奴は倶楽部員
「よっ、待たせたな」
端島が自転車に乗って勢いよく校門まで走ってきた。今からこいつの自転車に乗って僕はススキ野原に行く。そして運が良ければあの子に会えるはずだ。短い時間しか一緒に過ごしていないのに、すでに僕の中で大きな存在になっているあの子に。あの子ともう一度、二人っきりで夕日を見ながら話したい。内容なんかどうでもいい、ただ声が聞きたい。一面のススキ野原をさわやかに駆け抜ける風のような、あの澄み渡った声を。
「どうした、早く乗れよ」
想像とは裏腹の濁った声に引き戻され、僕は我に返る。あわてて松葉づえを抱え、そのまま端島の自転車の荷台に腰を下ろした。
「よし、じゃあ行くか」
端島がゆっくりと自転車をこぎ出した。僕はなるべく自分の体を端島の背中から離すように胸を反らせる。男にしがみつくのは気持ち悪いし、何よりも、あの子を想ってすでに豪快に脈打っていた心臓の音を聞かれたくなかったから。そんな不自然な格好をしていたせいで、僕は何度も自転車から転げ落ちそうになった。
「お、おい! しっかりつかまってろよ!」
端島が自転車をフラフラさせながら僕に叫んだ。
~~
端島が何かを話しかけていたような気がするけれど、僕はまるで覚えていない。何を言われても生返事をするばかりだったように思う。そのせいか、端島は途中で黙り込んでしまった。そうこうしているうちに、高速道路の下を潜り抜け、車の全く通らない真新しい道路に出る。ここをまっすぐ行けば、もう橋げたはすぐそばだ。僕は道路のわきに広がるススキ野原を見つめていた。
「ほんっと、何もないよなあ、ここ」
端島がつぶやく。
「あるさ……橋げたが」
僕もつぶやき返す。
「あそこに見えてる柱だろ。何ていうか、神秘的だよな。一本だけ残って」
僕も最初は同じことを思ったさ。子供の頃、僕は親に内緒で遠出をして、高速道路下の暗いトンネルを抜け、ここにやってきた。目の前に広がっていたのは、無限の広さを持つと思われた一面の銀色のススキ野原。その真ん中にまるで巨大な石像のようにそびえ立つ橋げたを見つけた時の感動は、今でも鮮明に思い出すことができる。その時以来、あの橋げたは僕にとって特別な場所になっていた。最初は友達も呼んで一緒に来ていたんだ。一種の秘密基地みたいなものだった。けれど僕らが大きくなるにしたがって誰もここの事を思い出さなくなり、今では僕一人だけの秘密の場所になっている。いや、正確には僕と伊香保さん、それから……。
「あの子に会えるといいな、お前」
もう一人、端島も、かなあ……?
「よしっ、着いたぞ。降りろよ、ここからは歩きだ」
ススキ野原の脇に自転車を止め、僕と端島は橋げたに向かって歩き出した。たくさんのススキをかき分けて、目標めがけて一心に歩く。走ることができない自分の足がもどかしい。ああ、いてくれ、いてくれ、伊香保さん……。僕の胸の鼓動がどんどん速くなる。疲れてもいないのに息がどんどん上がってくる。もう足の痛みなんかまったく気にならない。僕の目にはあの橋げたしか映らない。無我夢中で進み続け、ついに橋げたにまでたどり着いた。
「い、伊香保さん……伊香保さん! 僕だよ!」
自分でもびっくりするぐらいの大声だった。変に声が上ずって、自分自身がとても滑稽に思えたけれど、僕はそれだけ必死だったんだ。
「ちょ……ビックリすんだろ……急に大声出すなよ、ったく」
端島が呆れたような口調で何かを言っていたが、僕にはまったく聞こえない。僕は返事を待った。
「裏に回れよ……何突っ立ってんだよ」
僕はその場で待ち続けた。そして。
「ふふっ」
さわやかなそよ風のような透明な笑い声が、確かに聞こえた。僕は絶対に聞き逃さない。
「僕だよ! ひ、久しぶり!」
「ほんと、久しぶり、かしら」
彼女が橋げたの陰から顔を出した。まるで僕が彼女に初めて会った時のように、彼女は僕に微笑みながら手を小さく振っている。それを見て僕は思わず顔がほころんでしまう。もうどうしようもなく嬉しくて、興奮のあまり自分が手を振り返している事にも気付かなかった。
「どうしたの? しばらく来なかったみたいね」
彼女が無邪気に訊く。
「う、うん……足がね……それで、こいつが……」
「うん?」
「こいつが……足で……自転車が……それから……」
もう舌が回らない。思考が追い付かない。彼女は相変わらず微笑んだまま、不思議そうに首を少しだけかしげた。そんな天使のようなしぐさで、僕の目をまっすぐ見つめている。ああ、彼女が可愛すぎて僕の頭は爆発しそうだ!
「ほら、こいつがここで怪我したのを、俺が病院に連れてってさ。そのまま入院しちゃったもんだから、しばらくここには来れなかった、ってこと」
端島が僕の代わりに事の成り行きを説明した。
「ここで? そうなの?」
伊香保さんは僕の足を見ながら心配そうに言った。
「いやいや! もう大丈夫だから! ほんと、もう大丈夫!」
ここが危険な場所だと思われたくない。それに、僕たちの安らぎの場所で怪我をしたなんて、格好悪くて仕方がない。僕は伊香保さんに、これは大した怪我じゃないと必死にアピールした。
「でも、助かったよ。君がさ、ええと……」
「伊香保榛奈」
「ああ、伊香保さんに教えてもらったから、こいつも命拾いしてさ」
「そんな大げさな事じゃなかっただろ!」
「私?」
「あれ? ええと……おっかしいな……」
「も、もういいだろ! この話は!」
「ん? あ、ああ。まあいっか」
「でも、気を付けてね」
伊香保さんの気遣いの言葉で僕は天にも昇る気持ちになる。そのままいい雰囲気に話せるんじゃないか、そんな事を期待していた矢先、端島が横から口を出した。
「それでさ、伊香保さんはここで何してんの?」
「榛奈でいいわ、くすっ」
「そうか? じゃあ、榛奈ちゃんは……ああ、俺は端島って言うんだけど……」
「端島君、ね。私はね、ここが好きなの」
「へぇ、ここがねぇ……」
何だこれ、何なんだ。伊香保さんが端島と楽しそうに会話している。あいつは僕より先に馴れ馴れしく彼女の名前を呼びやがった! 何て腹立たしい! 彼女に用があるのは僕の方だぞ! 彼女だって、僕に……僕に……。
「あ、あの……僕も名前で……呼んでいいかな……」
楽しげな会話を続ける二人に向かって、僕は唐突に叫んだ。そして叫んだ後で後悔する。こんな話しかけ方って、あるか! 僕は間違いなく混乱しているに違いない。自分で分かっていたけれど、もう止まらない。とにかく彼女の注意を僕に引き寄せたい、僕はそれだけを願っていた。
「ほら、名前……伊香保さんじゃなくて……は、は……」
「うん、いいよ。榛奈でいい。ふふっ」
「突然何言うかと思ったら、何だそれ」
端島は黙っていてほしい。できればここにいる間はずっと、永久に。僕は心の底からそう思った。
「……榛奈さん。あの……こんにちは」
「こんにちはっ。あははっ」
榛奈さんが笑った。僕に笑ったぞ。端島にじゃない。間違いなく僕に笑っている。全身がとろけていくような気分になる。彼女はそんな笑顔のまま、夕日の方に向き直った。
「夕日が、好きなの。ここで見る夕日」
「う、うん。きれいだ。本当に」
僕が美しいと感じているものは、もちろん夕日だけじゃない。いや、夕日以上に今は榛奈さんがずっとずっと輝いて見える。その笑顔を見るためだったら、僕はどんな苦労をも惜しまないだろう。この橋げたを登って行くことさえも。
「そういや、ここは何もないから空がよく見えるな」
端島が納得したように言った。僕たち三人はそのまま黙って夕日を見つめた。いや、僕は榛奈さんの顔をちらちらと盗み見していたけれど。赤く染まった彼女の肌は相変わらずガラス細工のようだった。
「さて、と。私、もう行くわ」
しばらくして榛奈さんが口を開いた。
「ま、まだ早いんじゃないかな。もうちょっと……」
僕は焦って彼女を引き止めようとしたけれど、彼女は静かに首を横に振った。
「……またね」
彼女がつぶやくように言った。それを聞いて落胆する僕を見て気を利かせたのか、端島が榛奈さんに呼びかけた。
「ねえ。こいつ、君がまた来るか気になってるってさ。来るんだろ?」
「ええ……端島君も、でしょ?」
予想外の返事を聞いた僕と端島は、思わず顔を見合わせた。端島も?
「だって、部長さんの推薦だものね。私たちの夕暮れ廃墟倶楽部へ、ようこそ」
そう言うと榛奈さんは背中を向けてススキ野原を道路めがけて走り出した。
「あ! ちょっと!」
僕と端島が同じセリフを同時に言った。彼女はそのまま軽やかに走って行くと、一度振り返って僕たちに手を振った。僕たちも手を振り返すと、彼女は満足したように道路を横切り、高速道路の方に走って行ってしまった。
「何とか倶楽部……って、何だ?」
しばらくして、端島が僕に訊いた。
「二人の秘密……だった……今日までは」
僕は苦々しくそう答えるのが精いっぱいだった。