大虎を撃ちに行く<2>
蘭屋敷の朝は早い。
ここでお手伝いとして働く福屋カツの朝は誰よりも早い。
寝床から出るや、着るものを羽織りながら寒さに身を震わせる。硝子戸の向こう、何かが見えた。福屋は少し躊躇しながらも戸を開いていく。板張りの廊下は殊更に寒かった。外の冷気は屋敷へと流れ込む。ここからの景色にも、もう慣れた。蘭に仕えてから十年も経つ。ただ、今年の雪は少し早かった。
庭に浅く積もった雪を一瞥し、福屋はゆっくりと歩く。《猟会》の集会のあと、一日の初めの仕事は離れの様子を見て片づけをすることだ。蘭は『メフの狩人の今後について思い思いに語る』だののたまっているが、実際は狩人たちが飲み食いして酒に呑まれてめいめいに朝まで眠りこけるだけのイベントが集会である。福屋はそう認識していた。
離れでは福屋の想像していた通り、多くの狩人たちが床に伏せていた。ここで掃除の邪魔だからと追い出すのも可哀想かと思い、いったん引き返して毛布の類でも持ってこようと踵を返しかけた時、いつもより妙に静かなことに気づいた。まさかこの寒さで凍え死んでいる訳ではあるまいな。そんなことがふと頭をよぎり、福屋は声をかけながら離れへと足を踏み入れた。すると、狩人たちが眠っているのではなく、倒れているのだと分かった。息こそあるが、みな一様に呻いている。彼女は主人の姿を捜した。口こそ立つが足腰が弱りつつある蘭赤彦や、我路や梅田の姿もない(竹屋はもともといるかどうか判然としない存在である)。
そのうち、福屋は甲樫男が倒れているのを見つけた。樫男は、この屋敷に集まる狩人の中では礼儀を知っている方だ。このように無様を晒すことはあまりない。いったいここで何があったのか。彼女は首を傾げるばかりだった。
押し倒されたままで幸は言った。獰猛な顔つきの入矢が彼を血走った目で見下ろしている。息は荒く、その両手は幸の首にかかろうとしていた。
四肢が熱を帯びている。頭の中では割れんばかりの声が響く。特に目が痛んだ。自分自身の内側を熱と痛みが駆け巡っている。これでいい。これでよかった。この状態こそが花粉症を行使する前兆だからだ。
恐ろしい。身が竦むほどの敵意。それを発するものから目をそらさずに、幸はしかと見た。
見た。
見たぞ。
お前を見たぞ、男鬼入矢。
お前の大事なものは、それか。
「触るんじゃねえよっ」
幸の目に光輝が帯びるのを認めるや、入矢は彼の頭を掴んで地面に叩きつけようとした。だが、そうはならなかった。彼女に負けず劣らずの力を以て、幸が抵抗していた。入矢は目を見開いた。
「あなたは……」
《花盗人》は既にその力を示していた。
「誰より理性が働いていて、誰も傷つけたくないと思っているし、誰より、臆病だ」
「うるせえ黙ってろ」
「あなたの花粉症があなたのことを助けてる」
「黙れっ」
「それをもらいます」
反転した。幸は入矢を押し倒し、彼女はそうされたことに少しの間、気づけないでいた。
「使うな、使うなッ!」
入矢は恐慌した。彼女は咄嗟に花粉症を使っていた。
《三重殺》。
それは入矢にとって錠であり鎖であり檻であり、三つの縛めであった。
「そんなものに触れるな!」
三つだ。
幸は顔をしかめた。《三重殺》は入矢の性質と同じように不可思議で複雑だった。いったいどのような力を有しているのかが判然としない。彼はその全てを奪えなかったが、自分の身体能力が馬鹿みたいに上がっているのだけははっきりと分かった。そして、それだけでは状況が好転しないことも分かった。彼はまた入矢に体勢を入れ替えられ、組み伏せられた。
それはそうだろう。幸の頭はすっかり醒めていた。入矢の異能を奪い、力が強くなったところで意味はない。彼女が異能を使えば、地力の差が浮き彫りになるだけだ。同じものを同じだけ使えば、最後にものをいうのはその身に宿った筋肉だけである。
入矢が何か喚いていた。幸は、日が昇るのを認識した。空こそ見上げられないが、周囲が明るくなっていくのを感じていた。しかし我が身の行き先、その見通しに関しては暗いというほかない。本当に殺されるのかもしれない。そんなことを考えていると、
「おうおう、朝っぱらから若いのがよう」
しわがれた声がして、入矢の動きがぱたりと止まった。幸は不思議に思ったが、声の正体を確かめられない。ややあってから足音が三つ、四つあって、誰かが近づいてくるのが分かった。
入矢は幸を解放し、立ち上がる。彼はゆっくりと体を起こした。
「よう、若いの。ジジイより早起きするたあいい心がけじゃねえか。いいことが起こるぜ、よかったな」
『いざという時、頼れるからね』
そんなことを誰かが言っていた。
「……年寄りは朝がはええな」
入矢が吐き捨てるように言った。
「あ? なんだこいつ。おい、こいつがアレか。男鬼んとこの娘っ子か?」
「だろうな。若い連中が言っていた特徴と合致する」
「おいおい、どっちにしろ見過ごせねえだろ」
「どっちでもいいだろそんなの。……ああ、いや、よくねえのか」
爺が四人、入矢と向かい合って立っていた。
最後の最後のどうしようもなくなった時、それが今なのだと幸は思った。
「あぁー、くそ、寒い。雪まで降ってんだぞ」
「だから朝一はやめようって言ったじゃねえか、おれぁ」
「言ってないだろう」
「いいや、言った」
「朝でも夜でも寒いのは寒いじゃねえか」
「おう、どっちでもいいじゃねえか、そんなもん」
「よくねえだろうよ。おれぁ別に寒いのも何でもいいがよ、おれが虚言癖みてえに言われんのは納得いかねえんだよ」
「だから、言ってないと……」
「言ったんだよおれぁ! 朝方から降るから、行くんなら夜のうちにしといた方がいいって言ったんだ!」
「それを言ったのは竿竹だ」
「あー、言ったような気もするなあ」
「どっちでもいいじゃねえか」
「よくねえ!」
男鬼入矢は、勝手に現れて勝手に口論を始めた四人をじっと見定めた。彼女は知らないが、彼らは《猟会》の幹部である。
禿頭で小さいのが蘭赤彦。
長い黒髪にひょろりとしているのが我路菊水。
帽子をかぶり、眼鏡をかけた仏頂面が梅田金吉。
ひときわ大きいのが竹屋竿竹。
「帰るんなら今のうちだぜ、爺さん方よ」
なるほど、ただの年老いた物好きか。入矢はそう判断した。確かに彼らは普通の老人よりかはマシだろうが、それでも自分の前に立てるほどの強さはない。この四人組が狩人であれ何であれ、物の数ではない。むしろ哀れなのは自分の方だ。か弱いものを好き好んで叩きたくはない。
じっと見ていると口論も収まり、蘭が扇子を広げて入矢を見上げた。
「よう、お嬢ちゃん。なんでこんなことしたんだ」
「こんなこと?」
「いや、だからよ、なんで狩人をやりまくったんだ? あいつらが何かしたか? その、お嬢ちゃんをからかったり、先に仕掛けてきたのかよ」
「いいや、してねえ」
入矢が狩人を痛めつけたのは彼らが弱かったからだ。
「弱いやつは狩人に向いてねえ。大空洞に潜れば死ぬ。潜らなくても……まあ、遅かれ早かれ死んじまう。だったら早いとこ辞めちまった方がいい」
蘭は、ははあと神妙そうに頷いた。
「その通りかもな。で、お嬢ちゃんが勧めてやったのかい。殴って蹴って、辞めろって」
「ああ、そんなとこだ。試してやった」
「試すってなあ、そりゃ随分と偉そうな言い方じゃねえか。まるでお嬢ちゃんが強いみたいに聞こえちまうぜ」
入矢は蘭をねめつけたが、相手にするのも馬鹿らしくなってきていた。
「老い先短いだろ。畳の上で死にたくねえか? ほら、積もってるし。雪の上で死ぬのは寂しくねえか?」
「まあなあ。まあ、死んじまったら関係ねえかもな。どこで死のうがどっちでもいいと思うけどよ」
禿頭を指でかくと、蘭は扇子を閉じ、また開いた。
「ま、分かったぜ。で、だ。お嬢ちゃんよ。あんたをほっといたらどうなる? この先、メフの狩人全員に喧嘩吹っかけんのかい」
「いいや? 大人しくしてるんなら何もしねえよ。……なんだ?」
「どうした、お嬢ちゃん」
入矢は瞼を擦った。何か、妙だった。
妙と言えば大柄な爺、竹屋の動きであった。彼は先から体が痒いのか、みょうちきりんな動きを繰り返している。まるで下手な踊りだ。目障りで仕方がなかった。
「よう、どうした?」
「……弱いやつは簡単に死んじまう。狩人になんかならない方がいい」
「おれもそう思う。だがよ。どうしてもってことはあるわな。色んな道を無視して、もうこれしかねえって覚悟で狩人を選んだやつはどうなるんだ? 弱くても何でもよ、そんでも頑張ってそれでメシ食ってこうってやつもいるわな。そんな連中もお嬢ちゃんは怪我させたんだぜ」
舌打ちし、入矢は頭を振った。そうしてから竹屋を殴り飛ばした。彼は巨躯だが、呆気なく吹っ飛んでいった。
「ああなりたいか?」
入矢は蘭を見下ろし、我路や梅田にも視線を遣った。
「いやー、なりたくねえなあ」
「失せろ、ジジイども」
「強いってマジか?」
「あ?」
蘭は老獪な笑みを浮かべる。
「いやな、さっきからお嬢ちゃんは自分のことを強いとか言ってるけどよ……でもアレだろ。デカブツのケモノを仕留めたり、木っ端の狩人をボコっただけじゃねえか。さっき殴ったのも独活の大木だぜ」
「ボケてんのか」
「《子袋》を一発でやるだけなら誰にだってできるぜ。ありゃあ体の割に足が小さいからな、ちょっと小突いてやりゃあ倒れて死ぬまでそのままよ。なあ我路? お前にもできるよな?」
話を振られた我路は担いでいた長物を下ろしてから眉根を寄せた。
「そんぐらいならな」
「ほらな? できるってよ? それによう、金吉ぃ。お前ならアレだ。ほら、狩人が何人相手でもそこそこやれるよな」
「色々と準備できるなら、それくらいは」
「な?」
「何が言いてえんだよジジイ」
「だからおれらにできることをやってみせたくらいじゃあ一丁前な口は利けねえぞって言いてえわけだ」
蘭は楽しそうだが、我路の表情は暗かった。
「いや、でもよ、やっぱ違うだろ」
「何言ってんだ。お前だって強いじゃねえか」
「そりゃ昔の話でよ」
「弱気になりやがって。いいか。そこの娘っ子よりお前のが全然強いんだぜ」
「そうかあ?」
「んなわけねえだろ」
入矢は思わず口を挟んでいた。
「いいや、強い。ま、強い弱いを決めるのってはよ、色々難しいがな。それでもお前と嬢ちゃん、どっちが強いかの話ってんなら簡単だ。お前のが強いからな」
「そうか?」
我路はううんと低く唸った。
「そりゃそうよ。おい我路、聞かせてやんな」
「何を」
「武勇伝だよ」
「いや、ありゃあ……あんなもん話したってこいつにゃ効かねえだろ」
「いいから話せ」
梅田にもせっつかれて、我路はさっき地面に下ろしたものを組み立て始めた。それは槍だった。
狩人の武器について、火薬を使うものや強力なものなどは市が制限しているが、それはケモノや扶桑熱、狩人に対する法が整備され始めてからの話であり、それよりも前に所持、使用していたものに関しては市役所も見逃しがちだった。
「エモノは立派みてえだな」
入矢は鼻で笑い飛ばした。
「ああ、組み立ても面倒だしな。もっと便利なもんがありそうだけどよ」
「うるせえな。おれぁこれが気に入ってんだよ」
竹屋も彼女に同調していた。
「……あ?」
殴り飛ばしたはずの男が、何事もなかったかのようにしてそこに立っていた。入矢は瞬きを繰り返す。だが、彼女以外にそのことを気にしているものはいなかった。
何か妙だった。
さっきからずっとだ。
なぜ、自分は悠長に事を構えているのか。
どうしてこいつらを殴り飛ばさないのか。
年寄りだからというのは理由にならなかった。問答など不要だ。強さとは握った拳、その力だけが物を言うはずだ。
どこか曖昧で、何かがあやふやだ。頭の中が霧や靄で満ちているような感覚がずっと続いている。
梅田は、入矢の様子を見て効いているようだと判断した。そうでなければ自分たちなどとうに気を失って雪の上に転がされているはずだ。彼は蘭に合図を送った。
「お、そろそろやるか」
頷き、梅田は幸を見た。一足先に入矢と戦っていた彼は、先ほどからぼうっとした様子で、やり取りには加わらないでいた。幸もまた入矢と同じような状態にあるのかもしれなかった。
「八街くん」
梅田は幸の肩を揺さぶった。
「……梅田、さん?」
「ああ、そうだ」
幸は入矢たちを見回し、不思議そうにしていた。
「どういう状態なんです、これ」
「詳しく話している時間はないが、花粉症によるものだ。ああ、安心していい。この話は男鬼入矢には聞こえていないはずだ」
「えっと」
「もしもの時、彼女を封じられるかね。少しの間でいい。動きを止められるか?」
「少しなら、どうにかなるかもしれません」
頷き、梅田は入矢に向き直った。彼女は緩慢な動作で彼の存在を認めたらしかった。
「男鬼くんと言ったか」
「うるせえんだよ、さっきから」
入矢は酷く不愉快そうだった。それでも手を出しては来なかった。
「君との戦いを経て戻ってきたものから話を聞いて、妙だと思った。《子袋》を一撃でやれるものが狩人たちを骨折程度で帰すだろうかと。君はケモノ相手には全力を出せるが人間相手には力を出し切れない。君のようなものは、よくいる。どこにでも。断言してもいい。君は典型的な、一般的な、ただの狩人だ」
さて。そう言って、梅田は両手を腰にやった。そこには得物がある。短い鉈が二振り。彼はそれを、二刀を操るかのようにして抜いた。
「これは対人戦用の得物だ」
「だからなんだってんだ」
「君の自由を奪ってから嬲り殺しにしてもいいし、他の狩人たちの前に突き出してもいい」
「は。そんなことできるのかよ」
「できるとも。実際、我々はそうして来た」
「人間相手にそんなことできるのかって聞いてんだ」
「だから、できると答えたんだ。……いまさら可能かどうか聞いていたのかね? 聞くまでもないだろう」
梅田は目を細めた。
「嬲り殺してもいいし、ほら、そこの無駄に長い髪の毛の男が一撃でやってもいい」
得物の組み立てはすっかり終わっていたらしかった。バカでかい槍を携えた我路が気まずそうにしていた。
「話してやれよ」
蘭に促された我路が話を始めた。が、彼が大空洞の逆さ城と呼ばれる階層に到達した時点で入矢が吹き出した。
「逆さ城ときたか。ほら吹きめ。あそこに行けるのなんか《百鬼夜行》でも一部の連中くらいだぞ」
「ま、若い時の話だからよ。ほらと思うなら思ってくれよ。……けど、まあ、なんだ。安心した」
「あ? 何がだよ。お前この状況で安心もクソもあるかよ」
「いや、《百鬼夜行》でも逆さ城で苦戦するもんなんだなってよ」
我路は笑っていた。彼は完全にリラックスしていた。
「話を続けてやるよ。それでな、おれが逆さ城で」
「仲間が全員死んだんだ。さっきまでゲラゲラ笑って、今日の昼飯はどうするかとか、外に戻ったら何しようかとか、くだらねえこと言ってた連中がよ、穴蔵から顔覗かせたケモノと目と目が合うだろ? そいつがバーっと出てきやがったと思ったらみんなぶっ倒れてんだ。そんでカツジの野郎がどこにもいねえもんで捜そうとすんだけどよ、足が言うことを聞かねえんだよな。嫌な予感がして汗だらだらかいてよ、勇気振り絞って見たら折れてんだよ。足が、まー、綺麗にぽっきりとな。痛くはねえんだ。やべえって気持ちが先立って、とにかくおれぁ叫んだ。『誰か』、『助けてくれ』、『誰もいねえのか』って。返事は帰ってこねえ。みんな死んでるからだ。ただケモノの息遣いだけが聞こえてくる。でもそいつの姿は見えねえんだ。必死になって得物を握り締めてよ、あちこち目を動かすんだ。したらよ、いたんだわ。おう。そいつはハナっからおれたちの前にいた。でか過ぎて見えてなかったんだ。逆さ城の天守よりもでっけえやつが身じろぎする。おれはそれだけで生きた心地がしなかったもんよ」
話が進むにつれ、我路の顔には自信が満ち溢れていた。対照的に、入矢はどこか不安げだった。
「頭ん中のおれはとっくに諦めてた。こんなやつに勝てるか。生きて帰れるわけねえって。でも体は勝手に動いてやがった。足だって折れてるのに、気がついたら笑っちまうぜ。野郎の目ん玉に槍を突き刺してたんだ。したらよ、今まで聞いたこともない風に喚きやがるもんだからよ。次はど真ん中目がけて突っ込んでやった。でかくても生き物なんだよな。血は出るし、痛けりゃ泣き喚く。ぶちのめしてやりゃあ多少は大人しくなりやがる。そんなことにゃあその時には分からねえ。戦ってる最中は何も考えられねえんだ。おれがデカブツと戦えたのは仲間の敵討ちだとか、生きて帰ってやりたいことがあるとか、家族が待ってるとかじゃあない。そんなもん頭の片隅にもなかった。死にたくねえ。それだけだ。死にたくねえからこいつをぶち殺したいって気持ちだけだ。最後の最後、色んなもん取っ払ったら人間そんなもんよ。てめえのことしか見えちゃいないのさ」
口調には熱が入り、物語は佳境へと差し掛かる。その時、幸には我路が別人のように見えていた。狩人を儲からないと言い切り、狩りを前時代的だと切って捨てた老人はもうどこにもいなかった。逆さ城に巣食う巨大なケモノにとどめを刺したという段に差し掛かった頃、我路は大きな息を吐き出した。
「……お嬢ちゃん。あのジジイはおれの方が強いなんて抜かしやがったがよ。そりゃ嘘だ。誰がどっからどう見たってあんたのが強いに決まってんじゃねえか。今のおれにゃあできねえよ。《子袋》を仕留めんのも、大勢相手にして生き残るのもよ。だがよ、こんな老いぼれになってもまだ死にたくねえんだ。殺されるのなんざごめんだ。だからよ、やられるまえにお嬢ちゃんは必ず殺すぜ」
怖気が走った。幸は身震いする。そこにいたのは一人の狩人である。大空洞の深くへと潜り、研ぎ澄まされていた頃の我路菊水だ。彼から発せられていたのは敵意ではない。相対するものを間違いなく仕留めるという殺しの決意だ。
やがて幸が見ている前で決着がついた。
「じゃあ、やるかよ」
話を終えた我路が得物を構えた。あ、と、幸は声を発した。彼が異能を使ったのが分かったのだ。
我路が腰を深く落とし、切っ先を入矢に向ける。彼女はそれだけで腰を抜かしていた。自分でも信じられなかったのだろう。入矢はどうにかして立ち上がろうとするが、体は何も言うことを聞かないらしかった。どうにかして足掻くも、地面を這うことすらままならない。
「おい、やるのかよ。やらねえのかよ」
「何をしやがった、クソジジイ。クソが。……見て分かんねえのか」
我路は面倒くさそうに口を開いた。
「あー? 何が」
「くそっ」
もう一度悪態を吐いた後、入矢は、殺すなら殺せと言った。今にも泣きだしそうな、か細い声であった。
狐狸の類に化かされたか。幸は、うなだれる入矢を一瞥し、そう思った。そう思うほかなかった。暴力で何もかもを押し通そうとしていた彼女が特に何もできないまま蘭たちに屈したのだ。
「みなさん、その、強かったんですね」
幸は感激していた。《猟会》で酒をかっ喰らっていただけのジジイどもが馬鹿みたいに強かったのだ。無性に誇らしかった。が、ネタバラシは早かった。梅田はゆっくりと首を振り、話しを始めた。
「会長の花粉症で男鬼くんをあやふやにさせた」
「あやふや?」
「そうだな。幻を見せていた。そう思ってくれていい。とにかく頭がぼうっとしてくる。君もそうだったのではないかね」
そういえばと、幸は先のことを思い出した。
「次に竹屋だ。あれは男鬼君の動きを制限していた」
「そうなんですか。踊ってたようにしか見えませんでしたけど」
「まあ、そうだな」
「というか、殴られてませんでした?」
幸は竹屋を盗み見た。彼は大笑いして我路の肩をバンバン叩いていた。
「あれにはいささか驚いたが、殴られる前に後ろへ吹っ飛んだだけだ」
「自分から、ですか」
「そうだ。やつはそういうのが上手い。男鬼くんもまるで気づいていなかったはずだ」
「最後に花粉症を使ったのは我路さんですね」
梅田は頷き、眼鏡の位置を指で押し上げた。
「別に、やつの花粉症に殺傷能力があるわけではないがな。どれもこれも一つだけでは役に立ちづらいが……考えたのは私だ。私は花粉症ではないが、力の使いどころくらいは知っている」
咳払いしてから梅田は続けた。
「ああも上手くいったのは男鬼くんに理性があると踏んだからだ。こちらの話を聞きもしないで殴りかかってくるならどうにもならなかった」
「おう」と蘭が口を挟んだ。
「おれたちみてえなジジイ、まともにぶつかってりゃ一瞬だぜ、一瞬。太刀打ちできないでぶっ殺されてらあ」
蘭はそう言うが、あのまま一戦交えていても梅田や我路が勝っていたかもしれないと幸は思った。あの時の彼らから発せられた威圧感は間違いなく本物だった。
我路の異能は《大虎を撃ちに行く》だ。自分が相手より強いという思い込みが発動の条件であり、ひとたび発動すれば彼の意気に呑まれて、どんなに巨大なケモノでさえも動けなくなる。……と、我路は言う。それが真実かどうかは分からない。年を食って丸くなり、異能が発現するようなことはほとんどなくなったらしいが、ベテランの狩人は手の内を全て見せるような真似はしない。たとえ旧知の仲であってもだ。
竹屋の異能は《人喰い》だ。ある音やある動きの組み合わせによって力を使っているらしいが、常から奇矯な振る舞いの目立つ男である。それが本当かどうかなど本人にすら分かっていない。花粉症かどうかも分からないのだ。そもそも竹屋竿竹というふざけた名前はどうだ。
二人とも食えない男だ。梅田は彼らをそう評していたが、最も食えないのは蘭だ。
《不案内な幽霊》。
それが蘭の異能らしい。物事を曖昧にし、幻術のような力を持つらしい。
そう、『らしい』。梅田にも彼の力、その全ては分からない。恐らくだが、蘭は誰にも明かすことなどないのだろう。
そして、それは自分もそうだった。梅田もまた、三人には話していないことがある。それもいくつもだ。
梅田は帽子をかぶり直し、蘭を視界の端で捉える。彼は気づいているぞと言わんばかりに口角をつり上げるのだった。