恋の鍔迫り合い
「別れてください」
「離縁、などと……」
「そうしてくれるなら、ここで話は終わります。ああ、いえ、話だけで終わります」
「そうは、いきません」
摩耶は美也子の話についていくのに精いっぱいの様子だった。彼女は時折京に目をやるのだが、彼は答えない。ずっと俯いたままだったからだ。
「ここであなたを殺すのは簡単なんです。けれど、そうしたら事実が、記録が残ってしまいます。あなたがせんせいの奥さんのまま死ぬということも、私には耐えられないんです」
「……そんなこと」
「でしょうね。でも、別れてください。私、せんせいの子供を産みます」
摩耶は目を丸くした。美也子は自分の腹に手を当てる。
「子ども……そんな」
「驚きましたか。まだですけど。でも、必ず。私は八雲京の子を孕みます」
「子……その、人の」
「はい」
困惑する摩耶。その様子を見て美也子は満足げにしていた。
「子どもはね」
ぽつりと、美也子は続ける。誰に話しているというわけでもなかった。
「そんなものいらないって考えてたんです。もしできても、それは二人の仲を引き裂くものでしかない。私とせんせいの二人きりじゃなくなってしまうんだって。せんせいと会う前は、誰かと一緒になって子供を作るなんてこと、考えもしませんでした。私はきっと一人で生きて、一人で死ぬって。でも、欲しい。証なんですよ。幸せってものがあるなら、子どもはその頂点にあるものなんだって。私とせんせいの未来を、歴史を作るものなんだって。そう思ったんです。だからお願い、死んでください。せんせいと別れてせんせいと全くの他人になってから死んでください。それだけが私の望みです。それだけでいいんですよ。そうしたら、終わるんです」
熱っぽい口調と視線。それを受け、摩耶という女は押し黙った。そうするほかなかったのだろう。
「そこまでして、その人のことを」
「はい」
美也子は言い切った。
「子供は、ともかく。離縁というのは……」
「しつこい人」
その時、チャイムが鳴った。
「もういいです」
立ち上がり、刀を引っ掴む美也子。先まで死人のようだった京が顔を上げた。
「よせっ、よせよせよせよせよせ」
すらりと抜かれた刀身が、窓から注ぐ幸せの光を浴びて輝いた。
「よせ! やめてくれ摩耶!」
八雲の家は伍区の閑静な住宅地の一角にあった。何の変哲もない一戸建てだ。ただ、さほど流行っていない塾の講師には不釣り合いなものに見える。梅田金吉は、じっと庭を眇めた。雑草が伸びたままで放置されている。一度も手入れされていないのかもしれなかった。インターホンや表札には蜘蛛の巣が。誰もここを訪ねなかったのだろうか。思えば、刃傷沙汰の果てに八雲の家を追い出されたとはいえ、京は八雲の血を引くものだ。ここは本家から見張るにはちょうどいい。あてがわれた家なのだろう。
ふと、梅田は視線を下げた。自分の服を吉乃が引っ張っている。彼はため息を隠さなかった。
ここか。ここに八雲京と定町美也子がいるのか。とうとう辿り着いてしまった。当初、この人捜しは吉乃の好奇心をある程度満たすだけに留めるつもりだったが、何の因果かここまで来た。手伝いを雇ったのは失敗だった。上手くいき過ぎたのだ。梅田は、その当人を一瞥する。
八街幸。団を立ち上げたばかりの新米の狩人だ。功刀の紹介であるのと、吉乃本人が幸を気に入ったので手伝いを申し入れた。彼の勘働きの良さも、思い切りの良さも、梅田は嫌いではなかった。ただし良すぎる。物事には順序というものがあるが、幸はそれを一足も二足も飛ばしてしまうような危うさがあった。賢いわけではない。理屈や理論をもって正解を導くわけではない。世の中には稀にそういうものがいるが、自然と辿り着いてしまうのだ。
「鳴らすだけ鳴らしましょうか」
幸の指がインターホンに伸びようとしていた。道中で合流した浜路もそれを止めようとしなかった。のみならず、彼女はなぜか竹刀を手にしていた。どこで武器を調達したのか。戦うつもりなのだ。
彼らは危険だ。吉乃に悪影響を及ぼすに違いない。
家の中に、聞き慣れない音が鳴る。二度、三度と。
八雲京は、刀を引っ掴んだ美也子を視界に入れながらも、頭では全く別の光景を思い浮かべていた。
子だ。美也子は何度もそう言った。子が欲しいのだとそう言った。
『子どもは、いらないのか』
まだ自分が八雲の士として剣を振るい、門下生を鍛えていた頃だ。故あって籍を入れた摩耶に、そう尋ねたことがあった。結ばれてから一年経ち、自分自身も一廉の男になったのだという自負が芽生えた頃だ。
摩耶はその問いにはすぐに答えなかったが、明確なものをよこした。
『だって、あなたが子どもみたいなものですから』
子がいれば、夫婦の仲はもっと良好に保たれたのだろうか。自分が外で女を作らず、遅くまで遊び惚けることもなく……あるいは、他人を傷つけずに済んだのかもしれなかった。過ぎたことだ。時は巻き戻らない。もう終わったことだ。
最初に家の中に踏み込んだのは浜路であった。彼女に続き、幸たちも土足のまま上がった。玄関のすぐ近くにリビングがあった。誰も踏み込むことはできなかった。そこで幸らが見たのは、今まさに刀で斬りかからんとする美也子の姿であり、彼女の凶刃、その行き先は椅子に座るひっつめ髪の女だった。恐らくは京の妻だろう。吉乃が悲鳴を上げた。
血飛沫が舞った。
椅子に座っていたはずの女が、崩れ落ちる美也子を見下ろしている。
斬りかかってきた美也子の得物を奪い、逆に切り伏せたのは、京の妻、八雲摩耶であった。
「み、や……」
京が呻く。股から入った刃は、驚くほど簡単に美也子の肩まで裂いてみせた。少女の柔肌を食み切った刀からは血が滴り落ちている。斬られた美也子は事実をそう認識していないらしかった。何が起こったのか分からないまま、膝をつき、駆けよった京に向けて首を巡らせて。
「……あ、あぁ、美也子」
「せん、せ……」
「子どもが子を欲しがるなどと」
よせ。梅田が叫んだ。だが、摩耶は止まらなかった。誰も止められない。速過ぎた。彼女は二撃目を放った。無抵抗な美也子の背に対して振るわれたそれは、僅かに残っていたであろう生の灯を掻き消すのに充分であった。絶命した美也子は、あっけなく八雲家のリビングに横たわった。
「貴様ァ……!」
梅田は吉乃を背にし、拳を震わせていた。
「まだ子どもだぞ! 人生をやり直す時間は山ほどあった!」
「おじさま……」
「こんな、こんなものを見るために、私は……」
摩耶は梅田を無視し、リビングから庭に繋がる窓を開けた。そうしてから、美也子の亡骸を前に呆然としていた京に声をかける。
「あなた。逃げたいですか」
「あ……あ……」
京は頷きかけたが、震えていた。振り絞った声はほとんど意味をなさなかったが、辛うじて形となったものがある。
「ゆるして、ください」
「ええ。許します」
摩耶は得物を握ったまま、京の後ろから話を続ける。
「あなたは腐っても、老いて朽ちてこの世からなくなったとしても、八雲の血を引き、その剣を学びました。一度は背けた道なれど、まだ誇りも未練もあるでしょう。血を継ぎ、次に残すはずだったあなた。で、あれば。最後は選ばせます。誇りを胸に戦いなさい。剣士として生きなさい。居並ぶものを叩き伏せれば私はここを通します。そうして、妻として、全身全霊を以てあなたの背を守りましょう」
「な」
吉乃は困惑していた。
「なんなんですか、この人」
彼女だけではない。幸たちもそうだった。摩耶が何を言っているのかをすぐには理解しかねた。ただ、京は諦めたのか、摩耶から刀を受け取った。そうして、ぼうっとした様子で幸たちを見つめた。
三日月だ。京は見た。摩耶が最後に笑みを浮かべたのはいつだったか。最後に嗤ったのはいつだったか。
『だって、あなたが子どもみたいなものですから』
子はいらない。摩耶はそう言ったのだ。ずっとそう言っていた。『お前との』子どもはいらない、と。
美也子の話を聞いていた摩耶は不思議に思っただろう。なぜ、目の前の少女はよりにもよって八雲京との子を欲しがるのだろう、と。
そうだ。摩耶は、月吠は、強いものとしか子を成さない。
俺はずっと、こいつに見下されていたのか。京は刀を握り締めた。
京は自刃した。腹に刀を突き差して死を選んだ。何度か血を吐き、呻いた。それでも彼は摩耶を見ず、彼女に再度の助けを求めることもなかった。ただ、己が死を最後の最後まで見つめ続けた。
「見事」と摩耶は彼を誉めそやした。
血臭が渦巻くリビングで、誰もが声を発することを忘れた。口火を切ったのは幸だった。どうしますかと尋ねたのだ。摩耶は夫の手から刀をするりと抜き取り、彼の目を閉じさせてやった。
「どこへなりとも。どうとでも。夫が死んだのです。士として。もう、私には何もすることがありません」
ややあってから、摩耶は刀を鞘に納める。それからふと目が合ったか、浜路に名を尋ねた。彼女は怒りとも悲しみともつかない表情で摩耶をねめつけていたが、名乗った。
「……ああ、そうでしたか」
摩耶が力なく椅子に腰かけて、
「やはり」
浜路が幸たちを突き飛ばすように前へ出た。既に《多魔散らす》は発動されていた。氷気を纏った竹刀と足咬の刀が激突する。二人の剣士はつばぜり合いの中で互いの目を見た。
「やはり。先の一刀、見覚えがありました」
浜路は苦々しい顔で言った。
摩耶は嬉しそうに答えた。
「私も。そのお耳、その目には覚えが」
「幸殿っ、下がって!」
手を出そうとした幸だが、必死の形相でいる浜路を慮ってリビングから辞した。決して背は向けないが、ここではどうしようもないことを体で理解していた。
月吠。足咬。犬伏。墜ちた三家の女剣士が八雲の家に集っていたのだ。その事実に月吠摩耶は歓喜した。
嫁入りしてから刀は捨てた。そうあるべきだと感じたからだ。月吠ではなく八雲の剣を次代に伝えるのだとそう信じていた。だが、京はどうだ。あの情けなさ、あの薄弱さ、あの儚さはどうしたものだ。八雲京の剣力は次代に残すに値せず。それでも夫を助けるのが妻の役目であり定めだと信じていた。
今日、この日が来るまでは。
胡乱な少女に叩きのめされたであろう夫の姿は耐え難かった。足咬の剣を振るわんとする少女にも腹が立った。挙句、犬伏の女が家に乗り込んできた。笑える。笑うほかない。こんなに可笑しいのは、こんなに愉快なのはいつぶりだろう。やはり、剣を握っていた時以来だろう。だって自分は今、こんなにも血が昂っている。
「笑うな外道!」
凄まじい、嵐のような連撃を弾いて凌ぐ。
浜路の竹刀は異能で強化されている。しかしそれを差っ引いても彼女の腕は本物に近しかった。本物だ。磨いて磨いて磨き抜いた珠玉の力だ。道場の御座敷剣法とは違う。あまりにも真っ直ぐで、あまりにも愚直。相手に勝つことではなく殺すことに主眼を置いた太刀筋だ。こんなもの、八雲の家では見られなかった。
これはいったいどうしたことか。どうしようもなくなった月吠と犬伏。その血を引くものが最後に残った。正しいのは自分たちだった。
庭に出た摩耶を追いかけて、浜路もまたそこに躍り出た。突っかけを履いた摩耶は、足元を確かめるようにしながら得物を素振りする。そうして、深く体を沈ませた。
浜路は肩で息をしながら、問うた。
「なぜ殺したのです」
「あの、足咬の少女のことですか」
「もう戦う力は残っていなかった」
「そうでしょうか」
美也子という少女には力こそなかったが気構えはあった。たとえ首を刎ねても目だけで殺されそうなほどの思いは宿していたはずだ。そういった輩は確実に仕留めねばならない。
「なぜ笑うのです」
「人の血を、吸えば昂るはずでしょう。私もあなたもそういった血を引いている」
そんなことより。言って、摩耶は睨むようにして浜路を見上げた。
「久しぶりの逢瀬、楽しまねば月吠の名が廃ります」
「やはり覚えていましたか」
く、と、摩耶の口元が歪んだ。
忘れるはずがない。忘れてたまるものか。三十余年に及ぶ月吠摩耶という歴史の中で、自らに土をつけた唯一の相手を忘れるはずがあるものか。剣を一度は置いた身だ。それでもこうしてみればすぐに思い出す。自分が誰よりもそれを愛していたということを。口惜しきは鈍った技量だ。長年研ぎを怠っていたのだ。
ああ。よもや。よもや、こんな機会が訪れるというのなら! 今日が来ることを分かっていたのなら! きっと自分は万全の状態で犬伏浜路と対峙していたに違いない。
だが、刻限が来た。玉響の逢瀬はパトカーのサイレンによって邪魔された。このまま庭で切り結んでいても望みの結末は得られないだろう。そう悟るや、摩耶は構えを解いた。
「追うのならご自由に。それこそ、二人きりになれるところまで私は逃げます」
それだけ言って、摩耶は浜路に背を向けた。誰も追ってこなかった。それを寂しく思いながらも、摩耶は必死で笑みを殺そうとしていた。
「いずれ。あなたとは、またいずれ。ああ、なんて素敵な約束でしょうか」
約束とは未来だ。明日への希望だ。久方ぶりに活力が漲った。今度会ったら、必ず斬ってやろう。