恋に恋して
「なんか、悪かったな、八街」
気にしていないと幸は言った。蘭屋敷の中庭で、彼は功刀や吉乃と飲み物を片手に池の鯉を眺めていた。
功刀は幸を妙なことに巻き込んでしまったと後悔しているらしかったが、幸は本当に気にしていなかった。
「しかしなんつーか、わけわかんねー話だったな。結局、吉乃が捜してた定町って子は何だったんだ?」
八雲京との関係において、定町美也子が主導権を握っていたのは間違いのないところだろう。だがそれだけで一方的な関係だったと断ずることもできない。幸はそう感じていた。
美也子が斬られたあの時、京は確かに悲しんでいた。彼女を殺してやりたいほど憎んでもいただろう。だが愛してもいたのだ。恐らくは。
「訳分からないってことはないよ」
「ん?」
池を見つめていた吉乃がぽつりと呟く。
「恋だよ」
功刀は池の中を泳いでいるものを訝しげに見ていたが、吉乃が違うと短く切って捨てた。
「好きだったんだよ。定町さんは好きな人ができて、自分のものにしたかったんだって話。結末としては変な風に曲がっちゃったけど、普通に恋愛してれば、案外、普通に上手くいってたのかもしれない」
「でも、八雲って人は結婚してたんだろ。浮気じゃねえか」
「……だ、だとしても」
「人様のものを欲しがって、実際取ろうとしたんならただの泥棒じゃねえか。なあ?」
功刀は幸に同意を求めるも、吉乃が思い切りねめつけてきたので首を縦には振れない幸だった。
「いいの、そういうのでも! それならそれで決着がついてたんだろうし、次の恋が見つかってたかもしれないんだし」
「かーっ、女ってそういうの好きな」
「功刀くんには分かんないんだろうな。彼女なんていたことないし」
「お前だって男できたためしねえだろ」
睨み合う二人。幸は鯉に餌をやっていた。
「もう、八街くんはどうなの?」
「えっ、ぼくが何?」
急に矛先を向けられたので幸は狼狽する。
「恋したことあるの、恋。ほら、メフに来る前とか」
「あるよ」と幸は言って、体を伸ばした。
「メフに来てすぐ、好きな人ができた」
おお、と、吉乃は聞いておいて赤面していた。
「どうなの、実ったの? どうなったの?」
「失恋しちゃった」
「そうなんだ……色々聞きたかったのに」
ごめんねと幸は苦笑した。
「入之波さんこそどうなの? 好きな人いないの? あ、功刀くんは? 功刀くんとは付き合わないの?」
「おまえな……」
吉乃は露骨に嫌そうな顔をした。そして身振り手振りで『無理無理』と示した。
「ケモノと付き合う方がマシかも」
「俺だってヤだよ。もっとおっぱいでっかい姉ちゃんがいい。お前みたいなガキなんか、こっちから願い下げだ」
「聞いた? ねえ八街くん聞いた? 酷いよね、そんなことばっかり言うんだよ」
「八街巻き込んでんじゃねえよ」
「功刀くんには関係ありませーん。ねえねえ、八街くん。どっか行こうよ、こいつほっといてさ。二人で……あっ、でもそれってデートになるのかな……どうしよう、ちょっと意識しちゃうかも」
「いけません!」
「うわっ!?」
どこから話を聞いていたのか、ぬっと顔を表したのは梅田である。彼は吉乃をかばうようにして立った。
「よろしいですか。お嬢様のお相手は入之波に相応しい……」
「おじさま」
「はい?」
「うるさいおじさまは嫌いです」
「お嬢様ァ!?」
《花盗人》は絶対ではない。幸はそのことに気がついていた。八雲家のリビングで摩耶から得物を奪おうとしたが、彼女の心は見えなかった。《花盗人》が彼女を見ることを拒んだ。そのような気がしてならなかった。
月吠摩耶の心に入り込めたとしても、覗き込めたとしても、何も見えなかっただろうと幸は想像する。
『幼少のみぎり、私はあの女と打ち合ったことがあります』
あの後、浜路は言っていた。
『犬伏、足咬、月吠、八雲。四家で行われる合同での練習があったのです。その時、私は月吠摩耶と相対しました。一本を取ったのは私でしたが、子どもながらに父よりも恐ろしい剣があると震えたものです。結局、二度とは打ち合いませんでした。私が拒んだのもあります。……怖かったのです。負けることが怖かったのでも、月吠摩耶の技量や迫力に怖じたわけでもありません。あれと剣を混じえていると、まるで一つになってしまいそうで、あれと分かり合える自分の存在を感じるのが怖かったのです』
月吠摩耶はまだ見つかっていない。だが、早晩自分たちのもとに姿を見せるのは間違いなさそうだった。幸はそのことを半ば確信していた。
「叔母さんには怖いものってありますか」
家に帰るなり、幸はむつみにそう尋ねた。彼女はぐでんとした様子でリビングの椅子に腰かけていたが、面倒くさそうに彼の方へと頭を動かしていく。そうして、へらりと笑った。
「怖いものは、甘いもの。まんじゅうでもチョコレートでもなんでもいいからね」
「買ってきませんからね」
「ええー、怖いなあ。少年の反抗期が怖い怖い」
「よく分かりました」
この叔母には怖いものなど何もないのだ。幸は上着を椅子に掛けて、そこに腰を落ち着かせた。
「……狩人って、ケモノが相手じゃないと鉈を抜けないじゃないですか」
「そういうものだからね」
「でも、危ない人が相手でも抜いたらいけないんですよね」
「花粉症さえ使わなければ、どんな人だってただの人だからね。そういうのは警察の仕事かな」
「じゃあ、もし怖い人がいたら、狩人はどうすればいいんですか」
むつみは眉根を寄せる。
「君。また何か面倒なことに首を突っ込んだな」
「そういうわけじゃないんですけど、気になって」
「どうだか。……素手で取り押さえられるんなら、そうしてもいい。うまく丸め込めるんならそうしてもいい。でも、そういう時はいの一番に逃げの手を打ちなよ」
「叔母さんもそうするんですか?」
「そうしてきたから、私は今こうやって君と話せているわけ」
お分かり? むつみは言い聞かせるようにして幸を見た。
「蘭屋敷の爺さま連中もそう言ってたでしょ?」
幸は一瞬、硬直した。《猟会》に顔を出している、ということはまだむつみには言っていないはずだ。
「ん? どしたん、さちくん。まるで隠し事がバレた、みたいな顔をしてるけど」
「そんな顔、してますか」
「私好みの顔だなあ」
「叔母さんの目はメフのどこにでもあるんですね」
「最近増やしたからね」
冗談には聞こえなかった。
「それでも目の届かない場所へするりと行くのが君なんだけど」
「そんなつもりはないんですけど」
「ま、《猟会》の爺さまたちは特に害がないし、新米狩人らしく横のつながりも作っておくように。いざという時、頼れるからね」
幸の脳裏に、昼日中から酒をかっくらう蘭たちが過った。彼らに頼るのは最後の最後のどうしようもなくなった時だろうと、なんとなく思った。
月吠家には代々伝わる刀が存在する。名は鬼洗い。秘中の品であり、余人の目に触れることもそうはない。
その鬼洗いが今、抜き身で晒されていた。数多の血を吸い、鈍く輝いていた。
「貴様……今頃になって、なぜ……」
問いは暗がりに掻き消える。月吠の家中がしんと静まり返った。骸の前から足音もなく遠ざかったのは摩耶である。彼女は鬼洗いをその手に携えていた。
摩耶は心底から哀しかった。もう自分を楽しませられるのはこの街にほとんどいない。思い出すのは犬伏浜路のことばかりだ。だが、足りない。今の自分では彼女に礼を失してしまう。もっと強く。もっと鋭く。あの頃の感覚を取り戻す必要がある。そのためには、もっと斬らねばならぬ。
月吠家の中庭に降りた摩耶は空を見た。月を見上げた。忸怩たる思いで。あれこそが、我らの宿痾であり、根幹をなすものである。及ばぬものが、月に向かって吠えるのだ。手の届かないものに、少しでも近づこうと声を荒らげて足掻く。それこそが月吠である。彼女はそう認識していた。
「届くと、いいな」
誰よりも剣に忠実な、剣の走狗が犬伏だ。
だが、犬伏も、月吠も、足咬も、八雲も、黴の生えた旧時代の遺物でしかない。もう終わったのだ。終わった家で、終わった血だ。その血に連なる自分たちもそうだ。狩人如きに身を窶した好敵手。彼女の目を覚ますことが自分にできるだろうか。それを考えると摩耶の心は踊るのだった。熱に浮かされ、恋に恋する童女のように。