9話 俺と生活習慣
とまり木の豚亭周辺では、まさかのイベント中止を嘆く人だかりが出来ている。
青白い灯りのそのさらに上空には、オレンジ色の月が煌々とした光を放っていた。
「中止ってなんで……」
声を上げて事態の説明をする店主。
その横で脱力するゴロを救出しながら、楽しみが奪われた子供の様にミケは呟く。
「肉を搬送する商隊が襲われたんだとよ」
ふにゃふにゃした声でゴロが顛末を口にする。
と言うのも、店主らしき男はここまでずっと同じ説明に終始している。
プロケッタ中央街の名物イベントのひとつを心待ちにしていた人々がもう何度も店主に詰め寄っていた。
このまま店主の横にいては迷惑になると思ったミケは、再度向かいの店の屋根へと移動した。
そのすぐ後にチェリッシュも瞬間移動で横に来て、ガシッとミケの腕を抱える。
店主に向けられる感情は様々。
悲しみを訴える者、怒りをぶつける者、心配になって気遣っている者が、代わる代わるに店主の周りを埋めていた。
南門へと続く大通りは人でごった返しになり、遂には衛兵が交通整理にまで駆り出される事となる。
「商隊が襲われるだなんて……有り得ない」
「どうしたんだチェリッシュ? なんで有り得ないんだよ?」
このイベントは数十年前から続く名物である。
当然、その関係各所には公的な後ろ盾が控えているのだ。
「伝統あるこのイベントには、冒険者ギルドも協力しているの……こ、これはギルド関係の友人から聞いたのだけど……」
飽くまでも『聞いた話』と言う前置きは回りくどいが、ミケはもうそこにツッコみを入れない。
要はこのイベントの成否に関し、国の関係者が尽力していると言う。
すなわち、大臣を務める貴族や、王宮勤めの手練れ騎士、更には腕利きの冒険者も護衛に就いているのだそうだ。
「だからあり得ないの……もしそんな厳重警護された商隊が壊滅的な打撃を受けるとしたら……」
そう言うチェリッシュの顔は若干青ざめている。
ついさっき頬を赤くしていた熱が一気に引いてしまったようだ。
そして、言いかけた言葉の続きは、騒がしく街になだれ込んできた騎馬隊の登場で遮られた。
石畳を蹄鉄が踏みつける。
けたたましい音のせいで、店主を取り囲んでいた人々が唖然となってそちらへと視線を向けた。
「た、大変だぁっ! コッピ街道にミノタウロスが出たぞ〜っ!」
よっぽど急いで走ってきたのか、騎馬隊の機動力となる栗色の騎馬は長い舌をベロンと垂らして息を切らしている。
そして、騎乗の騎士が大声でそう叫んだ途端、とまり木の豚亭に押し寄せていた人波が一斉に逆流し、怒号と悲鳴が飛びかった。
列の後方にいる人々にすれば訳が分からないだろう。
しかし、他の騎馬隊が街の中心へ駆けながら、災害級の魔物の出現を報せて行くと、あっという間に人波が霧散した。
それぞれに細い路地へ入っていく様は、蜘蛛の子を散らすと言うよりも、堰を切ったような排水を眺めているようだった。
「おいチェリッシュ、こんな人里にミノタウロスが出てくるなんて異常じゃねえか?」
「異常って言うか、この街が出来てこんな事……初めてじゃないかしら」
異世界に来て早々、ミケはまだ一日とて安らぎの時を過ごしていない。
このお肉イベントにおける食事で一息つけるかと思っていたのだ。
だから余計にショックを受ける。
しかし、要はそのミノタウロスを退治すれば万事解決となる訳だ。
「なあゴロ、そのミノタウロスってでっかい牛みたいな魔物だよな? それって強いのか?」
「強いっちゃ強い部類の魔物だわな。つっても災害級の中じゃ弱い方だな」
「だったらさ、そいつ倒しに行けないか? そいつに肉を食われる前に取り返せたらイベント出来るんじゃね?」
ミケは飲食店におけるイベントがいかに大変かを身に沁みて理解している。
何せそれは自身も経験した事があるのだから。
とは言え、元の記憶を辿るよりもゴロの判断に委ねようと伺いを立ててみた。
「う〜む」
ゴロはゴロで、今懸命に悩みぬいている。
はっきり言うと、ゴロはミノタウロスをギリギリ倒せると思えるくらいには勝算がある。
だが、そうなると本気の戦いは免れない。
そこで、お肉イベントでのうまい飯とミノタウロス討伐とを天秤にかけているのだった。
「ミノタウロスの肉もきっと美味いんじゃねえか?」
しかし、このミケの一言が背中を押す。
決め手となった。
「おっしゃ、やってやるか。だけどミケも手伝えよな」
「お、おうもちろんだぞ」
こうなるとチェリッシュも闘志を燃やさざるをえない。
何せ愛しのミケが前線で戦う事になるかもしれないのだ。
時刻は夜の八時を少し回ったあたり。
急げばまだイベントは再開できるはずだ。
いつに間にかミケは我が事のように店主の苦労を軽減させてやりたくなっている。
美味い飯をゆっくり味わいたい気持ちもあるが、同じ飲食店に従事する者として手助けしたい気持ちの方が大きかった。
「よっしゃ、じゃ行こう……か……」
だが、ここで問題が起きた。
「おいどうしたミケ?」
「あれ? なんか急に眠気が……」
ゴロが視線をミケに向けた時には、もうミケの瞼は重そうにふわふわと上下し始めていた。
「あっ、お前まさかいつもの癖が……」
「ミケくんおネムなのね……」
呆れの眼差しを向けるゴロとは対照的に、チェリッシュはまた興奮の波が押し寄せて来ている。
恍惚な眼差しとはこの事である。
もしミノタウロスなどに時間を割く必要がなければ、またしても理性が飛んで抱きしめていただろう。
そう、ミケはなんだかんだでまだ子供なのだ。
いくら中身がオッサンとは言え、身体は日々の習慣を忘れない。
毎日夜の八時頃がミケの就寝する頃合いだった。
「なんなんだよ……ちょ、超ねみぃ」
うつらうつらするミケは無視し、ゴロは黒豹の姿に変化する。
「おいチェリッシュっ! 乗れっ、行くぞ!」
「わ、わかったわ。ミ、ミケくんはわたしがちゃんと抱っこしてないとね……」
こうして違う意味で鼻息荒くしたゴロとチェリッシュに支えられながら、一同はコッペ街道へと走り出した。
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