子袋
血が上がる。血が香る。風に乗って運ばれるのはケモノの叫びだ。
鉈を振るたび血が上がる。肉を食い破れば血が香る。狩人の男は慄いた。まるで悪夢だ。亀裂から、路地裏から、人家から、無尽蔵に湧くケモノ。それら全てを一体も漏らさず、一片の余地もなく狩り続けねばならない。殺すためではない。生きるためだ。ケモノに好き勝手されてはたまらない。メフの外に逃げられることなどもってのほかだ。メフの住人は病人であり囚人だ。その一方で番人としての側面も持っている。狩人として暴力を許可されているのは番人として認められているからだ。
「そっちに行ったぞ!」
住宅街の中、縦横無尽に駆けるのは犬のような形をしたケモノだ。似てはいても同じではない。扶桑熱に罹るのは人だけではなくそれ以外の生物もだ。そうしたものは違う生物なのだと認識せねばならない。
電柱を蹴り、飛びかからんとするケモノの腹を鉈で裂く。生死の確認をする余裕はない。クマのような、大型のケモノが四足で突進してくるのが視界の端に映った。人馬の少女がクロスボウを連射する。クマのケモノの動きは鈍らない。なおも横合いから、狩人たちが斬りかかる。止まらない。下がれという声が聞こえた。狩人の男はケモノから距離を取る。そして見た。人家の屋根から、巫女服を着た女たちが矢を射かけるのを。痛苦に耐えかねて立ち上がったケモノに、四方から狩人たちが鉈を振るった。絶命はすぐだった。
狩人の男は少なからず驚いた。三野山を根城とする《十帖機関》まで出てきたという事実は、やはりこれが異常事態なのだと知らしめている。
周辺のケモノを一掃した狩人たちは、誰から呼びかけるでもなく、次の狩り場へと向かった。サイレンが鳴り続けている。スピーカーからは音割れした放送が。吐く息は白い。わざわざ確認するまでもなく、今は冬だ。寒く冷たい、静止の時期だ。だが、ケモノどもは地上に溢れ、街中を闊歩している。冗談ではない。この時期、ケモノの多くは冬眠している。地上に出てくるものは少ない。それでもなお現れるケモノは凶悪だ。例外なく興奮している。眠りを妨げられたか、腹を空かせすぎたか、あるいはほかの理由か。なんであれ今のケモノどもは他の季節に現れるものより手が付けられない。それが十や百ではきかない数で群れを成している。しかし狩らなければならない。妥協はない。交渉もできない。つまるところ全滅戦だ。人かケモノか、どちらかが最後の一になるまで、この戦いは終わらない。
冬季、大空洞のケモノが地上に進出する。珍しくはないがその数が膨大ならば話は別だ。前例のないことで、狩人たちは震えに震えた。市役所は大わらわで対応に追われた。ケモノの討伐だけではない。一般市民の誘導や避難場所の確保も優先される。何の躊躇も余裕もなく、手当たり次第に援軍を要請した。不幸中の幸いだったのはメフ中の狩人が冬ということで地上にいた点である。ろくな仕事もなく困窮していたものは一も二もなく鉈を手にした。総力戦である。噴出した水の如く押し寄せるケモノ、その悉くを仕留める必要がある。この街の威信にかけて、この街で暮らすもののために、手に手を取っての戦いだ。
先陣を切ったのは《騎士団》の一部隊であった。冬であっても《騎士団》の一部は大空洞に潜っている。並外れた数と金に飽かせた強引な手法のおかげだ。だが、大多数の部隊は冬を待たず地上へ帰還する。先陣を切ったのもそういった類の部隊であった。《固い切っ先》とも称される部隊は、花丸美樹という男が指揮している。花丸は熟練の狩人であり、苛烈な戦いぶりで名を馳せた一廉の男だ。彼らは自分たちの居住する区域内のケモノを瞬く間に一掃し、より多く、より強いケモノのいる場所を目指した。他の《騎士団》の部隊も《固い切っ先》に続いた。
《画竜点睛》や《山茶花ライオット》といった、《騎士団》に次ぐ大猟団もケモノをよく殺した。しかしそれだけでは足りない。全く手が足りていない。ケモノは狩人と戦うことを目的としていないからだ。ケモノの多くは頭が回る。真正面から向かっていくものもいるが、隠れ潜み逃げ回り、武器を持っていない弱者を狙う。大人数で動いている猟団では手に負えない連中もいる。その穴を埋めるような形で動くのが市役所の狩人であったり、少人数で行動するものたちだ。
単独で行動する狩人たちを取りまとめるのは《猟会》や三野山の《十帖機関》である。彼らは他の狩人集団とは一線を画した存在だ。特に山の巫女たちは周辺の事柄以外に興味を示さず、動かないのが常だ。
「なんで? みんなで協力すればいいのに」
しかし豊玉天満の一言で習わしは廃れた。
「天満ちゃんがああ言ってるんだから、やるわよ!」
《十帖機関》はまず、神社に逗留している狩人たちを引き連れ、地上のケモノに呼応したであろう山のケモノを一掃した。次いで下山し、がらがら通りの職人たちを助けながらケモノを狩った。がらがら通りは狩人の得物に関わる人材が揃っている。職人たちは助けられたこともあって気前よく武器を貸し出した。自らで武器を取り、ケモノを狩る豪胆なものもいた。
巫女たちを指揮するのは月輪織星とジョーと呼ばれる女である。《十帖機関》は人を二つに分け、ケモノを追うようにして人の多い場所へと向かった。
「矢面に立たないで、他の狩人を援護する形で!」
《十帖機関》に属する狩人の主武器は弓である。遠間から射かけるので真っ向勝負では分が悪い。他の狩人との連係が鍵だった。
「あんただけは別だけどね」
「早く出しゃばりなよ、ゲーム廃人」
「こういうのいつもやってるでしょ、ゲームで」
からかわれるのは織星である。彼女だけは他の巫女とは扱いが別だった。何せ弓が下手くそなので援護どころか誤射になりかねない。そのため織星は誰よりも早く誰よりも前へケモノと戦わざるを得ない。
「……くそっ、どうしてこう、どうして、もう……!」
ぶつぶつと何事か呟きながら、織星はケモノに向かっていった。
「行った!」
「織星が行った!」
「やっちゃえ!」
大型のケモノと至近距離でやり合えるのは彼女くらいのものだった。
ケモノとの戦いの際、メフの警察は矢面に立たない。彼らは市民の誘導などを担当するのが主である。ただ、こういった機に乗ずる犯罪者もおり、警察はそこまで人を割けなかった。ただし《花屋》だけは別である。
「なあ相棒」
「なんだよ」
「こういう時だけはここに来てよかったって思うよな」
「どういう時だよ」
律儀に聞き返しつつ、《花屋》の狼森は階段を下りた。彼の後ろをとぼとぼと歩いている鍵玉屏風は、悲しそうにしていた。
「動物って冬眠するよな。なんでか知ってるか」
「知らねえ。眠いからじゃねえの」
「じいちゃんが言ってた。『腹が減るから寝るんだ』って。でもそれって餓死寸前なだけじゃねえか? あとさあとさ、オレ、お腹いっぱいでも眠くなるんだけど……これも冬眠かな? だったらじいちゃんは稀代の大嘘つきってことになっちまう」
「食ったら眠くなるのは食い過ぎだろ。昼に甘いものばっかばかばか食ってるから……お前食い過ぎなんだよ。虫歯のくせに。あと太ったよな」
太ったという言葉に反応してか、珍しく屏風が黙り込んだ。こりゃいいやと狼森が内心で喜ぶも、彼女が弾を込め始めたのを見て肝が冷えた。
「おい、まだ撃つんじゃねえぞ。お前の相手は外にいんだからな」
「そうだな。もじゃもじゃ頭の人みてーなケモノがオレの敵だ」
「まさか、気にしてたのか?」
屏風はパーカーのポケットに両手を突っ込み、ジャンプした。狼森より先んじて踊り場に着地し、歯を見せて笑った。
「腹が減ってるから生き物は冬眠すんだよな。エサに困るから寝るんだ。困ったら寝るのはいいよな。オレもそうする。いやなことがあったら寝て忘れんだ。じゃあさじゃあさ、飼われてる生き物は寝るのかな? おいボンクラ、てめーはどう思うんだよ」
「ボンクラて……やっぱ気にしてんじゃねえか」
「エサがあったら寝なくて済むんだ。だからペットのクマも動物園のクマも冬眠なんかしねえ。エサがあっからな。甘いものがありゃあ、そりゃ食うよな。虫歯でもなんでもさ。飽食の時代って言われてるくらいだ。時代が悪いんだよな、時代が」
「お前のだらしなさを時代のせいにすんなよ」
「おせえぞ《花屋》ァ!」
同僚が外で狼森たちを呼んでいた。緊急車両の上にはケモノが鎮座しており、ぐるぐると喉を鳴らしていた。それだけでなく、大小種類を問わず、ケモノどもが警官たちを取り囲もうとしていた。
出番だぞ。狼森が小突くと、屏風はポケットから手を取り出した。二丁の、びかびかにデコレーションされた拳銃。それを掲げるようにした屏風はげらげらと笑った。
「知ってるかケモノども! オレのじいちゃんがなー!」
銃口が火を噴いた。二丁拳銃から飛び出した銃丸はケモノではなくあらぬ方へと飛び去ったが、屏風の目が光輝を帯びるや、意志を持っているかのように静止し、回転し、舞い戻ってきた。それが何度もケモノの肉を食い破った。叫び声と共にケモノどもが動こうとするが遅かった。既に屏風は何発もの弾を放っており、今も乱射を続けている。弾丸は肉から肉へ羽虫のように飛び交う。事情をよく知らない警官たちは姿勢を低くしてやめろだのなんだの叫ぶ。狼森が咥えたたばこや彼のもじゃっとした髪の毛の一部が、屏風の放った弾丸によって「何しやがんだ」削られた。彼女は祖父から聞かされた美味しい肉の焼き方やミンチとメンチの違いや小指をタンスにぶつけた時の対処法などをずっとまくし立てていた。その話が終わる頃には生きているケモノはいなくなり、散乱した肉が警官たちに降りかかっていた。
「悪夢だ」
署から出発する車両は、こびりついた肉片を取り除くべくワイパーを動かしながら出ていった。
地上にケモノが現れた際、主な避難場所となるのは学校などの大きな施設である。狩人ではない一般市民はケモノに対して無力だが無能ではない。この街に来たばかりのものならともかく、ここで生まれ育ったものはケモノに対して敏感であり、避難するのに慣れている。市役所主導で訓練も多く行われており、お手の物というやつだった。
避難場所を守るのは市役所の狩人であったり、名うての狩人や大きな猟団だ。大勢の一般市民を守るためには強力なものでなければ難しい。他人を、それも多数を守るには並の戦力では困難だ。
メフで学校が避難場所に選ばれる理由にはいくつかあるが、そのうちの一つが教師や学校関係者にある。異能を有するものがいるので有事の際は生徒やその家族を守るために力を振るう。もちろん狩人ではない非戦闘員であるが、最低限のことは可能だ。稀に最低限以上のことをやってのけるものもいるが。
この日、メフの全区域にケモノが出現した。大空洞から地上へと、雪崩れ込むようにしてやってきた彼らは、地上にいる全ての狩人が一日かけても討伐出来ないほどの数でもって暴れ回った。だが、それでも一端の狩人はこの状況を問題なく処理しきれるだろうとも考えていた。もちろん犠牲者は出るだろう。負傷者が出るのも仕方がない。ただ、ケモノは数こそ多いが徒党を組んで組織的に動いているわけではない。冬眠から叩き起こされてパニックに陥っているのがほとんどである。時間をかければどうにかなると、そう考えていた。
一部の狩人はそのように考えていなかった。前例のないケモノの大進撃。これを引き起こした何かがあると考えるものがいた。なぜケモノたちが冬眠から目覚めたのか。大空洞で何が起こったのか。あるいは、誰がこの状況を引き起こしたのか。
変化が訪れたのは秋に大発生した《宿借り》と呼ばれるケモノからではないか。あれが人に寄生し、大空洞で人に害を為すようなことは過去になかった。今回の件が意図的に起こされたものならば――――些事だ。今はただ、誰も彼もがケモノを狩ることに邁進する。思惟に耽るのはそれからだ。




