お嫁さん、ご飯をいただく。
想定外の、余計な騒動を一先ず終わらせて、スケジュール帳に記された日常に復帰する。
「今日中に取引先へ完成原稿を送らないとな。飯買ってきて、作って食って、すぐに仕事に取り掛からないと間にあわねぇ」
言いつつ玄関に回り、箪笥からコートを取りだした。昼夜の兼用になりそうな献立をいくつか浮かべ、できれば明日の朝に回せたら尚良いなと考える。ついでに朝の天気予報をふと思い出す。確かまだ寒い日々が続くような事を言っていた。
「鍋物にでもするかな」
少なくとも今夜は一人ではない様だし。と、側にいる生き物をちらりと見た。
「お買いもの~、旦那さんと一緒に、お買いもの~」
妖怪「ねこまたぞんび」は跳ねていた。付いて来る気か。
「ちょっと待て。その姿で外にでる気じゃないよな、ノラ猫」
「え、ウチなんかヘンですか?」
可愛らしく小首をかしげられる。その拍子に黒い三角耳がひくつき、二又に裂けたしっぽも「?」と揺れた。
「それだよ、耳としっぽ」
物語なんかだと、もう定番化しているお約束だった。
「隠せないのか、それ」
「あー、やっぱり目立っちゃいますかねぇ」
「目立つなんてレベルじゃねぇから」
「ほな、いっそ取りますね」
「……取る?」
「はいな。えいっ」
ぷち、ぷち、しぽっ、しゅぽんっ。
取れた。
あまりにもコミカルな効果音と共に。猫耳としっぽ(×2)がそれぞれ取れた。
「こちら、ごらんのとーり、取り外せますん」
「お、おまえはぁっ」
「ふぇ?」
「一見できが良い様に見えて、実は細かいパーツが脆くてすぐに壊れるワンコインのプラモデルかぁっ!!」
「ふぇええ~っ!?」
許せん。その適当さ。許すまじ。
「もっと自分のアイアンディディを大切にしろ! 一回キャラ付けしたなら、その軸をぶらすんじゃねぇっ!」
「き、キャラ付け? じく?」
「そうだ、おまえは仮にもネコマタなんだろう。それがなんだ、耳もしっぽもあっさり取れるとか、絵を見てくれる側はな、そういうのを見たいワケじゃないんだよ!」
一人の「絵描き」として。これまで死にもの狂いでそれなりの「キャラデザ」をこなしたきた。
そんな俺にとって。もうなんていうか、そこは突っ込まずにはいられなかった。
「ご、ごめんなさい旦那さん。でも、これで人目にはつきませんし。それに、その」
ぺた、ぺた、すこ、しゅこん。
「ね。あっさりハマりますんで」
ぴこぴこ、ふりふり、猫耳としっぽ(×2)がくっ付いた。
「着脱式、だと……?」
俺は思わず膝から崩れ落ちそうになる。
「ねぇ、旦那さん」
「なんだ」
「旦那さんは、ウチに耳としっぽがついとった方が萌えるんです?」
「おい、後半のキーワードはどっから拾ってきた」
「だって時々、お仕事しとる時に、呪文のように言うてるやないですか。萌え~、萌えってなんだ~、最近なんでもアリで、属性とかもう増えすぎてわかんねぇよ~って」
「聞き流せ。むしろ聞くな」
「はいな! ウチは旦那さんのお好きなほうで、ご奉仕させてもらいますん!」
「やめろ生々しい」
「あ、いたっ」
ノラの額を手の甲で弾く。玄関前の置き時計に目をやると、着々と時間は進行していた。もうこれ以上は付き合ってられんと思い、手早くマフラーを取り出して、自分の首にさっさと巻いた。
「わぁー、その〝もこもこ〟えぇですね。ウチにもわけて?」
「こら、ひっつくなよ」
「ちょーだい、ちょーだい。もこもこ~」
「わかった。わかったから」
首にまいたマフラーを解いてから、俺より頭ひとつ低いところにある、ノラの首元に掛けてやる。すると子供のように顔を輝かせて、その場で跳ねて喜んだ。
「ふわふわする! すっごいふわふわしてますっ! 旦那さんっ!」
「よかったな」
ノラが笑う。楽しそうに微笑まれると、なんだかんだで悪い気にならないのだから、卑怯だ。
「それじゃ出かけ、あぁ、そうか、おまえ靴もないのか」
「ウチ、べつに裸足でえぇですよ?」
「そんなわけにいくかよ」
俺よりも一回り小さなノラは、今も〝だぶだぶ〟とした俺の服を着ている。上下ともに袖口を二重に折って、ベルトも限界まで絞めて、どうにか最低限の見栄えを保っているが、靴ばかりはどうにもならないだろう。
「困ったな、さすがに俺の靴だと歩けないよな」
やっぱり留守番してろ。と言いかけ、思い出してしまった。
「旦那さん?」
「ちょい待て、靴、あるかもな」
土間の隣にある納戸を開ける。その中にはいくつか保管してあったシューズケースの箱があり、男物ばかりの中に一足だけサイズの違う、黒のアウトレットブーツが見つかった。手にした時、ほんの少し胸が軋んだ。
〝やっぱりちょっと合わなかったかも〟
〝返してくるか?〟
〝うーん、でもデザインは好きなんだよね。悩むなぁ〟
思い出してしまう。
「ノラ、これ履いてみろ」
「はいな。あ、ぴったりですん」
言って、また顔がほころんだ。こっちとしては古傷がひっかかれる気もしたが、ともあれアイツが残していった置き土産が初めて役に立った。
我ながら未練がましいと思う。
「旦那さん旦那さんっ、ほな、はやく行きましょ~」
「ちょっと待てノラ猫。もっぺん猫耳と尻尾、外しとけ」
言って、ノラと一緒に外に出た。
家の中にいくらかの時間を置いてきたせいか、
「えへへ。旦那さんとおでかけ、嬉しいよぅ」
それとも久しぶりに、隣に誰かの気配があるせいか。
雪溶けた跡が残る晩冬の空は、気持ち暖かかった。
「ひっつきすぎだ。少し離れろよ、ノラ」
「ええやないですか。この方があったかいんですもん~」
「それ、俺の呼び方もうちょっとなんとかならないか」
「なんで? ウチの事は名前で呼んでくれるのに」
「名前って〝ノラ〟かよ」
「そうですん」
へらりと笑う。屈託ない笑顔に、すこし罪悪感を覚えた。
「あのな。それ名前のつもりで付けたわけじゃないからな。他に、なにか良い呼び名があるなら変えるぞ」
「ないですん」
形の良い細眉をひそめ、今度はすねた。
「ウチの名前はひとっきりです。旦那さんの、ノラですん」
「それでいいなら、いいけどな」
「はいな!」
ぎゅっ、と込められた腕の力が増す。なまじ見目が良いくせに、素直で幼い言動も相まってか、大人の色気よりも生来の純朴さが勝る。
「えへへ。おそろい、おそろい♪」
マフラーの感触が首筋に触れる。腕をそれだけしっかり組んで寄り添われると、上着越しでも、別の感触がハッキリ伝わってきた。
(こいつ、ほんと卑怯くせぇ)
世間的に言えば「あざとい」のだろう。下着をつけてないせいか、歩く度にこっちの右腕に〝ふにふに〟した感触がやってくる。
端的に言って、デカい。エロい。
「ノラ」
「はいな」
「もうちょい離れろ」
「なんで? せっかくおんなじ高さで、おんなじもの見てるんです。ウチ、うれしゅうて、うれしゅうて。ひっつかんといられんです」
天然素材も程々にしろ。
ヘタに口を出せば自然にかわされる。余計に胸の内に入ってくる。
せめて顔を逸らさずにはいられなかった。
一番最寄にある総合店まで、市内を走るバスを使って移動した。席のひとつに座っている間ずっと、ノラは瞳を輝かせていた。バスを降りて目的の建物に入っても同じだった。
「旦那さんっ、旦那さんっ! ウチ、正面から堂々とお店のなか入るん初めてですんっ!」
「そういうことを大声で言うな」
入れ違いで出てきた主婦が、怪訝そうにこっちを振りかえってきた。俺の心境としては何かこう、きゃあきゃあとはしゃぐ「娘」の管理不行き届きを注意する、父親だか遠縁の叔父だかの微妙な心境だった。
「珍しいのは分かるがはしゃぎ過ぎるなよ。やりすぎると、警備に通報されて追いかけ回されるぞ」
「はいな。逃げる時は言うてくださいね。ウチ、えぇ裏道いっぱいしってます。後で案内しますん!」
だから、そういう事を大声で言わない。
「重ね重ね言うがな。通報されない方面での努力をしてくれよ。ところで、服は自分で買えるか?」
「はいな! ウチ、一人でブラとパンツ買ってきますね! ねぇねぇ、旦那さんっ、旦那さんは何色がえぇですか?」
これはなんだ。
新手の罰ゲームか何かか?
結局、婦人服の売り場までついていき、女性店員から「すげぇバカップルね」という冷めた眼と、生温かい笑顔に見送られて売り場を出た。
「えへへ。旦那さんに買うてもろうた。かわいいの、たーくさん」
新しく買った冬物のクリーム色のコートと、薄いピンクのマフラーを早速つけて、足取り軽く跳ねていた。おかげで俺の月単位での食費は今日消えた。
「この〝もこもこ〟ね、やっぱり気持ちえぇですん」
「よかったな」
そして俺も片手に店名の入ったビニール袋を下げ、ついでに買ってしまったワインレッドのマフラーを巻いて隣を歩いた。しかしどこまでも上機嫌なノラとは裏腹に、財布の風通しがすっかり軽くなってしまった俺は、仕事せねば……と考えていた。
「じゃ、あとは食べるもん買って帰るか」
「はいな! ごはん、ごはん~」
エスカレーターを使って地下に降りる。
その間も相変わらず、ノラはこっちの腕にひっついていた。二人で食品を売るフロアに着き、衣服の入った袋は一端、カートの下に押しやってから店内を進んだ。
「ノラ、なにか食べたいものってあるか?」
「なんでも! 旦那さんと一緒なら、なんでも食べたいですっ」
「じゃあ予定通り、鍋物にでも、ってかおまえ、ネギとかニラとかダメなんだよな?」
「そうなんです?」
「いや、猫って、そういうの食べると中毒になるんじゃなかったか?」
「旦那さん、ウチねこまたですよ。あと、ぞんびですから。へーきですん!」
そうだったな。あまり常識的に考えてはいけないのだ。
なにか、開いてはいけない悟りっぽいものを開こうとしている気がする。
「あっ、旦那さんっ!」
「どうした、やっぱり食べられない物があったのか?」
「違います! ほら、あれ! あそこの!」
「うん?」
ノラが指差した先は、日用関係のセール品が置かれた棚だった。本日限りのトイレットペーパーやら、ティッシュやらが山積みにされたのを見て、いや、あれは食べ物じゃないだろう、と突っ込みかけて、
「あそこに積まれてる、あれですっ! あれ食べたいっ!」
「あー」
キャットフードだ。しかも普通は猫のイラストなり、写真なりがパッケージされているであろうそこに。何故か水着を着けた擬人化系の萌えイラストが「にゃん☆」と媚びたポーズを取っていた。
『萌えるウマさ! まさに次元を超えた新・触・感! ザ・キャットフードMOE!
豪華イラストレーター執筆による12枚+1種類の擬人化トレーディングカード付き!』
うわぁ。俺はドン引いた。ドン引くと同時に、さっと目をそらす。
最近の「あるある」ネタ。聞いたことのないメーカーが、最近の流行を斜め上に勘違いし、とかく安易に萌え系イラストで『擬人化』しようとする。
あまつさえ、堂々とパッケージした商品を出して『大特価98円』の在庫処分品が一山を築くという現実が、
「俺は見てない。何も見てないからなっ!」
「旦那さん、旦那さん、大丈夫ですん? ガクガクブルブル震えてますん」
「なんでもない、なんでもないんだ」
直視できないのは、俺もどうにか「絵」で飯を食っているからだ。きっと同じ気持ちになる絵描きは多いと思う。
(ってかあの仕事、たしか俺のところにも来てたなぁ)
「旦那さん。ウチ、あれ生きとる間にいっぺん食べてみたかったん」
「やめろ。せめて他のにしろ」
「う~、旦那さんおねがい。ウチなんでもしますから、一箱だけ~」
「しなくていい。あと、そういう迂闊な事言うなよ」
ノラを宥めて山に近づいた。一応成分を確かめたあと、結局一箱だけ買った。
家に帰り、土鍋に火を点けた。
腹が減っていたので出汁を取る手間は省き、味の素とコンソメを適当に入れて済ませてしまう。水炊き用の豚肉と春菊、春雨にしめじを投入。長ネギを入れるのは少し迷ったが、ノラの為にもやめておいた。蓋をしてじっくり煮込んだあと、居間に運んだ。
「できたぞ」
「ふわぁ~! 美味しそうですね~」
机の向かい側。久しく人が掛けることのなかったそこに、ノラがいる。家に帰ってきて、さっそく着けなおした猫耳と尻尾が揺れていた。
「食べてええんです? これ、ほんとにウチも食べてええんです?」
「そりゃな。素材適当にブチ込んだ男料理で悪いけど。あとネギも一応除けといたが、なんか食って調子悪くなったらやめとけよ」
「はいな! 旦那さんの手料理食べて死ねるなら、ウチは幸せ者ですっ!」
「やめろ縁起でもない。おまえ、やっぱキャットフードだけ食ってろ」
「やだー」
言いつつ、ノラの茶碗には米ではなく、例の「98円」が山盛りになっている。そしてかりぽり、涙目になりながら頬張っている。
「ウチ、旦那さんのご飯もたべたいよぅ!」
「あのな。変な中毒とか起こして死なれたら、俺が困るんだよ。ノラ猫を庭に埋めるならまだしも、ニンゲンを埋めたりしたら、火サスもびっくりのオチだからな」
「かさす?」
「火曜サスペンスげきじょ……あぁ、うん、そうだな。通じないよな」
「よくわかりませんけど、ウチ、もう死んでますから。へーきですんっ! それに、人間でなくて、ねこまたぞんびですもん!」
それは自信を持って言っていいことなのか?
「えへへ~、というわけで、ごはんも食べますん~」
「匙と、箸の使い方は分かるのか?」
「わかります。なんとなく」
言って、ノラが用意した割箸を〝ちょきちょき〟自然に動かした。
普通に器用な妖怪だった。
「どうなっても知らんぞ」
「はいな~」
主に俺が。あと始末的な意味で覚悟を決める。
「じゃ、いただきます」
「いただきま~す!」
そうしてノラは、醤油とポン酢をかけて、鍋をもりもり食っていた。
だいぶ陽が暮れてきた頃に、夕飯を食べ終えた。
「ふわぁ。ウチ、こんなお腹いっぱいなんはじめてです」
「気分はどこも悪くないか?」
「ぜんぜん。旦那さん、ごちそうさまでした」
「お粗末様」
「お皿、片付けますん? ウチもやる~!」
「そうだな。じゃあこっちは洗うから、ノラは机でも拭いててくれ」
「はいな。あのねぇ、旦那さん、次はウチも自分でお料理作ってみたいなって」
「そうだな。やってみたら」
いいんじゃないかと言いかけて。
「それはつまり、これからも一緒に、俺と暮らすってことだよな」
「はいな。ウチ、えぇお嫁さんになれる様にがんばりますっ」
「それはちょっとな」
真面目な話、厳しい。たとえ目の前にいるのが稀に見る美女で、しかも一方的に俺のことを好いてくれる相手であったとしても。
……なにか考えるほどに、稀にみる理想的な状況であったとしても。
『ねぇ、貴方はいつまで〝それ〟を続けるの?』
毎日がきらきらとした、楽しく生きていく青春の日々はとうに過ぎた。
「ノラ。俺はな、絵描きなんだよ」
絵描きの隣にルビを振り「イラストレーター」と呼べば格好良いかもしれないが、実際にはそんな華やかなもんじゃない。
自分一人でさえ、どうにか食っていけるのは一握り。
それに今はたくさんの投稿サイトもある。
「絵描きやったら、いかんのです?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
誰でも閲覧可能な上位ランキングを見れば、俺なんかよりずっと上手くて、若い原石たちが転がりまくっている。
すごいな、と素直に感心してしまう反面、そういった絵を見ると不安になってしまう事も多い。
生きていくだけなら、絵を描くなんてやめてしまえばいい。と思うことさえある。
「ごめんな。俺は自分のことで、せいいっぱいだから」
『わたしの事なんて、あなたは見ていないよね』
もちろん、絵描きをしていて、家庭を築いている人もいる。けど俺は、あの時になって初めて気がついた。
「誰かを幸せにしてやるとか。そういうのな、自信がないんだ」
つい本音が漏れた。数時間前まで、ただの野良猫だった相手に告げていた。
「しってます」
ノラは言った。
「旦那さんが絵のことを愛してるの、ウチ、とーってもよう知ってます。それを決して捨てられん事も、知ってますん」
どこまでも、底抜けに明るく言った。
「でもね、旦那さん。ウチは、そんなあなたが好きなんです。本当に、好きです」
「なんでだよ。正直な、おまえに恩を返してもらえるようなこと、何もした覚えがないぞ」
「ウチにはあります」
黒い耳としっぽが、ふさふさ動く。
「ウチは絵描きの旦那さんが好きです。好きすぎて、どうしようもなくて、ここに戻ってきましたん。だから、お側においてやってくれませんか」
「バカか、おまえは」
「違います、本気ですん。ウチは旦那さんを愛してますんで」
俺はきっと、呆けたように口を開けていた。
一体、なんなんだろうか、この生き物は。
考えたところで分からなそうで「もう勝手にしろ」とか言ってしまった。