第57章 終章2
バサリ、バサリという規則正しい音が、耳の奥でずっと鳴り響いているようだった。
子守唄のように心地良いその音が、パサリと軽い音に変わっていく事に違和感を覚える。
ゆっくりと浮上していく意識と、体を包む柔らかな感触に目を開いた。
「おはよう、フィリス。」
聞きなれた心地いい声に顔を横に向けると、柔らかな笑みを浮かべたジルがベッドの端に腰掛けて私を見ていた。
手には紙の束を持っていて、さっき耳に届いた音は多分その紙をめくる音だったのだろうと思う。
「・・・・・・・ここは?」
ここがジルの部屋であることは分かるんだけど、一体いつの間に・・・・?
私は自分の記憶をたどってみた。
城に戻るためにジルの背中に乗ったところまでは、覚えている。
でも、どこからか記憶が完全に途絶えてしまっていた。
「覚えてないか?途中、俺の背中で寝てしまったんだ。驚いたよ、まさか空を飛んでる途中で眠るなんてな。」
どこか楽しそうなジルの言葉に、私は申し訳ないような恥ずかしいような、とにかくいたたまれないような気がして何も言えなかった。
いつの間に眠ってしまったのか、全く分からない。
「無理もない。昨日はあれだけ走り回ったんだし、色々あったしな。」
「ご、ごめんなさい。」
あれから、どれほどの時間が経っているのか。部屋の中は随分と明るいようだけど・・・・・・・。
「・・・私、ずっと寝てたの?マーサは?ポールはちゃんと帰って来た?・・あ、どうしよう・・・仕事、もう遅刻だよね?」
今がもう朝なのだと気がついた途端、焦った私は頭の中をよぎった疑問を次々に口に出した。
「ポールは昨日の夜遅くに帰って来たよ。まだ寝てるんじゃないかな。マーサはさすがに疲れただろうから、今日もう1日休みを取らせた。フィリスも今日は休むと伝えてあるから。一応、体調不良って事にしてある。」
「・・・・よかった。ありがとう、ジル。」
ほっとしてお礼を言うと、ジルは頷いて書類の束を脇に置き、サイドテーブルに置かれた水差しからコップに水をそそいでくれた。
日常にありふれているはずの動作なのに、洗練された優美な動きに思えてつい見とれてしまう。
「ぼんやりして、大丈夫か?ちょっと寝すぎたかも知れないな。どこか辛いところないか?」
そんな私をどう思ったのか、ジルが心配そうに私を覗き込んだ。
近づく距離に、緊張してドキドキしてしまう。
「だ、大丈夫!どこもなんともないから。」
赤くなった顔を誤魔化すように、私は急いでコップを受け取って水を飲み干した。
「・・・そうか?それならいいんだが・・・。」
それでもまだ心配そうにしながら、ジルは空になったコップを受け取ってテーブルに戻した。
「このまま一緒にいたいけど、ちょっと仕事を済ませて来るよ。マーサを呼んでるから、このままここで待っていてくれないか?色々、相談しないといけない事もあるから。」
一緒にいたいなんて言われてすごく嬉しいのに、すごく照れくさい。ジルは恥ずかしくないのだろうか?
「う、うん、そうする。」
ジルは私の返事に嬉しそうに頷き、頭を撫でてくれた。
その時、コンコンと控えめにドアがノックされた。
「陛下、お呼びしていた者が参りましたが・・・。」
「入れてやってくれ。」
ジルの言葉に、部屋の扉が開いた。
中に入ってきたマーサは、休みだと聞いていたのに何故か侍女の服を身に着けていた。
「じゃあ、二人でゆっくりしていてくれ。マーサ、フィリスを頼む。」
ジルの言葉に、マーサは型通りの礼を返した。
ジルは最後に私の頭をもう一度撫でると、ベッドの上に置いていた書類を手に取り、部屋を出て行った。
バタンと扉が閉まると、マーサは私の方を見て少しだけ目を潤ませた。
「フィリス、無事で良かった。あれからオルグに事情を聞いて、ジルが一緒にいるなら絶対大丈夫だって信じてたけど・・・。」
私は急いでベッドから降りて、マーサに駆け寄った。
「マーサ・・・。マーサも、本当に何もなくて良かった。昨日はごめんなさい、私のせいであんな目に合わせてしまって・・・。」
「私こそ、私の方が、もっとしっかりしなきゃいけなかったのに。」
「そんなっ!ジルに注意されていたのに、それを忘れていたから・・・。」
「フィリスは今までそういう世界で生きてこなかったから。私は城勤めも長いし・・・配慮が足りなかったって反省してる。」
「マーサは悪くない、私がもっと・・・。」
言い返そうとして言葉が思いつかなくなって、私とマーサはしばらく黙り込んだ後、苦笑した。
「・・・どっちが悪いかで張り合っても仕方ないわよね。お互いに、これからはもっと注意していきましょうってことで・・・。」
「うん・・・そうだね。」
それから気が抜けたように二人で笑いあった後、マーサは私の頭から足へと視線を流した。
「食事の前に、すっきりしましょうか。着替えも持ってきたし、先に湯浴みをしましょう。」
そう言って浴室へと足を向けるマーサの後を追うと、マーサは唐突に扉の前で立ち止まった。
「・・・もしかして、ジルが準備しておいてくれたのかしら?」
どうしたのかとマーサの後ろから覗き込むと、暖かい湯気が顔にあたった。
お湯は丁度いい温度で、熱くも無くぬるくもない。ジルは、一体いつお湯を準備してくれていたのだろう?
私がいつ起きるかも分からないのに。
それとも、これも魔術なのだろうか?
首をかしげながら手にお湯をすくって匂いをかいでみる私の頭を、マーサが洗ってくれている。
「・・・魔術に匂いはないんじゃない?」
・・・・・確かに。
「ねえマーサ、今日はお休みなんじゃなかったの?」
やっぱり今日も私一人がお湯に入れられてしまった。せっかくの休みなのに、私の世話なんかして疲れないだろうか?
一応一人で入れると言ってみたけど、マーサは笑ってかわしてしまい、取り合ってくれなかった。
「休みよ?どうして?」
「だって、服・・・。」
「ああ、これ?一応ね。陛下のお部屋に入るのに、いくらなんでも私服はまずいでしょ?・・・あ、フィリスは大丈夫だから。」
思いっきり私服だった私はまずいと思ったけど、それを言葉に出す前にマーサが私を見てニヤリと笑った。
「あなたは特別。今朝から噂になってるわよ?」
「噂って?」
「陛下にとうとう花嫁が現れたって。昨日、みんなの前で・・・その、ほら、あれよ!」
昨日、みんなの前で??
「マーサ、顔赤いよ?」
「だ、だから、みんなのいる前で、キスしたんでしょう?その・・・。」
そこまで言われて、私はようやくマーサが何の事を言っているのか理解した。
確かに、した。あの大勢の前で・・・・。
「ど、どうしよう、マーサ・・・。」
昨日はそんな事考える余裕もなかったけど、冷静になればなんて大胆な真似をしてしまったのかと思う。もう恥ずかしすぎて、外を歩けそうにない。
それに、大事になってしまったんじゃないだろうかと怖くもなった。
「どうもこうも・・・・堂々としてるしかないんじゃない?覚悟、決めたんでしょう?」
「それは・・・・そうなんだけど。」
私なんかが竜王の花嫁になってもいいのか、とか、本当に私も幸せになれるのか、とか。
今だって、不安な気持ちは変わらない。
でも、それでもジルのそばにいたい気持ちの方がずっと強いから。
ただやっぱりそれはそれ、これはこれで・・・。
「大丈夫よ。心配な事は、何でもジルに相談しなさい。私も話くらい聞けるし、私以外にもあなたの味方はたくさんいるから。」
「マーサ・・・ありがとう。」
心強い言葉に、私は心からお礼を言った。
「マーサも、何かあったら話してね!あんまり頼りにならないかも知れないけど・・・私も、マーサを助けたいから。」
私を支えてくれる人を、私も支えたい。
手を引かれて歩くだけじゃなくて、ちゃんと隣を歩きたいから。
「フィリスは十分頼りになるわよ。私も、ちゃんと相談するね。さ、そろそろ出なさい。のぼせるといけないから。」
「うん。」
湯浴みが終わると、マーサが手早く食事の用意をしてくれた。
マーサが持ってきた台車には折りたたみ式の簡易テーブルが乗せられていて、それを広げてお皿を並べた。
昨日のお昼からろくに食べていなかったせいか、美味しそうな食事の香りにお腹が大きな音を出して、マーサに笑われてしまった。
「たくさん食べてね。」
「ありがとう。いただきます。」
食事をしながら、お互いに昨日別れてからの事を報告しあった。
マーサはオルグさんに守られながら城に戻り、今回の事の詳細を聞いたとの事だ。
私も、あれからオリヴィアやあのマレイラの騎士に会った事や、マレイラに連れて行かれそうになった事を話した。
そこからジルが助けに来てくれた後の事はちょっと恥ずかしくて、かなり省略して話したけど・・・。
「ほんと嫌な奴!王子が聞いてあきれるわね。しかも、王位継承者なんでしょう?マレイラの人たちが可哀想・・・。」
食後のお茶を入れながら、マーサはそう言って声を荒げた。
「もっとも、もう王になんてなれないでしょうけどね。」
「・・・どうして?」
「こんな不祥事を起こしちゃったら、そりゃね。まあ、今までにも似たような事はしていたのかも知れないけど、今回は相手が悪かったわ。陛下を怒らせたんだもの、ただでは済まないわよ。」
「そ、そっか・・・。」
もし今回の事でエルフリードが王位を継承できないのだとしたら・・・。
申し訳ないとは思わないけど、人の人生を大きく変える事に自分が関わってしまった事が胸をふさいだ。
「そんな顔しないの。自業自得よ!当然の報いよ!」
「それは、私もそうは思うんだけど・・・。ただ私に会わなければ、こんな事もなかったのかなって・・・。」
オリヴィアだって私に会わなければ、同じ場所に生れ落ちたのでなければ、もう少し違う人生になっていたのだろうか。
そんな事を、つい考えてしまう。
「フィリス・・・。人はみんな誰かと関わりあって生きているんだもの。お互いにいい影響を与える場合もあれば、そうしようと思ってなくても悪い影響を与える場合もある。少なくとも私はあなたに会えて良かったし、当然ジルもそう思ってると思うわよ?」
私はマーサの言葉を何度か頭の中で繰り返して、頷いた。
「うん・・・うん、そうだね。私も、マーサに会えて良かった。」
私もオリヴィアに会わなければ、もしかしたらもっと幸せに暮らせていたのかも知れない。
でもオリヴィアがいなければ、私はジルにもマーサにも出会えなかった。
「・・・なんか、不思議だね。」
マーサは私の言葉に少しだけ首をかしげていたけど。
「だから、おもしろいのよ。」
そう言って、笑った。