一死
及ばぬものが、月に向かって吠えるのだ。手の届かないものへ少しでも近づこうとして。それこそが月吠。下から、上へ。神速の切り上げこそが月吠摩耶の秘伝である。彼女が辿り着いた至極単純な刀の振り方。だが、それは定町美也子でさえ見切れなかった魔技だ。
「楽しいでしょう」
立ち合いの最中、そう問いかける少女は笑っていた。
その声は、その顔は、その剣は、浜路を長い間苦しめていたのかもしれない。幼い頃に打ち合った、月吠の少女。彼女は恐ろしくもあり、羨ましくもあった。
あの時、浜路は何も答えられなかった。ただただ怖くって、無心になって相手を叩きのめした。
もう、怖くなかった。
今ならきっと問いかけに応えられる。
今の自分にあるのは剣だけではない。同じところを見て、足並み揃えて共に行くものたちが傍にいる。
「楽しいことは他にあります」
剣士としてではなく、狩人としてここに立っていたからどうにかなった。あのまま、昔のままでいたなら、きっと自分は摩耶と溶け合うようにして切り結び、死んでいたに違いない。
浜路は胸に手を当てた。
――――歪に歪んでいた私の心よ。
目の奥が熱い。血が煮えている。視界は狭まって、何も見えなくなる。浜路は呼びかけた。《多魔散らす》よ。もう一人の私よ。どうか。私の声を聞け。
氷の刃を生み出すことしかできなかった力。
しかし、違う。可能性はあった。既に提示されていた。自分の力を拝借した幸は、《多魔散らす》を自分とは違うように使っていた。
できるに違いない。そうに決まっている。これは他ならぬ自分自身のものなのだ。
幸は見た。
摩耶が浜路を切った瞬間を。
ただ、切り捨てられたそれは本物ではなかった。摩耶が捉えたのは氷像だ。浜路は一歩たりとも動いていなかった。
「私はもう、そこにいません」
《多魔散らす》が生み出したもう一人の浜路。摩耶から発せられた殺気、闘気はそれに反応した。練り上げ、研ぎ澄まされていたがゆえに動いてしまったのだ。無論、浜路はその隙を見逃すようなお人よしではない。
摩耶も反撃を試みたが、浜路は真正面から彼女を打ち破った。得物をぶった切り、相手の胴を薙ぎ、反撃を受け止めて、もう一太刀浴びせた。腹に刺さった得物を捻じると、さしもの摩耶も苦しそうな表情を浮かべた。
「そんなの、やだ」
泣いていた。涙を流して悔しがっていた。戦いを見ていた幸にも分かった。月吠の剣は確かに届いていた。ただ、浜路は狩人としてこの場所に立っていた。彼女が一介の剣士として摩耶と打ち合っていたなら、きっと殺されていただろう。だが、決着はついた。これ以上なく、決定的な結果を以て。
「やだ、嫌だ、いやだ……」
摩耶の手は最期まで何かを掴もうとして、もがいていた。浜路はそれを最後まで見届けた。彼女が動かなくなるまで、じっと。
「彼女は」
何か言いかけた浜路はしばらくの間黙り込んでいたが、幸を見て、穏やかな顔つきになる。
「彼女は、もう一人の私だったのかもしれません。幸殿に会えず、剣だけに心を捧げていた、もう一人の私」
「鏡ですか」
「分かりません」
たぶん、摩耶も浜路のことをそのように見ていたのだろう。幸はそう感じたが、何も言えなかった。
□◆
あのあと、甲樫男や他の狩人が到着し、医者のもとに担ぎ込まれた蘭たちは無事だった。入矢は忽然と姿を消していた。《驢鳴犬吠》の面々もすぐに復帰できるらしい。メフの医療は偉大だ。幸は改めてそう思った。
「行きますよ。浜路さん」
「ええと」
「なんです」
「あのー。どうして手を握るんです」
幸と浜路はがらがら通りを歩いていた。以前にもましてうるさくなった鍛冶屋の通りを、幸は彼女の手を引いて。
「嫌ですか」
立ち止まり、幸は不思議そうにする。浜路は難しい顔になったが、
「いえ、嫌というわけでは」と答えた。
繋いだ手を見ながら、浜路は幸に連れられて喫茶店に入った。和のテイストが漂う甘味処である。大きな栗が入った汁粉を売りにしていて、老舗で修業したシェフ自慢の一品らしかった。新規開店したばかりで店内は混雑していたが、二人は大して待たされることもなく席に案内された。
「何にしようかなあ……スフレ。スフレいいなあ。フワフワしてるんですって。浜路さん何にするんです?」
一つのメニューを二人で凝視する。浜路は真剣な顔つきだった。
「やはり、お汁粉は間違いないですね」
「ですね」
「というか全部食べたいです」
「全部はもったいなくないですか。次来た時に残しときましょう」
ううんと浜路が渋るものだから、幸はいくつか頼んでシェアしてはどうかと提案した。彼女は一も二もなく頷いた。そして実際に注文し、商品がテーブルに運ばれてきた段になり、幸が木製のフォークにわらび餅を突き刺して、はい、と言った。浜路は首を傾げそうになった。
「あーん、してください」
「子どもではないのですから」
「あ、落ちますから早く」
「仕方ありませんね。ん」
「どうです」
「美味れふ」
「じゃあぼくも」
「あ゛っ、抹茶フォンデュやばいですよ幸殿」
浜路が皿を寄せてくるので、幸は期待感に満ちた目で彼女を見返した。
「……仕方ありませんね。はい、どうぞ」
差し出されたものにパクつくと、幸はめしゃめしゃとスイーツを咀嚼し始める。
「どうですか幸殿。やばいですよね」
「やばいです。あとおかわり欲しいです」
言いながら、幸はフォークを浜路の口元に近づけた。彼女は無言でそれを口の中に入れる。そうしてもごもごとしてから、ふっと店内を見回した。
「むず痒い気分です」
「雪螢さんとこういうとこに来て、こういう感じにならないんですか」
「ありえませんね。ヤツとはこのようなところに二人きりで来ません。というか行きたくありません」
「仲悪いんですか」
「悪くはないと思うのですが……私もヤツも、ふとした拍子にフォークをほっぺたに突き刺してしまうのではないかと」
そういうものか。何となく納得しつつ、幸は抹茶ソースに苺をくぐらせる。
「幸殿はどなたかと来られるのですか。というか……食べさせ合ったりするのですか」
「今日、初めてしました」
「割に手慣れていたような」
「妹とはそういうのをしてたので」
なるほどと独り言ちながら、浜路は温かいお茶を啜った。
「せっかくの休みだというのに、相手が私でよかったんですか」
「他の人も誘おうかなって少し思いましたけど、ほら、皆さんまだ怪我も治ってないですし。こうしてるのもやっぱり悪いかなとは思うんですけど」
「気に病む必要はありません」
浜路は言い切った。
「私も皆も、怪我をしても、たとえ命を失ったとしても、あなたと共にあろうとしたのです。ですから、幸殿が必要以上に背負い込むことはないのです」
ケーキを切り分けてから、浜路はそれを幸の口元に持っていき、フェイントをかけた。
「ですから。一人だけで先走るようなことは決してないように。あの時、あなたが月吠といたのが見えた時はゾッとしました。もし私があそこにいなかったらと考えると……今でも、死んでも死にきれない気分になります」
「ごめんなさい」
「よろしい。ふふ、はい、あーん」
幸は、浜路の異能が変わったところを目の当たりにしていた。それは彼が求めた強さに対する一つの答えのような気もした。
夕食を外で済ませて帰宅した幸は、しばらくの間、リビングに立ち尽くしていた。
「なんで」
自分の家に男鬼入矢がいた。あの日、誰も知らぬ間に姿を消していた彼女が。
入矢はむつみの対面の椅子に腰をどっしりと落ち着かせてお菓子をバリバリと食べていた。彼女は黙って突っ立っている幸を面白そうに見ていたが、気楽そうに片手を上げた。
「よう、甥っ子。久しぶりだな。あのさー。一緒に寝ようぜ。あ、何も変なことしようってわけじゃなくて、手ぇ繋いでてくれるだけでいいからさ」
「あの、叔母さん」
幸はむつみに助けと事情の説明を求めた。
「面倒看たげて」
簡潔だった。
「あの」
「決まり。そんじゃあ行こうぜ。お前の部屋どっちだ。ここか?」
「ええ……?」
幸は自分より二倍近く大きい入矢に、自分の部屋に連れ込まれた。カエルが悲鳴を上げかけたが、口を両手で押えてどうにか堪えていた。
「叔母さん! 叔母さん怖い! 何なんですか!」
ベッドの隅で布団にくるまった幸は、自分を見下ろす入矢の視線から逃れようと必死だった。よく見ると、彼女は動きやすいルームウェアである。彼は戦慄した。
「うるさいなあ」と、むつみがドアの隙間から顔を覗かせる。意地の悪そうな、いつもの笑みを浮かべていた。『甥っ子をいじめるのが趣味です』と言わんばかりの彼女を見て、幸は諦めがついた。なるほど、ここまで来れば趣味も立派だ。超一流の悪趣味である。
「今日はもう説明するのも、こいつの相手するのも面倒なんだよ」
「……ぼく、どうなるんですか」
「どうもなりゃしないよ。平気。こいつアルパカみたいに臆病だし、何かあれば声出して。気が向いたら様子見に来てあげる」
その言葉を信じるほかなかった。どのみち、むつみや入矢相手では自分一人ではどうにもできそうにない。幸はうなだれた。
「あ」と入矢がアホみたいな声を発した。
「そういや風呂まだだろ。おい、甥っ子」
「なんですか」
「一緒に入ろうぜ。背中流してやるよ」
「叔母さん!!!」
むつみはうるさいなと言ってドアを閉めた。