暗がりの正義<3>
暗がりに反響するのは八街幸の声である。先まですすり泣いていた彼のそれがこびりついて離れない。彼は何故泣いていたのだろう。どうして自分をあんな目で睨んだのだろう。
目だ。
あの目。
それも消えない。
幸とは春からの付き合いになるが、彼のあのような表情は初めて見た。……いや、あった。最初だ。一番最初、幸と出会った蘇幌学園の体育館で自分たちは戦った。あの時、彼は自分に敵意を向けてきた。それ以来だ。
幸のことが分からなくなった。彼は弱い。小さく無力だ。自分にとっては唾棄すべき存在の弱者である。だが、幸は聡明だ。自分の弱さを認識し、強くなろうと足掻いている。そのはずだ。
――――なのに、どうして?
浜路は逃げた男を追っていた。
大空洞の中を進むたび、視界の端に何かがちらついた。幻だと分かっていても、それは無視できなかった。
『浜路』
声が聞こえる。
大空洞のどこからか、それとも自分の奥深いところからか。
『強くなれ、浜路』
胃の腑がぐるりと蠢いた。浜路は苦い唾を飲み込んだ。
声が聞こえる。
『女だてらになどと言わせるな。足咬、八雲、何するものぞ。半端者どもは捨て置けい。しかし決して舐められるな。相応の剣力を持てい』
浜路は立ちくらみを起こしかけた。
強くなった。そのはずだ。人生のほとんどをその作業に費やした。
『相手が《月吠》の女だろうと負けてはならん。相手は人ぞ。貴様に生えた狼の証を侮らせるな。亜人などと言わせるな』
病で亡くなった父親の声だ。犬伏浜路を構成する全てに近しい存在だ。
『剣が全てだ。力で興せ。犬伏の家は誰よりも剣に忠実である。伍区の誰よりも、メフの誰よりも強くあれ。やがて扶桑の楔がなくなった時がお前の力を見せつける好機と心得よ』
浜路は立ち止まり、口元に手を当てた。催した吐き気を堪えるのに必死だった。
彼女は地上を見上げた。
父上と。
彼女は胸の内に許しを請うた。
剣でお家は興せない。それは師である父にも無理なことだったのだ。たとえ世界と繋がったとしても、そのような世迷言が通じる時代ではない。剣と力だけで得られるものなど僅かなものだ。その日を凌ぐのにも苦心している有り様だ。
父上、と。
浜路は強く目を瞑った。
脳裏に過ぎるのは犬伏の家宝である春雨丸だ。酩酊状態ながらも、鞘から解き放たれた無残な姿は憶えている。忘れるはずがない。折れず曲がらずを標榜とし、刀のような生き方を求められた犬伏家の宝刀が根元からぽきりと折れてなくなっていた。自分たちはアレに頼り、自分は、アレを追い求めてほとんどを失った。冗談ではない。だが、今更だった。もう生き方など変えられないのだ。視界の端にはまだ、厳しい顔をした父の顔が浮かんでいた。
逃げた男は見つからなかった。しかし浜路は執念深かった。旧市街の外殻にあたる場所まで丹念に見て回り、それを見つけた。奈落に繋がる縁を下った先、分厚い蔦に絡まって連なった廃屋を。簡単には見つからないはずだ。屋根が壊れていて建物が斜めになっているが、良からぬものの隠れ家には都合のいい場所だろう。
浜路は蔦を頼りに少しずつ下りていく。幸の涙も父の顔も今は忘れて振り切った。じき、磨いた力を見せつける時が来る。そう信じて。
いくつかの廃屋が崩落の際にぶつかり、扶桑の枝や蔦に絡まって一つとなっている。そこが先の男らの隠れ家だ。
見張りはいない。人の気配もない。浜路は臆せず足を踏み出した。
廃屋の中はやはり、外観と同じように荒れ果てていた。大崩落以前、そこで人が暮らしていたような痕跡もない。家具も思い出も奈落の底だ。が、いる。誰かがいる。かすかな物音と人の臭い。饐えたようなそれが狼人の鼻腔に刺さる。床にも穴が空いていた。足元を確かめながら先へ進む。
壁がひしゃげて狭くなっている箇所を抜けると、床が抜けてそこから植物が生え揃った場所に出た。浜路は視線を動かす。申し訳程度の家具があり、生活の中心として使われている部屋のように見受けられた。人の気配はない。なかったはずだ。だが、そこには蠢くものがいた。
全裸の男が壁に背を預けて座り込んでいた。涎を垂れ流しているだけで他には何もしていない。口角には白い泡のようなものが付着していて、呻きもせず、時折体を震わせていた。目の焦点はどこにも合っておらず虚空を見つめている。体には無駄な肉が乗っていた。鍛えていないのは明らかで、彼は狩人ではない。十中八九、行方不明になっていた外部の見学者だろう。生きているのは不幸中の幸いだろうが、果たしてこれは無事と呼べる状態なのか、浜路には判断がつかなかった。
ここにいるのは夢うつつの男だけではなかった。女の姿もあったが、彼女はもう息絶えていた。死ぬまで甚振られたのだろう。尊厳も何もない。無残な姿であった。が、浜路は妙なことに気がついた。女の死体、そのところどころの部位が欠けている。乱暴されたにしては傷口が素直だ。実行者はある目的に従って肉を削いだのだ。悪寒がした。
浜路は顔を上げた。ここにいてもどうしようもない。既に終わった場所なのだ、ここは。
捜索を続けた。いくつかの部屋を覗いたが人はいない。飲み食いや男女の情交の痕跡は見つかった。複数の人間がここにいたのだ。
やがて浜路の足が止まる。奥まった箇所、暗幕がかかっていた。声がする。呻くような、低い声。浜路は息を呑んだ。覗くと熱気めいた、湿った空気が顔に当たった。それから臭気。暗がりには目が慣れている。襤褸切れのような服をまとった男が、やせ細った女を組み敷いていた。今まさに交わる男女を認めて、浜路の頭がスッと冷えた。まるで――――否。正しくケモノだ。転がる注射器や、薬の類。空になったペットボトルや食べ残された弁当の容器。錆びた鉈と壁にこびりつく黒々とした染み。その中で、寝具もなく、こんな打ち捨てられた場所で交わりに耽っているものが人であるはずがない。本能に突き動かされるだけの何かだ。
浜路はそこを離れた。彼らは《斜交い行脚》という猟団で、人をさらったのかもしれない。そうであるなら正義の名のもと、誅するつもりであった。しかし彼女にはできなかった。これを斬れるのか。斬るだけの価値はあるのか。葛藤は一瞬だった。ここには正義も悪もない。ただ生きて、死んでいくだけのものがある。地上の倫理から外れたであろうものが息を潜めている。
廃屋から出ようとして、浜路は声をかけられた。若い女の声だった。
建物の外で女は笑っていた。彼女には数人が付き従っている。いずれも若い男女だが、みな、サイズの合わない服を着て、痩せている。それから誰もが死んだ目で浜路を見据えていた。
「……《斜交い行脚》の方ですか」
浜路は、一応、という体で問うた。
「付け加えると、あんたら狩人が探してるのは私らで合ってると思うよ」
女は淡々とした調子で告げる。浜路は、彼女が神社のものから聞いていた、二名という人物なのだと察した。そして地上をほんの少し騒がせていた事件の犯人が、彼女らなのだとも。
浜路は握った竹刀に目を落とす。
なぜ建物にいたものを斬らなかったのか。いや、斬れなかったのか。二名らへ即座に斬りかからなかったのはなぜか。答えは分かっていた。同じなのだ。自分も《斜交い行脚》も、多くのものを失った。立っている場所は違えど、この大空洞という世界において両者は同一なのだ。剣を振るうはずの手をためらわせたのは憐憫、あるいは共感。彼らを斬るということは自らをも斬る、ということになる。そんな気がしていた。
浜路に置いていかれた幸は木の根に座り込んでいた。立ち上がりたくとも気持ちがついてこなかった。その気持ちは、先からずっと同じところを回っている。
ここでは無力だ、と。
八街幸は何もできない。
天満の言葉がリフレインする。一人じゃ何もできなくて、他人がいないと意味がない。扶桑熱は――――《花盗人》は幸の側面だ。彼の本質がそうなのだ。
「ぼくが弱いから」
小さいから。だから、何も。意味なんてない。真っ暗で何も見えない。
本当にそうか? 力を込めようとする。ついてこない気持ちを叱咤した。歯を食いしばる。悔しい、腹立たしいという感情を思い出して力に変える。春を思い出せ。最初にこの街に来た時のことを、あの桜を見上げた時のことを思い出せ。自分一人で何もできないどころか、生きる意味さえ持てなかった。今は違う。自分の中に深く咲いた力がある。これはただの病ではなく、証だ。
思い出せ。
むつみのようになりたいと思ったはずだ。
扶桑のように変わらないものを見つけたはずだ。
今、自分はその大樹のすぐ傍にいる。思い出せ。ここは自分が望んだ場所なのだ。
「弱い、けど……」
弱くて小さい。扶桑に比べてなんとちっぽけな存在か。しかし、幸は立ち上がる。浜路が行った方を目指して少しずつ歩く。
「……泣いてるの?」
その背に声をかけられた。聞き覚えのある声で、幸はまた泣きそうになった。彼の前に回り込んだのは雪螢だ。彼女は屈み、心配そうにして幸を見つめる。
「誰に泣かされたの?」
「泣いてません」
「嘘」
雪螢がどうしてここにいるのか。幸は不思議だった。
「遅くなってごめん、幸。猟団、抜けるのに手間取ったから」
どうして。幸が口を開くより早く雪螢は微笑む。
「私がそうしたかった」
「でも、ぼくは」
「私だけじゃない」
雪螢が後ろを見た。幸も釣られて振り向くと、居心地が悪そうに頭を掻きまわすベルナップ古川、深山やオリガの姿もあった。
「旦那、お久しぶりです。元気でしたかと聞くような感じじゃあなさそうですがね」
「えっと……」
「は」と古川は犬歯を剥き出しにする。知らぬものが見れば怯えすくむだろうが、彼なりの笑顔だ。
「狩人が大空洞にいるのは当然じゃないですか。なかんずく、おいしい依頼があるってんならね。まさか、とうに終わらせちまったわけじゃありやせんね。こっちゃあ復帰一発目の仕事なもんで。おれにも噛ませて欲しいもんですがね」
腕を組み、じっと幸を見ていた深山が髪の毛をさらりとかき上げた。
「《猟犬》は知らんが、私はお前を捜していた。猟団を作ったそうだな。水臭いぞ。どうして声をかけなかった」
「皆さん、ぼくの猟団に入るのもったいないですし、深山さんは《騎士団》にいたじゃないですか。だから」
「だからなんだ。《騎士団》にお前はいなかったぞ、八街。何もおかしなことなどない。それに」
深山はふっと笑む。ここに釣り堀屋の常連客がいたら黄色い悲鳴を上げて卒倒していたに違いない。
「店主から有休をもらった。ここが使い時だというやつだな」
「有給とは気前がいい。うちは店じまいしてここに来たというのに」
スキットルの酒をぐいと飲むと、オリガは幸の額を指で突いた。
「ちいこいサチーシャ。どんな野菜にも旬はあるものだ。お前がそういう、頑固で片意地を張るやつだとは知っているがな、人を頼れ」
「頼る」
「そうだ。ここを見ろ。真っ黒でだだっ広いだろうが。一人きりで何ができると言うんだ」
「そっちの姉さん、いいことを言うじゃあないですか。ああ、そうですよ旦那。おれだってフリーでやってるが、時には協力しなくちゃあでけえケモノは狩れやしねえ。もっとも……」
古川はここにいるものを見回した。
「ここにおれらが苦労するような大物がいるとは思えやせんがね」
「そんなことより」
立ち上がり、舌打ちをするのは雪螢だ。
「幸。あの犬っころは?」
「……コーチは」
「そう。一人で行ったのね。あいつ、幸を見捨てて……!」
「そうじゃないんです、雪螢さん。あの人はぼくと違いますから」
「知らない。見つけたら蹴り飛ばしてやる」
「おーおー、怖い女だな」
雪螢とオリガが歩き出す。幸はまだ訳が分かっていなかった。彼女らがここにいることが。自分の傍にいることが。
「旦那」と古川が幸の肩に手を置いた。
「おれたちゃあ縁もゆかりもそんなにねえ。瓜生をぶちのめした時に一度揃っただけで、ほとんどここで出会ったばかりでさあ。そんでも分かりやすぜ。同じ旗のもとに集ったもん同士ってことは」
「そういうことだ。行くぞ八街」
「旗はあんただぜ、旦那。さて、行きやすか。でねえと姐さん方に先を越されちまう」
彼らの背を見ながら、幸は四肢に力が戻るのを感じた。
「うちに来ない?」
二名は気軽に言った。
「あんたもさ、私らと似たようなもんでしょ」
浜路は答えられなかった。
「分かるよ」
彼女の様子に気をよくしたか、二名は口の端をつり上げる。
「私さ、メフで生まれたの。ここで生まれて死んでくんだって思ってる。でも、ずっと前に家族が死んで、みんな死んで、一人で頑張ってやってさ、やっと見つけたって好きな男をわけわかんねー女に取られてさ。しかもそいつ、死にやがるし。恨み晴らすとかも、何もない。で、戻ってきた彼はぶっ壊れて使い物になんないの。は。猟団も、ほら、こんなんなって」
二名は《斜交い行脚》の団員を見回す。嘲りの宿った目で。それでも彼らは反応しなかった。
「終わりっちゃあ終わりなんだよね。あんたにも嗅ぎつけられるし。でも、あんたがうちらと一緒にやってくんなら別。まだ、もうちょいやれるかなって気がしてるんだけどさ」
どうかな。二名は問う。浜路はうつむいた。得物を持った腕もだらりと下がる。
「ふ。やっぱりだめか」
浜路が顔を上げると、二名は笑っていた。酷薄なそれが顔面に張りついて、彼女の目は血走っている。二名は目薬のようなものを投げ捨てた。
「知ってるし、分かるよ。あんたみたいなのは私らとは違うって」
二名の目に黒い輝きが宿る。鈍く光って尾を引いて、異能の発現を証明する。浜路は咄嗟に構えたが、遅い。地面を踏みしめていたはずの足。その感覚がない。正確には、地面がない。先までの固い感触がなく、泥沼に沈むかのように柔らかで不確かだ。脱出を試みてもがくも無駄だった。
「……誘ったのは本当だったけどね。迷ってんのは分かったし。だってさ。本気ならたぶん、とっくに動いてたでしょう、あんた」
《斜交い行脚》の団員が得物を構える。研ぎにも出せず錆びた鉈や手斧。大空洞の素材を集めて作ったであろう、見栄えの悪い弓。それらが浜路を狙っていた。