが、油断しているとそうなるらしかった。
「別に猟団に入らなくてもいいじゃないですか。入矢さんなら一人でもなんだってやっていけるんですから」
「馬鹿だなあ。人間は一人じゃ何もできないんだぜ」
「そうですか?」
「喧嘩とかさ、一人じゃできないじゃん」
頭の中まで筋肉でいっぱいだった。
バカでかい鼾を背にしながら、幸はそっと自室を抜け出した。リビングにはむつみがいて、面白そうに彼を見ていた。
「抱き枕扱いにもすっかり慣れてきたね」
幸は無言で椅子を引き、むつみをねめつけた。
「叔母さん、覚えてたじゃないですか。入矢さんと知り合いだったくせに」
ああ、と、むつみは口の端を歪めた。
「こないだ思い出したの」
むつみは一切の表情を変えずに嘘を吐ける。そういう性質の人間だ。
「ま、優しくしてやりなよ」
「どうして」
「《百鬼夜行》が全滅する時、あいつはそこにいなかったからね。怪我をして、他の人たちと上に戻ったんだよ。でも、誰も戻ってこなかったし、一緒に戻った人たちともはぐれたんだって。だから、あいつは大空洞の奥深く、一人っきりで何日も過ごした」
「もしかして、それで一人で寝れなくなったんですか」
「いや、初めて会った時からだけどね。寂しがりなんだよ。そのくせ乱暴でさ」
迷惑過ぎる。幸は横目で自分の部屋のドアを見た。
「あいつより強いやつじゃないと御せないからね。よく面倒を看てやったかな。ま、手ぇ繋ぐくらいしかしてやんなかったけど」
「だったらぼくに押しつけないでくださいよ」
「面倒なのは一人で充分だからね」
「ぼくのこと言ってるでしょ」
「うん」とむつみは微笑んだ。
「それにいいじゃない。女子に抱き着かれて眠るなんてさ、ほら、君のクラスメートに自慢できるよ」
確かにクラスの男子は羨ましがるだろう。相手が恐れイリヤとあだ名されるものであっても生物学的に女性でさえあれば彼らには何の関係もないのだ。しかし幸は入矢に抱き着かれた時に、自らの骨が軋む音を聞いている。今も人間アルカトラズの力が緩んだところを見計らって脱出してきたのだ。
「悪い人じゃないのは分かってます。ちょっと……というか、かなり、人との付き合い方が偏ってる人なんだなって」
入矢は拳で語るを地でいく女であった。人間を強弱で判断しがちで、それ以外のことにあまり関心を持っていない。
「君の言うことなら聞いてるみたいだしね」
「ええ……?」
「だって暴れてないし」
「確かに暴れないでとは言いましたけど」
ただごろごろしているだけとも言う。
「抱き枕もいいもんでしょう」
幸は頷きかけた。最初こそ異性と共に寝るという事実に胸の高鳴りを覚えたが、あまりにも入矢の体は女性らしい柔らかみがなく、歯軋りと寝言がうるさかった。一晩越えたところで彼は入矢のことをペットのようなものと認識していた。
「殺すぞ八街」
「ぼく、まだ何もしてないし言ってないよ」
「あ、すまん。つい、なんとなくな」
クラスメートからいわれのない中傷を受けた幸は、傷つきながら自分の机にリュックサックを置いた。二年一組はいつにもましてうるさかった。その理由の一つに冬休みが近づいてくることが挙げられる。みな、クリスマスに誰と過ごそうかを延々と話しているらしかった。
「クリスマスまでにアイドルと付き合いてえ~~~~~~」
「星の数ほどアイドルがいるのになんで付き合えねえのかなー」
「お前ら付き合ってねえのかよ。おれ付き合ってるわ」
「どうせ脳内だろ。エア彼女だろ」
「いや、そういうんじゃないんだけどさ、まあ付き合ってる方だよね」
「なんだその言い方」
「何かキメてんの?」
「んー、まあ、付き合ってるか付き合ってないかで言えば限りなく付き合っているという方向性の話なんだよ。そもそもそういうのって二択で話すことじゃなくない?」
「二択だろどう考えても」
「あ~~~~クリスマスにお忍びで変装してるアイドルとばったり出くわして~~~~」
「ハードル下がったな」
「というかクリスマスに変装して出かけてるアイドルいたら、それってもうどっかの男と付き合っててやることやってるよな」
「というかもうアイドルじゃなくてもいいわ」
「蝶子ちゃんでもいいわ」
「えらいハードル下がったな」
「おお!? 下がっとらんわ! 誰や今言うたん、ハジいたるから外出ぇや」
「ハジ……って、何?」
そうか、と、幸はクリスマスが近づいていることを遅まきながら感じていた。
少しして規則的な足音が聞こえてくる。一組担任である鉄一乃のものだ。生徒たちはその音に敏感なので先までが嘘のように口をつぐんだ。
「おはようございます。今日は皆さんにお伝えしたいことがあります。……どうぞ、お入りになってください」
教壇に立った鉄が廊下に向かって呼びかけた。すると、他校の制服を着た背の高い少年が教室に入ってきた。凛とした顔立ちの彼は怖じ気づく様子もなく、教壇の近くに立ち、教室を目だけで見まわしていた。
「せんせー、もしかして転校生?」
翔一がはいはいと手を挙げて質問すると、鉄は小さく頷いた。
「花丸さん、自己紹介を」
「はい」と、花丸と呼ばれた少年は返事をする。朗々たる声で堂々たる振る舞いであった。彼はチョークを使い、黒板に自分の名前をきっちりと書き始めた。
「花丸幹一です。家庭の事情により、デン学から転校してきました。この制服は、新しいのがまだ届いてないから気にしないでもらえると助かります」
頭を下げた花丸少年は、ややあってから鉄を見た。彼女は通り一遍のことを話し、空いている席に座るよう、花丸に告げた。
「んだよ、あいつ」
二学期も終わる間際になっての転校生である。物珍しさに急かされ、男子はこぞって花丸幹一に話しかけるが、彼はすげない態度であった。喧嘩腰ではなかったが、『放っておいてくれると助かる』などと言われては一組の生徒も引き下がるほかなかった。
幸は委員長だ。鉄からは花丸のことを特によろしくと頼まれていた。この時期に転校して、制服も届いていないというのだ。家庭の事情とも言っており、のっぴきならないことがあったのだろうと慮った。今は放っておくのがいいのかもしれない。クラスのみんなにもそのように話そう。
そう思っていたのだが遅かった。一組の男子は花丸の態度に腹を立てており、どうにかして彼を仲間に加え入れて遊びに連れ出そうと企んでいた。こうなると幸の話を聞くものなど誰もいない。どうしてその熱意を異性に向けないのだ。
「ほっときなよ翔一くん」
「いいや、駄目だね」
輪の中心にいた翔一はきっぱりと言い切り、声を潜めた。
「さっきちらっと聞いたんだけどよ、あいつ、幼馴染がいるらしいんだ」
「そいで?」
「女のだ。女子の幼馴染がいるんだとよ。許せるか?」
「許せるも何も……」
「クリスマスはその子と過ごすんだぜ。お互いが素直になれず、もう付き合っちゃえよみたいな状態なんだ。いいかヤチマタ。ハナマルは生まれついての裏切り者なんだよ」
翔一の熱弁に他の男子も同意していた。
「それでどうして遊ぼうって誘うの? 裏切り者とか言うなら放っておいたらいいのに」
「ばか。妨害するんだよ。クリスマスには女子とじゃあなく、俺たちと地獄に付き合ってもらう。天国に一番ちけえのは地獄なんだよ。そのために今から布石を打っとくんだ」
「ああ。みんなが不幸ならみんな幸せでいられるんだ。格差が生まれると幸福も不幸も生まれてしまう。それなら全員が同じことをすればいい」
不毛だった。
「な? 太ももはそんな固くないだろ」
「や、固いです」
「そうかあ?」
入矢はつまらなそうにしてベッドの縁に背を預けて座り込む。手の届く範囲には食べかけのスナック菓子と二リットルのペットボトルがあった。中身は炭酸飲料である。彼女はそれをがぶがぶと飲んでいた。
「やたら触らせたがりますよね」
「だって触んないと分かんねえだろう。百聞は一見に如かず。百見は一触に如かずって漫画のキャラクターが言ってたぞ」
「漫画て」
「さっちゃんの部屋にはそういうの、あんまりないよな」
「実家にはありますよ。あんまり持ってないですけど」
入矢は目をくりくりとさせた。
「ああ、そっか。引っ越してきたんだよな。メフには慣れたかよ」
「うーん、少しは。変な人ばかりですよね」
「だよな」と言うので、幸は入矢を二度見した。
すすめられた菓子をすすめられるがまま口にしつつ、幸は入矢を見上げた。座っていても寝ていてもでかい女である。
「入矢さんはどこまで潜ったんですか。大空洞の一番深いところまで行けたんですか」
「大空洞の一番奥なんて誰も知らねえよ。底の底なんざ誰も辿り着けてねえはずだ。たぶんだけどな」
「《百鬼夜行》でも無理だったんですか」
「そりゃ……」
入矢は髪の毛をかき回した。
「いや、分かんねえ。もしかしたら、むつみちゃんたちは底に行ったのかもしれねえけど……イリヤはその手前くらいだ。それも一人じゃ絶対無理だし」
「充分すごいと思うんですけど」
「行くだけなら誰だって行けるぜ。そうだな。花守のとこ過ぎて、いくつか階層があんだよ。で、逆さ城あたりまでならどうとでもなる。そっから先の階層はあるかどうかも分からねえ」
「え。誰でも行けるんですか」
おう、と、入矢は気楽そうに返事した。
「山と同じだよ。大空洞も同じように潜るんだ。上へ行くか下へ行くかの違いだけ。極地法ってやつだ」
「なんです、それ」
「山で言えば、最終的に数人をてっぺんまで送り届けるやり方だよ。でも人手がめっちゃいるし、金がすげえかかる。ベースキャンプ作って、そっからまたキャンプを作るんだ。そこを行き来して装備とかメシとか人員を送り込んでルートを作ったりする。人と金をガンガンに使い倒して他力本願で山頂を目指すんだ。イリヤはあんま好きくないけどな」
「でも、行けるんですよね」
「まあな」
あ、と、幸の頭に何かが閃いた。
「だから《百鬼夜行》は大空洞の深いところまで行けたんですか。大きな猟団だったから」
「金もあったし、人も大勢いたからな。極地法な。まあ、それっきゃねえよ。今はその後釜に《騎士団》が据わってやがるけどな」
「でも、それだったら大空洞の最深部に誰か行けてますよね」
「いや、そうはならねえ。何せルートを作らなきゃいけねえし、キャンプ作るのにも安全な場所じゃなきゃいけねえ。山にも動物はいるだろうけど、大空洞にはケモノがわんさかいるからな。扶桑が成長して地震が起こりゃあ中の地形だって変わっちまうし」
「あ。まだ極地法ができないんですね」
「そりゃ、時間さえかければいつかは行けるんじゃねえのって気はするけどな」
《騎士団》は今頃、そうやって奥地を目指しているのだろうか。幸は空想に耽った。
「ぼくたちじゃあ難しいですね。人もそんなにいないし、お金だってないし」
「そこいらの猟団じゃあ無理だろうな。人よりも金だ、金。ヨボヨボのジジイだって金さえ払えばエベレストのてっぺん登れるんだからよ」
「……そんなに狩人って儲かるんですか? 《騎士団》の人たちも、何人か知ってる人いますけど、そこまでお金持ちじゃないと思いますし」
「そりゃ」
入矢は何か考え込んだ様子を見せた。
「スポンサー様がいんだろ」
「《騎士団》にですか」
「知らねえけどな。てかさ、さっちゃんは大空洞の深くに潜りてえの?」
「できれば」
「なんで」
幸は押し黙った。理由を尋ねられると困るからだ。特に理由などないからである。
「強いて言うなら、世界中に花粉症をまき散らしてる桜の木がすぐそこにあるんですから、自分だって花粉症になったわけだし、何か、こう、気になりませんか」
「だな。奥に潜ってさ、花粉症が治る方法でもめっけりゃ大金持ちだぜ」
「見つかりますかね」
「蛇の毒みたいなもんでさ、血清療法ってあんだろ。扶桑が原因なら治す方法とかも、結局扶桑の中にあるんじゃねえかな」
前に、オリガら学者たちがそういった研究をするため、大空洞の中や扶桑を調査していたことを思い出し、納得する幸だった。
「じゃあ、《騎士団》や《百鬼夜行》の人たちって、花粉症を治すために潜ってるんですか」
「そりゃどうだろうな。そもそも、イリヤはそういうの分かんないし興味ないし」
入矢は幸の方へごろんと寝転がった。
「大空洞に潜るんなら、そんで、一番底の底が見たいってんなら私らや《騎士団》とは違うことやれよ。でないと追いつけないし、追いつくだけじゃ意味がねえ。追い抜かなきゃだめなんだ」
「違うこと……」
「そう簡単にゃいかねえよ。サンタさんにでもお願いするんだな」
「サンタて。可愛いこと言うんですね」
「意外?」
幸は素直に頷いた。
「イリヤはもう神も仏もサンタも信じちゃねえけどよ。でも、そういうのがいた方がいい、とは思うからな」
確かにそうだ。幸は珍しくイリヤの意見に同意した。