若気は痛い
授業中、端島はずっと寝ていた。いつもの事だ。僕はといえば、ずっと窓から見える空を見つめ続けていた。相変わらず空は真っ黒な雲に覆われているけれど、どうやら雨はやみそうだ。もし雨がやんだら、今日は橋げたに行ってみようか。こんな天気だし、彼女が来るとはとても思えない。それでも、彼女に会える可能性がほんの少しでもあるのならば、僕はその可能性を逃したくはない。
~~
「ふぁ~あ」
端島が大きくあくびをしながら伸びをする。雨はやんでいた。
「さっ、帰るか」
おもむろにカバンを机の上に置くと、端島は教科書やノートをさっさと詰め込んでいく。僕は、授業中のよそ見のため先生の教科書の角で食らった痛烈な一発の痛みも忘れ、伊香保さんに何とか会えないだろうかと考え続けていた。
「なあ、帰るんだろ? 摩耶先輩も地学部の活動は中止だって……」
「悪いな、ちょっと行く所があるから」
「お、おい!」
僕は端島よりも早く教室を飛び出すと、自転車置き場へと全速力で走って行った。
「おい! カバン忘れてるぞ! どうしたんだよ!」
後ろの方で端島の叫ぶ声がした。
~~
普段全く運動をしない僕の体力では、どんなに全力で自転車をこいでもススキ野原にやって来るまでに十五分はかかる。僕は、その間に雨が降りはしないかと心配でたまらなかった。根拠はない。だけど、今日行けば彼女に会えるような、いや、会えないまでも何かが起こるような、そんな気がしていた。ただし、それも雨がやんでいるうちだけだ。雨が降ってきたら、伊香保さんには絶対に会えないと思った。
「はぁ、はぁ……伊香保さん!」
雲が早く流れていく。さっきよりも雲の層は薄くなったんじゃないか? これなら太陽が少し顔をのぞかせるかもしれない。
「伊香保さん! いるの?」
橋げたのふもとに着いた僕は、ありったけの声で彼女を呼んだ。しかし、返事はない。
「……やっぱり、いないか……」
僕は天を仰いだ。何というか、絶望的な気分だ。こうも会えない日が続くと、もしかして彼女は僕が作り出した幻だったんじゃないかという気になってくる。情けなくて、おかしくもないのに笑ってしまう。そんな間抜け面で空を見上げていると、橋げたの上の方から、雨のしずくが鉄骨を伝って流れ落ち、僕の顔にピチャッとかかった。
「くそう……」
無性に腹が立つ。全速力で自転車をこぎ続けた僕の足は、今でもがくがくと震えている。荒い息はちっとも収まらない。こんなことを一人で繰り返している僕自身に、腹が立って仕方がない。もしかしたら、彼女はこんな無様な僕を見て笑っているのか? 僕はおちょくられたのか? 何が倶楽部だ、バカじゃないのか?
「登ってやる!」
僕は確かにバカだった。僕に水をかけた鉄骨どもは、橋げたのコンクリート壁からところどころ顔を出し、僕に挑戦しているようにも見えた。興奮状態の僕には、それらを掴み、踏みつけ、上へと昇っていくことなど造作もない事のように思えたんだ。
「見てろ! 見てろよ!」
僕はコンクリートブロックの上に登ると、橋げたの柱に向き合った。頭上には最初の獲物、細長い鉄骨が僕に掴んでみろとばかり挑発的に突き出ている。僕は思いっきり息を吐くと右腕を大きく腕に伸ばし、その鉄骨を掴んだ。その瞬間。
「ばぁか」
そう聞こえたような気がした。僕が掴んだ鉄骨はものすごいヌメリをまとっていて、力強く握ったはずの僕の手をやんわりとふるい落とす。それに全体重を乗せようとしていた僕はバランスを失い空中で仰向けになった。
「……あ、やば……」
コンクリートブロックに乗せていた足さえも雨のためにつるりと滑り、僕はあらぬ方向に投げ出された。待て、これはまずい、まずいぞ……。さっきまで血が上って煮えたぎっていた僕の頭はこの瞬間には血の気を失い、ゾワゾワとした悪寒を全身に引き起こしていた。
「……こ、この」
僕は必死にもがいた。滞空時間はものすごく長かったような気がするけれど、恐らく一瞬の出来事だったんだろう。どうもがいたのかわからない。ただ、頭から落ちる事だけは避けたかった。
どさーっ!!
次の瞬間、ものすごい衝撃が僕の体を襲う。同時に、僕の左足に激痛が走った。
「い、いだっ……」
思わず苦痛に顔をゆがめる。両手で左足を抱えると、体全体にもう一度衝撃を受けた。
ずじゃーっ!
「うう……」
体が濡れていくのがわかる。僕はどうやらススキ野原で倒れているらしい。左足がカッカと熱い。少しでも動かそうとすると、ものすごい激痛が走る。抱えた両手をしばらく動かすこともできなかった。
「くそ、くそう……」
情けなくて、泣けてくる。僕は一体何をやってるんだ。心落ち着かせ、静かな時を一人で過ごすはずの廃墟。そんな素晴らしかった場所で僕は足を怪我して泥だらけになってうめいている。誰も来ない。来るはずがない。彼女だって、絶対来やしない。
「何だよ、何だよこれ……ううっ」
ススキ野原がざわざわと音をたてはじめた。また風が出てきたのか。雨も降り出すんだろう。僕は動くこともできない。このまま、誰にも見つからずに……。
「……おい、おい!」
……誰だ……気のせいに決まってる。ちくしょう。
「しっかりしろよ! ほら、がんばれ!」
……誰だよ……。
僕は気を失った。
~~
「兄ちゃん、ばっかじゃねえの」
気が付いたら、僕は病室にいた。トシの奴が僕の隣で笑いながら悪態をつく。その後ろでは親が僕を叱ったり慰めたりを繰り返していた。
「ほんと、兄ちゃんって間抜けだよな」
「お前、出てけ」
こいつは普段から口が悪いが、怪我人になった僕にも容赦はしなかった。トシはおちょくるように僕の寝ているベッドの周りを回りながら悪口を言うと、満足した様子で親と一緒に帰っていった。一人になってから、自分の左足をそっと撫でてみる。大きなギブスか何か付いているかと思ったら、包帯が巻かれているだけだった。
どうやら、骨は折れていなかったようで、遅くとも二、三日後には退院できるという話だった。僕は安堵する。
それにしても。僕を病院まで運んでくれたのは一体誰だろう。気絶する前に、誰かの声を聞いた。どこかで聞いたような……。
「よっ、どうだ?」
「ああ、お前か。そうだ、お前だ」
翌日、端島がお見舞いに来てくれて、僕は声の主が誰だったのかを知った。
「ありがとな。お前だろ? ここまで運んでくれたのは」
「ああ、まぁな。半分はな」
「ほんと、感謝してる」
「まぁ、いいじゃないか。そんなこと」
端島は僕の感謝にはまったく興味がないみたいだった。こいつは、こういう奴だ。それが僕にはとても嬉しかったし、申し訳なくもあった。
「それよりお前、何であんなところで怪我したんだ?」
端島が少し真剣な表情で僕に訊いた。僕はどう答えたらいいのかわからず、黙り込んだ。
「……いいけどな、別に」
「端島こそ、どうして僕があそこにいることがわかった?」
「いや、最初はお前を追いかけただけだよ。お前がカバン忘れて帰っちゃったから」
「……ああ」
「よっぽどだぞ。カバン忘れるなんて、ありえないだろ」
端島が苦笑する。無理もない。あの時の僕はどうかしていた。
「……僕、学校のそばで転んで怪我をしたことになってるな」
僕は、話題を変えた。
「ああ、そう言っといたんだ」
「何でさ」
「だって、何かワケアリなんだろ? あのススキの場所」
「……うん」
端島はきっと僕に気を利かせてくれたんだ。橋げたのそばで怪我したなんて言ったら、僕はもう二度とあの場所には行けなくなってしまう。僕があそこに固執していることに、奴は直感で気付いたのかもしれない。
「僕さ、お前には話そうかと思う」
「何をさ」
「……あのな……あっ」
「……どうした?」
「夕日じゃないか!」
「ああ、晴れたな、今日は」
端島と二人で窓の向こうの夕暮れを見つめていた。ああ、何てことだ。もしも今日あの場所に行けたなら、彼女はコンクリート壁にもたれかかりながら、その可愛い笑顔を僕に向けてくれたはずなんだ。きっとそうに違いない。僕は先走った自分が恨めしくて仕方がない。
「あの場所な、僕だけの場所だったんだ」
「……ん? あ、ああ」
端島が不思議そうな様子で曖昧に返事をする。
「でも、ある人とそこで会えることになって……」
「それって、女の子か?」
「さすがに勘がいいな、端島は」
こいつは何もかもお見通しなのか。
「いや、勘じゃなくてさ。お前が怪我した日、あの野原の近くで会ったんだよ、俺も」
「……え?」
「何にもないところにいて、不思議な子だなって思ったんだけどさ。お前がボロッちい柱に向かった、って教えてくれたのも、その子だよ。俺はただの通りすがりかと思ってたんだけど……」
「ど、どんな子だった!? 特徴は!? 格好は!?」
「え、何だよ! 会ってたんじゃないのかよ!……そうだな、何か古臭い制服を着て、物静かっていうか、クールっていうか……」
間違いない。あの近くで僕を知り、そんな不思議な雰囲気を湛えた女の子。伊香保さんだ。僕は確信した。