第59章 終章4
竜王ジークベルトが花嫁を迎えたのは、柔らかな日差しが大地に降り注ぐある春の日のことだった。
その日エストアの帝都には大陸の内外からあふれるほどの人が集まり、儀式の間には証人としてエストアを宗主国とする六カ国の王たちが顔を揃えていた。
700年にわたるエストアの歴史の中でようやく2度目となるこの儀式に、誰もが緊張と興奮を抑えきれない様子だった。
その中でも一番緊張しているのは、きっと私だと思う。
朝も夜が明ける前に目が覚めて、それからずっと胸がドキドキしていた。
そわそわして落ち着かなくて、教えられた手順を何度も頭の中で繰り返す。
「フィリス、大丈夫?顔色が悪いわよ?」
マーサの言葉に、コクコクと頷く。
「息をすって~、吐いて~。はい、水も飲んでね。」
言われたとおりに深呼吸をして、カラカラになった喉を潤すために水を飲む。このやりとりも、朝から何度繰り返したか・・・。
「大丈夫だって!ちゃんと宰相様がエスコートして下さるし、陛下もいらっしゃるんだから。他はみんなじゃがいもだと思いなさい。」
そう言って励ましてくれるのは、2年前からマーサと一緒に私付きの侍女になってくれたリリィナだ。
私が竜王の花嫁になることが決まってから、私には侍女や護衛がつけられる事になった。
その時、私があまり気を使わずにすむようにと、ジルがマーサとリリィナを選んでくれたのだ。
護衛役にはポールやオルグさんがついてくれたけど、私は一人で城の外に出歩く機会もないので、大抵二人はガントさんと一緒に仕事をしている。
・・・ポールが厨房で働いていたのは、私を守るためだったと教えられた時は本当に驚いた。
黙っていた事をポールやガントさんに随分謝られたけど、迷惑をかけたのはこちらの方なのだから、もちろん許すも何もない。
今ではお互い何も隠す必要がなくなって、ポールとは以前よりも打ち解けられている気がする。
気持ちを落ち着けようと取り留めのないことを考えていると、遠慮がちにドアがノックされた。
「フィリス様、準備の方はいかがでしょうか?そろそろ開始の時刻ですが・・・。」
「は、はい、大丈夫です。」
緊張を誤魔化すように少し大きめの声で応えると、部屋の扉が開いて宰相様が顔を見せた。
相変わらず甘い顔立ちをした彼は、私を見ると一瞬驚いたように目を見張り、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「素晴らしい!きっと、陛下もお喜びになられるでしょう。さあ、行きましょうか。」
そう言って、私が通りやすいように道をあけてくれた。
「フィリス、じゃがいもよ!じゃがいもだと思いなさい!」
「頑張ってね!」
廊下の外まで見送ってくれた二人に大丈夫だというように頷くと、宰相様がこらえ切れないというように吹き出した。
「くっ・・す、すいません・・・じゃがいもというのは、いくらなんでも・・・ぷっ・・・いえ、構いませんとも。それで少しでも気が落ち着くのなら、じゃがいもだろうとかぼちゃだろうと・・・。」
ひとしきり笑った後、宰相様は深呼吸をして表情を戻した。・・・そんなに面白かっただろうか?
「では、参りましょうか。」
「はい、お願いします。」
私はマーサと、笑われて少しだけ不満げなリリィナに手を振って、歩き出した宰相様の後を歩いた。
儀式は、城の一番大きな部屋で行われる。
そこへと向かう廊下には正装した兵士たちが整然と並び、少しの油断もなく目を光らせている。
二人分の足音だけが聞こえる中、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「大丈夫ですよ。きっと、じゃがいも程度にしか見えなくなります。」
前を向いたまま呟いた宰相様の言葉に問い返す間もなく、儀式の間の扉がゆっくりと押し開かれる。
・・・まるで、心臓を射抜かれたような気がした。
部屋の左右に並んだ椅子に腰掛けた人々は、皆豪奢な衣装を身にまとっている。
気品に満ちた彼らの姿が、まるで色とりどりの置物にしか見えないほど・・・部屋の奥に一人立つジルの姿に意識ごと引き寄せられる。
竜体を思わせる黒い服。肩には肩掛けの白いマントがつけられ、所々に金の飾り紐が飾られていた。
正装とはいえ質素に見えるのに、驚くほどジルによく似合っている。
室内の厳粛な雰囲気が、ジルをどこか神秘的なものに見せていた。
ジルは私達が入ると、ほんの僅かだけ目を見開いて、少しだけ笑みを浮かべた。
「ほら、行きますよ。」
小さな声で囁かれて我に帰った私は、慌ててジルから視線を外して宰相様の後ろを歩いた。
ジルの少し手前で止まった私達は、その場で深く跪く。
フワリとした純白のドレスが、足元いっぱいに広がった。
「竜王陛下。お約束の通り、人間の花嫁をお連れ致しました。これからも、我らを導く王となって頂けますでしょうか。」
宰相様の声が、シンとした部屋の中に響き渡る。
呼吸すらためらうような、張り詰めた空気が室内を満たしていた。
「・・・今一度問う。異なる種族を王とするのは、自然の摂理に背くもの。真の繁栄を求めるのなら、己の足で立つべきだ。それを分かった上でなお、我を求めるのか。」
ジルは意見を求めるように、室内を見回した。
しばらくの間どこからも声があがらないのを確認した後、宰相様がもう一度言葉をかけた。
「異論のある者はおりません。盟約の継続が、我らの総意です。」
コツリと足音を立てて、ジルが私の前に立った。
差し出された手に条件反射のように手を重ねると、強い力で引き上げられる。
ジルは私に微笑むと、肩を抱き寄せた。
「盟約は守られた。お前たちが望む間、いましばらく留まるとしよう。」
凛とした声が響いた瞬間、室内の空気が一瞬で緩まるのが分かった。
ジルに手を引かれて、ゆっくりと来た道を戻る。
部屋を出ると、非常時にしか鳴らされないという城の鐘が大きく鳴り響いた。
儀式が終わったことを、城の外に集まった人々に伝えるためだ。
大きな音に足を止めた私を、ジルが振り返った。
「・・・綺麗だ。よく似合ってる。」
優しく微笑みながら頭にのせられた花冠にふれられる。
「ありがとう。やっと、終わったね。」
無事に儀式が終わって、本当にほっとした。
「それは、違う。」
意外そうに言うジルに、この後まだ何かやる事があっただろうかと首を傾げた。
確か、儀式はこれで終わりで、夜の祝宴までは特になにもなかったと思うけど・・・。
「これから、また始まるんだ。」
そう言った時のジルの誇らしげな顔を、私はきっと一生覚えているのだろう。
そして、こんなふとした瞬間に、私は何度でもジルを好きになる。
これまでも、これからもずっと・・・。
鐘の音に重なって、頭上から聞いた事のある鳴き声が聞こえてきた。
驚いて見上げると、黒い影がいくつも空を飛び交っていた。
「ジーク、あれってもしかして・・・。」
二年前から、人間の姿をとっていない時はジークと呼んで欲しいと言われていた。
この呼び方に慣れるまでずいぶん時間がかかってしまって、マーサに呆れた顔をされたのも、既に懐かしい思い出になっている。
「ああ、祝いに来てくれたみたいだな。」
「私、ジーク以外の竜ってはじめて見た・・・。」
竜族はめったに人前に姿を現さないそうだから、たいていの人はそうなんだろうけど。
「あっ・・・。」
空からふわりと落ちてきたピンク色の花びらは次第に数を増やし、粉雪のように帝都へと降り注いだ。
それらは地面にふれる直前に、幻のように消えていく。
その美しい、けれど不思議な光景にぼんやりと見とれていると、ジルが私の肩を掴んで耳元に顔を近づけた。
「・・・・・・・・・。」
そうして私にしか聞こえないほど小さな声で囁かれた言葉に、胸が痛いくらい苦しくなって・・・気がつけば、涙が頬を伝っていた。
「私も、あなたをずっと・・・・。」
人生二度目となるはずのその言葉は、重なった唇へと消えていった。
これからも、辛い事はきっとある。
それでもあなたの傍にいられたら、私は誰よりも幸せだから。
どうか、ずっとずっと、一緒にいられますように・・・。