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驢鳴犬吠めふFeverズ  作者: 竹内すくね
猿【鉈と】猴【刀と】取【貴女と】月
115/121

大虎を撃ちに行く



 メフで暮らし始めてから、自分以外の意志や意図によって意識を手放すことが増えた。そうして次に目が覚めると、自分の部屋か病院で、今日は前者だった。たぶん、それだけの話なのだろう。幸はぼんやりとした頭を掻きまわして、窓の外を見た。陽が落ちていて、静かだった。

「ご主人」

 テラリウムから聞こえてきた鬼無里の声に反応し、幸は微笑みを作った。

「どうなりましたか」

 鬼無里は石に腰かけて難しい顔になる。

「見ての通り、君は無事だ。あの時、あの場にいた狩人の同僚も他の人に連れられていったよ。携帯電話を確認するといい。先までひっきりなしに震えていた」

 幸はSNSを確認しながら鬼無里の話を聞く。

「ここまで運んでくれたのは市役所の人間だ。君たちはいったん避難所まで運ばれて、それから私はご主人にくっついてここまで戻った」

「あの人は」

「……《子袋》を仕留めた、あの女か。健在だろうね。少なくとも私たちが伍区を離れるまでは、ただ一人、あの場に立っていたはずだ」

 だろうなと幸も同意する。

「確か、名乗っていたね。ええと……」

「オオリイリヤ。そう言ってました。それから、メリステムとも」

 鬼無里はうんと頷いた。

「メリステムか。以前、ご主人にも聞かれたことがあったね。私はそういった方面には疎いが、日限という君の知り合いは植物で言うところの『分裂する組織』だと」

「はい」

「男鬼なるあの女は自らを『メリステムのイリヤ』だと言った。恐らくだが、メリステムとはご主人の猟団と同じように、やはり組織、グループの名前なのだろう」

 まさかまたその名前を聞くことになるとは思っていなかった。幸は何か、これから先の手掛かりになるようなものを見つけた気がした。

「気になるかね」

「もう一つあります。気になることが」

 鬼無里が口を開く前にドアがノックされた。彼女はすっと水槽の奥へと姿を隠す。ややあってからドアが開かれ、むつみが顔を覗かせた。

「起きたか。お腹は?」

「空いてるかも」

「そ。じゃあ、もう少し待ってなよ」

「叔母さん」

 踵を返そうとしていたむつみが足を止めた。

「メリステムって知ってます?」

「何それ?」

「男鬼入矢って女の人は?」

「……誰?」

「その人は叔母さんのことを知ってました」

「ふうん」

「叔母さんが独り身だってことも知ってました」

「ふーん、あっそ」

 むつみのゲージが溜まった。

「《百鬼夜行》で一緒にいた人じゃないんですか」

「前も言ったけど、大所帯だったから顔も名前も知らない人がたくさんいたんだよ。でも、ま、そう。私にも追っかけがいたわけだ」

「白を切ってません?」

「あのねえ」

 と、むつみはイライラした様子で幸に詰め寄った。

「仮に、男鬼入矢ってのが私の知り合いだったとして、何? 君は私の知り合いに自分も、大事な人もボコボコにされました。だから私にも何かしらの責任がありますって言いたいの? 顔見知りと切った張ったするなんかここじゃあ当たり前だよ。誰かのせいにしたい気持ちは分かるけど」

「そういうのじゃありません」

「そんな顔してた。あ、いいこと思いついた。狩人辞めちゃいなよ。疲れたし、痛かったし、辛かったんじゃない? 続けてたらこの先も同じような目に遭うよ」

 むつみは真面目くさった顔だった。

「よく考えなよ」

 むつみが部屋から出て行ったあと、幸は長い息を吐き出す。

 悪いのは何で、誰だったのか。

 いや、と、幸は思い直す。むつみもいつか言っていた。『暴力はどこにでも潜んでいる』と。男鬼入矢なる女は天災に近い存在だったのだ。

「……違う気がする」

 彼女だけではない。子袋や騙し猫にやられたのは足並みを揃えられなかったせいだ。だが、揃えようとしても無理に決まっている。だから悪いのは自分だ。もっとうまくやれていた。そのためには自分の言うことを聞いてもらえるように、強くなる必要がある。《驢鳴犬吠》の皆が負傷したとはいえ健在なのは不幸中の幸いだった。自分たちにはまだ次がある。

「うん」

 幸は頷いた。その様子を眺めていた鬼無里はげろげろと鳴いた。



《猟会》の本部でもある蘭屋敷の離れでは、屋敷の主人である蘭赤彦と、《掘り師》の団長である甲樫男が睨み合うようにしていた。

 樫男は腕を怪我しているらしく、アームホルダーで右腕を吊っていた。

「夜明けを待って、動けるもん全員であの女をぶっ叩く」というのが樫男の言い分である。彼も、彼の息子である功刀も、団の仲間も、男鬼入矢によって負傷させられていた。報復行為に出るのは当然であり、また、あの女を野放しにもできない。入矢は伍区の畑を塒にして狩人を見張っているのだ。このまま冬を越し、春になればケモノも活発化するが、彼女が見張っているので大空洞には入りづらくなる。今日のように力ずくで打って出られれば太刀打ちできない。仕事の邪魔をされ続けてはいずれ狩人たちは干上がるだろう。樫男や大勢の狩人はそう考えていた。

「市役所が黒判定しちゃいねえんだろ」

 待ったをかけたのが蘭赤彦であった。彼だけでなく、我路や梅田も樫男の意見には否定的である。竹屋竿竹という男は意見するどころか姿を見せていなかった。

「焦っちゃいけねえよ」

 市役所や《騎士団》はそれどころではなく、まだ周囲の警戒に当たっている。そも、伍区の戦いから戻ってきた狩人からの話では、男鬼入矢は花粉症を使っていない。何もしていないといえばしていないので黒判定もされていないらしかった。狩人同士のいざこざのようなものと認識されているのだ。ここで樫男たちが動けば、新たな負傷者が出るのは確実であり、うるさいお偉方から妙な圧力をかけられてもおかしくない。というのが蘭の考えである。

「やられっぱなしで引き下がれって言うんだな」

「そうは言ってねえ。……あれ、言ったっけ? ……まあ、お前らが手も足も出なかったっていう女が――――マジもんの恐れイリヤだとしたらなおさらじゃねえか」

「けどよ」

 樫男が鼻白むのを蘭は見逃さなかった。彼は扇子を広げ、禿頭に手を当てる。

「男鬼んとこの娘っ子か。ありゃあ、少しばかり相手が悪い」

 かつてメフには手の付けられないものがいた。扶桑熱患者の集まる場所だ。手の付けられないものだらけといえばそうなのだが、その中でも入矢は特にそうだった。もともとは伍区の生まれであり、八雲や月吠といった武道の四家もあったことから入矢もまた数々の武芸を修めたが、乱暴な性質や礼儀を失する性格から一つどころには留まれなかった。彼女は伍区で道場破りのような真似事をして暴れ回っており、その時期に《恐れイリヤ》とあだ名されるようになった。見かねた親に九頭竜神社へと送られたのはそれからすぐのことで、《十帖機関》の巫女として活動するも、やはりそこでも煙たがられた。紆余曲折の後、入矢は《百鬼夜行》で狩人としてケモノ相手に力を振るうようになった。が、《百鬼夜行》が崩壊してから行方は杳として知れず、彼女を知るものは、とうとう恐れイリヤも大空洞でくたばったかと胸を撫で下ろしていたのだ。

「《百鬼夜行》の亡霊が相手だぜ、樫男」

 メフには多くの狩人がいるが、数だけだ。

《猟会》の幹部は、狩人たちのレベルが低下していることを憂えていた。彼らはその理由の一つが《百鬼夜行》の崩壊にあると考えている。強く、大きな猟団がなくなったことで、狩人がばらばらの散り散りになってまとまりがなくなった。雨後の筍の如く、猟団は日々濫造される。全体的な数こそ増えたが深い階層まで潜れる猟団や狩人が減った。言わば大多数の狩人は、浅瀬でぱちゃぱちゃ遊んでいるようなものなのだ。そんな連中が《百鬼夜行》の生き残りに立ち向かえるとは思えなかった。

「けど、じっとしてらんねえ」

「ほー。おれの言うことが聞けねえんだな」

「そりゃあな。一大事だってのに屋敷に引っ込んでた爺さんの言うことはな」

「言ったな」

 蘭は扇子を閉じて樫男をねめつけた。



 月を見ながら、朝を待っていた。

 大空洞に潜っている時にはなかなか味わえない贅沢である。男鬼入矢は伍区の田畑地帯、《子袋》や騙し猫が狩人と戦った場所にいて、火にあたっていた。久方ぶりの地上だった。やはり空気が違う。どことなく温いが、死ぬなら薄暗くて何もないところじゃなく、どうせならこういうところがいい。入矢はそう感じていた。

《百鬼夜行》崩壊後、入矢は独り、下層に潜って強大なケモノと戦う日々を過ごしていた。だが、あるケモノに逃げられて追っかけているうちに地上まで出てしまった。そこで彼女が目にしたのは情けない狩人たちの姿である。たかが《子袋》。たかが一匹のケモノによって木っ端の狩人はおろか《騎士団》に所属するものでさえ手ひどくやられる始末である。扶桑云々には大して興味がないが、大空洞に潜るには一定の力が必要で、弱いものが潜るのは許せなかった。


 ――――朝になったら、また勝負だな。


 きっと、狩人たちはまたここへ来る。今日より多く、今日より強いものを引き連れて。

「早く来やがれ」

「来ました」

 独り言ちていた入矢は、声のした方へと弾かれるようにして振り向いた。ざくざくと足音立ててやってくるのは一人の少年だ。彼女には覚えがあった。今日の戦いで、最後の最後まで粘っていたものだ。旧知の人物の甥であり、八街幸と名乗った少年だ。夜も明けない頃、彼がまた自分の前に姿を見せたのだ。入矢はその意味を察した。血が昂るのが分かった。

「いてもたってもいられなくなって」

 幸はそう言って、佩いた鉈を撫でた。彼は一人だった。昼間連れていた団の仲間も保護者もいない。入矢は口の端をつり上げる。力量差は明らかだ。幸に必勝の策があるわけでもないだろう。結果は火を見るより明らかで、だからこそ彼女は面白がった。

「へえ」

 幸の体からは力が抜けている。リラックスしているのだ。勝てるかどうかも分からないどころか、やり合えば十中八九、九分九厘負けるであろう自分のもとを訪れた。彼は知っていながらここに来たのだ。少女のような顔をして、その性質は獣のように獰猛である。入矢は破顔した。

「いいよ。やろう」

 入矢の周囲には多数の武器が突き刺さっている。そのうちの一本、適当な鉈を引っこ抜き、彼女は小さく笑った。

「鍛えてやるぜ」

「殺せますか」

「あ?」

 幸は不思議そうにして入矢を見返していた。

「ぼくのことを殺せます?」

「は? アホだろお前」

《子袋》を一撃で仕留めた自分の拳を見ていないのか。入矢は問うた。幸は訝しげな視線を送る。

「ああ……やっぱり」

 入矢の頭に血が上った。手ひどくやられた分際で何を知った口を利いているのか。彼女の握っていた鉈の柄にひびが入る。

「やっぱり、そうなんですね」

 幸は苦笑した。なんだその目は。その顔は。入矢は我慢できなかった。が、彼はくるりと背中を向けて、軽やかに走っていく。逃げているのだと気づいて、彼女は得物を取り落としそうになった。

 ある程度の距離で幸は振り返り、大きな声で言った。

「叔母さんはあなたのことを知らないって言ってました。あなたのことなんて知らないって。《百鬼夜行》にはいろんな人がいたから、顔も名前も存在も知らないんですって」

「おま……そんなわけねえだろっ」

「えっ。あ、なんですか。よく聞こえません」

 殺してやる。



「絶対後ろを取られると思いなさい」

 ぺん、と、後頭部を叩かれた。幸は恨みがましい目つきで古海を見た。彼女は何とも言えない表情を浮かべていた。愉悦に浸っているのかもしれなかった。

「死角に潜り込まれると思いなさい。君の想像を超えた力とか、素早さを持っていると思いなさい。自分より強いやつとやり合わなきゃいけない状況になった時点で詰みだけど、まあ、うん」

 古海は低く唸る。

「そんでも、そんな相手とやんなきゃいけない時はね、周りをよく見な。使えるものは全部使いなさい。汚い手でもなんでも。それが無理そうなら逃げなさい。逃げてもどうせ捕まるだろうけど、逃げて逃げて、追っかけてきて疲れ切ったところをどうにかして……無茶苦茶の泥仕合に持ち込みなさい。先に死に物狂いになって揉みくちゃになれば力量差も何もありゃしないんだから。強いやつは強いやつを相手にすることが多いから、幸くんみたいなクソザコ相手だと逆にやりづらいかもね。駆け引きもクソもない殴り合いなら分があるかな。分かった?」

「酷いこと言ってません?」

「言ってない。はい、続き。気合い入れなよ。私、今日はもう君のことを六回は殺せてるからね」



 来た。

 恐らく、えげつない速度で突っ込んでくる。よく見えないのだから仕方がない。『恐らく』自分の想像を超えた速度なのだろうと。幸はそうあたりをつけて、入矢からさらに距離を取る。それでも踏み込まれた。躱したと判断したが甘かった。振り下ろされるのは夜闇の中、鈍く輝く切っ先だ。恐ろしく素早いが、攻撃の際には足が止まる。これなら見える。

 幸は入矢の一撃を鉈で受け流した。凄まじい衝撃が得物から腕まで伝わった。空ぶった鉈が地面を抉る。上がる土煙。感覚が痺れて前後不覚に陥りかける。二度目はない。

 目で見て心で問いかける。お前の大事なものはそれなのか、と。

「絶対殺す」

 いったい何を食べ、どのように育てばこんな目を他人に向けられるのだろう。そんなことを考えながら、敵意のこもった視線を受ける。幸は入矢が鉈を振りかぶるのを見た。《花盗人》が彼女から得物を取り上げる。そこから伝わるのは数多の経験であり、強い思いであった。

 入矢は武器を奪われても全く意に介さず、そのまま腕を叩きつけるようにした。先の一撃と同じように土塊がめくれ上がった。テレフォンパンチを空ぶった。反撃。それを考えるも逡巡しては意味がなかった。低い姿勢から足を刈られて体勢を崩される。彼女は雄叫びと共に大きく足を上げた。服の裾がめくれている。露出した肉体はよく鍛えられていて、脚線美に見とれそうになる。幸は転がるようにしてその場から逃れた。次の瞬間には炸裂音が鼓膜をつんざき、入矢渾身のかかと落としがまたも田畑を吹き飛ばした。

 次は退くものか。幸は得物を振るった。常軌を逸していた。男鬼入矢はここで多くの狩人を病院送りにしたが、花粉症は使っておらず黒判定もされていない。言わばただの人間なのだ。それ(・・)に、全く何の加減も、躊躇もなく、彼は得物を振るった。そうでもしないと一ミリすら届かないと知っていたからだ。

 幸の放った攻撃は、入矢が軽く打った拳で弾き返された。彼女は落ちていた武器を拾い、体をひねりながら振り下ろす。真正面から。真っ直ぐに。奇をてらわないそれは最短距離で標的を目指す。幸は前に出た。相手の懐に飛び込むことで凌いだ。入矢を押し倒す勢いでぶつかっていったが叶わない。巌のように聳え立つ肉体に易々と跳ね返された。

 強い。幸はそう思った。

 強くなりたいと思っていた。ずっと。

 だから今、ここにいる。

 幸は息を吸った。目の前の女は強大だ。ただ、強いとは何だろうとも考える。分からない。しかし彼女にはある。男鬼入矢は自分が持っていないものをたくさん持っている。あれを見ろ。自分が血反吐を吐きながら鍛えたところで体は大きくならないだろう。鎧のように強靭な肉体にはたどり着けないはずだ。力だけでなく入矢には技がある。深山や浜路さえ物ともしない技が。幸は、入矢が自分よりも小さな時から、ずっと前から戦っていた記憶を盗み見ていた。もはや追いつけない。

「馬鹿みてえに弱いくせに、さっきから何がしてえんだよ」

 新しい得物を拾いながら、入矢は呆れ果てたように言った。

 そうだ。幸は言い聞かせる。弱いのだ。自分はどこまでも、いつまでも弱い。

「あなたは、強いんですね。強いんですよね」

 距離を取りながら、幸は入矢の様子を窺った。

「ぼくはそういうの知らないです」

「だろうな」

「けど、あなたはそういうのに一番近い気もするんです。知ってますか。強くなるコツを」

「……知らねえ。教えろ」

「ぶちのめしたい人がいるかどうかなんですって。その人のことを想像してボコボコにしたらどんな顔で泣くのかとか、そんなことを考えられる人がいるかどうか」

「へえ」と入矢は興味深そうに返す。

「あなたがそうです」

 ぽつりと言って、幸は笑んだ。

「よええやつはうるせえんだよな。腕じゃなくて口は達者なんだよ。今のお前みたいに」

 入矢が鉈を軽く振るう。それだけで風が舞った。

「お前をボコボコのメチャメチャにすればむつみちゃんが出てくるかもな。あの人とはいっぺん本気でやり合いたかった。いいぞ。いい機会だよな、これ。ちょっとテンション上がった」

「……むつみ『ちゃん』?」

「真っ直ぐ行くから防ぐか避けるか、まあ、好きにしろよ」

「むつみちゃん……?」

 弾丸のような――――稲妻のような――――否。見えないのだから形容しようがなかった。不可視に近い速度で突っ込んでくる入矢だが、幸は対応しつつあった。武器を奪い、技を奪い応戦する。彼女の攻撃はほとんど大振りだ。浮足立たず、怯えないでいればどうにかできる。技は無理だ。足運びに息遣い。所作の一つ一つがもはや武人のそれだ。幸ではどうしようもなく、虚を突かれれば防ぎようがない。しかし力任せではないから一撃でどうこうという状況にも追い込まれなかった。

 よく練り上げられた肉体。よく組み立てられた連繋。巨大なケモノを容易く屠る剛腕が、武道の流れを汲んだ攻撃を繰り出す。入矢に屈したのは並の狩人だけではない。連戦の疲労がたまっていたこともあるだろうが、大手の猟団に属する狩人や、浜路たちでさえも歯が立たなかった。幸がぎりぎり戦えているのは、この場に留まる声のおかげだった。

 狩人たちが回収しきれず、置き去りにされた武器が入矢の力と速度と技を幸に伝えていた。得物は狩人の魂だ。魂の慟哭も同然である数多くの記憶が幸を一段も二段も上のステージへと引き上げていた。

 二人はいったい、どれほど長く戦っただろうか。幸の異能は多くのものを奪った。技も武器も記憶も経験も。だが、それでも入矢には届かない。歯噛みをしてもどうにもならない。


 ――――だめだ。この人の気迫までは奪えない。


 武器は折られ、技は通じない。過信していたつもりはなかったが、《花盗人》は万能ではない。入矢とは地力が違い過ぎた。幸はよく戦っただろうが、昼間と同じようにされた。片手で首を掴まれて持ち上げられる。ばたばたと足を動かすも余計な力を使うだけだった。

「ぶち殺してやる」

「鍛えてくれるんじゃないんですか」

「うるせえ」

「嘘つき」

 幸は入矢の腕を蹴り、束縛から逃れた。ただ、彼女は嘘つき呼ばわりされたことにショックを受けていたらしかった。

「殺すなんて、嘘だ」

「嘘なもんか」

 嘘だ。幸は続けた。

「あなたが……男鬼さんが誰かを鍛えようとするのは、自分と同じくらい強い人が欲しかったからじゃないですか」

 入矢は目を見開いた。

「自分が下がるのは嫌だって、だから誰か早くここまで来いって、そう思って」

「次に知った風なこと喋ったら、喋れなくしてやる」

 幸はじっと入矢を見つめて、ああ、と、得心したように息を漏らす。

「寂しかったんですか」

 入矢の髪の毛が逆立ったように見えた。彼女は何事かを口にしたが、それはもう声にならない。ただ絶叫し、幸を捕まえて押し倒そうとする。彼は抵抗した。お望み通りの、もみ合いの泥仕合にもつれ込んだ。しかし分が悪かった。勝ちの目など一分もなかった。強かに殴りつけられて気を失いかける。彼女の怒りは収まらなかった。

「ひ、ち、くそ、くそ、むつみちゃんが悪いんだぜ。こんな、こんな弱いのを甥っ子なんかにして、狩人にさせたんだから!」

 幸の目が何かを捉えた。暗がりの夜が終わろうとしていた。

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