表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
驢鳴犬吠めふFeverズ  作者: 竹内すくね
猿【鉈と】猴【刀と】取【貴女と】月
114/121

不案内な幽霊



「おお……クソでかいやん……」

 緊急時、学校などの施設は避難場所となる。そのうちの一つ、蘇幌学園の様子を見に来た古海は、うへえと顔をしかめた。正門付近には巨大なケモノの骸が転がっていた。丘鯨とも呼ばれるナメクジである。強烈な酸を放つケモノで、並の狩人なら束にならねば話にならない程度の力を持っている。

 丘鯨を仕留めたものの正体には察しがついている。古海はその人物のもとへと向かった。そいつはグラウンド近くのフェンスに体を預けて、ぼうっと空を見上げていた。幽鬼のような存在感しか持たないのは彼女の同僚、周世むつみである。

「何」と、むつみは古海を見ないまま言った。

「避難所の人ら、ドン引きでしょ」

「……何が」

「いや、あんなでかいの単騎でやれんの、メフじゃあんたくらいじゃない?」

「どの口が言うの」

 むつみは顔を動かして古海を見た。

「他の地区はどんな感じ?」

「んー、だいたい終わった。目立った裂け目んとこには暇そうな猟団張らせてるし、不幸中の幸いってやつ? 冬だから大猟団も地上に残ってたしね。《騎士団》が内回りから外回りまでケモノ潰してるんじゃない」

「そ。ならいいんだけど」

 この時期、ケモノが地上に現れるのは珍しい。それも町全体に溢れんばかりの数だ。前例がなかった。古海はそのことをむつみに尋ねた。

「お腹減って出てきたってわけじゃなさそうだったけどね」

「まーね」

 古海は、狩ってきたケモノを思い出す。大半のケモノは地上に出てきたはいいものの、走り回り、逃げるばかりだった。

「下でなんかあったのかな」

「怖いものに遭っちゃったとかね」

「何、それ」

「さあ」と、むつみは興味なさげに言う。

「さっきの話だけどさ」

 むつみはゆっくりと体を動かして古海に向き直った。

「丘鯨とか、人捻りとか、あんなのは私じゃなくても狩るやつは狩るよ。《百鬼夜行》の、まあ、上澄みの人たちならあれくらいはやるでしょ」

 古海は息を吐いた。だから『お前くらいだ』と言ったのだ。《百鬼夜行》の顛末はメフの狩人なら誰でも知っている。生き残りは周世むつみ、ただ一人きりのはずだ。

「充分バケモンでしょ。ま、確かに、《百鬼夜行》もバケモン揃いだったとは思うけどさ」

「どうだか。強いから大空洞に潜れたのか、潜れたから強くなったのか。どっちかな。どっちだと思う」

 知らん。古海は内心で答えた。



 二匹目の《子袋》が現れた。狩人たちはさらなる犠牲を覚悟した。その瞬間、ケモノが弾けた。鈍い音と共に《子袋》の皮肉が破裂した。この場にいた狩人のほとんどは何が起こったのか分からないでいた。

 肉の雨が地面を叩く。その只中にいるものを、幸は確かに見つけていた。人だ。パーカーのフードを深くかぶった何者かが、自分たちを見回しているのが分かった。ただ、その人物がいつからここにいて、どこからやってきたのかは判然としない。

 やがて、雨が止む。フードの人物は大柄だった。甲功刀の父親もレスラーのような体型をしていたが、彼に匹敵するほどの体つきである。実際、丈が合っていないのか、めくれた服の裾からは割れた腹筋が見えていた。やや浅黒い肌色ということもあって、艶めかしくもあった。

 大柄な何者かがフードを外すと、幸はぎょっとする。女だった。短い髪に鋭い瞳。女は無遠慮な視線をところどころに向けた後、口を開いた。

「お前ら、狩人をやめちまえ」

 女の告げたことを飲み込み、理解するのに多くの狩人がある程度の時間を要した。

「遅いって。何の反応もなしかよ、つまらねえな。ンな体たらくだから豚一匹にてこずるんだろうが」

「あァ? つーか、こいつ何なんだよ? いきなし出てきて何言ってんだ?」

「お。お前からな」

 口を開いた狩人が硬直する。大柄な女は嬉しそうに歯を剥き出しにしていた。

「試してやるから、来な」

「なんだ。こいつ」

「来な。……来ないのか?」

 女の姿がかき消えた。土煙が上がり、彼女に食って掛かった狩人の男がどこか遠くへと転がっていく。再び姿を見せた女は、片足を上げたままで腕を組んでいた。

 男は蹴られたのだ。誰の目にも止まらぬ速度で。

 罵声が二つ、三つ。蹴られた男の仲間であろう狩人たちが前のめりになりながら女へ向かう。その手には鉈が握られていた。足を上げたまま迎え撃つ彼女は、一斉に振り下ろされた凶器を蹴飛ばし、払い、奪い取って遠くへ投げ捨てた。目を丸くする暇も、声を上げる時間もない。先と同じく狩人たちは地面を転がった。

「失格失格ぅ、ハンパな真似しやがって。向いてねえぞ狩人にはよ」

《子袋》を一撃で屠ったのは間違いなくこの女だ。べらぼうに強く、でたらめに近い。幸はそう認識した。彼の肩にいる鬼無里もまた察していた。

「あのマッシヴな女は、恐らく二匹目の《子袋》と同じ場所から現れた」

「それって」

「地下だ。大空洞に違いない。思えば、ケモノたちもどこか不自然だった。今日確認したケモノの多くは何かから逃げていたようなフシがある」

「つまり……」

「可能性に過ぎないし、考えるのもばかばかしいんだが……ケモノは、あの女から逃げていたんじゃあないか?」

 まさか。よもや。推測し、合点がいったのは幸だけではない。前例のない冬季のケモノの出現。その原因、きっかけらしきものが自分たちの前にいる。

 女は告げた。

「どーーすんだよザコ狩人どもがよーー。言っとくけど逃げても見逃さねえぞ。いいか」

 女は親指で地面を指し示す。

「よええやつが大空洞に潜る資格なんかなあ、どこにも存在しねえんだ」

 だからかかってこい。女はそう言って、落ちていた鉈を拾い上げた。



 女が得物を拾ったと同時、威勢のいい狩人が仕掛けた。大義名分はある。彼女が何者なのか知る由もないが、狩人に手を上げたのだ。そして鉈まで握っている。《子袋》をたったの一撃で仕留めた女だ。ケモノに近しい存在も同然である。花粉症かどうか、果たして人間かどうかすらも確かめようはないが、言い訳が通じる相手でもなかった。

 大柄な女に仕掛けた狩人は、常ならソロで動いている男だ。特定の団には属さず、《猟会》の連中とつるんでいることが多い。

 ソロで動く狩人は二種類に大別される。コミュニケーション能力に難のあるもの。単独でもやっていける秀でたもの。男は後者であった。少なくとも本人はそう思っていた。今日ここに来て一番の鋭い振り。ケモノとの戦いで疲労こそ残っていたが、繰り出す一撃、足さばきからして絶好調の領域にあった。女はそれを呆気なく片手で防ぎ、男を見ないまま裏拳を放った。腹部に激突した衝撃で男の意識が刈り取られる。

 矢玉も花粉症の連射も女には届かない。飛び道具を持つものは優先的に狙われて関節技を極められていた。誰かの骨が折れる音を聞きながら、深山は女に仕掛けていた。異能から生まれた水の槍。女は、

「馬鹿な」

 地面を強く踏みつけ、その風圧で水を散らした。形を保てなくなったそれごと、深山の体が宙に浮く。かつては《騎士団》の狩人だった男だ。油断したつもりはなかったが、ガードの上から強かに殴りつけられて白目を剥きかける。少しの間、夢を見た。頭の中をかき回されるような状態の中、呻きながらも反撃を試みる。歪む視界の中、笑う女が見えた。倒れたところを踏みつけられ、見下ろされる。

「ちったあやりそうだけど花粉症の使い方がなってねえよ。出直せ」

「がっ……!?」

 次はどいつだ。そう言わんばかりに女は寄ってくるものたちを睥睨する。迫る鉈を拳で弾き、空手で挑む者には空手で応えた。得物を振られれば拾った得物を使い、真っ向から障害を打ち破る。力が強く、動きが素早い。しかし猪突猛進というわけではない。時には鉈をブラインドに使って足を払うなど、虚実を交えながら、押し迫る狩人たちをいなしていた。

 一人、また一人と倒れていく。他の狩人のフォローに回っていた古川も前線に引っ張り出されていた。彼は複数の得物を使い分け、搦め手で女を止めようとしたが一つも上手くいかなかった。全て見破られていた。知らずのうち、彼は冷や汗をかいていた。花粉症が使えなくとも戦いに関しては鼻が利く。そんな《狂犬》であっても、これは無理だと悟った。

「言い訳ってわけじゃあないんですがね」

 戦いの最中、古川は親しげに話しかけた。女は応じなかったが聞く耳は持っていたらしい。

「あんた、さっきからごちゃごちゃ言ってますがね。こっちゃあブタだの騙し猫だの、メフ中のケモノとやり合ってからここに来てんだ」

 女はぴくりと眉を吊り上げる。

「万全じゃねえもんボコして偉そうに語るのは、いや、見てるもんからすりゃあ器がちいせえなあ」

「あのよーー」

 女は頭に手を遣り、鬱陶しそうに古川をねめつけた。

「大空洞でも同じこと吐けるか? ケモノ相手にいちゃもんつけんのかって話だよ」

「は。そりゃあごもっとも」

「見込みはあるかもだが、臆病過ぎると食われるぞ」

 女が踏み込む。そのスピードを捕らえることは、古川にはできなかった。

「ほうら、こんな風にがぶっとな!」

 腹に一発。昼に食ったものが中空に吹き飛ぶ。古川の顔が上がって、四肢に打撃を叩き込まれた。



 恐れイリヤだ。

 幸の近くにいた狩人がぽつりと呟く。その言葉の意味を尋ねることはできなかった。女に殴られ、どこかへ行ってしまったからだ。

「幸殿」

《驢鳴犬吠》も、今や残っているのは幸と浜路の二人だけだった。彼女はいつになく険しい顔つきで竹刀を握っている。

「最悪の場合、お一人だけで」

「逃げません」

「いけませんよ、幸殿。あなたがここに残る意味はありませんし、残っていても邪魔になるだけです」

 浜路ははっきりとそう言った。

「嫌です」

「そう言うと思っていました。……あの女。あれはただの猪武者というわけではないようです」

 幸は小さく頷く。

「雑で大味にも見えますが、あれは恐ろしいことに相手に合わせて戦っています。四方を囲まれてもなお、そのやり方を変えてはいません。鉈は当然。徒手空拳も、ちょっと、見たことがないレベルです。恐らく、弓も刀も、何でも使うでしょうね」

「なんで、そんな風に戦ってるんでしょうか」

「『試す』だとか言っていました。何様か知りませんが、我々をテストしているつもりなのでしょう。しかし、あまりにも暴虐が過ぎる」

 見過ごせません。言って、浜路は女へ向かった。

 二人の打ち合いは先までの狩人たちとは違う。幸は動けなかった。割って入ることなど考えられなかった。女は声をあげて笑っている。嬉しそうで、楽しそうだった。ただ、それもすぐに終わる。女の膂力や速度は並外れていた。それだけでなく、彼女の振るう鉈や足運びからは確かな技術が見て取れた。何かしらの武術を修めたものの動きだ。それは浜路よりも優れているように思えて、幸は立ち尽くす。

 浜路が幸を一瞥した。申し訳なさそうにして、彼女の体が沈んでいく。負けたのだ。犬伏浜路が一対一での戦いに負けた。幸はそれをぼうっと見るしかできなかった。女が迫っているのにも関わらず、彼は何もできない。気力がわかなかった。

「動け八街ァ!」

 女の横合いからぶつかってきたのは甲功刀であった。彼は他の狩人と共に鉈を振るう。そうして、幸に対して檄を飛ばした。

「動かなきゃ狩人でも男でもっ、なんでもなくなるぞ!」

 声はする。しかしどこか遠くから。

 戦いは見える。しかし距離感が掴めない。

 土塊がめくれ上がって壁となる。何者かの異能だろう。壁となった土が大柄な女を取り囲んでいる。幸は誰かに肩を揺さぶられた。ふと視線を向けると、怒ったような、真剣な顔つきの吉乃が幸を見据えていた。土塊の壁が壊されて、功刀や彼の父親が大柄な女に殴られ、蹴られようとも、彼女は幸から視線を外さなかった。



 一つ、一つ。

 少しずつ。ゆっくりと。

 一日を。一週間を。一か月を。一年を。

 八街幸は八街幸を形成するため、多くのものを積み上げて、積み重ねてきた。そうするのが好きだったし、当たり前だと思っていた。上手くいかない日もあった。逃げ出したくなる日もあった。それでも三六五日を十回以上繰り返して、積み重ねたものは病一つで消し飛んだ。何者にもなれないまま、何もかもを失った気分だった。自分は一度死んだのだ。幸はそう思っていた。今は違う。違ったはずだ。ここでまた積み重ねた。一つ、一つ。少しずつ、ゆっくりと。この街でも今までと同じようにしてきたはずだ。結実したものが《驢鳴犬吠》だったのかもしれない。それがたった一つの暴力によって崩れ去った。全て奪われてしまった。

 悪い夢を見ているのだろう。幸はそのように自身を納得させた。

 大切に積み上げたものを薙ぎ倒されて何もかもを否定された気分だった。幸は笑った。彼は悲しい時、辛い時にそうしようと決めていたからだ。

 鉈を握る。まだ力は残っていた。

「……八街くん?」

 不思議そうにする吉乃には答えず、幸は標的を見定めた。心なら、とうに折れて、ひしゃげて、粉々になっていた。この街に来る前からそうだった。自分はもう、この感情を知っている。だから平気だ。また積み重ねる。また積み上げる。

 長く吐き出した息が刀身を曇らせた。標的はただ一人立っている。既に功刀も彼の父親も他の狩人も地に伏していた。

 悪い夢なんだ。これは。夢で幻だ。幸は自らに言い聞かせる。夢はいつか覚めるものなのだと。



《騎士団》の入之波吉乃は仲間と共に撤退の準備を始めていた。最初からそのつもりだった。大柄な女の出現はともかく、ケモノどもと戦い、傷ついたものを救うのは当然のことであり、彼女が前線に立つのを梅田金吉は酷く嫌った。

 入之波部隊が支援に回るのは最初から決められていたことだった。メンバーに指示を飛ばしていた吉乃は、その戦いを遠くから眺めていた。

 戦っているのは二人だ。もう二人しか残っていない。今もなお戦い続けているのは幸と正体不明の女だ。打ち合いは長く続き、互いが手を抜いているような様子は見受けられない。冗談のような光景だった。

 当初、吉乃は功刀と共に幸を助けようとしていた。自分たちが伍区に到着した時、幸は呆然と突っ立っているだけで戦う意志どころか一歩歩くことさえ困難な精神状態に追い込まれていたはずだ。だから『幸を助けよう』という、その選択に間違いはない。先まではそう思っていた。今は違う。ほとんどの狩人が大柄な女に倒されていく中で、幸だけが残った。運やまぐれと一言では済ませられなかった。

 幸がどうやって、どのように生き延びているのかが吉乃には分からなかった。分かるのは、今の彼には自分たちの助けなど必要なく、むしろ邪魔なだけ、ということだけだ。ただ、戦いも長くは続かないだろう。幸が時間を稼いでいるうちに、もっと多くのものを、できるだけ遠くへ運ばねばならなかった。



 ああ。くそ。

 幸は内心で毒づいた。

「ああーー、くそ。やっとかよ。おら。お前で最後だ。頑張った方だぜ」

 幸は女に捕まっていた。武器を奪われ、首根っこを鷲掴みにされている。《子袋》を一撃で仕留める怪力の持ち主である。彼女が少しでも力を込めれば、人間の体など容易くちぎってしまうだろう。生殺与奪を握られている。その相手を幸はねめつけていた。

「……目だきゃあ一丁前じゃねえかよ」

 女は不敵に笑んでから、ふと、訝しげに幸を見つめた。

「お前、なんだ? 見たことあるぞ」

 誰だ、お前。問われても幸は答えられなかった。首を絞められていて声を出せなかったこともあるが、目の前の女とまともなコミュニケーションを取ろうとしていなかった。

「誰だって聞いてんだ」

 女はややあってから力を緩めた。幸はえずくようにして咳込んだ。それが収まってから、彼は涙目で女を見上げた。

「やちまた、さち」

「知らねえ」

「《驢鳴犬吠》の、団長」

「知らねえ。ザコばっかのザコ団なんかどうだっていいんだよ」

 ふ、と、幸が口元を緩めた。

「元《百鬼夜行》と言うと分かりやすいですか」

 女の眉がぴくりと動く。

「今なんつった」

 再び幸は首を絞められた。

「なんつったって言ってんだ」

 女は明らかに激怒している。幸はじっと彼女を睨みつける。

「《百鬼夜行》は私らんだ! お前みたいな、訳の分からねえのなんかが軽々しく口にすんじゃねえ」

 首を絞められながらも幸は笑っていた。どうにかこうにか苦心し、笑みを作ろうとしているに過ぎなかったが、それが女をさらに苛立たせた。

「お前なんかが……!」

「……もら……っ、た」

「あ?」

 女は幸の口元に耳を近づけた。警戒していないのか、あるいはその余裕すらないのか。

「もらったん、です」

「《百鬼夜行》を? ふざけんな。誰に」

 女は、幸の目に光輝が宿ったのを見逃した。

「周世むつみ」

「ふざけんな」

「その人から、もらったんです」

 幸は叔母の名を口にするべきかどうか迷ったが、言ってよかったと知った。先まで余裕綽々で、巨大なケモノや大勢の狩人が相手でも巌のようにびくともしなかった女の目が揺れた。やがて彼女はぐいと顔を近づけた。互いの額がぶつかって、幸の目の奥に火花が散る。

 女の顔つきは自信に満ち溢れていて、獰猛だった。他者を弱いと切って捨てることのできる強者特有の傲慢さが見え隠れする。実際、彼女は強かった。並み居る狩人を一顧だにせず蹴散らした。太い四肢ははち切れんばかりで、しかして全くの無駄がない。こと戦いに関して、女は人間という種の中で一つの到達点に達している。

「もらった? もらったって、ええ……?」

 女は何度も独り言ち、破顔する。

「なるほどな。分かったぜ。お前、あの人のガキか。そうだろ。は。何だそれ。男作って子どもなんかこさえやがった」

「違い、ます。むつみさんはぼくの叔母にあたります」

「おば」

 女は目を瞬かせた。

「ってことは……お前は」

「甥です」

「おお、甥っ子か。おもしれえ、私が鍛えてやる」

「いりません、そんなの」

 幸は腕を振った。女はその動作を全く無視していたが、彼の手に得物が握られているのを目の端で捉えて驚愕する。ただ、驚きは一瞬間だけ。彼女はすぐに事態を飲み込んだ。刃は女の髪の毛へ届くか届かないかの瀬戸際で取り上げられた。女は奪ったものを地面に叩きつける。

「あぶねえな。花粉症なんか使いやがって。いい根性してやがる。褒めねえけどな」

「別にいいです」

「はっは、そっかそっか」

 ぐ、と、幸の息がつまった。

 女は幸だけでなく、周りにいるものに対して何事かを喚いていた。

「いいか、見逃さねえぞ! 大空洞に潜れるのは強いやつだけだ! 弱いやつが能天気に入ってくんじゃねえ。よええやつぁ何の資格もないんだからよ、狩人をやってく意味なんかねえんだ。とっとと違う仕事を見つけて失せろ」

 春までだ。女は告げた。

 春になるまで自分はここにいると。

男鬼入矢おおり いりや! メリステムのイリヤだ! 忘れんなよ、お前らを廃業にしてやる女の名だよ」

 幸は、気を失いながらも、女が発した『鍛える』という言葉に違和を感じていた。《子袋》を一撃で仕留めた力があるなら、自分たちなどもっと容易く殺せたはずではないのか。彼女は手加減していたのか。何のために。カエルの声を聴きながら、やがて彼の意識は真っ暗の中に溶けていった。



 先まで伍区の田畑は狩人とケモノで溢れかえっていた。今はもういない。生きているものは一人も。骸を曝し転がっているだけだ。ここにいるのは火を熾し、ケモノの肉を食む大柄な女――――男鬼入矢と名乗ったものだけだ。

 入矢は、流石にパーカーだけでは寒かったのだろうか、死んだ狩人から衣服や装備をはぎ取っていた。彼女は自分のまわりの地面に様々な武器を突き立てて並べている。その真ん中に鎮座し、《子袋》の肉に食らいついていた。彼女は鼻歌交じりで腹を摩る。ご機嫌らしかった。

「なんだ。お前」

 被りつこうとしていた骨を投げ捨てると、入矢は顔だけを動かした。ふ、と、影が揺れた。先まで誰もそこにいなかったはずの空間に、女が一人。彼女は足音もなく、入矢に向けて足を踏み出す。

「奇遇ですね」

 聞こえてきたのは儚げな声であった。

「あ?」

「強者を欲している。そのようにお見受けします」

 ひっつめ髪の女だ。格好はラフで、冬だというのに突っかけを履いている。どこにでもいそうな風体と相貌だが、彼女は抜き身の刀を手にしていた。

 入矢は髪の毛をかき回しながら立ち上がる。

「昼から妙な視線は感じてたけどよ。お前が、『そう』なのか?」

 女は無言で刀を突きつけた。入矢は大儀そうにしながら首の骨を鳴らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 昼からって事は大空洞から一緒に来た人なのか
[気になる点] も、元百鬼夜行?というか花粉症なんか使いやがってって言うってことはこの人まさか無能力者? そしてついに登場したメリステム、先が気になるところです
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ