通勤電車
「んんん、おじ、さん・・・」
乃菊が寝ぼけながらも、手だけがベッドの上に伸びる。何かを探しているようだ。
「ん!いない・・・」
乃菊は、眠い目をこすって起き上がる。時計は3時10分。乃菊はベッドの上を這って行く。
「おじさん、どこ・・・?」
乃菊が辺りを見回すと、国也は、ベッド脇の床で枕だけして横になっていた。
「何で、そんなところで寝るの?」
乃菊は、ベッドの上であぐらをかき、目を閉じて考える。
「焦っちゃいけないな、まだこの人は子供だから、大人同士の付き合いに疎いんだ。そうそう、心の準備が出来ていないんだ・・・」
乃菊は、ベッドから降り、横になっている国也の伸びた右腕を枕に寝ようとする。
「そうだ、少しは色っぽくしないと、その気にならないかも・・・」
乃菊は、浴衣をわざとはだけさせ、肩を出して国也に寄り添う。
「うう、ムニュ、ムニュ・・・」
国也が急に動いたため、国也の方を見ていた乃菊は、押されて上を向く形になり、国也の左足が乃菊の腿の上に、そして左手がはだけていた胸元の隙間から中へ入って来てしまった。
「!!」
声を出せなくなった乃菊。当然、初体験なのだ。国也の手の感触を、自分の胸で直接受けるのは・・・。
「動かして・・・、いや、駄目!感じちゃう。動かしちゃ駄目!私が狼になっちゃう・・・」
乃菊の眼は、ギラギラして、眠気など吹っ飛んでしまった。
ピピ、ピピ、ピピ。
乃菊は、起き上って、ベッドに飛び乗り、目覚ましを止める。
「うううん、もう朝か?」
国也が起きた。乃菊は、寝たふりをする。
「良かった、ぐっすり寝てるじゃないか・・・」
国也は、理性を保てた自分にホッとする。
「ああ、何だか腕が痛いなあ?」
国也は、右腕を曲げたり伸ばしたりする。
「もう、朝なの・・・?」
今、目覚めたようなふりをして乃菊が起き上がる。それを見た国也がすぐに顔をそむける。
「浴衣がはだけ過ぎだよ。それに足元にパンティもあるぞ、どういうことだ!」
乃菊は、返す言葉がない。国也の横へ行った時、パンティを脱ぎ捨てていたのだ。
「はは、暑かったんだよ・・・」
がっくりと肩を落とす乃菊。
「着替えたら、朝食に行くから」
国也は、そう言って背伸びをする。
「はい・・・」
乃菊は返事をしながら、足元のパンティをシーツの中に隠す。
ホテルの朝食を食べる乃菊と国也。
「何だか寝むそうだね、僕より寝てたはずなのに・・・」
乃菊は、コーヒーを少し口にするだけで、トーストを食べない。
「あんこ塗ってあげようか?」
乃菊の好物である。
「いい・・・」
乃菊は、目の下にクマが出ている。・・・あの時、国也の手が胸に触れてから、起きもしない、何もされない、ほとんど生殺し状態で一睡も出来なかったのだ。
「今度からは、違う部屋にするから・・・」
小さな声で独り言を言う乃菊。
「ブツブツ言ってないで食べなさい」
国也は、無理やり乃菊に朝食を食べさせる。
・・・帰りの電車の中で、乃菊が爆睡していたことは、言うまでもない・・・。
乃菊たちの番組も、開始から1ヶ月以上過ぎ、大人少女23の知名度も上がり、生ロケ中や収録中にも、声をかけられて握手をしたり、サインを書いたりすることも多くなっていた。そしてオープニングビデオの2曲目の準備も始まっている・・・。
この日、乃菊は、一人で電車に乗って名古屋へ向かっていた。いつものように帽子と伊達メガネをしている。
蒲橋駅までは席が空いていたので、一人で窓側に座っていた。
「あの、座ってもいいですか?」
通路に立っている女性が、乃菊に声を掛けた。
「どうぞ・・・」
会社員風の女性が、乃菊の横に座った。
「あのお、もしかして、土曜日の朝の番組に出てる方ではないですか?」
しばらくは、当然他人同士だから話すこともなかったが、二駅過ぎた頃に話しかけてきた。
時々、ちらちらと自分の方を見ていることに気づいていた乃菊、どう答えようか迷っていた。
「こんなところで、周りに騒がれたら迷惑ですよね」
そう思うなら話しかけないでよ、と思う乃菊。
「いえ、そんなに有名人じゃないから、わからないと思いますよ」
乃菊は、他のメンバーより自分の立場に無頓着である。
「そんなことないですよ。大人少女23は、私の職場でもメンバーの中で誰が可愛いかって、話題になってますから・・・」
グループ名も知ってるんだ、と思う乃菊。・・・少し小さくなる。帽子もかぶってメガネもしてるのに、どうして・・・。
そうだ、私の名前までは知らないでしょ、きっと・・・。乃菊は、窓の方を見てそう思う。
「実は、私、その何とかって言うグループの人とは、無関係なんです、ごめんなさい・・・」
と言ってしまったことが、隣の女性に火をつけてしまった・・・。
「嘘でしょ、菊野、乃菊さんですよね!私、メンバーの中で一番好きだし、“ど曜っと”毎週見てるし、この前、他の番組にゲスト出演してたのもちゃんと見てるんですから!」
名前まで知ってるんだ、それにさっきより声大きいし、不安になる乃菊。
「メガネかけてても、口元なんかそのまま乃菊ちゃんですよ。それに、普通の人にはないオーラがあるもの」
そんなのないよ、と思う乃菊。しかし周りがザワザワしだして、人が乃菊たちの席に集まって来る。
「ホントだ、私も知ってる!」
30代くらいの女性が言った。
「すみません、サインください!」
男性会社員のようだ。
「キャー、可愛い!」
女子高生たち。
「握手してください!」
本当にみんな私のことを知ってるの?乃菊には、まだテレビの影響力の大きさが分かっていない。
いまさら席を立ってどこかへ行くことも出来ない。違います!何て事はもう通用しない。乃菊は、この窮地を脱する手段を模索する。
「すみません!他の人に迷惑がかかりますから、握手だけにしましょう。・・・いいですか?」
隣の女性が乃菊に聞いた。
「は、はい・・・」
結局、隣の女性が仕切って、乃菊と握手をさせ、最後は自分がしっかりと乃菊と握手をして座る。その後、手帳とペンを乃菊に渡す。
「すみません、これにサインください。ファンとして応援しますから」
何だか、ちゃっかり自分だけ乃菊からサインをもらう隣の女性。
「ホントにみんな私のこと知ってるのかな?まだ番組始まって1ヶ月ちょっとなのに・・・」
乃菊は、番組の仕事をしていると思いつつも、テレビで見られている立場の人間だと言うことに、実感がわいていなかったが、国也がうるさく言うことも、少しは理解できた。
「私が言うのもなんですけど、乃菊ちゃん、きっとブレークしますよ」
もう友達のような気分になって話をする隣の女性。
「えー、困るなそれは・・・」
本音が出た。
「どうしてなんですか?スターになれば凄いじゃないですか!」
一般の人は、そう思うかもしれない。
「・・・」
乃菊は黙る。
あらためて、自分が関わった大人少女23が、自分の思いよりも、遥か先の方を走っているの感じる乃菊である・・・。