恋の逃避行<3>
ドアが開いていく。焦らすようにゆっくりと。その様子を部屋の中から憔悴しきった目で見るものが一人。両手両足を結束バンドで縛られ、ベッドの上に全裸で転がされているのは男だった。細身で筋肉質な体躯こそ有しているが抵抗する気力はないらしい。彼は縋るような目で黒髪の少女を見上げた。男は何か言おうとしているが口を利けないのか、ただそこを開閉させるだけである。
制服の少女は拘束された男の傍に立ち、口元を緩めた。陶然とした笑みである。年端もいかない彼女が浮かべるそれは、時と場所さえ選べるのならどんなものでも中ててしまうだろう。
男は口を開いた。少女は彼の下腹部に白い指を這わせる。何度もそこを行き来したであろう慣れた手つきだった。
「お腹、空きました?」
抑揚のない声が少女の唇から流れる。
「私も」
少女は男に覆いかぶさり、彼の口内を貪った。長い口づけのあと、彼女は顔を上げた。両手は男をまさぐったままだったが。
「み……や、こ」
「はい」
名を呼ばれた少女は安心したように目を瞑る。今この瞬間は彼女の十余年の人生で絶頂に位置していた。
振り返れば、よく奪い、よく奪われた人生であった。
高校を入学する前には、美也子はもう自分一人きりの生活を送っていた。友人は作れなかった。強く欲しいとも思えなかったが、要らないと拒否するようなこともなかった。だが、恵まれた容姿と生来の口下手のせいか、体目当ての異性しか寄ってこなかった。拒むのも面倒だったので、その誘いの多くに乗った。一夜限りであっても、誰かと共にいるのは多少なりとも寂しさを紛らわせてくれた。
輝きなどなく、ただくすんで消えていく。何も要求せず、何も期待しない。人生などそのようなものだと、そう思っていた。
転機が訪れたのは一つの気紛れからだ。担任の教師に出席日数が足りないと指摘され、学業に追いついていない分を埋めるべく、塾に通うことを決めた。そこで出会ったのが八雲京だ。一目惚れだった。この人が――――これが欲しいと思った。個別指導の合間の雑談で、京が既婚者であること、昔、剣の道に進もうとしていたこと、講師は自分には合っていないという愚痴まで聞いた。会えば会うほど、話せば話すほど、思いは募った。学校に通わなくなって、塾にだけ足しげく通い続けた。京と初めて結ばれてから、他の男との関係を断った。
もう一人の塾講師、吉倉は憤っていた。美也子は以前、彼とも一夜を共にした。だから吉倉の塾に決めたのだった。しかし、彼女が京に首ったけであることは誰の目からも明らかで、なまじ近くにいる分、吉倉はそれをまざまざと見せつけられていたのである。美也子もそのことを分かっていたが、止められなかった。
「ごめんなさい」
美也子は吉倉に頭を下げた。
「私にはもう、八雲さんがいますから」
未成年者にのぼせ上った吉倉は、生徒が帰った後の塾で京を叱責した。日頃の鬱積を爆発させた。だが、京も言われるままではなく、反論した。諍いは発展し、やがてもつれ合い、とうとう吉倉が暴力を振るった。反撃された彼が冷たい床の上で動かなくなるところまで、美也子はそれをずっと見ていた。
二人で逃げた。メフの外に出るつても金もない。路地裏の先のラブホテルが最後の楽園だった。他に誰もおらず、何もない。昼も夜もなく交わった。特に京は人を殺した後で随分と昂っていた。余韻の香るベッドで、美也子は言った。上手くいきましたね、と。彼女の言葉を聞いた京は目を見開いて困惑し、動揺し、やがて怒りを露わにした。
「どういうつもりだ」
「あいつにまで股を開いていたのは君だったんじゃないか」
「お前のせいだ」
「俺はもう、終わりだ」
美也子は不思議でならなかった。吉倉を殺したから二人きりになれたというのに。なのにどうして京は怒っているのか、不可解でしようがなかった。
京は服を羽織って出て行こうとした。楽園から逃げ出そうとしたのだ。だから叩きのめしてやった。手近にあったドライヤーを引っ掴み、京の側頭部を後ろから殴りつけた。不意打ちだった。彼はドアに手をつき、倒れまいとする。もう一度、同じ場所を打ち据えた。ドライヤーは壊れて使い物にならなくなった。それでも京は意識を失わなかった。かつて剣の道を志し、今も研ぎ澄まされた肉体と、ボールペン一つで成人男性を殺せるような力の持ち主でもある。
プライド、というものがある。
誰でも、何か一つでも抜きんでたものがあり、それを誇らしく思うことだ。誰にも先を譲りたくない。誰にも先を行かれたくない。負けたくない。そういうものが、人にはある。どんなに落ちて、曲がって、すり減ったとしても、たった一つは持っている。
八雲京は、それを粉砕されたのだ。
京は何度も美也子に襲いかかった。隙をつき、情交の際にも食らいついて噛み殺そうとした。そのたびに彼女は力の差を示し続けた。京は自分より年下の女に、いとも簡単に組み伏せられて痛めつけられた。何度も、何度も。
刃傷沙汰を起こした後、京は八雲の家を追い出された。つてを頼って慣れない教職に就いたが、息苦しさを感じ続けていた。ついてきた妻には感謝しているが、夫婦の営みはとうになく、会話ですら最低限のものしか交わされない。灰色の生活で出会ったのが定町美也子だった。美也子だけが京に色を与えてくれた。そして、彼女自身が最後に残ったものを取り上げたのだ。
先に参ったのは肉体ではなく心だった。彼を萎えさせたのは閉じた未来についての思惟ではなく、色を失った過去の煌めきである。伍区を取り仕切る八雲の家で、士として心身を鍛え上げ、周囲の期待にこたえ続けてきた過去である。
なぜだ。力を失った体。思考も衰えに引っ張られていく。ぐるぐると回る頭の中、扶桑熱患者ですらない美也子の力が、技術が、京には不可解でならなかった。ただ、一つ思い当たる節があった。明らかに素人離れした彼女の動作には覚えがあった。今となっては何の意味も持たない八雲京の華々しい過去を探る中で、美也子と似たような動きをする流派があったことを思い出す。
「あし、がみ」
その名を聞いた美也子は、口の端をつり上げてみせた。
足咬。
犬伏、月吠、八雲。三家と共に並び称され、伍区の剣道四家と謳われた。そして、四家で最初に墜ちた家の名だ。
定町は母の旧姓である。美也子は、確かに足咬の娘としてこの世に生を受けた。女であろうと足咬の家に生まれたからには剣を持たされる。周囲は目を剥いた。彼女には才があった。
だが、美也子が九つになる前に剣から引きはがされた。女であることを理由に、学ぶことを禁じられたのだった。彼女は何も言わず、諾々と従った。美也子は本当の理由に気がついていた。それは兄の存在である。
美也子には五つ上の兄がいた。真面目で努力家と、剣を学ぶ上での才覚はあった。美也子の兄は同年代では抜きんでた存在で、時に大人顔負けの力を見せることもあった。ただ、兄よりも妹に才があった。彼女が剣から引きはがされたのは、彼女の兄を守るための差配であったのだ。長男のプライドを守るため、足咬の家が気をまわしたのだった。
それから年月を経たある夜、美也子は寝込みを襲われた。服は開けられ、馬乗りにされていた。自分の上に乗っているのが兄だと分かると、齢十余の美也子は笑みを浮かべた。
「兄さま。どうぞ、お好きに」
その日の夜、美也子の兄は首をくくった。彼の死が決定的な何かをもたらしたわけではなかったが、きっかけにはなったのだろう。やがてお家は零落し、美也子と母は足咬の家を出ることとなった。
ドアが思い切り開けられた。近くにいた梅田が吹き飛び、廊下の壁と激突する。吉乃の、悲鳴じみた声が幸を動かした。だが、相手の方が早い。室内からするりと抜け出たのは話に聞いていた通り、男女二人組だ。
男は、素肌の上にジャケットを羽織っていた。狂相だ。血走った目が、端正であろう顔立ちを恐ろしいものに豹変させている。
男に捕まった形でいるのは制服の少女である。タマ校の制服だと分かり、彼女が定町美也子であると確信した。だが、彼女の顔を知っているであろう吉乃は呻く梅田に付きっ切りである。
「入之波さんっ」
幸はわざと、大声で吉乃の名を呼んだ。間を開けずにもう一度。
「あの子が、定町さんなの?」
「そ、そうですっ。あの、それよりおじさまが……」
間違いなく、あの少女が定町美也子。であれば、彼女を捕らえているのが八雲京だろう。幸は息を呑む。
「私なら、平気です。少し不意を打たれただけで」
梅田が壁に手をつきながら立ち上がる。幸はその間、じっと美也子を見ていた。彼女は確かに怯えていた。そのように見えた。
「近づくんじゃねえ……!」
かすれた声が京から漏れ出た。彼は美也子の首元にアメニティのカミソリを突きつけている。浜路は激怒した。今すぐにでも跳びかかってやりたいといわんばかりの形相だったが、幸がそれを必死になって押しとどめる。
「動けば、殺す」
「……え?」
脅しではない。すぐに分かった。京は本気だ。だが、なぜだ。幸が戸惑った。間隙を縫って京が駆ける。幸は咄嗟に《花盗人》を使っていた。彼の手からカミソリを奪い取ったのだ。それを気にする暇もないのか、京は廊下をひた走り、非常階段へと繋がる扉を開く。その背中を猟犬よろしく浜路が追った。
「くそ、もう、ぼくも追います」
幸は、吉乃に梅田を任せた。あとで合流すると伝え、自分たちの荷物も頼んだ。彼は浜路のあとを追いかけて非常階段に出た。かんかんと足音が真下から。浜路のものだろう。既に京は吉乃と共に、路地の向こうへ姿を隠そうとしていた。
「名演技でしたね、せんせい」
美也子は満足げにしていた。既に彼女は京を引っ張るような形で駆けていた。
「さ、行きましょうね」
「……だけど」
「『だけど』?」
立ち止まった美也子は、じっと京を見据えた。それだけで彼の四肢は震え、抵抗できなくなる。
「あと少し。あと一人なんですから。ね?」
三日月が美也子の口元に浮かんだ。
「それじゃあ、先にあれを取りに行かなくちゃ」
小さな手だった。その手が自らを打ち据えたことを、京は強く思い知らされていた。そうして、これから起こることを予見しつつも、もう自分ではどうしようもないということを分かっていた。
浜路には追いつけなかった。吉乃らと合流した幸は、浜路に電話をかけ続けた。出ない。彼女なら八雲に追いつくことは可能だろう。まさか既に戦いになっていないであろうことを祈りつつ、幸はふと、八雲から奪ったカミソリのことを思い出した。それはもうとっくにホテルの廊下へ置いてきてしまったが、そこから流れ出たものは頭の中に残留している。
「あの、八街さん……どうするんですか……」
吉乃は不安そうに梅田に寄り添っていた。
「どうするもこうするも」
警察にはすでに連絡している。厄介なのは京が花粉症を使わなかったことだ。異能を使い、他者に危害を加えようとしていたのなら市役所や他の狩人も動ける。だが、彼はそのようなそぶりを見せなかった。そもそも、京が扶桑熱患者でない可能性もある。
しかし、京が危険であることに変わりはない。美也子もそうだが、彼らのあとを追った浜路もまた危険にさらされるのだ。座している理由も時間もなかった。
「八街くん」
梅田の顔には心配の色があった。それは自分が傷つけられたことよりも、傍にいる吉乃がそうならないように憂慮している雰囲気であった。
「ぼくは、行きます」
奪ったカミソリから伝わったのは違和だ。
強い憎しみが溢れていた。口にするのが憚られるほどの、強く、歪み切った想い。
だが、それは京のものではない。彼以外の誰かが、彼の周囲に対して悪意を向けている。誰が、誰に対してだ?
そこに思い至った時、幸は、なぜ美也子がこちらに助けを求めなかったのか、なぜ京が本気で彼女を殺そうとしていたのか。その答えに辿り着いた。
「では私も」
「お嬢様、いけません」
「放ってはおけません。定町さんも、八街さんのことも」
「……時間は、ないか」
梅田は天を仰いだ。彼はそうした後、幸に向き直る。どうする。そう問われているようにも思えて、幸は思いついたことを口にした。
「八雲さんには、奥さんがいるんだっけ」
「え? ええ」
「子どもは?」
「そこまでは……あの、もしかして」
幸は首肯する。
「たぶん、家だと思う。八雲さんの家族が危ない気がする」
「あの男の家族が……?」
「あ、はい、はい、家なら知っています。電話帳で調べましたから」
「行こう。案内してもらえる?」
「任せてください」と吉乃はここでやる気を見せていた。
幸せというものを具現化すると、どんな形になるのだろうか。
庭付きの一戸建て。物が少ない部屋。大きなリビング。窓から差し込む陽の光。
「どうぞ」
それから、湯気の立つお茶と、楚々とした女。
美也子は椅子に座ったままで京の家をじろりと見まわす。幸せに近いものがここにある。本来ならここは自分たちの場所だ。庭もいい。キッチンもリビングも。しかしここには邪魔なものがいる。対面に座る、地味な相貌の女だ。この世で最も憎い女だ。格好もラフで、ひっつめ髪。化粧っ気もほとんどない。年齢は京と変わらないだろう。三十前後の年増だ。こいつは京のために着飾ることをやめているのだ。こんなもの、八雲京には相応しくない。美也子は歯軋りするのを堪えた。
「どうも」
言いつつ、美也子は湯飲みに手を伸ばす素振りすら見せない。
「あなたが摩耶さん。八雲……摩耶。京さんの妻、ってことになるんですよね」
「……ええ。そうなります」
摩耶という女は静かに、そう答えた。彼女からすれば突然の来訪者は、無作法な少女を連れた失踪中の夫である。だというのに、摩耶は何も言わなかった。京もだ。彼は美也子の横に力なく腰掛けている。この家で主導権を握っているのは定町美也子という少女に他ならなかった。
「いいお家ですね。ね、せんせい」
美也子は摩耶を見ながら、京に話しかけた。彼女からは一切視線を外さない。
「私、せんせいに一目惚れしたんです。せんせいが欲しいんです」
摩耶は目を瞬かせた。
「せんせいはもらいます。せんせいには八雲のご実家も、仕事も、友人も、いませんし、もうありません。あるのは私と……あなただけです」
「お嬢さん、あの、さっきから、何がおっしゃりたいのでしょうか」
「あなたが最後ってことです。あなたさえいなくなれば、せんせいにはもう私だけ。せんせいは私のものになります」
しばらくの間、沈黙が八雲家のリビングを包んだ。『八雲京を独占するために、彼の関係者を皆殺しにして京を孤立させることを思いつきました』。そのような、全くもって荒唐無稽な話を咀嚼するのに時間がかかったのだろう。摩耶は困惑した様子だった。
「それで、二人で姿を隠していたのですね。……お嬢さん。あなたの人生を棒に振るような真似、およしなさい」
教師のように諭す言い方が気に入らなかった。美也子は、近くの壁に立てかけてあるものを一瞥した。それは刀である。街のロッカーに隠してあった足咬の刀である。母が家を出る際、それといくばくかの金だけを持たされたのだ。
「お嬢さん」
「黙れ」
三日月が吠えた。