4話 俺と抱き枕
実を言うと、ミケは猪の解体などやった事がない。
ジビエ料理として狩猟動物の肉――それこそ猪や鴨、野ウサギなどの調理は経験しているのだが。
もし前世で、目の前に猪を丸ごと置かれたって何もできなかったはず。
しかしここは異世界で、魔法なんて言う便利なものがあるのだ。
『精霊さん、この猪の毛を綺麗に剥がしたいんだけど』
ミケは掌を上に向け、精霊を呼び寄せるように魔力を纏った。
『分かったよ。ちょっと待っててね』
すると、蛍のような淡い光が掌に群がってくる。
そこからミケの魔力を吸い取って、今度は猪を覆うように集まった。
「す、すごい数の精霊……」
「んあ? ミケならこんくらい朝飯前じゃねえか?」
すぐ傍で眺めていたチェリッシュは、神秘的な光景に見惚れている。
一方のゴロは当然と言わんばかりのセリフだが、どこか自慢げに胸を張った。
それくらいじゃないと、自分の主人として相応しくないと思っているのだ。
すると、程なくして猪の体毛が綺麗さっぱりなくなっていた。
体毛の下にある肌は真っ白だ。
「おおぉっ、精霊魔法ほんと便利だな~」
と言いながらも、既に次の段階『血抜き』の指示も精霊に送っていた。
これは見た感じ何も変わらない。
だが、この血抜きをしっかりするとしないとでは、食べた時の臭さに大きく影響する。
この後もミケは、精霊に指示を出し『内臓の除去』『骨の取り出し』まで済ませる。
本来なら、腹を掻っ捌いて、首を落とし、四肢を捥いで地道に取り除くのだが、精霊魔法による【料理魔法】があれば五分とかからずに終わらせる事が出来る。
この料理魔法、実は神様が便宜上そう呼んでいるだけで、精霊魔法の粋を集めたものである。
それを組み合わせているだけで、本来料理魔法と言うものは存在しない。
「よし、じゃあ煮込もう」
異次元ボックスから、鍋とまな板と包丁を取り出す。
この道具類は流石にこの世界の品質と同等であった。
包丁の切れ味も、鍋の熱伝導率も、まな板の材質も、元いた世界の品質とは程遠い。
とは言え、この品質をも精霊魔法で補う事が出来る。
包丁の刃を高速振動させる事によって、恐ろしい程の切れ味にする。
これは剣などにも使われている技術で、用途としてはそちらのほうが一般的だった。
「おい、煮込むより焼いた方がいいんじゃねえか? どうせ塩味なんだろ?」
決して焼いた肉を塩で食べる事が、味気ないとは言わない。
それはそれで、素材の味を最大限楽しむ味わい方でもある。
しかし、相手は美食家で生意気な黒猫なのだ。
それにまだゴロには分からないだろう。
日本人が好む『おつ』と言う文化を。
調理に手間暇かけさえすれば料理は美味くなるってものでもない。
気の利いたひと手間さえあれば、料理は劇的に美味くなるのだ。
だからミケは、これから作る料理に『おつ』なひと手間をする為、精霊にある物の探索をお願いしていた。
「まあ大人しく待ってろって。それとも塩味だけの焼肉でいいのか?」
「あん? それ以外にどうしようもねえだろ?」
「いいから黙って見てろって。少なくとも焼いて塩で喰うよりかは何倍も美味いもん喰わせてやるからよ」
ここまで言って、ゴロはやっと口出しをやめる。
たった数日とは言え、実際にミケの腕前を見て来たし、味わってもいる。
その料理を作った本人がそこまで言うのだから、待つ苛立ちよりも、期待感の方が勝り始めた。
しかし、苛立ち分の仕返しをきっちり行うのがゴロの性格だった。
「はっはーっ! 聞いたかチェリッシュ。これで美味くなかったら、お前ミケの事一晩抱き枕にしていいからな」
「んな、何を言うのよ……そ、そんなの駄目に…………い、いいの?」
「いいんじゃねえか? なあミケ?」
ミケは一瞬包丁を動かす手が止まり、満更でもない顔をするチェリッシュに目が留まる。
ゴロにしてみれば、ミケの事を気に入っているチェリッシュをからかうついでに、ミケも巻き添えにする魂胆だったのだが。
「お、お前なぁ。そう言う事を乙女の前で言うんじゃねえよ。俺が良くても彼女が嫌に決まってるだろうが。すまなかったなチェリッシュ」
しかしこの言葉、よくよく考えれば辻褄が合わない。
チェリッシュがミケの事を気に入っている、いやそれ以上にファンである事をミケは既に知っているのだ。
抱き枕とするのに前向きであろう、その可能性の方が高いと予想したっておかしくない。
だから今、顔を真っ赤にしているのが証拠に、ミケは動揺しているのだった。
自分自身で、余計な事を口走ってしまった事に気付いているから。
しかもつい「俺が良くても」と言う、抱かれる事に抵抗がない本心がこぼれてしまった。
それがまた動揺に拍車をかける。
瞬時に想像してしまった。
抱かれている自分を。
だからその後に出た言葉が言い訳がましくなって、気が動転したのだ。
「あん? お前まさか……女の経験浅いのか?」
図星を突かれて、ミケの顔はさらに赤くなる。
それはまるで、純真無垢な猫少年が恥じらっている様としてチェリッシュに映っている。
思いがけないミケの反応に、ゴロは楽しそうに笑っていた。
すると、チェリッシュは抱きかかえていたゴロを放り投げて即座に立ち上がる。
それはもう、辛抱堪らんと言わんばかりに鼻息を荒くさせながら。
「わ、わたしは、か、構わないわよ! そ、そのミケくんさえ良ければ、一晩抱いて眠ったって…………でも、その、それは決して厭らしい意味じゃ無くて、純粋に抱っこするだけだから……だからその、ミケくんの期待には応えられないかもしれない」
しかしながらミケは、最初にこぼした本音は無視して、強引な返答をするしかなかった。
かなり過激で飛躍した事をチェリッシュは言っているが、そんな事今のミケには聞こえていない。
「だ、大丈夫だ。この飯は絶対に美味いからさ」
そうだ。
結局、これから作る料理でゴロを満足させればいいだけの話だ。
それをチェリッシュは、拒否の言葉ととったようで、脱力しながらへたり込んでしまう。
そんな二人を眺めていたゴロは、またその柔らかな膝の上に乗っかった。
「おい、いい加減真面目に飯作れよな。腹減ったって言ってるじゃねえか」
当の火付け役は既に、この甘酸っぱいやりとりに飽きてしまっていた。
とは言え、ミケもチェリッシュもそんな言葉など届いていない。
二人とも今はそれどころではないようだ。
一方は邪な妄想が漏れて心が乱れ、一方は念願叶わず打ちひしがれていたのだから。