先輩は強引
「………………」
僕はぼーっと暗くなり始めた空を見上げていた。コンクリートブロック。彼女がさっき座っていたところだ。知らず知らずのうちにその場所を手で撫で回していたのに気付き、恥ずかしくなる。
「はぁ……」
僕はさっきの彼女と同じように、そこに座って空を見上げていた。名前を訊いただけで終わってしまった夕暮れ廃墟倶楽部の今日の活動。後悔の念がつのる。僕は孤独を感じながら、さっきまでの彼女との時間を思い出していたのだった。
~~
「きれいね」
「う、うん」
彼女はそれっきり黙りこんでしまう。
「え、ええと……」
一人で時間を過ごすのは慣れている。だけど、二人で、それも可愛い女の子と一緒に、廃墟で過ごすなんて経験は皆無だ。こんな寂れた所で、僕は彼女のために何をすればいいんだろう?
「……帰るわ」
不意に彼女が口を開いた。そのまま僕に背中を向けて走っていく。
「え、え?」
突然の出来事に僕は動くこともできない。
「またね」
僕……何か怪しい動きでもしただろうか……。彼女は昨日と違い、一度も振り返らなかった。
~~
「はぁ」
何度思い出してもため息しか出ない。
「あっ! あんた!」
「……来ました」
「七時って言ったでしょ! 十分も遅刻してるわよ!」
あれだけ遠距離をフラフラになりながら走ってきて、ようやくたどり着いた地学部室。たったの十分の遅刻で済んだ事が僕には奇跡に思えた。そんな事を言っても、兵庫先輩の怒りの火に油を注ぐことにしかならないだろうけど。
「早く、こっちに来て手伝いなさい!」
兵庫先輩は部屋の奥でごそごそと何かをいじりながら僕に命令した。しぶしぶ従う僕。
「何をすれば……」
「これ! はいっ! 持って行って!」
いきなり振り返った兵庫先輩に渡されたのは二つの大きな三脚。いっぺんに持つとかなり重い。
「ええと……」
「屋上よ! 先行ってて!」
僕は屋上に行ったことがない。もちろん屋上入口がどこにあるのかは知っている。鍵、開いてるのかな。まあ、どうでもいいや。こいつを適当な場所に置いて、さっさと帰ろう。
「はぁ……」
この気の重さ、何だろう。彼女と会えたじゃないか。しゃべることもできた。名前もわかった。なのに。
「期待……しすぎたかな」
重い足取りと重い三脚でフラフラする僕に、兵庫先輩が後ろから声をかけた。
「しっかりしなさいよっ!」
~~
屋上への扉は開いていた。
「さあ! 入って!」
筆記用具やら本やらを抱えた兵庫先輩が僕に促す。後から追いかけてきた先輩に、僕は結局追いつかれたのだった。屋上に出ると。
「……へぇ」
こんなに広いとは思わなかった。普段立ち入り禁止になっているその場所は、天体観測をする生徒のみが特別に立ち入りを許可される。兵庫先輩が歩きながらそう僕に教えてくれた。
「よいしょ……っと」
僕は三脚をフラフラになりながら降ろす。
「よっし! オッケー! じゃあ、ここに名前書いて」
「は?」
「は? じゃないの! 活動者氏名、ここよ」
兵庫先輩は一枚のプリントを僕の前に差し出し、懐中電灯で照らした。僕は鉛筆で自分の名前を書き込む。
「じゃあいいわ、はい! ご苦労様!」
プリントを僕の手から奪い去ると、兵庫先輩は僕に背中を向け、道具を整え始めた。
「あの、もういいんですか?」
「いいわ!」
何だか拍子抜けしてしまう僕。
「星とか、僕は見なくても……いいんですか?」
「……へぇ。あんた」
兵庫先輩が振り返り、にやりと笑った。
「なかなか見込みあるわね」
「は?」
「もちろん! 我が地学部は、積極的な活動を希望する部員は大歓迎よ!」
いや……積極的というわけでは……。
「白石! 白石! ちょっと来て!」
兵庫先輩が突然暗闇に向かって叫んだ。すると、暗闇の向こうに人が動いたような気配がした。それはゆっくり僕たちのほうにやって来る。
「何だい、騒がしいな……おや」
その人影は一人の男子生徒だった。ものすごく背が高い。その人をひと言で形容するなら……かっこいい。
「ほう、珍しいね」
「今夜の幽霊君よ! 活動に参加したいんだって! ふふっ!」
「いや、参加とか、そういう……」
「ほら! せっかく来たんだから、覘いていきなさい!」
兵庫先輩は今度は三脚に据えつけられたばかりの望遠鏡を指差した。どうしよう……そんな気分じゃないのに……。
「まあ、少しでいいから、遊んでいきなよ」
背の高い男子生徒が優しく言った。
僕はその場から周りを見渡す。夜の学校は別世界のようだ。寂れたこの街は、夜は特に暗い。空には満天の星。そして、地上には、淡い光を放つ高速道路。
……そうだ。あの近くに僕の廃墟があるんだ。こんな所から見るのは初めてだな。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「そう! じゃあ、白石! 面倒見てあげて!」
兵庫先輩が嬉しそうに男子生徒に言う。
「わかったよ。じゃあ、幽霊君。望遠鏡、頼むよ」
「……はい」
僕は指図されるままに、望遠鏡を抱えて男子生徒についていく。どうやら彼の名前は白石というらしい。
「あの、あんまり人、いませんね」
目が慣れてきて、他の部員の姿を探しても、兵庫先輩と白石さんの他には数人しか見当たらない。
「ん? ああ、こんなもんさ」
白石さんは飄々とした態度で言う。
「君は珍しいよ。ほとんどの帰宅部連中は、準備が終わったらさっさと帰っちまうのさ」
僕だって、熱心に残ろうとしたわけじゃないけど。
「なぁ、まぁや」
白石さんが僕たちの後ろからやって来る兵庫先輩の方を振り返った。
「その呼び方はやめてって言ってるでしょ!」
「はは、まだ許してくれないのか」
この二人、同じ学年なんだろうか。白石先輩、か。
「天体観測は、天気が悪くなければ、毎週やってるんだ」
「そうなんですか」
「君も興味があったら、またおいで」
白石先輩は僕に星座のたくさん書かれた円盤のような図表を渡すと、星の説明を始めた。僕は何だかここにいることが不思議になる。
「あの、すみません。星と関係ないんですけど」
「何だい?」
「僕はどうして、突然呼ばれたんでしょうか?」
白石先輩はそれを聞いて笑い出した。
「うちに、部員がどれだけいるか、知ってるかい?」
「え? いや」
「ざっと総勢128人!」
「そんなに?」
「驚いたかい? 実情はご覧の通りだけどね」
白石先輩は周りを見回しながら肩をすくめた。
「うちはね、下級生に天体観測の準備をさせることになってるんだ。だけどなにせ人手だけは豊富だから」
「はぁ」
「各人が一年に一回だけ準備を手伝えば、それでみんな足りちまうのさ」
何だかよくわからない。帰宅部の僕たち全員に、一年に一回準備を手伝わせる。そんな事をする意味があるんだろうか。そんな僕の考えを見透かしたかのように、白石先輩が言葉を継いだ。
「うちの学校の部費配分システム、部員数が大きな比重を占めてるんだ」
「へ、へぇ」
「ただし、『ちゃんと』活動してる部員だけが数えられる」
「はぁ……あ、そうか」
僕はさっき兵庫先輩に半ば強引に名前を書かされたことを思い出した。あれで僕も正式な部員に数えられるんだろうか。
「まぁやの熱心さには恐れ入るよ。君も彼女に探し当てられたんだろう?」
「まあ、そうですね」
「別に名前だけ書いちまえばいいのにね。そんなインチキは許せないんだそうだ」
「そうですか」
ちょっと手伝うだけで正規部員に、というのも少しインチキ臭い気がしたけど、言わないでおいた。
「それに、まぁやはほんとにこの部が好きなのさ。だから、ほら」
白石先輩が突然振り返って兵庫先輩を指差した。思わず目で追うと、兵庫先輩がさっと僕たちから目をそらして空を見上げた。
「あ、あの星は……えーと」
「ふふっ、まぁや。こっちに来るかい?」
「その呼び方、やめてって言ってるでしょっ!」
兵庫先輩は怒って僕たちとは反対方向へ歩いていってしまった。
「彼女、君が来てくれて、とても喜んでるよ。実際、すっぽかす奴も多いんだ」
「ま、まあ……そうでしょうね」
僕はあの廃墟を望遠鏡で見てみたかったけれど、白石先輩には言えなかった。望遠鏡で地上を見るなんて、滑稽に感じたからだ。いや、それだけじゃない。
「真っ暗だな……地上」
きっと何も見えないや。