第25章 お守り2
途中、マーサに少しの間持ち場を離れることを伝えると、マーサは快く許可を出してくれた。
「忙しい所、人手を割いてしまって申し訳ない。」
「とんでもありません、もし必要であればあと何人か都合をつけますので、どうぞ遠慮なくおっしゃってください。」
マーサの言葉に、彼は申し訳なさそうに頷いた。
「ありがとう。その時はまた声を掛けさせてもらおう。」
私はマーサと目だけで挨拶をかわして、また歩き出した彼の後に続いた。
南の棟を出て、外にある回廊を彼はためらいもなく歩き続ける。
一体どこまで行くのだろうか?仕事を手伝った後、ちゃんと元の場所まで戻ってこられるだろうか。
不安になってキョロキョロとあたりを見回すが、目印になりそうなものは何もない。
見る限り、似たような風景が広がるばかりだ。
どこまで行くのか聞いてみようと思って口を開きかけて、慌てて閉じる。
身分の高い人には、気安く話しかけてはいけないのだ。
彼は時折私の方を振り返って付いてきているのを確かめたり、歩くのが早いのに気付いて歩調を緩めてくれたりした。
連れて来られたのは、前に一度だけ来たことのある所だった。中央の棟の最上階。ジルの執務室がある場所だ。
彼は執務室の手前まで来ると、部屋の前に立つ兵士に話しかけた。
「陛下はまだお戻りではないのか?」
「はい、まだ戻っておられません。」
「そうか。・・・少しここで待っていてくれるか?」
短い沈黙の後、彼は私のほうを振り返ってすまなそうな顔でそうたずねた。
結局私は何を手伝えばいいのだろうか?
不審に思いながらも頷いたとき、彼はふと顔を廊下の奥に向けて表情を緩めた。
「やれやれ、ちょうどいいタイミングだったな。呼ぶまで下がっていなさい。」
後半は部屋の前に立つ兵士に向けられたものだった。
兵士は敬礼をすると、何も言葉を発する事無く早足で廊下の向こうに消えていった。
それを何となく目で追っていると、後ろから突然名前を呼ばれた。
「フィリスっ!」
聞きなれた声はどこか焦っている様子で、声の主の姿を確かめようと振り返ると、いつの間にかすぐ目の前にジルが立っていた。
「マレイラのエルフリード王子に絡まれていました。声を掛けられただけで何もされてはいません。」
「・・・そうか。感謝する、ガント。」
ジルの言葉に、ようやく彼の名前が判明した。
言われてみれば、聞いたことがあるような気もする名前だった。
「礼には及びません。当然の事をしたまでです。」
頭上で交わされる会話に口を挟むこともできず、身の置き所がなくて取りあえず後ろに下がろうと体を動かすと、恐ろしく綺麗な顔が頭上から私を見下ろした。
「不愉快な思いをさせてしまったようだな。すまなかった。大丈夫か?」
どうしてジルが謝るのだろう?不思議に思いながらも何ともない事を伝えるために頷いた。
「宰相殿はまだ謁見の間ですか?」
「ああ。二人とも外すわけにもいかないからな。」
「では、私のほうから話しておきましょう。少し休憩されては?」
「・・・すまないな。屋上にいるから、呼びに来てくれ。」
ガントさんは腰を深く折って礼をすると、私に手を振って行ってしまった。
手伝ってもらうと言いながら内容も告げずに行ってしまったガントさんに、残された私は首を傾げるしかない。
「フィリス。」
名前を呼ばれて振り返ると、ジルは私に向けて手を差し出していた。
一応周りに誰もいないか確認して手を伸ばすと、ジルは柔らかな笑みを浮かべて私の手を取った。
ジルが私を連れて来たのは、あの日ジルが竜の姿で降り立った城の屋上庭園だった。
あの時はゆっくり見る余裕もなかったけれど、こうして明るい中で改めて見ると本当に綺麗な庭園だった。
様々な種類の花が植えられ、休憩用なのかベンチまで配置されている。
ジルは入り口に一番近いベンチに私を座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「ねえジル、私ガントさんのお手伝いに来たんだけど、私までジルと一緒に来ちゃって良かったのかな?」
「手伝い?・・・ああ、多分大丈夫だろう。それより、マレイラの王子に何を言われたんだ?」
気にかかっていた事をたずねると、ジルはさらっと流して話題を変えてしまった。
納得できないような気もするけれど、考えても仕方がない。次にガントさんに会った時にちゃんと聞いてみよう。
「えっと、最初は道を聞かれただけなんだけど・・・。」
覚えている限りの事を話すと、ジルは珍しく舌打ちをして苛立ったような表情をした。
寛容なジルが、何かに対してこんな風にあからさまに嫌悪の感情を見せるのは、私が知る限り初めての事で、思わずまじまじとジルの顔を見てしまった。
ジルはそんな私に気付いて、困ったように眉を下げた。
「軽薄な奴はどこにでもいるものだな。本当に、何もなくてよかったよ。」
「お守りに、助けてってお願いしたの。このお守り、すごいね!本当に効いたよ?」
そう言うと、ジルは少しだけ目を見開いて、それからとても嬉しそうに頷いた。
「これって、なんていう名前の石なの?」
胸元から取り出してたずねると、ジルはクスリと笑って言った。
「鱗だ。」
「うろこ?」
うろこなんて名前の石があるのだろうか?
「それは、俺の鱗だ。何枚か取って結晶化してるから、石みたいな形になってるんだ。」
その意味を理解するのに、数秒はかかったと思う。
バカみたいに口を開けて固まる私を、ジルは楽しそうな表情でじっと見ていた。
「ジルっ!」
ようやく意味を理解した私は、叫ぶと同時に椅子から立ち上がった。
「鱗って、鱗って、取っても大丈夫なの!?あんなに硬いもの体から剥がして、痛かったでしょう?」
一度だけ触れたことのある鱗は、すごく硬くて皮膚にしっかりと張り付いているように見えた。
人間の体で言えば爪のような感じがした。
それを剥がすなんて、想像しただけで血の気が引く。
「フィリス・・・大丈夫だ。痛いって言っても、髪の毛一本抜くのとそう変わらないよ。それに、剥がしたってすぐ生えてくる。」
「ほ、本当に?」
「約束しただろ?フィリスには絶対、嘘は付かないって。」
そこまで言われて、ようやく私は安堵の息を吐いた。
「・・・よかった。でも竜の鱗って、お守りの効果があるの?」
竜族は人間にとっては神様みたいなものだから、そんな事があっても不思議ではないような気もした。
「鱗自体にはそんな効果はない。お守りになるように、俺が魔力をこめておいた。」
「そうなんだ・・・。」
あらためて石を見ると、確かにその深い黒はジルの鱗とそっくりな色だった。
「ありがとう。私、絶対大切にするね。」
お礼を言うと、ジルは嬉しそうに頷いた。
「ところで、夏至祭の事なんだが・・・。」
ジルは椅子に座り直した私を見ると、表情を引き締めた。
「当日の夜はオリヴィア達も宴に参加することになってる。会わないように裏方を手伝ってもらうつもりだけど、もし不安ならその日は部屋で休んでいてもいい。」
久しぶりに聞くその名前に、胸がズキズキと痛んだ。
表情を曇らせた私に、ジルは気遣う様に私の顔をのぞき込んだ。
「・・・私なら大丈夫だから。いつまでも、怯えていたくないもの・・・大丈夫、もうあの人は、私には関係ない。」
自分に言い聞かせるようにはっきりとそう言って、ぎゅっと手を握りしめた。
「私、皆と一緒に働きたい。あの人のために、もう何も我慢したくない。」
家族も、できたかも知れない友達も、何もかも奪われてきた。
過去の事はもうどうしようもないけれど、これからは違う。
強い決意を込めてジルを見ると、ジルは目を細めて頷いた。
「望む通りに、フィリス・・・。」
ささやく様にそう言って、ジルは私の握りしめた手を持ち上げた。
ジルの唇が私の荒れた手にそっと触れたその瞬間、まるで世界が音を消したような気がした。
耳に音が戻って来るのと、顔が火傷でもしたのかと思うくらい熱くなるのは同時だった。心臓が痛いほどバクバクと騒ぎ立てる。
「・・・大丈夫か?」
全然大丈夫じゃなかったけど、とにかく落ち着こうと何度も頷いた。
急に握られたままの手が恥ずかしくなって、急いで手を抜き取って背中に隠した。
「すまない、嫌だったか?」
今度は勢いよく頭を振った。
ジルは安心したように息を吐くと、入ってきた入り口の方に顔を向けた。
「もう時間切れのようだ。フィリス、また変な奴に絡まれたらすぐに逃げろよ?襲われそうになったらとにかく大声で叫べ。いいな?」
「う、うん。そうする。」
返事を返したところで、入り口の扉が遠慮がちに開かれた。
「陛下。申し訳ありませんが、そろそろ・・・。」
ガントさんは私たちを見つけると、申し訳なさそうにそう言った。
「わかった。フィリス、今日は会えて良かった。また時間を作って会いにいくよ。」
ジルは私の頭をポンポンと撫でると、ガントさんと小さな声で何かを話してから屋上を後にした。
「それじゃあ、南の棟まで送ろう。」
「あ、あのっ、待ってください。」
きびすを返すガントさんを、私は慌てて引き止めた。
「あの、私は何をすればいいんでしょうか?」
もしかして、ここでジルと話している間にもう終わってしまったのだろうか?
そう思って落ち込んでいると、ガントさんは突然豪快な笑い声を上げた。
びっくりして目を丸くする私を見て焦ったように笑いを収めると、咳払いをして真面目な表情を作った。
「失礼した。いや、私が悪かった。陛下の気分転換になるよう、話し相手をしてもらいたかったのだ。ここの所謁見ばかりでお疲れのご様子だったのでな。ありがとう、もう十分手伝ってもらった。」
どちらかと言えば相手をしてもらったのは私の方だと思うけど・・・。
「さあ、行こう。」
「はい・・・。」
なんとなく釈然としないものを感じながらも、ガントさんの後に付いて南の棟へと戻った。