1話 俺とプロローグ
とある一軒家レストランを営んでいた男は、いつもの様に出勤した。
海沿いに建つレンガ造りの小さな家を改造した、趣のある外観。
市場で仕入れた食材を両腕に抱えて、器用に裏口の戸を開けた。
そのまま薄暗い厨房へと入って行き、荷物を置く。
手探りせずとも、照明のスイッチが何処にあるかなど体に染みついている。
右手を伸ばし厨房の電気を点けた。
灯りが照らされて、見慣れた職場が目に飛び込んでくる。
特段変わった事ではない。
いつもの場所、いつもの匂い。
そして今日も、ここを訪れた客に舌鼓を打ってもらう。
笑顔で食事に夢中になってもらう。
そんな一日の始まり。
となる予定だったのだが。
「うぉっ、なんだお前、っておい、勝手に喰うなよ!」
ふと視線を下ろすと、さっき買い付けて来たばかりの食材の山。
隣には黒猫が紛れている。
袋の中に頭を突っ込んで、中身を引っ掻き回しているではないか。
よく見れば、ここ数日裏口から飯をもらいに来ている黒猫だった。
時折、余りものなどを恵んでたりしてたのが失敗だった。
こんな事なら、慈悲など与えなければ良かったと後悔する。
男は焦り、壁に掛けてあるお玉を手にすると、それを振り回して黒猫を追い払おうとした。
スカっ、スカっ。
しかし、出たらめに振ったお玉を、涼しい顔でいなす黒猫。
「おい、頼むから出てってくれよ!」
「やだよ。これ喰わせろよ、昨日何もくれなかったんだからいいだろ」
「ふざけんじゃねえよ! それは今日店で使う…………えっ?」
ついナチュラルに返事をしてから男は気付く。
目の前の黒猫が日本語を喋った事に。
「な、なんだこの猫……って、俺夢でも見てるのか……」
「夢じゃねえよ。その話は今度してやるからよ、これ喰っていいか?」
また喋った。
しかも、ただ喋ってる訳じゃない。
意思疎通がしっかりでき、会話が成り立っているのだ。
しかし、男はそれよりもまず、今日仕入れた売り物を救出する事に徹した。
「と、とにかくそれは喰わないでくれ。今おまえ用に作ってやるから、な? それならいいだろ?」
「おっ? わりいな。ってか、昨日飯くれてりゃこんなに腹減る事もなかったんだぜ?」
突っ込みたい気持ちを抑え、男はそそくさと調理にかかる。
この黒猫に飯を喰わせてとっとと退散してもらわねば。
日本語を話す事に疑問を持ちながらも、今はそれが最優先である。
さっさと仕込みを済ませないと開店に間に合わないのだから。
「あっ、一昨日くれたあの魚料理ねえのか? ちょっと酸っぱい小魚のあれ」
一昨日の小魚と言うと、シコイワシがあった気がする。
男はその時の記憶を手繰り寄せる。
たしかエスカベッシュだっただろうか。
シコイワシに粉をまぶして揚げ、それをワインビネガーなどが入ったマリネオイルに漬けた、要は南蛮漬けのような料理である。
前菜に食べてもらうと、食欲が湧いてくるさっぱりとした一品だ。
他にも白身魚や鮭、マグロなどを使い保存食として編み出された調理法である。
「お前あれ気に入ったのか?」
「おう。あの魚、酸っぱいのに後から後から食欲がそそられちまってよ。気に入ったぜ」
「ん~、あれは少し手間暇かかっちまうぞ?」
「あん? そうなのかよ? じゃあ、それが出来る間、なに喰えばいいんだ?」
この黒猫待つ気だ。
しかも、それが出来上がる前にもう一品所望した。
「仕方ねえな~。じゃ、大人しくそこで待ってるならちゃちゃっと作ってやるけど?」
「分かった。大人しく待っててやるよ。なに、俺は約束は守る性質だから安心しろって」
「喰えないもんはなんかあるのか?」
「いや、特にねえな~。なんでも喰わせろ」
おおよそ、猫らしからぬ――とは言え、言葉を発する時点で摩訶不思議なのだ。
何でも食するなんて事は微々たる違和感である。
こうして男は仕込みを兼ねながら、その手隙でスペイン産の生ハム――ハモンセラーノをスライスしてやる。
「お、おい、その肉喰わせてくれるのか? いつも外から美味そうだなって思ってたんだぞ!」
豚の後ろ脚を塩漬けにし、長期の間燻製にしたもの。
その形のままで仕入れて、専用の台に固定して裏腿からスライスしていく。
外から見えるカウンターに置くことで、通りすがりで横目にする人へのアピールにもなる。
「おい、早く喰わせろって! もう、俺は、涎が止まらねえよ!」
大人しく待っているとはなんだったのか。
確かに、暴れてはいないがこの黒猫、さっきからやかましい事この上ない。
もうここまでくると、猫が喋ってる事などどうでもよくなってくる。
さっさと飯を作って、開店準備を済ませないと。
紙皿の上にいくつか生ハムを切ってやり、それを黒猫の前に置いてやった。
「うほ~、なんだこのいい香り。こんな肉俺は見た事も喰った事もねえや」
そう言って、分厚めの生ハムにかじり付く。
器用に噛みついて、奥歯で咀嚼している。
少しすると、黒猫は驚いたような顔で固まった。
と思いきや突然再起動し、生ハムを一気に食べつくしてしまった。
「おい、そんなに美味かったのか? っつっても、喰うの早すぎだわ。まだもう少し待っててくれよ?」
「いいや、これでいい。美味いもんはとっとと喰わねえと掻っ攫われた時に後悔すっからよ。いや、しかし、マジでうめえなこの肉。まだ口の中に風味が残ってやがる」
まさか猫にそう言われて、男は頬が緩むなんて思ってもいなかっただろう。
これは料理人の性であるから当然と言えば当然である。
自分が作ったもの、提供したものを美味いと言われたら、それ以上の喜びなんてないのだから。
無我夢中で食べるその口元を見るだけで、男はこの仕事を選んで良かったとすら思っている。
「なかなか味の分かる猫じゃねえか。待ってろよ、今注文の料理も作ってやるからな」
とは言え、タダ飯である。
だが男は上機嫌で包丁をふるう。
まな板を叩く音もどこか軽快で、機嫌の良さが窺えた。
黒猫の口周りを見てにやけてしまう。
生ハムの脂がべっとりまとわりつき、食べかすが張り付いていたのだ。
それが意味する所に気が付かないはずがない。
美味い物を喰った証である。
「おい、まだか?」
「あと十分待て。せっかく美味いもん作ってるんだから、それくらい待てるだろ? 今喰ったって、シコイワシに充分な味が染みてないぞ? だからあと少し待て」
「ちっ、仕方ねえ。待つぞ。約束したからな」
必要な食材さえ揃えて下準備してしまえば、後は味付けしたビネガーオイルがそれらに染みわたるまで漬けておくだけだ。
その隙に男は営業の準備を済ませる。
時折、黒猫の催促が入ったが、中途半端な物を食わせるわけにはいかない。
文句を言いながらも、黒猫は尻尾を揺らせて大人しく待っていた。
「おい、十分経ったぞ!」
「お、そろそろいいか」
開店一時間前。
そろそろ従業員もやってくる頃合いだろう。
さっさとエスカベッシュを喰わせて出ていってもらおう。
とは言え、男はこの後黒猫が見せる、無我夢中の食事風景に心が癒されていた。
そして今日も忙しい夜が始まる。
そう言えば、あの猫なんで喋れるのだろう?
と、思い出したのは、閉店後の事だった。
あいつはどうしてるだろうかと、裏口を開けるとどこからともなく姿を現した。
「お、終わったのか?」
「ああ、今日も沢山の笑顔が見れて俺は満足だわ」
「そうか。じゃあそろそろいいか」
男は首を傾げる。
何がどういいのだろうかと。
次の瞬間、男は急に胸へ痛みを感じる。
それはまるで心臓を鷲掴みにされ、思いっきり握りつぶされるような。
そんな痛みだった。
「かはっ……う……」
黒猫はただじっと見つめているだけ。
男が苦しみもがき、胸を抑えて膝をつく。
次第に起きていられなくなったのか、コンクリートの床にドサリと倒れてしまった。
翌日。
男は病院のベッドにて、三十年と言う短い人生に幕を下ろす宣告をされた。
ご臨終です。と医師は言っていた。
「なあ、なんで教えてくれなかったんだよ」
「そりゃ出来ねえ決まりだからな。人の寿命は神のみぞ知るのよ。俺はこっそり教えてもらってたけどな」
死因は心筋梗塞。
厨房で男が倒れていた所を、出入りの業者が発見。
病院に運ばれたが、既に死んでいた。
「あそこにいるの俺なんだよな?」
「ああ、そうだぞ」
「で、結局お前ってなんなの?」
男は宙に浮き、もう誰からも認識されない状態となって死んだ自分を眺めている。
隣には昨日の黒猫も一緒にいた。
「俺は、そうだな……お前らが言う所の異世界ってところから来た」
「異世界? って、そりゃ小説とかで流行ってるあれか?」
「流行ってるかどうかはわかんねえ。何しろお前のような奴を異世界に連れて行く為にずっと探してたんだ」
「わけわかんねえ……」
と男が溢した途端。
黒猫の体が見る間に大きくなっていき、猫と言うよりも豹とかチーターのような姿に変貌した。
「これが俺の本当の姿だ。つっても戦うときだけで普段は小さい猫だけどな」
「ちょ、え? なんだお前、黒豹だったのか?」
「ただの黒豹じゃねえぞ? 俺は精霊獣だ。神格第三位のな」
「はっ? なんだそりゃ」
「まあ聞けよ。俺は精霊獣としてとある少年と契約していたんだけどよ。そのガキが病気で明日か明後日には死んじまう運命なんだ」
「そうなのか……可哀想にな」
「そこで、俺は神様に頼み込んで、お前のような魂を探してたって訳だ」
「なるほど、わからん」
男にすればただでさえ自分が死んで余裕がない。
そこへ来て、異世界やら精霊獣などと言われたって理解できるはずもないのだ。
「で? 俺は死んじまったんだ。お前の飯だってもう作ってやれないんだぞ?」
「そこでだ! どうだお前? こっちの世界に転生してみねえか? 俺の主人のガキはもう死ぬ運命なんだ。俺はお前のような奴に改めて主人になってもらいてえんだよ」
転生。
それの意味するところはおぼろげにしか分からない。
しかし、このまま死んでいいものか。
世界、環境は大きく変わるだろうが、悪くない事だと思えた。
それに。
男はもっともっと料理の腕を磨きたい。
その先にある笑顔をもっと見たかった。
どうせ一度死んだのだから、この際、嘘か真かわからないこの黒猫の話に乗ってやろうと決める。
「なるほど。悪い話じゃないかもな……了解した。転生させてくれ」
「おおっ、まじか! 助かるぜ! あっちでも美味い飯喰わせろよな!」
こうして男は、黒猫との契約を済ませて、新たな人生を歩む事になった。