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フォルトゥーナハルモニア~混迷の王都編~

作者: 宵千 紅夜

 涼しい風を遠くへ追いやっているのは、太陽の熱だけではなく、人の多さも手伝っているようだ。乗合馬車の客室の両壁にしつらえられた長い座席に空席は無く、狭かった。

 がたつきの酷い馬車に長い間揺られ、うつらうつらと眠気に引き込まれかけていたスパイルは、少女の驚愕の声に叩き起こされた。

「す、すごいよ! スパイル、すごく高い塔! 大きい建物もいっぱい!」

 座席に膝を付き、背もたれの上にある小さな窓に顔を押しつけて「すごい」を連発する少女に、スパイルは眠気を忘れて頭を抱えた。素直といえば聞こえはいいが、素直すぎる彼女の反応は静かな一人旅に慣れてしまっているスパイルにとってかなり対処に困るものだ。眉間のシワを押さえつつ、スパイルはため息を吐く。

「お前は、少し大人しくする事を覚えてくれないか……? 一緒に居るこっちの身にもなってくれ……」

 それでもリコルはときめきを隠せずに窓に張り付き、外の景色を食い入るように見ている。そんな様子を、彼女の隣に座っていた老人がニコニコと眺め、声を掛けてきた。

「お嬢さん、王都は初めてかい?」

「は、……はい!」

 さすがのリコルも少し騒ぎすぎたと思ったのか、きちんと座りなおし、照れたようにはにかんだ。

「えーと、私はずっと田舎に住んでいたので……」

「そうかい、そうかい。若いうちは色々と見て勉強するといい」

 端からみると、仲の良い孫と祖父のようにもみえる。スパイルは話の弾む隣を横目でみて、ため息をひとつついた。彼にとって、港町プエルタから王都ファーヒルがこんなに遠いと思う旅は初めてだった。

 リコルはスパイルの心配に気づきもせず見知らぬ老人と打ち解けている。だが、彼女は普通の少女ではない。一角族という大変珍しい種族の中でも、さらに珍しい二本の角をもつ者なのだ。今は帽子で隠されているが、そのすぐ下の正体がいつばれてしまってもおかしくは無い。人とかかわるたびに、スパイルはリコルの正体を誰かに気づかれてしまうのではないかと肝を冷やしているのだが、彼女の性格上、人と関わるなというのは土台無理な話である。

 リコルと老人の話が一段落する頃に、馬車は停留所へと着いた。

 初夏の陽射しに輝く白塗りの壁に、鮮やかな朱色の屋根が連なる昼前の街並は、人の通りも、馬車の往来も多く活気にあふれている。

 スパイルは馬車から降り、凝り固まった背骨を伸ばしてから荷物を担ぐと、ふと思い出したように後ろを振り返り、リコルの姿を確認する。なにも悩みなど無い晴天のような青灰色の瞳と目が合い、スパイルは一つ大きく息を吐いた。

「いいか、先に言っておくが、ここで自由行動は無しだ」

 その言葉に、リコルの顔にはすぐさま抗議の表情が浮かぶが、スパイルはそれを押し込むように睨みつける。

「プエルタで、単独行動を許したときのことを覚えているな?」

 その言葉にリコルはぐっと声を詰まらせた。互いに忘れるわけもない。プエルタの街でリコルは単独行動の末、北の大陸から諸々の事情で逃げてきた少年たちと知り合い、仕事に協力する事になったのだ。しかも、それは裏路地に入らないということと、他人と極力接触しないという約束を二つとも見事に破ってのことである。彼女をまた一人で歩かせて、不用意に知り合いを増やすのは危険としか言い様がない。

「約束を破ったのは悪いと思ってるけれど、でも結果的にっ――」

「おー! まさかと思ったが、スパイルじゃあねえか」

 リコルの声をさえぎった主はズカズカと距離を詰め、振り返るスパイルの背を挨拶代わりにバシッと叩いた。うっすらと無精ひげを生やした初老の男性の姿を認め、スパイルは少しだけ表情を緩める。

「ゲンさん。久しぶりです」

「おう。んで、この嬢ちゃんがどこぞで拾ったって言う?」

 表情が和らいだのもつかの間、スパイルはその言葉に固まった。王都にリコルをつれて来たのは当然初めてで、彼女を連れるようになってからもそんなに経っているわけではない。では、その短い間に、一体どこからこの老人は噂を聞いたのか。

「ゲンロクさん。……一体その話をどこで?」

 いきなりの事態に目を白黒させているリコルを、興味深げに眺めていたゲンロクは顔を上げて気のいい笑いを見せた。

「おう、怖い顔しなさんなって。お前さんの話題が真っ先に入ってくる情報源なんて、大体限られているだろうが」

 スパイルの硬い表情の眉間にシワが寄る。その脳裏に浮かぶのは、万年ヘラヘラ顔の青年しか居ない。

「それってスクラ?」

「嬢ちゃんも知ってるか」

「うん。プエルタで一緒だったんだけど、行く所があるからって別れちゃった」

「そうかそうか。そりゃよかったなぁ。あいつが一緒だとスパイルの眉間のシワが3割り増しだからなぁ。そのうち頭が縦に割れちまう」

 リコルが話の取っ掛かりをつかんだとでも言うようにパッと顔を上げる様に、スパイルはまた軽い頭痛を覚えた。共通の知人が居ると人は打ち解けやすいもので、リコルとゲンロクはスクラの話題に花を咲かせている。

「まあ、しかし、スパイルがこういう趣味だとはな。どおりで――」

「なっ、何の話ですか。違います。いくらゲンさん相手でも怒りますよ」

 眉をひそめて訂正するスパイルに、ゲンロクはニヤニヤっと笑って横目でリコルを見る。当の少女は何のことか分かっていないようで、きょとんと目を丸くして二人のやり取りを眺めた。

「まあ、まだこれからだろうが、先のことなんか分からんもんさ。な、嬢ちゃん?」

 ゲンロクに肩をポンポンと叩かれると、リコルは一層わけが分からないというように首をかしげ、スパイルはもう否定する気力も出なかった。

「そうだ、ご祝儀には安いが、ちょいといい情報をやろうじゃねえか。王都警護隊の連中が、この辺で最近ヤンチャをやってた赤いトカゲに懸賞金をかけたぞ」

 その言葉で、ため息混じりに肩を落としていたスパイルの顔つきが変わった。目を閉じ、一度深く息をするとゲンロクの話の先を促した。

「ゼブルって奴でな。やり口も汚ねぇ上に、最近は気に入らないとなると敵味方関係なく色んなやつらを殺してるもんで、傍目にも気になる奴さ」

「尻尾ですか?」

「いや、ここらの仕切りを任されてるんだ、それなりに上等な奴さ。警護隊も生死不問と出してきたもんだ。まあ、こっちもヤルときゃヤルぞっていう、奴らへの牽制ってなこともあるだろうがな」

「そう……ですか」

 少し考え込むように目を伏せる。スパイルはずっと『赤いトカゲ』の情報を追いかけてきている。ハイヤール大陸全土を股に掛ける犯罪組織である『赤いトカゲ』に恨みのある人間はおよそ数えられないほどいて、スパイルも根深い因縁がある。

 懸賞金もかかっているというのであれば、いつもならすぐに情報収集に走るところであるが、今回はいつもと状況が違う。ゲンロクの横で、いつもどおり何も考えていないような悩みのない顔で首をかしげる少女と目が合った。

「情報、ありがとうございます」

 とりあえずスパイルはゲンロクに軽く礼を告げた。

「おう。手ぇ出すにしろ、出さないにしろ、気ぃつけろよ? 奴ら、裏町のガキを使い走りにするみたいだからな。油断すんな」

 スパイルがうなずくと、ゲンロクはニッと笑って二人に背を向けた。

「じゃ、俺はしばらく北の大陸に渡るから。元気でな。生きていたら、またどっかで会おうぜ」

 そういってヒラヒラと手を振るゲンロクにスパイルは別れを言った。

「ねえ、今の人って誰なの? スパイルが敬語でびっくりしたんだけど。スクラの知り合い? それに、赤いトカゲって?」

 ゲンロクとは逆に、街の方へ歩き始めたスパイルをリコルは駆け足で追い、隣に並んでから今までとっておいた疑問をしゃべりだす。スパイルはひと時の平穏が過ぎたことを悔やむように肩を落とした。

「あのな、俺にだって頭の上がらない人くらいいる。ゲンさんは、俺が故郷から出てきたときに、色々と世話になった人でな」

 歩きながら、ちらりとリコルのほうを見ると、彼女はスパイルの話を聞きながら嬉しそうに笑っている。スパイルは別に面白い話をしたつもりも無く、首をひねった。

「どうした?」

「え? だって、スパイルの事をこうやって教えてもらうのって初めてだなーって思って」

「……俺の身の上話なんて、楽しくないだろ」

 ふいと顔をそむけて話を打ち切った。リコルは「そんなことはない」と食い下がったが、スパイルはもうそれ以上話をするつもりがなかった。故郷を離れて久しかったし、何よりも家族のことを話したくはなかった。白い石畳がまぶしくて、スパイルは顔を上げた。

 噴水のある大きな中央広場は、目まぐるしく配達人や馬車、荷車が行き交い、脇には露店が立ち並び賑わっていた。異文化の混ざり合う港町のプエルタとは違い、街全体の様式が統一されて白を基調としており、布などで思い思いに作られた色とりどりの露店の屋根がよく映えている。

 広場を過ぎるかというあたりで、雑踏の中から怒声が響いた。往来を人の間をすり抜けながら走る少年は馬車にぶつかりそうになるも、飛びのいて止まることなく逃げてゆく。その後ろからは、いかにも強面な男が二人追いかけていた。

 身を乗り出しかけたリコルの腕を捕まえると、スパイルは彼女を元の進行方向へと引きずりながら進む。

「また面倒ごとに、自分から首を突っ込むつもりか?」

「でも……」

「でもじゃない。どこの街もそうだが、この街は特に貧困層の地区が荒れている。そういうところのいざこざはキリがないんだ。係われば無駄に危険に身をさらすだけだ」

「じゃあ何でスパイルは私を助けてくれたの!」

 振り向かないまま全てを切り捨てるかのように話すスパイルに、リコルは納得できずに反論した。

 「……なりゆきだ。探し物の件だって、お前が素直に故郷に帰ると言えば、しないほうが良いと俺は思っている」

 返事に一拍ほどの間があったが、リコルは何も気が付かなかったらしい。本来すぐにでもリコルを故郷に送り届けるところ、探し物に付き合っているという話を出されてしまえば、彼女の立場は弱かった。一度だけ広場を振り返ったが、リコルは小さく肩をおとしてスパイルに従った。

 宿へ向かう中、「なぜ助けたか」という話がそれ以上持ち上がることなく、スパイルはどこかホッとしていた。

 どうしてリコルを助けたのか。どうしてリコルの探し物を手伝うのか。そのためにスパイル自身ですら、普段なら選ばない選択肢をいくつも選んでいることに気づいているが、明確な答えを言葉にするのを避けていた。ズキッと一瞬だけ右目に痛みが走る。

 ――……そう、助けたのは偶然だ。ただの気まぐれだ。俺にそうできるだけの力があったからだ。

 そう自分に言い聞かせ、スパイルはそれ以上考えることをまた放棄した。


***


 少しくすんだ木目の天井をぼんやりと眺める。宿のベッドでリコルは暇をもてあまして、何度目かの寝返りをうった。広場での一件から、何も言えない状況のまま宿に着き、そのまま当初の宣言どおり部屋に置いていかれてしまった。当然ながらついて行くと反論はしたのだが、前の街で約束を破った責任も感じていないわけではない。正論を並べられてしまえば折れるしかなかった。

 思い返せば、スパイルの言うことはいつも正論ばかりだ。危ない探し物などを続けずに、大人しくスパイルが故郷を見つけてくれるのを待って、送り届けてもらえばいい。大事な形見のペンダントとはいえ、無事に帰るためなら取り戻さなくても、亡き母は許してくれるだろう。安全に帰るためには仕方のないことだ。

 ――でも……。

 リコルは横向きに寝たまま、身を縮めて自分の体を抱いた。望みが無いわけではないはずだ。何もせずに、全て諦めてしまうことはしたくない。

 棺おけで静かに眠る母の顔がよぎった。

 リコルが七歳の頃だった。もとより体の弱かった母が亡くなったとき、誰もが『仕方が無かった』と言って泣いていた。父に手をひかれながら何度もそんなつぶやきを耳にするうち、幼い彼女の心にその言葉は忌むべきものとして刻み込まれていった。

 『仕方が無い』それは全てを諦める一言だ。今、自分が直面しているのは、死という動かせない事実とは違う。あの頃は幼くて何も出来なかったが、今はきっと違うはずだ。挑戦もせずに、足掻くことすらせずに、全てを放棄して諦めることだけは、絶対にしたくなかった。

 ――お父さん、ごめんね。諦めたくないの……。

 それに、帰り道を探してもらうにしろ、自分が招いた状況で、自分が何もせずに解決を待つということもリコルには許せないことだった。やはり、スパイルが帰ってきたら、一緒に行動することを交渉してみよう。リコルは心の中でうなずいた。

 力のこもっていた腕を緩め、リコルはベッドから起き上がって窓辺に行くと窓を開けた。一階である上、路地に面している部屋のため、窓からの景観はまったくと言っていいほど良くない。それでもわずかに見える青空を見上げれば気分転換くらいにはなる。

 石畳を足音が近づいてくる。リコルが空から視線を戻したかどうかという時に、その足音は目の前で止まった。

「ちょっとごめんっ!」

「わっ!」

  有無を言うよりも早くその足音の主はリコルを押しのけ、窓から部屋に飛び込んだ。その勢いでリコルは後ろに倒れ、頭を床に強か打ちつけ、かぶっていた帽子も床に転がる。

 打ちつけた頭を押さえながら飛び込んできた主を見ると、それは土汚れの目立つヨレヨレの服を着た、彼女と同じ歳ほどの少年で、路地を過ぎていく数人の足音から隠れるように頭を低くしていた。少年は、路地の音が小さくなるのを聞いてとりあえず胸をなでおろしている。

「なに、君。誰かに追われているの?」

 リコルが声をかけてやっと少年は彼女を見たらしい。ぎょっとした少年の視線が頭に集中しているのに気づいて、リコルはすぐに落とした帽子を拾い深くかぶった。

「ちょっと、色々失礼でしょ。なんなの、君」

「あ……ああ、ごめん。悪い奴に追われていたんだ。助かったよ」

 少年は窓から少しだけ頭を出して様子をうかがったが、脅威は去ったらしい。すぐにリコルの方へ向き直った。

「ねえ、その角って本物? ゴブリン? オグル? サティロス?」

 さっきまで人に追われていた少年が、今度は嬉々として様々な人鬼の類の名前をあげるものだから、なんだかおかしくなってしまってリコルは噴き出した。

「そんなのじゃないよ。一角族。角が二本あるのは珍しいけれど」

 リコルの言葉に、少年は目を見張った。今まで会った人たちは、特に反応を見せなかっただけで、やはり一角族というのは珍しいのだろう。リコルは変にこそばゆい気持ちになった。

「あ、私の名前はリコル。君の名前は? なんで追われていたの?」

「ハンスだよ。あれは、ちょっとヘマをしちゃってさ。まあ、裏町ならこんなこと日常茶飯事さ」

「裏町……? って」

 リコルが聞きなれない言葉に首をかしげると、ハンスは目を白黒させてからため息をついた。

「僕みたいな孤児や、貧しい人の住んでいる地区さ。そんなことも知らないなんて、君ってば箱入りのお嬢さんだったり?」

「ちがっ……、その、今までずっと故郷から出たことなかったから……」

 お嬢さんなどという縁遠い言葉にリコルは首をブンブンと横に振った。それを横目にハンスはやおら立ち上がると、服の汚れを軽く払いながら部屋を見渡した。

「君、一人で旅行?」

「ううん。今は……、ちょっと留守番。私が目立つと危ないからって」

 思い出してリコルは口を尖らせる。だが、留守番のおかげでまた面白いことが起こったのだ。そう悪いことばかりではない。

「そっか。ともかく、助かったよ」

 ハンスがにっこり笑ってリコルに手を差し出した。それを彼女も握り返すと、ハンスは笑って窓から出て行った。リコルは後姿を少し見送ったが、すぐに路地の影に隠れて見えなくなってしまい、肩を落とした。


***


 高い塔のそびえるファーヒルの白い街並みは、いつ訪れても変わらずせわしない。訪ねた酒場の女主人も営業時間外ということもあってか出掛けているようで、スパイルは雑踏に足を向けることとなった。

 昼下がりになり、中央の広場に並ぶ露店の数は多少減っていたが、それでも人は誰もが急がしそうだ。白い石畳の雑踏をあちこち歩き、やっと見つけたその後姿にスパイルは声をかけた。

「マダム・バレンティーナ」

「あら、スパイルじゃない。いつ来たの」

 声をかけられた女性は、顔を上げて目を丸くする。バレンティーナは金髪をアップにまとめた中年の女性で、情報屋などが集う隠れた酒場の女主人だが、太陽のもとで見てもそれなりの美人だ。

「まあ、いいわ。久しぶりなんだし、お茶でもご馳走するから。ほら、こっちこっち」

 彼女はニコニコとして、返事を聞くよりも早くスパイルの腕を引いてズンズンと進んでいく。彼女は押しが強いところがある。癖のある者の多い情報屋の集う酒場を切り盛りするのには、これくらい必要なのかもしれない。こんなのはいつものことで、スパイルは肩を落としつつ成すがままについていった。

 スパイルとバレンティーナは通り沿いの喫茶店の一角に腰を落ち着け、いつファーヒルに着いただの、軽い近況を報告し合う。スパイルがファーヒルに来たのは久しぶりであったが、ゲンロクからも聞いたとおり、赤いトカゲのメンバーに賞金がかけられて騒がれていること以外は特に変わったことは無いようだった。「お待たせいたしました」と店員の少女が、注文した紅茶を持ってきたため二人の会話はぷつりと途切れた。

「で、わざわざ私を探していたって事は、何か頼みでもあったのかい?」

 店員が去ってから、バレンティーナは温かな湯気の立つ紅茶に手を伸ばしてスパイルに尋ねる。

「ああ、最近の盗品、特に宝石関係の流れに詳しい情報屋を紹介して欲しかったんだ」

 スパイルはテーブルに両肘を着いて手を組み、横目で窓の向こうの通りを眺めながら言った。たった一つのペンダントを探すのに、当てもなく一つずつ情報を聞いて探して回っても時間の無駄である。物流の多いプエルタの街で少し情報を探してみたが、結局パッとするものは無かった。こうなったら最近の盗品の主な動きを押さえ、その流れに沿って探す方がずっと効率的だ。

 バレンティーナは白いカップをテーブルに置くと、形の良い唇に手を持っていき少しの間考えていた。

「そう。そうかい……。ああ、あいつならいいかね。たぶん大丈夫だよ。じゃあ、今晩にでもうちの店に来るように言っておくから」

「ああ、頼んだ」

 これで見当がつかなければ次の手を考えなければいけない。スパイルは小さくため息をついた。

 窓ガラスの向こうの通りでは子供たちがはしゃぎながら駆けて行き、その後ろから母親らしき女性があきれたような、それでいて温かな笑みを浮かべながら過ぎていった。

 目をそらすように視線を動かし、スパイルは目に映った手付かずの紅茶に手を伸ばす。

「そういえば、あの話は本当なのかい?」

 目線をあげると、バレンティーナと目が合った。その表情から窺うに、どうやら彼女はゲンロクと同じ話を聞いているらしい。というよりは、おそらく彼女の店であの男は喋っていたのだろう。赤い髪のヘラヘラ顔が脳裏に浮かび、心の中だけで舌打ちをした。

「また、眉間にシワ作っちゃって。分かりやすい男だね」

 バレンティーナがクスクスと笑うので、スパイルはため息をつく。

「リコルのことか。変に勘繰らないでくれ。ただのなりゆきなんだ」

「それにしても、さ。どんな子だい? 一緒に連れてくれば良かったのに」

「まだガキなんだ。悪い連中がウロウロするような場所に連れて行くわけにはいかない」

 腕を組んで目を伏せると、スパイルは少しだけリコルのことをバレンティーナに話した。誘拐されて故郷から離れてしまったこと。親の形見を探していること。形見が見つかるまでは帰らないと言っていることなどだ。

 人に説明することで改めて振り返らせられるが、彼女については『無謀』の一言に尽きる。彼女には何の力も才能も無い。形見探しだって故郷へ帰るのだって、リコル独りでは何一つ成すことが出来ないはずだ。

「スパイル」

 バレンティーナの声に、スパイルはふと顔を上げた。

「何をそんなにイライラしているんだい」

 腕組みをしている手の指を目線で示され、目をその方へ落とすと、スパイルは初めて自分の人差し指が小刻みに自分の腕を叩いていることに気がついた。目線だけを上げると静かに、まっすぐスパイルを見つめるバレンティーナと目が合う。

「何が言いたい?」

 眉間に深くシワを寄せたスパイルに、バレンティーナは少し肩を落としながら紅茶をすすった。

「家族の形見探しに付き合うのは悪いことじゃない。でもそれがあんた自身の古傷をえぐるだけなのなら、別の誰かに任せて手を引くべきだよ。その子のためにも、あんた自身のためにも」

 責めるでもなく、まくし立てるでもなくバレンティーナは静かに語った。

「彼女を助けることで、自分の過去を救えるような気がしたんだろうが、あんたにとって『家族』って言葉は、まだ苦しみと憎しみしか湧かないんだろう? だから助けてやりたくても、家族の絆を守ろうとする姿を見ていられない。かと言ってその子に八つ当たりするのはお門違いさ。自分でも気づいているんじゃないのかい?」

 スパイルは苦虫を噛み潰し、目を背けたまま押し黙った。

 右目が鈍く痛み出す。

「話がそれだけならもう行くぞ」

「ちょっと、スパイル――」

 沈黙で息が詰まる頃、スパイルはバレンティーナの声も無視して店を後にした。

 急に燦々と照りつける太陽の下に出たためか、軽くめまいを覚えたが、石畳ばかりを眺めながら、とりあえず歩を進める。

 バレンティーナの言ったことは正論だ。リコルを助けてやりたいと思ったはずなのに、どこかでイライラしている自分もいることに気がついていた。ただずっと、そのことを考えて言葉にするのを避けてきていたのだ。しかし、ずっと自分の中で無視し続けていた話の答えを、いきなり他人から突きつけられてすぐに肯定できるほど柔軟な性格ではない。

 ――家族の絆、か。

 苦々しくも先ほどの言葉をかみ締める。リコルは絶望的な状況でも諦めず、家族の絆を守ろうとしている。スパイルには、今更どう足掻いても取り戻せないものだ。

 ふと、目の前が一瞬暗くなったような感覚に囚われる。

『弱い者は、何も選ぶことが出来ない』

 記憶の中で女が、血のように赤い冷たい眼差しを向け、銃口を突きつけていた。

「くそっ!」

 スパイルは路地の壁を拳の横で思い切り殴った。じんわりと壁を殴った右手が痛み、スパイルはゆっくりと呼吸を整える。

 ――もうあの頃の自分じゃない。

 スパイルは自分に言い聞かせるように心の中でつぶやき、ゆっくりと顔を上げる。大きく息を吸ってゆっくり吐き出した。

 考えをめぐらせて歩いているうちに、いつのまにか裏町の近くまで来ていたらしい。路地の先にはいかにも裏町の住人らしい、土汚れの目立つヨレヨレの服を着た少年が、これまた裏町の住人らしい男となにやら話をしていた。貧困層の身寄りの無い子供は、そういう相手に取り入るか、食い物にされるかの選択を迫られる。生きていくためには汚いことでもしなければいけない。日のあたらない、恵まれない世界では当たり前の光景だ。

 自分も運が悪ければ、あの少年と同じような道をたどっていたかもしれないと頭の片隅で思いつつ、脇道へと抜けて宿への道をたどった。


  宿のドアを開けると、主人の帰りを待っていた子犬のようにベッドから跳ね起きるリコルが目に入り、スパイルはうんざりとしながら目をそらした。

「お帰り。ねえ、どうだっ……た?」

 相変わらず能天気なリコルだったが、スパイルから何かを感じたのか、その言葉尻は急降下し、最後には首をかしげた。

「別に目新しい話はない。夜に情報屋と会う約束をとりつけてきただけだ」

 目も合わせずに短く言い切ると、スパイルは倒れこむように空いているベッドに横たわった。こんな状態で眠っては、悪夢しか見ない気がするが、少し考えを放棄して休みたいのは事実だった。

「具合……悪いの?」

 隣のベッドから心配する声が聞こえるが、背を向けて顔を半分枕に埋めたまま「違う」とだけ答える。

「えーと、じゃあさ。散歩に行こう! 気分が晴れない時は体を動かすと気がまぎれるんだよ」

 いきなりの提案に、スパイルの眉間にはシワが寄ったが、リコルからは横になった背中しか見えていないため気づいてはいないだろう。

「私がもっと小さかった頃ね、落ち込んで帰った時にはいつもお父さんが一緒になって心配してくれて、散歩に行こうって言ってくれるんだけど、私はそんな気分じゃないってごねるの。しまいには私が大声で泣き出したりして、お母さんがびっくりしてね――」

「少し黙れ!」

 思いのほか語気が荒くなってしまい、スパイルは内心で舌打ちをしたが、願ったとおり話がぴたりと止んだのでリコルの方を見ず、無理に目をつむった。

 静かになった部屋には、身じろぎをする自分の衣擦れの音がやたらと響くような気がする。黙り込んでしまったリコルは、今どんな顔をしているのか。望みどおりの静けさに、なぜか息が詰まるのを感じた。

 スパイルは眉をよせつつ溜め息をつく。

 バレンティーナの言うとおり、八つ当たりもいいところだ。やや的を外してはいるが、リコルの提案は彼女なりの気遣いの結果であり、たまたまタイミングが良くなかっただけのことだ。

 スパイルは身じろぎすると、リコルに背を向けた状態で体を起こした。

「……怒鳴って悪かった。ちょっとイラついていたんだ。それに……家族の話は、あまり聞きたくない」

 謝罪というよりは言い訳に近い言葉しか出て来ず、自分の大人げなさにまた自己嫌悪を覚える。今まで独りの時間が長かったせいか、こんな時は人と関わらず、じっと頭の中の暗雲が去るまで耐え忍ぶという対処法しか覚えてこなかった。

 スパイルが膝に肘をついて、うなだれた頭を掻いていると、リコルはそれまで座っていたベッドから立ち上がり、スタスタとスパイルの前にやってきた。

「ねぇ、スパイル」

 その声に顔を上げてみれば、リコルはにっこりと微笑んでスパイルの右手を彼女の小さな両手で包み込んだ。

「おまじない、してあげる」

 怪訝そうな顔をするスパイルに有無を言わさず、リコルはその額をスパイルの額にあて、手を握り締めたまま目をつむった。

「目を閉じて、イメージしてね。今、抱え込んでいるモヤモヤとかイライラを、こう、ぎゅーって丸めちゃうの。どんどん、どんどん丸め込んで、手の中で小さな種にするの。いい?」

 子供騙しなおまじないだったが、優しく力を込めて握られる手に、スパイルは何も言わず目を閉じた。

「それでね、その種を地面に埋めるイメージをする。そうしたら、きっとその種は、いつかスパイルに実りをもたらしてくれるんだよ。すぐには芽吹かないかもしれない、途中で枯れそうになるかもしれない。でも、そうなったら、私も出来ることは手伝うから。ね?」

 そう言ってリコルはスパイルから額を離すと、にこっと笑ってみせた。

 彼女はなんの力もない、ただの少女だ。むしろ誰かに護ってもらわねばならない程だ。それなのに、スパイルは心の中の何かが少しだけ軽くなるのを感じていた。

「子供騙しだな」

 そういって顔をそらすが、先ほどまでの憂鬱さは無かった。子供騙しといわれて口を尖らせたリコルの頭に、彼女のいたベッドから拾った帽子をかぶせる。

「気晴らしに、何か食べに行くぞ」

「本当! やったー」

 それを聞いて飛び跳ねんばかりに喜ぶリコルに背を向けたまま、スパイルは自分がほんの少しだけ笑っていることに気がついた。

 宿を出て、暖かい午後の日差しのあふれる通りをリコルの歩調に合わせて歩く。誰かと一緒にいるということは、存外悪いことでもないのかもしれない。スパイルは、そんなことを頭の隅で感じていた。


***


 商店の並ぶ通りを見て歩いたり、夕食を食べて宿に帰るころにはすっかり日が暮れていた。リコルは、備え付けのランプに火を灯すとベッドに倒れこんだ。

 宿まではスパイルと一緒だったのだが、情報屋と酒場で会う約束があるからと言って彼女を置いてスパイルは再び出て行ってしまったのだ。ごろりと寝返りをうって仰向けになると、帽子が脱げてパタリと頭の横に転がった。脱げた帽子を手にとって、目の前に掲げて眺める。淡い赤色のキャスケット。角を隠しながらも堂々と外を歩けるようにと、スパイルがくれたものだ。

 置いていかれたことはやはり不満であるが、観光で来たわけでは無いといいつつも街を少し一緒に見て回ってくれたし、何より今のスパイルに対して、無理を言うのは申し訳ない気がした。

 長い付き合いでなくとも、今日の彼がおかしいということはすぐにわかった。ピリピリしているのに、どこか悲しそうで、とても不安定な雰囲気をまとっていた。

『……家族の話は、あまり聞きたくない』

 スパイルの言葉を思い出す。そう言った時の彼は、どんな顔をしていたのだろう。背を向けていても声は苦しそうで、リコルは居ても立ってもいられず、気がつけば彼の手をとっておまじないをしていた。

 母親を早くに亡くし、家族の大切さを誰よりも分かっているリコルにとって、スパイルの家族の思い出が悲しいものであるということがとても辛かった。だから、子供騙しのおまじないだとしても、何かをせずには居られなかったのだ。

 眺めていた帽子を胸に抱く。迷惑をかけるばかりではなく、自分も彼の力になれたらと強く思った。

 ベッドに寝そべったまましばらくたった頃、コツコツと窓を叩く音が響いた。身を起こし、音のした窓のほうを見ると急かすようにまたノックが繰り返される。

「リコル、いるんだろ! 大変なんだっ!」

 聞き覚えのある声に窓を開けると、血相を変えたハンスが肩で息をしながら膝に手を付いていた。

「君の連れ合いが、悪い奴らに」

「スパイルがっ! 嘘……だって、今日は情報屋と会うだけだって……」

「僕が、その情報屋までの案内役だったんだけれど……。昼も見ただろ、ああいう連中に待ち伏せされて……。僕のせいなんだ。スパイルは、僕を逃がすために……」

 ハンスは申し訳なさそうにうつむいて肩を震わせた。その様子からするに、彼も命からがら逃げてきたのだろう。思いもよらない事態に、動揺してしまいそうになるが、それではこうしてリコルに伝えに来てくれたハンスの勇気が無駄になる。

 気持ちを落ち着かせるように、リコルは胸に手を置いて大きく深呼吸をして帽子を深く被った。

「スパイルは、きっと無事だよね?」

 その言葉にハンスは顔を上げてうなずいた。それを見たリコルは、迷いも無く宿の窓から冷たい月明かりの照らす石畳に降り立つ。

「スパイルがどこにいるか、見当がつく? 助けに行きたいの」

「危ないよ……?」

 それでも行くのかと確認するように不安の眼差しを送るハンスを安心させるように、リコルは笑顔をつくって見せた。

 スパイルが捕まってしまうような相手だ。怖くないと言えば嘘になる。けれど、それを聞いて知らない顔を出来るようなリコルでもない。それに、スパイルは何の得にもならないのにリコルを助けてくれた。

 ――今度は私が頑張る番だ。

 リコルの目を見てハンスは一度うなずくと、彼女の手をひいて走り始めた。

 人通りのある大通りを横切り静かな小路へ抜けて、月明かりに照らされた二つの小さな影が闇に染まる街を走り去る。

 少女を先導する少年の口元にうっすらと浮かぶ笑みに、気づくものは誰もいなかった


 しばらく走った頃、目に入る町並みはすっかり様相を変えていた。大通りや広場のように綺麗に整えられた建物はなく、外壁にヒビや汚れの目立つ民家が密集している。ファーヒルの象徴ともいえるような高い鐘楼もその地区には一つしかなく、それもボロボロで古かった。住んでいる者もその町の姿を体現しているようで、細い路地にはボロ布に包まった人がうずくまり、明かりのついている窓からは時折怒声が響いた。

 リコルは横目に流れていく景色を見ながらも、不安を振り払うように頭を振る。いざとなればスパイルにもらった短銃があるということも、彼女を強く支えていた。

「……怖いかい?」

 ひと気のない教会の裏手に出たとき、先を進んでいたハンスの足が止まった。

「ちょっと、ね。でも平気」

 ここにスパイルは捕まっているのだろうか。リコルも立ち止まってあたりを見渡した。

 石造りの古い教会の裏だ。民家よりも大きいことと、その屋根に教会のシンボルが掲げられていることでかろうじて教会だと判断できるが、今でも使われているのか疑わしいほど外観はみすぼらしい。風が強く吹き、雲が月を覆い隠す。

「ハンス、ここにスパイルがいるの?」

 月明かりを失った濃紺の闇の中でハンスはゆっくりと振り返り、にぃっと嫌な笑みを浮かべた。

「誰だっけ、それ」

 再び顔を出した月に照らされたハンスの目が酷く冷たく、背筋が凍りつく。

「う、嘘。どういうこと?」

 騙された。そう結論付けるしかない状況だが、信じられないというようにハンスを見返す。スパイルが悪い奴に捕まったと知らせてくれたときの申し訳なさそうな顔、助けに行くと言ったときの心配そうな顔、どれも嘘には思えなかった。

 背後に数人の足音が聞こえ、リコルは締め付けられる心臓を押さえながらすがる様な思いでハンスを見つめた。

「上手くいったみたいだな、ハンス」

「もちろんですよ。こんな、人を疑うことを知らない田舎者なんて、簡単すぎて拍子抜け」

 リコルは何か言おうとしたが、次の瞬間にはハンスに帽子をひったくられ後ろに強く突き飛ばされていた。なすすべも無く地面にしりもちをつくと、今度は後ろにいた男の一人に襟首をつかまれ引きずり起こされる。

「ほう、言っていたことは本当みたいだな。黒髪に角。ゼブルさん、一角族です。それも二本の角の」

 襟首を掴む巨躯の男がリコルの頭をまじまじと見て、その後ろに立つ男に報告する。

 最悪な状況かもしれないという思いが頭に浮かんだ。ゼブルという名前には聞き覚えがあった。ファーヒルに着いたとき、ゲンロクがスパイルにしゃべっていたのを耳にしている。その通りの人物なら、その男は赤いトカゲという組織の人間で生死不問の賞金首だ。

 上等そうなフロックコートを纏っているゼブルと呼ばれたその男は、整えられた口ひげを撫でながら遠目でリコルを眺めて口を開いた。

「見た目も角もずいぶん貧相だな。だが、かなりの珍品だ。売値に影響はないか」

 襟首をつかまれてぶら下げられていたリコルは、男の言葉でハッと我に返り、自分を掴んでいる手に爪を立てた。

「ぐっ、このっ……」

 どさりと落とされ全身に痛みが走るが構ってはいられない。とにかくこの場を離れなくてはいけなかった。

 すぐに身を反して走り出す。ハンスのいる方向は彼一人だから、走って抜ければ逃げられるかもしれなかった。

「まったく。バロディムトゥラブス(泥の枷よ捕らえろ)」

 ゼブルが紙切れを放りなにかつぶやくと、リコルの足に泥が絡みつき逃走はあえなく阻止されて大きく前に転んだ。立ち上がろう顔を上げると、頭への強い衝撃と共に再び地面に崩れ落ちる。

「くそガキが、てこずらせやがって」

 リコルのぼやけた視界に先ほどの巨躯の男が映り、ようやく殴られたらしいことを理解した。地面に打ち付けた額に手をやると、ぬるりとした感触があり血が出ているようだった。それでも意識はしっかりしているため、打ち所は悪くないのだろうというのが唯一の救いである。

 なんとか逃げる方法を探さなくては。這いずるように体を起こすと、黒光りする革靴が目に入った。ゼブルがいつの間にやら近くに来ていたらしい。

「貴様、これはもう私の商品だ。商品に傷を付けるなと、何度言ったらわかる」

 ゼブルの一言で場の空気が凍った。異様な雰囲気にリコルはあたりを見回すが、その場の誰もが息を殺してゼブルと巨躯の男を見つめている。

「す、すみません……」

 巨躯の男が頭を下げるが、ゼブルは口ひげを撫でながら冷めた目でそれを見つめる。

「そうだそうだ。お前は前にも商品を傷物にしてくれたよな」

「あ、あれはっ」

 血の気の引いた顔で男が頭を上げると、その額にゼブルがこぶしを当てた。

「シュヴェルガイン(剣よ現れよ)」

 一瞬だった。ゼブルが囁くと同時に、その指にはめられた指輪から黒い剣が現れて巨躯の男の頭を貫いた。そのまま腕を横に薙ぐと、男はボタボタと血や何かを溢しながら崩れ落ちる。

 必然的に目の前に倒れてきたそれを、リコルは理解できなかった。数秒の放心の後、自分の身体がガクガクと震えていることに気づき、後ずさろうとするが身体に力が入らない。

「ふむ、傷はたいしたことないな」

 ゼブルに髪を鷲掴みにされ、乱暴に引き寄せられて額の傷を確認される。この男が、目の前にいた人を殺したのだ。にもかかわらず、顔色一つ変えない男にぞくっと背が粟立ち、でたらめに手を振りほどいた。それでも身体の力は抜けたまま、立つことすらままならない。

「ゼブルさん。約束通り、これはあなたのものだ。だからそっちも約束を」

 ハンスの声にゼブルの視線が逸れた瞬間、リコルは思い出したように懐に隠していた短銃を男に突きつけた。

「おやおや。なかなか綺麗な銃を持っている」

 視線をリコルに戻したゼブルは、銃を向けられたにも係わらずおかしそうに口元を歪めた。

「う、動かないで。動いたら、本当に撃つ」

 形成は有利になったはずだ。また術の込められた指輪の剣を出すにも呪文が必要で、そうなる前に引き金を引けばいい。手が震えていたってこの距離なら当たるはずだ。あとは立ち上がって距離を取って逃げるだけ。

 何度も頭の中で逃走のイメージを繰り返すが、指先は冷え切って震え、足には力が戻らない。

「お嬢ちゃん、そんなに震えていたら当たるものも当たらなくなる。撃つならしっかり、ここを撃たなくては」

 ガクガクと震える銃身をがっしりと掴むと、ゼブルは自分の額に銃口をゴリゴリと押し当てた。

「ほら、どうした? 早く撃て。撃てばそこのゴミみたく、また派手に飛び散るのが見られるぞ」

 ゲラゲラと笑うゼブルの後ろに転がるものに一瞬だけ目を落としてしまい、こみ上げてくる吐き気を抑えようと必死で歯を食いしばった。

「いいか、銃ってのはこうやって使うんだ」

 リコルの手から銃はあっさりもぎ取られ、次の瞬間には乾いた破裂音が響いていた。空になった手で、震える自分の肩を抱きつつリコルが恐る恐る振り返ると、ハンスが目を丸くして血の流れる肩を押さえていた。

「ふん、小さい銃はどうにも当てにくいな」

「ど、どうして……。約束が違う」

「約束って物は、対等な相手とするものだ。それに、お前の妹は今日買い手が決まったからなぁ。残念だよ、一足遅かった」

 ハンスにはまったく興味が無さそうに、手元の銃を眺めながらゼブルが言う。その言葉を聞き終わるや否やハンスは逃げ出し、一人の男がその後を追った。

 リコルはもう一人の男に縄で縛られながら、二人の消えた路地を呆然と眺める。抵抗の意思も力も希望も、どこにも残されていなかった。


***


 昼の熱を忘れたような夜風の吹く裏路地をスパイルは一人で歩く。石造りの階段を降り、ランプが灯っているだけで看板も掲げていないドアが目的地だ。そこがバレンティーナの経営する酒場で、知っている者しか入ることが許されない場所だ。とはいえ、粗末な木のドアで、看板も掲げていなければ入ってくる者など必然的に限られる。

「いらっしゃい。好きなところに座っていて。もうすぐ来るはずだから」

 入ってきたスパイルに気づいて手を止めたバレンティーナにうなずくと、カウンター席の端に腰を下ろした。

「昼は言い過ぎて悪かったね。一杯サービスするよ」

「いや、いい。自分で認められていない正論を言われただけだ」

 前に置かれたグラスに酒を注ぐバレンティーナに、スパイルは小さく首を振る。彼女はスパイルの言葉に少しだけ目を見張り、そしてくすっと笑った。

「……なんだ?」

「いいや、何も。ただちょっとだけ、あんたが一緒にいるっていうリコルって子に会ってみたくなったよ」

 少し楽しげなバレンティーナに釈然としなかったが、スパイルは出されたグラスに手を伸ばした。

 その時、ドアが開いて顔見知りの若い男が一人入って来た。確か彼は情報屋ではあるが、今回の目的とは畑が違う。一応バレンティーナに目をやるが、彼女も違うと首を振った。

「お、スパイル。久しぶりじゃん? 今日もトカゲ関連? いい情報あるよ」

 そう広くもない店内だ、顔見知りの情報屋はスパイルを見つけるなり隣にやってきて腰を下ろした。

 情報屋というのは、どうにも馴れ馴れしい人間が多い。人の懐に入って情報を集めるのに有利だからかもしれないが、時折鬱陶しく感じてしまう。

「残念だが、今日はトカゲじゃない」

「ん? そうなのか。じゃあ、さっきの……」

 得心がいかない顔で言いよどむ男にスパイルは首をひねった。

「さっきの? 何の話だ」

「お前今日、帽子をかぶった女の子と一緒だったろ? その子がさっき、裏町のガキと一緒に走っているところを見たんだ。ちらっと見ただけで確証はないが、トカゲに使われているガキだったはずから、てっきり内偵でもさせているのかと――」

「いつ! どこで見た!」

 情報屋の男が言い終わるより早く、スパイルは身を乗り出した。いきなりの豹変に男はしどろもどろになりながら答える。

「ついさっきさ。ここに来る途中、大通を横切って東地区方面だったな、そっちに走って行ったよ」

 ――あの馬鹿がっ!

 スパイルは頭を抱えた。リコルの事だ、スパイルが目を離した隙に裏町の少年と知り合い、何らかの理由で言いくるめられて外に出たのだろう。彼女が一角族だと知られた可能性もある。というより、おそらく知られたのだろう。でなければ誘い出される理由がない。二本角の一角族。生かしておいても、殺してしまっても高い値段が付く。それは彼女の命の危機を示していた。

 スパイルは数枚の紙幣を取り出して男に渡した。

「あんたが見たガキの事と、今わかる限りの情報をくれ」

「あ、ああ。俺がさっき見たガキはハンスっていって、中々稼ぐらしく、使い走りの中でも頭一つ出ているんだ。ゼブルから直々に命令が下ることもあるとか」

 最悪だと、スパイルは眉間のシワを深くしてため息をかみ殺した。

「で、ここからは俺が仕入れた話だが、散々好き勝手しているゼブルに対しては赤の女王もご立腹らしい。近いうちに赤の女王から直々に制裁が下るって噂がある。これはかなり有力な情報だ」

 その言葉で、スパイルは右目に鋭い傷みを覚え思わず手で目を覆った。脳裏に血まみれの白い服を着た女の姿がよぎる。

「だ、大丈夫か?」

「平気だ。続けてくれ」

「……あとは、詳しい場所まではわかっちゃいないが、ゼブルがトカゲの幹部やらの目を逃れてなんかをやる時は、トカゲのアジトじゃない隠れ家を使っているらしい。ごうつくばりな男でな、そこに隠したものの売り上げは全部自分のものにしているって。まあ、こんなとこだ」

 情報屋に礼を告げると、スパイルは席を立った。

「バレンティーナ、すまないが――」

「わかっているよ。約束の相手には私から言っておく。あんたは早く行ってやんな」

 スパイルはうなずくなり外へ飛び出した。

 状況は差し迫っている。リコルが一角族であるとゼブルに知られたと思って行動すべきだ。そうなると、欲深いらしい男のことだ、降って湧いた金の羊の分け前をみすみす減らすわけがない。おそらく隠れ家という場所に隠すはずだ。探すべきは隠れ家。あとは殺されていないことを祈るしかない。

 宿に着き、確かめるまでも無いリコルの不在を確認して、スパイルは置いていた革の鞄から猟銃を取り出した。

 銀色の銃身が、つけっぱなしのランプの光を反射している。

『赤の女王から直々に制裁が――』

 刺すような右目の痛みに、頭を垂れて目を押さえた。忌々しい目は赤く色づいているのだろう。

 赤の女王。それは赤いトカゲのリーダーを示す言葉。

 スパイルがハンターとなっておよそ十年、ずっと赤いトカゲの情報を追ってきた。それはすべて、その一党の首領、赤の女王を討ち取る為だった。

 大陸を股に掛ける犯罪組織の首領だ。一介のハンターが追うには雲を掴むような相手で、今まで得た手がかりはすべて、あと一歩及ばなかったり徒労に終わったりしていた。

 ――でも、今回はゼブルの居場所を暴いて見張っていれば、あの女が現れるかもしれない……。

 首都であるファーヒルの管理を任せている者に、中からも外からも批判が高まっているのだ。首領自らが動いて制裁を下すのは妥当で、なによりも赤の女王は規範から逸脱する者に厳しかった。

 彼女が現れる可能性は極めて高い。千載一遇の機会だ。

 リコルの危機とはいえ、そちらはそんなに差し迫ったことではないのではないだろうか。彼女には一角族ということだけではなく、二本の角という付加価値がある。バラバラに角を切り落として宝飾品として売るより、希少価値を押し出すことを考えるだろう。どちらにしろいい値段が付くことには変わりないが、売るなら生きている方が価値がある。そう簡単には殺されないはずだ。

 ジリッとランプの芯が微かな音をたてて火を揺らめかせる。

『おまじない、してあげる』

 一瞬、少女の声が脳裏によみがえった。

 ――……馬鹿げている。

 何に対してそう思ったのか答えを出さないまま、スパイルは深く息を吐いて顔を上げた。彼女の無事の保障など無い。今はとにかく助け出すべきだ。

 弾を込めた銃を肩に担ぎ、闇の深まる街へと走り出した。


 大通りを過ぎ東地区に入ったスパイルは、あたりが見渡せる場所を探した。大通りとは違い貧困者の多い東地区は背の低い建物が多い。高い建物といえば限られてくる。スパイルは遺棄されたらしい古い鐘楼を駆け上がり、天辺からぐるりとあたりを見渡した。

 息を殺して耳を澄ませ、異変の一つも見落とさないように目を走らせる。乾いた風が一瞬強く吹きぬけ、錆付いている鐘を振動させた。

 裏路地をトボトボと歩くやせっぽっちの子供ら。ボロ布を引きずりながら歩く女。何かから逃げるように走ってゆく男。肩を押さえながら走る少年。少年の手に、赤い帽子が握られている。

 少年の後ろからは銃を持った一人の男が、まるでウサギ狩りでもするように余裕の笑みを浮かべながら追いかけている。

 スパイルは猟銃を構えると右目に意識を集中させる。距離も夜の闇も、障害とならない。走る男の背を銃口で追い、煙突や屋根が横切っていく。

 風が止んだ一瞬に、スパイルは引き金を引いた。


 裏町らしいといえば裏町らしいが、誰も倒れている男に目を向けようともしない。鐘楼を出て仕留めた男の倒れている場所に着いたスパイルは、男の所持品などを確認するが使い込まれた傷だらけの銃の他は特に何も無かった。だが、右手の甲に赤い顔料で描かれているトカゲの刺青が、男が何者かを示していた。

 スパイルは顔を上げて男の向かおうとしていた方向を見る。余裕の顔で少年の追跡をしていた訳がよくわかった。その道の先には点々と血痕が続いており、明らかな目印となっていた。

 血の道しるべを追い路地を曲がると、積まれた木箱に寄りかかってうずくまる、文字通り手負いの獣のような少年と目が合った。少年は肩を押さえ荒い息をさせたままギラリと光る目でスパイルを睨みつけるが、赤黒い血で染まった服が彼の衰弱を物語っている。

「お前がハンスだな」

「人違いだ」

「その帽子はリコルの物だろ。言い逃れはいいから知っていることを答えろ」

 距離を詰めながらスパイルが問いただすと、帽子をずっと握っていたことにようやく気づいたらしいハンスが弱々しくそれを放り投げ、壁に背を預けて苦笑した。

「猟銃にその目……。なんだよ、あいつが『スパイル』って言うから、まさかとは思ったけど、本当に『オッドアイのスパイル』かよ」

 ハンスの言葉から、スパイルは自分の右目が赤く変わったままだと知った。右目の力が発動する時には常に痛みが伴うのだが、今日はそれを忘れたように鎮まっているため変化に気が付かなかったのだ。

 いつもならその右目の存在を忌々しく思うのだが、今日ばかりは都合が良かった。通り名とは便利なもので、それと知っている人間に対して無駄な労力を割かずに済む。リコルの帽子を拾いながら冷ややかな目を向けた。

「知っているならわかるだろ。俺はリコルみたいに甘くない。さっさとあいつの居場所を言え」

「知らないね、騙されるあいつが悪い」

「それについて否定はしないが、素直になった方が身のためだぞ」

 スパイルがハンスの襟首を掴むとしばらく睨み合いになったが、すぐに少年のほうが視線を外し、力なく笑った。

「ははっ……力がある奴らはいいよな。そうやって奪って、奪われたらまたぶん取り返す。俺たちみたいに弱い奴らは、どんだけ足掻いたって踏み潰されるだけだ。……アンナを……妹一人すら助けられやしない」

 その言葉でスパイルはおおよその事を悟った。見た目の良い孤児が攫われて売られるというのはよくあることだ。おそらくこの少年も妹が赤いトカゲにつれて行かれ、返して欲しいのなら妹一人分の代金を稼いで買い取ればいいと吹き込まれたのだろう。確かに、争う術のない少年にはそれが妹を取り返す最善の手だが、その言葉通りに稼ぎ、家族を買い戻せた人間を見たことはない。

 スパイルは掴んでいた襟首を離した。

「だからなんだ。同情はしないぞ」

「ははっ、こっちこそ願い下げだ。……リコルはたぶん、この近くの教会の地下だと思う。その付近であいつを引き渡した。奴ら徒歩で来ていたから、人間一人を抱えて大移動はしないはずだろう?」

 お前なら自分の大切な人を助けてやれるのだろう、という恨めしさを含んだ声でハンスがつぶやく。それから彼は壁に背を付けたままズルズルと崩れて地面に座り込んだ。立っているのもつらいのだろう。出血はまだ続いており、すぐにでも手当てをしなければ彼の命は危うかった。

 諦めたように目を伏せたハンスをスパイルは見下ろす。血にまみれ、すべてを諦めた少年の顔にどこか見覚えがある気がした。

 少し考えてそれが何なのか思い当たる。そういえば、自分が独りになったのも、ハンスと同じくらいの歳だ。スパイルは眉間にシワを寄せて大きくため息をついた。

「……俺も、運が悪かったらお前と似たような道をたどっていただろうな」

 スパイルはポケットから紙とペンを取り出し、ある場所の住所と人の名前を書くと、訳がわからないというように首を捻っているハンスに渡した。

「医者だ。闇医者だが腕がいい。今の情報料代わりに、治療費は俺の名前でツケとくように言っておけ」

「……なんで」

「普通ならお前みたいなひねくれたガキはぶん殴って放って置くんだが、そうすると後でうるさい事を言うヤツがいてな」

 スパイルはハンスに背を向けて面倒そうにつぶやくと、振り返らずに教会へ向けて走り始めた。

 たとえ自分を騙した相手だとしてもリコルは心配するだろうが、助けた理由はそれだけではなかった。身寄りも無く無力なまま世界に虐げられている姿が、昔の自分に重なったのだ。幸いなことにスパイル自身には銃の才能と父の遺品の猟銃があったし、父と交友のあったゲンロクが身の処し方を教えてくれたため、ハンスのように裏社会に落ちることは無かった。

 そこまで考えてスパイルは頭から考えを払った。仮にそうだとしても、何の義理も無い孤児を助けるなど、今までの自分からは考えられないような行動だ。

 ――全部あいつのせいだな。

 眉根を寄せすべての責任をリコルに押し付けて考えを棚上げし、今は彼女を助けることに集中することにした。


***


 石で出来た階段を下りる足音がする。リコルは目隠しと猿ぐつわをされた状態で縛られ、荷物のようにゼブルの手下の肩に担がれていた。

 先ほど捕まった場所からそう遠くないところで建物内に入ったようだが、視界を遮られているためそこがどこかわからない。とにかく足音や階段を下る感覚から察するに、どこかの地下なのだろう。

「後で足の腱を切っておけ。また逃げようとされても面倒だ」

「わかりました」

 ゼブルと手下の会話に絶望しか感じられず、リコルは力なくうなだれた。過去に二回、悪い人間に捕まっても難を逃れてきたが、一度目は偶然の隙に、二度目はスパイルに助けられてのことだった。三度目の幸運はおそらく訪れないだろう。

 ――私は、なんて無力なんだろう……。

 自分の無力さを改めて痛感する。思い返せば、今まで上手くいってきたリコルの無茶は、すべてスパイルに助けられてのことだった。何か手助けをしたいと思っていたはずなのに、彼には迷惑しかかけていない。

 リコルの消えた宿に戻ったスパイルは、何を思うだろう。心配して探しに来てくれるだろうか。あるいは、いい加減愛想を尽かされ、捨てていかれてしまうかもしれない。そうだとしても、自業自得だ。もう、ここから逃げ出せても誰も助けてはくれないのだ。

 これからどうなってしまうのか、リコルは自身の身を案じた。殺されて角を切り落とされるか、希少種コレクターに売られるか、見世物にされるか。どんな結果も想像したくない。気持ちが、石を飲み込んだように沈んでゆく。

「ん?」

 ゼブルの足がぴたりと止まり、二人の手下も歩みを止めた。

「どうしました?」

 狭い廊下のせいか、手下の声が反響する。ゼブルは答えずにしばらく黙り込んでから、小さな声でつぶやいた。

「妙だな……。おい」

 何かの気配を感じたのだろう、ゼブルは手下に警戒態勢を取るように静かに指示を出し、そのうちの一人を先行させて足音を忍ばせながら進んだ。突き当たりなのだろうか、少し進んでまた歩みが止まり、小さく軋んだ音をさせて木のドアがゆっくりと開けられる。

「あっ! 貴女はっ」

 先行した者が驚愕に声を上げ、すぐさま床に武器を置き跪いた。その声にゼブルは木戸を蹴破らん勢いで飛び込み、悲鳴のような声を上げた。

「ヴェ、ヴェルメリア、様っ! 何故……ここに」

「部下の行動の把握は、上司として当然でしょう? 後ろの者も、まずは中に入りなさい」

「……っ」

 落ち着いた女性の声に、ゼブルはギリリと音がするほど歯を噛んだ。

 痺れるように緊張した空気が場に漂い、視界がふさがれて状況のつかめないリコルにも、それがただ事ではないことがわかる。リコルは広い空間らしい部屋の床の隅に転がすように下ろされ、ゼブルの手下たちは少し離れたところに控えさせられた。

「ご機嫌麗しゅう、ヴェルメリア様。本日はブラウ様とファルファレッタ様までお揃いで……。このような場所まで足をお運びになられて、どの様なご用件でしょう」

 緊張を含んだ声になりつつも、毅然とした態度を失わないゼブルに、先ほどとは別の女性の声が返事を返す。

「演技がお上手でいらっしゃるのね。役者になられた方が宜しかったのではなくて?」

「ファルファレッタ、口を慎め」

 低い男の声はブラウと呼ばれた男だろう、その声がクスクスと笑いを漏らすファルファレッタをたしなめる。

「さて、ゼブル。我々がここに赴いた意味を尋ねたが、解らぬような痴れ物ではないだろう?」

「こちらの隠し財産の事でございましょうか? それでしたら申し訳ありません。しかし、ブラウ様。お言葉ですが、この程度の個人的な財の蓄えなど、取るに足らない――」

「そうね」

 弁明を連ねようとするゼブルの言葉は、ヴェルメリアの放った静かな一言に飲み込まれて消えた。

「確かに貴方の言う通り、ここが貴方の隠し財産の倉庫だとしても、この程度の着服は些細な話。ファーヒルの支部に訪ねて行ってみれば、そこには居ないという事だったからここへ来てみただけよ。そのようなことで目くじらを立てるつもりはないわ。ただ」

 穏やかに語っていたヴェルメリアがそこで一度言葉を切る。唾を飲む音すら聞こえそうな静寂が漂った。

「貴方、少し派手に殺しすぎ」

 静かであるのに、心臓を刺し貫くような冷えた声にリコルは血の気が引いていくのを感じた。これがもし自分に向けられた言葉だったら、心臓が止まっていただろう。

 ブラウの落ち着いた声が、ゼブルの罪状を読み上げていく。

「押さえているだけで二十九名。うち十六名は裏町や敵対勢力の者。八名が部下。五名が民間人。民間人のうち一人は、遠縁とはいえ王室に縁ある貴族の者だ」

「敵対者について罪は問わないわ。しかし、貴方の安易な行動でファーヒルの警戒はとても強まっている。さらに、恣意的な部下殺しは組織の結束を揺るがし、優秀な次世代の芽を摘む行為でもある。責任は重大よ」

「くっ」

「私たちは無法者では無い。守るべき規範もあれば、超えてはいけない領分もあるわ。それを犯した罪は重い。よって――」

「っ、シュヴェル――」

 ヴェルメリアの断罪の言葉に抗うようにゼブルは呪文を叫ぼうとするが、何かが空を切る音の後、床に固いものが落ち、続いてカチッと剣が鞘に収まる音だけが響いた。

「ぐぅっ!」

 苦しそうなうめきを上げたのはゼブルだった。生臭い鉄錆のような臭いが辺りに漂い、リコルは顔をしかめて吐き気を抑えた。おそらく腕を落とされたのだろう。目隠しをされていてむしろ幸運だった。

「ヴェルメリア様の御言葉。最後まで聞け」

「くそぅ……」

 何事も無かったかのように告げるブラウに、ゼブルは低くうなった。

 その時、リコルたちが入ってきたところとは別のドアが開く音がし、何者かが駆け足で入ってきた。

「ヴェルメリア様、急ぎお伝えしたい事が」

「なにかしら?」

「この場所に赤いトカゲがいるというハンターの通報を受け、王都警護隊がこちらに出動する準備を整えております。内偵の者の話によると、通報したハンターは単独で先行したそうで、もうじきここに着くものと思われます」

「報告ご苦労様。下がっていいわ」

 報告を聞き終えたヴェルメリアは、伝令を男を下がらせ逡巡するように黙った。それにブラウとファルファレッタが言葉を掛ける。

「王都側の動きが思ったより早いようですね」

「いかがなさいます? 予定通りこの男、回収いたしますの?」

 フッと小さく笑ったヴェルメリアは椅子から立ち上がり、コツコツと歩を進める。音からすると、ちょうどゼブルのいるあたりだ。

「ちょうどいいわ。彼らに花を持たせてあげましょう」

 一発の銃声がして、重たい砂袋が落ちるような音が続く。

「私たちで始末をしてもいいけれど、追いかけていたキツネが手に入れば、森にいた狩人は引き上げ――」

 ヴェルメリアの言葉はそこで止まった。一度しゃがみ、何かを拾い上げたようだった。

「ヴェルメリア様、何かございまして?」

「……この銃は」

 ブラウがヴェルメリアに歩み寄り、その手の中のものを確認するとつぶやいた。

 銃と聞いて、リコルは肩を竦めて出来るだけ気配を殺した。捕まるときゼブルに銃を奪われ、そのまま彼は懐にしまっていたのだろう。この状況で注目を集めればどうなるか、考えるだけで身体が震えた。

「あなたたち、これは? ゼブルは銃ではなく術を使っていたと思ったけれど」

 ゼブルより後方に控えさせられていた手下たちにヴェルメリアは声を掛ける。

「そ、そちらは、あの子供が持っていたものです」

 手下の男の言葉に、リコルは固唾を呑んだ。コツリ、コツリと近づいてくる音がとてもゆっくりと感じられる。

 それはついに、すぐそばで止まった。

「あなたは――」

 ヴェルメリアの声を遮るように、建物のすぐ近くで銃声が響いた。

「先ほどの伝令が言っていたハンターの襲撃でしょう。すぐに引き上げるべきかと」

 ブラウの声に、ヴェルメリアは踵を返すとリコルから遠ざかった。コトッと何かの上にリコルの短銃を置くと、声高に告げた。

「退却します。ゼブルの首により王都の警戒はいずれ沈静化するでしょうが、それまでの間ファーヒルでの活動は一時縮小します。今の内容を支部の皆に伝え、後任が決まるまでの間はブラウが指揮を執るように」

「承りました」

 ブラウが頭を下げ、他の者もそれに倣った。

「その子は、いかがなさいますの?」

 ファルファレッタが問う。

「捨て置きなさい」

「もったいないですけれど、ヴェルメリア様がそうおっしゃるのなら仕方が無いですわね」

 口惜しそうに独りごちるファルファレッタを伴いヴェルメリアが部屋を去ると、残ったものもそれぞれに散り、残されたのは縛られたままのリコルと動かなくなったゼブルだけだった。

 当面の危機は去り、リコルは何とか呼吸を整えようと深呼吸をしてみるが、震えた息しか吐くことが出来ない。

 それでもわずかながら冷静さが戻ってきた。この場所に攻め込んできたハンターとやらがスパイルではなく、賞金首に惹かれて来た他人であった場合、リコルにとっては逃げなければいけない対象に変わりは無い。とにかく縄を解いてここから脱出しなければいけなかった。

 後ろ手に縛られた縄はきつく、手首の皮膚がすりむけるほど捻っても緩む気配は無い。足も同様に自由が利かず、床に転がったままリコルは必死に縄と戦った。

 廊下を進む足音が聞こえた。

 動きを止めて、リコルは息を殺す。おそらくハンターだろう。向こうはこの広間の様子を窺っているに違いない。リコルはもう祈るしかなかった。

 しばらくの静寂の後、木戸が静かに軋んだ。

「リコルっ!」

 願っても無かった聞き覚えのある声に、リコルは震えながらも安堵の息を洩らした。駆け寄ってきたスパイルに助け起こされる。肩に触れた、知っているはずの彼の手は、温かくとても頼もしかった。

 目と口の拘束が解かれ、片目だけ色は違うが見慣れた男の顔を目の前にして、やっと全身の力が抜けた。

「怪我は……額だけか?」

 ナイフで手際よく縄を切りながらスパイルが訊ね、リコルはうなずいた。

「めまいや吐き気は?」

「今のところ無い」

 しっかりとしたリコルの受け答えに安心したようにスパイルは息をつくが、すぐに鋭い顔に戻ると自分の上着を彼女に着せ、フードを深く被らせた。

「警護隊がすぐに来る。その角、しっかり隠しておけ」

「わかった」

 リコルの返事を確認すると、スパイルはあたりを見渡した。

「あれはゼブルか? いや、見なくていい。ゼブルなんだな?」

 顔を上げようとしたリコルのフードを押さえるようにしてスパイルは聞いてきた。おそらく酷い状態なのだろう。彼の気遣いに従って目を伏せ、小さくうなずいた。

 スパイルがリコルのそばから離れる。死体を確認しに行ったのだろうか。突然恐怖が戻り、リコルは押さえるように自分の肩を抱いた。

 心細さは感覚を狂わせ、何分も経ったように錯覚させたが、それは数秒ほどだったのだろう。スパイルは何かを手にリコルのそばに戻ってきた。

「リコル。これ、撃ったのか?」

「ちがうっ、殺してないっ」

「落ち着け、ゼブルのことじゃない。これだ」

 震える声で見上げたスパイルの手には、きれいなままの短銃が握られていた。

「発砲済みみたいだが」

「あ……」

 それを見て、リコルは目を逸らしながら首を振った。ゼブルと対面したあの時、ひるまずに撃っていたのなら捕まることも無かったのではないか。せっかく護身用にと渡されたのに、自分にはちゃんと使うことができなかった。

 うなだれるリコルの頭にスパイルの手が置かれる。

「いい。自分で渡しておいてなんだが、少し安心した」

 そういうと、スパイルはリコルを抱えあげた。何事かと首をかしげてリコルはスパイルの顔を見る。いつもどおりに戻った金の双眸が入り口のドアを見据える。

「ここを離れるためだ。黙っていろ」

 スパイルの言葉にうなずくよりも早く複数の足音が廊下から響き、広間に入ってきた。軍服を着た男たちがスパイルに気づき、銃や剣を向ける。

「王都警護隊です。止まってください」

「俺は通報者だ。ハンターのスパイル・グラックス。ゼブルはそこで死んでいる。確認してくれ」

 隊長と思われる人物が部下に指示を出し、広間の中ほどで倒れている人物を確認しに行く。部下がその遺体を確認しうなずくと、隊長は武器を下ろさせてスパイルに敬礼した。

「失礼しました。そちらは?」

「俺の連れだ。ゼブルに捕まっていたのを助けたが、ショックが大きいようで動けないんだ。早くどこかで休ませてやりたいんだが」

 隊長と目が合うと、リコルはフードが脱げないように小さくうなずいた。

「わかりました。聴取などがありますので、用が済み次第すぐに戻って来てください」

「わかった」

 そういうとスパイルはリコルを抱きかかえたまま広間を後にした。


***


 リコルを抱えたまま何人もの警護隊とすれ違い、教会を出てから小さく息をついた。警護隊の隊長に言ったことは本当のことだったが、それよりもリコルが一角族であることを知られる事のほうが怖かった。さすがに王都の正式な兵士であるから略取されることは無いにしろ、彼らによってリコルの存在が噂となって拡がればよからぬものを呼び寄せてしまう。

 ――とりあえず、一段落だな。

 腕の中に大人しく納まるリコルに目を向ける。月がすっかり雲で隠れた闇の中、その表情はいまだにこわばっている。

 相当な恐怖だったのだろう。いつもの調子なら、このように抱えて歩いていれば、自分で歩けるだの子供扱いするなだのと憎まれ口を叩きそうなものである。しかし、捕まった相手を思えばそれも仕方の無いことだ。

 赤いトカゲ。その王都での仕切り役ゼブル。今まで捕まってきた相手とは格が違いすぎる。さらに、捕まったと思えばその男の処刑に居合わせてしまうという、考えただけでも最悪のコースだ。

 今更痛みを思い出した右目にスパイルは、ぐっと目をつむった。

 リコルの居た広間には硝煙がかすかに匂い、ゼブルの遺体はまだ体温が残っていた。

 ――あいつが居たんだ、あの場所に。

 手に力がこもりそうになるのを抑え、スパイルはリコルを抱えなおす。今は無事にリコルが戻っただけでも良しとしなければ。

 バレンティーナの酒場の前に着き、スパイルはリコルを下ろした。宿に戻っても良かったのだが、また彼女を一人で置いていくことには色々な不安があった。

 あれだけ痛い目を見ればもう一人で出て行くことは無いだろうが、同じ場所に戻ればリコルの存在を知った残党に襲われる危険もあったし、何よりも今の彼女には安心が必要だろう。

 見たことの無い場所に不安そうなリコルを横に、スパイルは店のドアを薄く開けて顔を覗かせた。

「バレンティーナ、ちょっといいか」

 スパイルの手招きにすぐ店の外に出てきたバレンティーナは、小さな子供のようにスパイルの後ろに隠れたリコルを見つけてホッと胸をなでおろした。

「大丈夫だったかい」

「ああ、なんとか。それで、悪いんだが少し預かって欲しい。警護隊の聴取に付き合わないといけないんだ……」

「スパイル、でもっ」

 置いていかれると悟ったリコルは、怯えと警戒を含んだ目で訴えるように服の裾を引いた。

「リコル、大丈夫だ。この人は信用してもいい」

 スパイルはリコルの背中を軽く押し、バレンティーナの前に出した。

「バレンティーナ、リコルは一角族なんだ。なるべく人目に触れさせないように匿って欲しい」

「そうかい。任せておきな。ああ、それよりも額に怪我をしているじゃない。痕が残ったら大変じゃないか」

 身を屈めてリコルの顔を覗き込んだバレンティーナは、いたわるようにその頭を撫で、リコルは一瞬だけ面食らっていたがすぐに頭を下げた。

「お世話になります」

「うん、いい子だね。この鍵でそこの裏口から上に上がって。私の部屋があるから、ちょっと待っていなさい。すぐに行くから」

 自分は店の方から上がるからといって、リコルに鍵を渡してにっこりと笑うとバレンティーナは店に引っ込んだ。

 いつもどおりのバレンティーナにため息をつきつつ、スパイルはリコルの顔を窺ったが、もう怯えた様子も無いのでほっとしてその頭に手を置いた。

「すぐに戻る。安心して休め」

「……うん。あ、それ」

 うなずいたリコルが、スパイルのポケットからはみ出した帽子を見つけた。返そうと思って取り出すが、あちこちに血が付いてしまっているためそのまま渡すのは少しためらわれた。

 迷っていると、リコルが手を伸ばしてきたので手渡す。

「ありがとう」

「血が付いている。洗わないとな」

「うん。ねえ、これって……ハンスが持っていたの?」

 リコルは帽子をそっと握り締めながら訊ねた。

「ハンス、銃で撃たれてた。……無事、かな」

 自分を売った相手をよくも心配できるものだと思いながらも、リコルならそう言うだろうという予想もしていた。

「お前は、騙してきた相手まで心配するんだな。ああいうヤツを助けても、恩を仇で返されるのが落ちだ。それに、もっと酷い境遇のやつだって腐るほどいる。全部を助けてやることなんて出来ないんだし、心配するだけ無駄だぞ」

 たしなめるつもりで皮肉を言うが、うつむいて帽子を握るリコルにいつもの勢いは無かった。

「スパイルの言うとおりなんだと思う。私じゃ何もしてあげられないし……でも、やっぱり知っちゃったら放って置けない」

 信じた相手に裏切られたショックと、不幸な境遇の相手を見捨てられない気持ち。優しい人間に囲まれて育ってきたリコルにとって、初めて感じる複雑な気持ちなのだろう。

 スパイルはリコルの頭をフードごと雑に撫でた。

「まあ、お前が底抜けの馬鹿なのはもう知っている。見捨てたらお前がうるさそうだったから手を貸した。アイツはたぶん無事だろう」

 リコルがパッと顔を上げた。驚きと安堵が混ざった顔に、スパイルは少しだけ口元を緩めた。

「ほら、バレンティーナが待っている。さっさと手当てしてもらえ」

 それだけ言うとスパイルはリコルに背を向けて、再び東地区の教会へと歩き始めた。




 教会へ戻ると、警備隊の兵士の数は減っており、一通りの調査は終わっている状態のようだった。

「グラックスさん、戻りましたか。それでは調査にご協力願います」

 兵士の一人の若者がスパイルに気づくと、軽く敬礼をして先ほどの地下広間へ案内された。

 元は倉庫や教会の者の生活の場として使われていた場所なのだろうが、ゼブルの隠れ家として使われている今はがらんとして、大きなテーブル一つと椅子が数脚あるだけの広間だ。広間には扉や通路がいくつか見えるため、奥にもまだ部屋が続いているのだろう。

 床に転がる遺体には布が掛けられていた。

「ここに訪れた時の事を聞かせてください」

 スパイルを案内した兵士が数枚の書類とメモを手に尋ねる。

「教会の外に見張りが二人。戦闘になり一人を射殺、もう一人は組み合いの末、縄で拘束して教会の一階に放置した。拘束した男から地下に続く通路の事を聞いて突入したところ、地下の広間でゼブルが倒れていた。以上だ」

「ありがとうございます。逃走する人物などは見ていませんか?」

「見ていない」

 そう答えると兵士は難しそうな顔をしてうなずいた。それもそうだろう。手配犯がいるという情報を聞きつけて来て見れば死体で発見され、通報者は手を下していないという。となれば、浮かんでくるのはあの存在だ。

「……赤の女王」

 スパイルのつぶやきに、兵士は苦い顔をしながら首を縦に振った。

「はい、おそらくそうでしょう。赤いトカゲの中でも、ゼブルに反発する声が高くなっていたという噂が聞こえていました。ですが、あなたのおかげで闇に消される前にこうして押さえることが出来たわけですし、公式な発表ではハンターよりゼブルの遺体が引き渡されたとなるでしょう」

「嘘は吐いていないな」

「ええ、余計な事を伝えて、人々の不安を煽る必要はありませんから。我々の仕事は、秩序を守ることです」

 それでも悔しそうに語る兵士を横目に、スパイルは布で覆われて搬出されるゼブルの遺体を眺めた。赤の女王に繋がる糸は切れてしまった。

 ――いや、いいんだ。リコルがいるから、今回は元々トカゲを追うつもりもなかった。

 自分にそう言い聞かせてそれからは、なかば上の空で兵士の質問に答えつつ、スパイルはふと思い出したように顔を上げた。

「そういえば、ここに攫われてきた子供はいたか? もしかすると知人の子供がいるかもしれないんだが」

「奥の部屋にいました。身元の聞き取りをしましたが、ほとんどが裏町の孤児で……」

 兵士が言いよどむのも無理は無い。身寄りの無い子供は聞き取りのあと解放されるが、当然のようになんの保障も保護も無く、また裏町に放たれるだけだ。

 スパイルは兵士に頼み、子供の捕らえられている部屋に案内してもらった。広くも無い部屋に、五、六人の子供が座ったりうずくまったりしている。野良犬のように警戒した眼差しを向けるもの。どことも無くぼうっと宙を眺めるもの。明かりが灯されているのに、部屋は暗いような気がした。

「この中に、ハンスを知っているやつはいるか?」

 望みは無いかもしれないが乗りかかった船のついでのおまけだ。スパイルは部屋にただ一言を放り投げた。

 返事は無い。諦めて部屋を出ようかと思ったとき、ドアのそばにうずくまっている少女がスパイルを見ていた。

「お兄ちゃんは……生きているの?」

 リコルよりも少し幼いくらいで、ハンスに似ているようにも見える。スパイルは少女の前にしゃがんだ。

「お前、名前は?」

「アンナ」

 名前を聞いてうなずくと、スパイルは少女についてくるように言った。

 アンナを伴い部屋から出ると、先ほどの兵士が声を掛けてきた。

「いましたか」

「ああ、このまま送ってやっても大丈夫か?」

「ええ、聴取も終わりましたので、ぜひそうしてあげてください。ゼブルの懸賞金については、明日、警護隊事務所にてお渡ししますので。ご協力ありがとうございました」

 兵士はどこかほっとした様な顔を見せ、スパイルに敬礼をした。スパイルも軽く礼をするとアンナをつれて教会を出た。

 少し歩いてから彼女のほうを振り返ると、探るようにじっと見つめる瞳と目が合う。いつから自分はこんなに面倒見が良くなったのかと内心でため息を吐きつつも、スパイルはアンナの前にしゃがんだ。

「お前の兄は今、俺の知り合いの医者のところにいるはずだ。そこまで案内する。あとは自由だ。……少し南西に行ったところにパーリエント農場ってところがあって、いつも人手が足りないとかいっていたが……。まあ、好きにすればいい」

「……なんで」

 どこかで聞いたのと同じアンナのつぶやきに、スパイルは笑ってしまった。

「同じことは何回も言わない。お前の兄に聞け」

 不思議そうな顔するアンナをつれて、スパイルは再び歩き始めた。


 スパイルはアンナを目的地まで連れて行き、知人の医者に引き渡すとハンスの顔を見ずにバレンティーナの酒場に戻った。医者の話によると、ハンスはなんとか助かるだろうということで、それだけ聞ければ十分だった。

 時間も遅かったためバレンティーナの酒場に戻ったとき、店のドアはもう閉まっていた。裏口のドアへ回り、ノックをするとすぐにバレンティーナがドアを開けて迎えてくれた。

「ずいぶんかかったね」

「色々あってな。リコルは?」

「今は寝ているよ。でも相当参っているみたいで、なかなか寝付けなかったみたいだけれど」

 スパイルは通されたリビングで肩にかけていた猟銃をやっと下ろし、椅子に座った。ランプの柔らかい明かりの中で、ゆっくりと息を吐く。時間にすれば数時間だが、解けた緊張感は疲労を一気に思い出させた。

 スパイルは両肘を突いてテーブルに頭をうなだれた。

 バレンティーナがスパイルの前にカップを置く。顔を上げれば、温かい湯気の昇るお茶が淹れられていた。

「お疲れ様」

「ああ、迷惑をかけてしまってすまない」

「たいしたことはしていないよ。大丈夫」

 向かいの椅子に座り、バレンティーナはゆっくりお茶を飲んでから微笑んだ。

「それよりも、リコルちゃん。あのこは良い子だね。大事にしてやりなさいよ?」

「大切にするも何も、あいつが自分で厄介ごとに突っ込んでいくんだがな」

 呆れ気味に笑って、スパイルはお茶を一口飲んだ。ハーブか何かだろう。すっきりしたお茶の香りに、疲れが和らぐようだった。

「あんたがいない間にね、少しリコルちゃんとしゃべったんだけど、あのこが宿から連れ出された口実はなんだったと思う?」

 穏やかに笑いながら問うバレンティーナに、スパイルは首を捻った。リコルのことだから、多少の危険がわかっていても、助けてくれといわれたら誰にでも手を貸してしまいそうだ。

 首を振ったスパイルに、バレンティーナはふふっと笑いながら答えた。

「あんたが悪い奴らに捕まった、だってさ。私だったら、引っ張られても行きたくないねぇ」

 その言葉にスパイルは顔をしかめた。誘い出す方はスパイルの存在を知らなかったとはいえ、それで出て行くリコルもリコルだ。たとえそれが本当だったとしても、なんの力も持たないリコルでは、死にに行くようなものだ。もうため息しか出てこない。

「馬鹿だ。……本当に、何でそんなことが出来るんだろうな」

 スパイルは視線を落とし、カップの中にでもこぼすように小さくつぶやいた。

 リコルの勇気は、ただ無知ゆえの勇気なのかもしれない。何も考えていないだけかもしれない。それでも、何ものにも果敢に立ち向かってゆく彼女を少しだけうらやましいと思った。もし、かつての自分も彼女と同じ事が出来たのなら、今は変わっていたのだろうか。

 大きく息を吸い、ため息を吐く。過去に対する「もし」など、どれだけ考えても訪れるはずもない。

 カップの水面に浮かぶ黒い自分の影が揺らめいた。

「あいつといると調子が狂う」

「あんたの調子は凝り固まりすぎだからね。少し狂わされるくらいで丁度良いんじゃないかい?」

 バレンティーナの言葉にやめてくれと苦笑いをしつつ、スパイルはお茶を啜った。

 

 スパイルはお茶を飲み終わってからリコルの眠っている部屋を覗いた。リコルは横を向いて身を縮め、布団に半分顔をうずめるように眠っている。

 宿にリコルを連れて帰っても良かったのだが、眠っているところを起こすのは気が引けたし、バレンティーナもゆっくりさせてやれと言ってくれたので、好意に甘えることにした。窓辺に目をやると、バレンティーナが洗ったのだろうリコルの帽子が干してある。

 ぽつぽつと、窓ガラスに雨粒が当たり始めた。耳を澄ませば微かな雨音がしている。

「スパイル……?」

「悪い、起こしたか」

 小さなつぶやきに振り返ると、先ほどの体制のままのリコルが布団から顔を出していた。

 ベッドから少し離れたテーブルに持っていた燭台を置くと、スパイルはリコルの顔を覗き込んだ。ロウソクの明かりのみで薄暗いからはっきりとはしないが、助けた直後より顔色は良くなっているし、怪我もきれいに手当てがされていた。

「今夜は泊まっていいとバレンティーナが言ってくれた。ゆっくり休め」

 そういってベッドから離れようとしたとき、跳ね起きるように身を起こしたリコルに袖口を引かれる。

「ま、待って」

 まるで泣きそうな声に聞こえた。

「ごめん……。なんだかうまく眠れなくて、すぐ目が覚めちゃうんだ」

 そう言って手を離すと笑ってみせたが、それがどこと無くぎこちない。まだ恐怖から立ち直り切っていないのだろう。スパイルは椅子をベッドの近くまで引き寄せて座った。

「眠るまでいてやるから、安心しろ」

 その言葉にリコルは小さくうなずく。

「そういえば、あのあとはどうなったの?」

「警護隊からは簡単な聞き取りがあっただけでおしまいだ。ゼブルは死んだし、王都の赤いトカゲは、しばらく大人しいだろうな」

 会話が途切れ、ヒタヒタと雨が窓を叩く音が聞こえる。リコルはしばらく布団を握り締めたままうつむいていたが、窺うようにスパイルを見て訊ねた。

「赤いトカゲって、一体なんなの? その名前が出るたびに、なんだかスパイル、つらそうで……」

 赤いトカゲという話題が出るときのスパイルの反応から、何かがあることを悟っているのだろう。正直、話して楽しい話題ではないし、係わり合いにならなければそれに越したことが無い相手だが、リコルといる間、ずっと赤いトカゲを避けていけるとも限らない。それに、一緒にいれば、隠していてもいずれわかってしまう事だ。

 スパイルは目を逸らしながらも語り始めた。

「赤いトカゲというのは、平たく言えば犯罪組織だ。ただ、とてつもなく規模と影響力が大きく、この国、リヒティエラの暗部で一位、二位を争う組織だと言われている。事件の陰には、多かれ少なかれやつらが絡んでいると言われるくらいにな。だから、赤いトカゲに恨みを持つものも多い」

「……スパイルも……そうなの?」

 遠慮がちに問うリコルに、スパイルは目を伏せて一呼吸置いた。思ったよりも落ち着いていられる。

「俺は、家族を殺された。……十六歳の時だ」

 目を閉じれば、今でもはっきりと思い出せる。

 スパイルの父親、ウェルカー・グラックスは腕の良い銃職人だった。その日、スパイルは父親の作った銃の性能を試すために、一人で森へ出ていたのだが、やがて雨が降り始めたため帰宅することにした。そして――

「家に帰って目にしたものは……血の広がる真っ赤な床と、そこに仰向けで倒れる変わり果てた父親。それと……」

 閉じたままの右目を押さえ、唇を噛む。

「全身を血に染めた、あの女が立っていた」

「あの……女?」

 赤く光る、背筋の凍るような眼差しが脳裏をよぎる。

「ヴェルメリア・ラガルト。……赤いトカゲの首領で……俺の、母親だ」

 ザーッと、雑音のような雨音が響く。リコルの息を呑む音が聞こえた。

 スパイルはしばらくの間うつむいていたが、やがてゆっくり息を吐いてから顔を上げた。

「銃を向けられながらも、なんとか逃げ延びた俺は、父親の仇を討つために赤いトカゲを追っている」

 ロウソクの火が揺らめき、うつむくリコルの横顔を照らしている。

 互いに口をつぐみ、しばらく静かな雨音を聴いていた。

「……が、それはしばらくの間保留だな。今はお前の探し物に付き合うって決めたからな」

 詰めていた息を吐き肩を竦めてみせると、リコルは目を見開いて顔を上げた。

「……一緒に、いてくれるの?」

「今更だろ。こんな所で捨てて行っても、寝覚めが悪いだけだ」

 皮肉を言って見せるがスパイルの表情は柔らかく、それがリコルの堪えていた涙を溢れさせた。

 ずっと捨てて行かれるのではないかと怯え、堪えていたのだろう。安心でこぼれた涙に、今日の恐怖と不安も合わさって一気に押し寄せたのか、しばらく止まりそうになかった。

 こんなときはどうすればいいのか、スパイルのよく知るあの男なら掛ける言葉や行動がいくらでも出てくるのだろうが、あいにく自分には持ち合わせが無いため困った顔で頭をかいた。

「その代わり、今度からは多少危ないところでも、一緒に連れて行くからな。お前は一人にしておく方が危険な厄介ごとを引き当てるらしいからな」

 気まずさに紡いだ言葉に、リコルは涙を服の袖で拭いながら、何度もうなずく。

「スパイル……ありがとう」

 しゃくりあげながら言うリコルに、スパイルは頬を掻いて目を逸らした。

 本当に、自分はいつからこんなに面倒見がよくなってしまったのか。そう思いながらも、彼女が落ち着くまでそばにいようと心の中だけで決める。

「雨……早く止むといいな」

 さめざめと降る雨の音とリコルのすすり泣く声だけが響く薄明かりの室内で、スパイルは窓に目を向けて小さくつぶやいた。

 静寂の夜をそっと洗うような雨が上がるには、もうしばらくかかりそうだった。


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