廃部は即日
「え、ええっ! じゃあ、地学部はどうなるんですか!」
兵庫さんが興奮したようにイスから立ち上がった。もう少しでポットをぶちまけてしまうほどのものすごい勢いだったので、僕は少し驚く。それは先輩たちも同様だったようだ。
「ま、まあ……まあ……落ち着いて、ね?」
一乃先輩は少し狼狽しながら兵庫さんをなだめる。しどろもどろになっている彼女に代わり、好摩先輩が話を続けた。
「僕と一乃はね、来週この街から引っ越すんだ。だから、地学部を続けることができない」
「お二人同時に、一斉に、ですか?」
何となく事情を察しながらも僕が訊くと、好摩先輩がうなずく。
「うん。僕たちは、双子の姉弟なんだ。彼女は僕の姉でね」
「やっぱり、そうですか」
答えは僕のおおよその察しの通りだが、改めて言われてみると確かに二人はよく似ているような気がする。美男美女で、落ち着いた振舞いも柔らかな物腰もどことなくそっくりだ。
「……そんな……」
兵庫さんはがっくりと力を落とし、そのままイスに座り込んだ。
「地学部が……無くなるなんて……そんな……そんな」
彼女はうわ言のように同じ言葉を何度も繰り返し、うつむいたまま動かなくなってしまった。
「……本当に申し訳ないと思っているわ。せっかくやる気あるあなた達が来てくれたのに、何とお詫びしたらいいか……」
一乃先輩も悲しそうな顔をしながら、優しく兵庫さんに語りかける。
「本当に今日で活動は終わりなんですか?」
僕はあまりにも落ち込んで縮こまる兵庫さんが少し気の毒になり、先輩に再度確認をした。
「ええ、残念ながら。私たち、今日は地学部の物品を整理していたの。もうほとんど終わったけれど。あなたたちは、お茶とお菓子だけでも、楽しんでいってね」
「ごめんね。僕たちも何とかしたかったんだ。だけど、地学部の部員は今では僕たちだけになってしまって……」
好摩先輩がそう言った、その時。
「……えっ、えっ……ううっ……ひっ……」
兵庫さんが肩を震わせ始めた。透明な液体がうつむいた彼女の顔の下にある机にぽたぽたと落ちる。
どうやら泣いているようだ。
本当に不思議な子だ、と僕は思った。彼女は確かに地学、特に天体が好きなのだろう。彼女の情熱は僕にも痛いほどよく分かった。残念ながら彼女のそれは空回りに終わってしまうのだが……だが、言ってしまえば、こんなものたかが部活動だろう。入れなかったからといって、それが泣くに値するほど悲しい出来事だとは僕には到底思えない。
「えっ……えっ……うぐっ……ひぐっ……」
ぽたぽたと落ち続ける涙を見て、僕も先輩たちも黙り込むしかなかった。
「ごめんなさい……本当に、ごめんね……」
一乃先輩は兵庫さんの近くに寄ると、彼女を優しく肩越しに抱いた。それでも泣き続ける彼女。これはしばらく泣きやみそうにない。
さて、僕はこの事態に当たりどう対処すればいいだろう。そう冷静に考えながら、僕は紅茶の注がれたティーカップを手に取ってほんの一口だけ飲み、そして、言った。
「……僕たちが入部すれば、部員二人は確保できます。それではいけないんでしょうか?」
「どうだろうね。人数だけなら部としての体裁は保てるかもしれないが……」
好摩先輩が答えた。兵庫さんの肩がピクッと揺れる。
「……うちの学校には文化部が加入する文化部連合というものがあってね。そこは二年生以上じゃないと出席できないんだ」
「そうですか。では地学部は連合の加入を一旦休止し、僕たちが進級した後に連合に再加入するというのはいかがでしょう?」
そう僕が言うと、一乃先輩が兵庫さんを抱いたまま答えた。
「すべての文化部の部費配分はそこの決定でなされるの。うまく言えないけれど……一度抜けると、色々と不利益が生じてくるのよ。将来も大変になるわ……」
目を伏せながらためらいがちにそう言う先輩を見て、僕は文化部連合内に存在する様々な政治的駆け引きを知った。そこを一度抜けてしまえば、恐らく半永久的に地学部の権力は失墜するだろう。世界最先端技術を得るどころか、普通の活動すらできなくなるかもしれない。
「私たちがいなくなると知って、この部屋を使いたいと言い出している部もあるの。地学部がなくなってしまえば、私も何も言う事はできなくなるわ」
「……現在の地学部は廃部にし、新規に地学部を設立するという方法は……」
「ええ……でも、そんな事は前例がないから……まずは顧問の先生に相談して……」
「……ります……」
突然、泣いていたはずの兵庫さんが何かを口にした。
「……守ります……地学部……私が……」
「兵庫さん?」
一乃先輩がゆっくりと兵庫さんから離れると、兵庫さんは涙と鼻水で顔をくちゃくちゃにしながら、それでも決心したかのように力強い表情で先輩をまっすぐ見つめ、もう一度言った。
「私が地学部を守ります!」
「兵庫さん、でも、聞いてただろう? 色々と問題が……」
僕が言いかけると、彼女は僕の方を振り返った。
「いえ、文化部連合、もし地学部の活動に本当に必要なら、私が出るわ」
「だから、僕たちは出られないと……」
「そんなのおかしいわ! 新入部員がいるのに訳の分からない集まりのために部を潰されるなんて、バカげてるわ!」
兵庫さんはもう一度一乃先輩に向き直り、興奮気味に訊いた。
「一年生は出られないなんて、そんなルールが本当にあるんですか?」
「え、ええと……連合の参加者は皆そう思っていたわ……私は規約を詳しく調べた事はないけれど……」
「どこで規約がわかりますか? ここでわかりますか?」
「……確か、連合規約をファイルした資料が保管されていたと思うよ」
「それっ! 見せてください! お願いしますっ!」
「ちょっと、兵庫さん……落ち着いて」
あまりにも興奮する兵庫さんを見て、僕は思わず彼女に向かって言った。だが、僕の言う事など彼女は全く聞いていない。
「……わかった。ちょっと待っていてくれるかな」
好摩先輩はイスから立ち上がると、壁際にあるガラス棚の方に歩いて行き、書籍が並べられている棚の前に立つと、書類を探し始めた。
それを見つめながら僕は思わずほっと一息ついた。
「お茶、冷めちゃったわね。入れ直してあげるわ。今日は私たちも時間があるから、あなたもまずは落ち着いてティータイムを楽しみましょう。ね?」
一乃先輩がハンカチとティッシュを兵庫さんに渡しながら優しく言った。
「あ……はい……すみません。私、見苦しいところばっかり見せてしまって……」
「ふふっ、そんなことないわ」
真っ赤になる兵庫さんを見て一乃先輩はクスリと笑う。僕はその美しい笑顔に見とれた。
幾度となく異性からのアプローチを受ける僕だが、こちらから誰かを好きになる事などこれまで一度もなかった。それが今、先輩の笑顔を見て、僕は何だか不思議な胸のざわめきを覚えている。
もっとも、このざわめきは今日会ったばかりの風変わりなクラブ仲間、兵庫摩耶に振り回されるであろう今後の事を考えた故なのかもしれないが。
僕は苦笑した。
一乃先輩がポットのお茶を温め直し、ちょうどそれがよい温度になったころ、好摩先輩が一冊のスクラップ帳を手に僕たちのところに戻ってきた。
「あった。これが文化部連合の規約だよ」
「ありがとうございます。見せてもらってもいいですか?」
「うん。このプリント」
「あらあら、またお茶が冷めちゃうかしらね。ふふっ」
兵庫さんは軽く笑うと、そのプリントを手に取って熱心に読み始めた。僕は手元にあった紅茶を飲み干し、先輩にお代わりを頼む。
それにしても。僕はプリントを睨みつけている兵庫さんを見つめた。
この少女は、何故こうも地学部の活動にこだわるのだろう。入学して早々、自分が入部する前から人をかき集めようと必死になり、地学部存亡の危機を知るや人目をはばからず泣き出してしまう。僕は当然、こんなにも一生懸命に何かに取り組んだことはない。いついかなる状況にあっても僕は必ず物事に上手に対処できたからだ。
いや、違う。彼女を見ていて僕は気付いた。
僕は引きが上手いのだ。つまり、やっても無駄と分かっている事は何もしない。もしも僕が一人だけでここに来ていたら、お茶とお菓子を御馳走になった後にさっさと地学部の存在を記憶から消し去ってしまっていただろう。
「先輩!」
突然、兵庫さんが叫んだ。
「一年生が参加できないなんて、そんな事書いてません!」
「そう?」
「ええ、間違いないです! 何度も読み直しましたから!」
兵庫さんはそう言いながら希望に満ちた笑顔を見せた。
「……僕も確認していいかな」
僕は兵庫さんに近寄り、プリントを覗き込んだ。
「文化部連合規約」
そこには表題にそう書かれている。書かれている規約内容自体はそれほど多くない。せいぜい二十項目といったところだ。僕はそれらをざっと流し読みした。
「どう? ないでしょ? やっぱり私が出てもいいのよ!」
兵庫さんはさっきの泣き顔がウソのように得意満面の表情だ。それを見て先輩たちは複雑な表情で微笑んだ。
「……この、『総会に出席する各部代表は、指導的立場にある部長または副部長とする』という項目が該当するかもしれないよ」
僕は項目の一つを指し示し、兵庫さんに見せた。部長、副部長といえば、普通は高学年であるはずだ。
「そんなの全然違うわよ! 私が部長であんたが副部長になるんだから! 何の問題もないじゃないの!」
「……うん、まあ……」
勝手に副部長にされた事は置いておくとしても、彼女の言い分にも一理ある。読んでみて分かったが、この規約は穴だらけなのだ。参加資格が曖昧であるどころか、一番重要であるはずの部費配分に関する規定も何もなされてはいない。
恐らく、最初はただの交流か意見交換を目的とした集まりだったのだろう。それが慣習的に続くうちにいつしか権力を持つようになり、やがて誰もがその権力を疑うことなく盲目的に従うようになった。
よくある話だ。
「先輩! これで私たちの部も連合を抜ける必要がないですよね!」
兵庫さんは満足したようにイスに座ると、目の前に置いてあるティーカップを取り、ごくりと喉を鳴らしながら紅茶を一口飲んだ。
「よかったわ! 頑張らなくちゃ!」
「……どう思う? 好摩」
一乃先輩は好摩先輩に小さな声で訊いた。
「うん……規約自体は問題なかったとしても……連合の連中がそれを認めるかな」
先輩たちはそう言ったきり、考え込んでしまった。
僕は先輩が出してくれたおいしいお菓子を食べながら、同じことを考えていた。もしも兵庫さんがこの部を守るつもりなら、恐らくこれから他の文化部代表たちと一悶着あるだろう。彼らは皆上級生だ。兵庫さんは彼らの信じる慣習を破るために戦っていかなければならない。そして、同じクラブの先輩もいない孤立無援の彼女には、当分の間僕しか助ける者がいないだろう。
やれやれ。まったく、面白い事になってきたものだ。
「先輩。僕も覚悟を決めました。改めて地学部への入部をよろしくお願いします」
僕は一乃先輩に自分の決心を告げた。
「んっ! 白石君! そう来なくっちゃ!」
それを聞いて、兵庫さんはますます嬉しそうに笑った。
「……そう。これから大変よ。私たちは活動を教える事もできないし、それに部費の事だって……」
「活動については、先輩方が引っ越される来週までにしっかり学びます。部の運営は、兵庫さんに任せておけば何とかなるのでは、と思い始めてきました」
「一乃。この子たちにやらせてあげよう。きっと、この子たちなら地学部をもっと発展させてくれるに違いないさ」
好摩先輩も僕たちに味方してくれた。その言葉を聞くと、一乃先輩はしばらく考えた後、静かにうなずいた。
「そうね。こんなに地学部の事を思ってくれるんだもの。きっと素晴らしい部になるわ」
そうつぶやいて、兵庫さんの前に手を差しだしながら、美しい笑顔で言った。
「地学部へようこそ。そして、今日からあなたが部長です……こんな状況で、ごめんなさいね」
「いえっ! 嬉しいです!」
兵庫さんは差し出された手をガッチリと握った。
「……さて、忙しくなるよ、副部長君。僕も君に教える事がたくさんあるからね」
好摩先輩が僕の前に手を差しだし、僕もそれを握る。
「はい。物覚えはいい方です。どうかご指導よろしくお願いします」
こうして、新入生二人だけの地学部は始まった。