驢鳴犬吠
冬は寒い。
朝は眠い。
冬の朝は寒くて眠くてとてもじゃないが起きられない。鳴り止まないアラームに急かされ、幸はベッドから転がるようにして起き上がった。
「おはようございます」
水が音を立てた。鬼無里カエルが水槽の向こうから顔を覗かせる。
「おはよう、ご主人。今日もいい温度だ。ここはいい。冬眠しなくて済みそうだよ。……いや、冬眠するのもいいのかもしれない。冬の間をずっと寝て過ごすだなんてまるで夢物語だ」
「ええ、冬眠したいんですか。寂しいじゃないですか」
「カエル殺しだな、君は。そんなことを言われたら頑張って起きるしかないじゃないか」
手ごろな大きさの石に腰かけた鬼無里はげろげろと鳴いた。
「血色がよくなったね。悩みも少しは解決したらしい」
「そうかもしれません」
「でもね、いいかい。悩みというのは次から次にやってくる。その時は」
「鬼無里さんにも相談します」
げろ? 鬼無里は固まった。
「他の人にも、もちろん」
「意外だね。君はもっと、そういうのを抱え込むんじゃないかとばかり」
「ぼくもいつまでも昔のぼくをやらないんですよ」
「小さくてかわいいものが大きくなるのは寂しいことだ」
「もしかしてぼくのこと言ってます?」
鬼無里は水の中に飛び込んだ。幸は水槽を指で叩き、ふくれっ面で部屋を出た。
夕焼けは今日も目に痛い。本日も市役所の裏でボコられた幸だった。
「ひっくりカエル。げろげーろ」
尻を蹴られた幸はそこを摩った。
「休んでんじゃないよ。可愛いお尻見せびらかしてないでさっさと起きな」
「古海さん」
「……何?」
ぼうっとした様子で古海を見上げる幸。
「どうやって強くなりました?」
「どうやって?」
思案顔になった古海は考え込み、ともすれば苦しそうな表情になる。
「一人きりで強くなれましたか?」
「そりゃあ、無理じゃない? 私やむつみにだって師匠? みたいな人がいたし。あ、あとコツはね、ぶちのめしたいやつがいるかどうかかな。そいつのことを想像すんの。ボコボコにしたらどんな顔で泣くのかとか、そんなのをね」
「それ、ぼくにとっては古海さんってことになりますね」
「…………えっ」
古海の顔面が蒼白になった。
「あ、あのー? 幸くん? それってどういう意味?」
「あ。そういえば猟団の名前を変えようと思うんです」
「いや、そんなんどうでもいいから」
「どうでもいいとか酷いじゃないですかっ」
ぷんすかする幸に古海はどうしようもなくなって諦めた。
「ごめんね。えーと、名前変えるの? 《百鬼夜行》やめちゃうの?」
「前から決めてたんです。叔母さんは好きにしろって言ってくれましたし、前の名前のままだと《百鬼夜行》を知ってる人たちが変に思うんじゃないかって」
「へー、ま、そっちの方がいいかな」
そのせいで既に酷い目にも痛い目にも遭っているのだが、古海はその詳細は語らない。
「どんな名前にすんの?」
「全然思いつかないです」
「ふーん。そういや、メフの猟団の名前ってさ、結構八鳥さんが付けてんだよね」
幸はむくりと起き上がった。
「そうなんです?」
「あの人、ああ見えて物書きなの。色んなこと知ってんのよね。それに狩人ってそういうのこだわらないのも多いし、そんじゃあってことで八鳥さんに投げたりすんのが通例。案外面倒見いいしね。文句言いつつも考えてくれるよ」
「ぼくもそうしようかな」
「残念」
古海は幸の額を突いた。
「今は大空洞に潜ってるよ」
「そうなんですか……」
「あ」
何かを思い出し、古海は声を発した。
「幸くんたちは驢鳴犬吠だってさ」
「なんですそれ」
「ぎゃあぎゃあやかましくて、くだらないんだって。そういう意味、だったかな」
「誰が言ってたんですそんなの」
「内緒」
「……八鳥さんですね」
「さあ?」
酷いことを言うなあ。幸は文句を垂れたが、ちょっと嬉しそうだった。
またダメでした。
そう言ってうなだれる浜路。後にした闇雲堂の店主は今日もガードが固かった。
「残念でしたね」
幸は慰めるが、浜路はへこたれていた。持っていた木の枝をばきばきに折って投げ捨てる。
「そもそも珍しいものってなんなんですかね」
「少なくとも木の枝とかじゃないと思いますけど」
「でもさっきのはこないだのよりいい感じに振りやすかったんですよ。今度は重量を重視してみますか」
「木の枝にこだわるのはどうしてですか……」
判断基準が子供の浜路だった。
白い息を吐きながら、二人してがらがら通りを歩く。鉄を叩く音、狩人の笑声、吹き抜ける風の音を聞きながら、ゆっくりと歩く。浜路はマフラーの位置をずらした。
「でも、どうにかなります。いずれはこの手に取り戻してみせます。幸殿だけではなく、皆さんと一緒なら」
「はい。春雨丸というおいしそうな刀、早く戻ってくるといいですね」
「おいしそうは余計です」
幸が掌をこすり合わせて暖を取ろうとしていると、浜路がその手を掴んで握った。彼はされるがまま、手を繋いで歩く。
「こうしていると思い出します。父上は厳しい方でしたが、よく手を繋いで歩いてくれました」
「そうなんですね」
「私があちこちうろちょろしていたので、離れないようにという意味が強かったのでしょうが……お腹が減りましたね。何か温かいものを食べていきましょう」
「でも、ぼくは晩ご飯が家にあるので」
「無体な。ほら、前みたいに軽いものでいいので付き合ってください」
「おしるこ三杯とお団子一〇本は軽くないと思うんですが」
幸の手がぐいっと向こうに引っ張られる。
「お好み焼きもいいですね!」
今度は違う方に引っ張られた。
「このあたりも活気が戻ってきました。おお、見てください幸殿。来月にまた甘味処がオープンするらしいではないですか。今から楽しみですね」
まるで大型犬に引っ張られる飼い主のようで、幸は浜路を抑えるのにいっぱいいっぱいだ。
「そっ、そういえばなんですけど、猟団の名前っ、変えようと思ってて」
「ほう」と浜路が立ち止まり、幸は握られたままの手を解こうとした。彼女の握力が強められて逃げられなかった。
「私は一向に構いませんよ」
「そいで、ぼくたちのことをぎゃあぎゃあうるさい、くだらないって言う人がいましてですね」
「なんと。失敬な人ですね」
「でも、ぼくららしくていいかなって」
浜路は口元を緩める。
「して、どのような名前にしたのですか」
「《驢鳴犬吠》にしました」
「おお、犬という字が入っていますね。いい名前です。それにしましょう、賛成です」
幸は照れ臭そうにした。学校で田中小や田中大たちにも考えてもらったのだが、それがよかったのかもしれない。
「どうせなら《騎士団》や、かの《百鬼夜行》よりも大きな猟団にしましょう。大空洞をやかましく練り歩き、最奥まで行くのです。さすれば犬伏の家宝も取り戻せるでしょうし、誰もが幸殿のことを素晴らしい狩人だと見直すはずです」
「そうでしょうか」
「そうです。であれば、まずは景気づけにおしるこ三杯いきましょう」
「晩ご飯が食べられなくなっちゃいます」
「何を言いますか。幸殿は小さいのですからたくさん食べて大きくなりませんと!」
「ああっ引っ張らないでくださいよう」
自分は無力だ。一人だけでは何もできない。大空洞という暗がりの中、縮み上がって膝を抱えるしかできない弱者だ。
ぼくは弱い。幸はその事実を認めた。それは自らに備わった花粉症からもはっきりと分かる。《花盗人》は自分以外の誰かがいなければ無意味だ。何の力も使えない。
幸は思う。大空洞に、扶桑に、百鬼夜行。自分たちはその輝き、大きさに魅せられて集まった、ただのぼくらだ、と。何も見えなくて、聞こえなくて、知らなくて、分からなくって。どこかの誰かが作った道を歩いているだけで、賑やかさに惹かれただけの取るに足らない、くだらない集まりだ。少なくとも、今は。
でも、もう一人じゃない。
皆でぎゃあぎゃあとやかましく行進してやろう。