野望は高価
「あっ! 兵庫先輩!」
翌日の昼休み、僕は渡り廊下の先を行く兵庫先輩を見つけて思わず呼びかけた。いっせいに振り向く周りの生徒たち。だけどそんな事を気にしている場合じゃない。先輩には色々と訊きたい事があるのだ。白石先輩や端島も何かを知ってるようだけど、事情を詳しく知らない僕にとっては本人に訊くのが一番手っ取り早い。先輩は僕の呼びかけが聞こえなかったのか全く反応しない。僕は先輩に急いで駆け寄ろうとした。すると。
「あっ……え?」
先輩がいきなり走り出した。いつもならこっちを振り向いて満面の笑みを浮かべる陽気な性格の兵庫先輩が、今日はまるで怯えた猫のようにビクビクしているように見える。
「ちょっと!」
傍から見たらどんなふうに見えたか分からないけど、僕は先輩を追いかけた。先輩はかなり本気で走っているらしく、気を抜いて走るとすぐに引き離されてしまう。仕方ない。僕も全力で走った。
「はぁ……はぁ……ちょっと、先輩……」
僕だって毎日橋げたまで全速力で自転車をこいでるんだ。体力も少しはついてるはずだ。必ず先輩を捕まえられる、妙な自信が僕にはあった。なにしろうちの学校の狭い校舎じゃ逃げるといってもたかが知れている。そう、先輩はこの先の階段を、恐らく上に登るだろう……。
「はぁ……はぁ」
先輩は階段まで来ると上の階へ向かった。やっぱり。上の階には地学準備室がある。そこに逃げ込むつもりなんだ。
しかし、ここまであからさまに逃げられると、追いかけている僕の方が悪い事をしているような気分になる。
「ちょっと……先輩……そんなに逃げなくても……」
「はぁっ……はぁっ……」
先輩は上の階に着くと、そのまま地学準備室の方へ向かった。予想通りと内心ほくそ笑みながら追いかける僕。先輩は地学準備室の前に立つと、ポケットからカギの束を取り出して準備室のカギを選び始めた。激しく肩を揺らし、息の荒い先輩はどうやら手まで震えているらしい。そんな状況では正しいカギを見つけるのが難しかったのか、先輩は扉を開ける前に僕に追いつかれてしまったのだった。
「せ、先輩……追いつきましたよ……!」
先輩のすぐそばまで来た僕は、思わず先輩の肩に手を触れた。その瞬間、びくりと体を震わす先輩。
「はぁっ……はぁっ……う」
先輩は僕の方をゆっくりと見た。とても狼狽していて、目は完全に怯えきっている。汗をびっしょりかいているのは、きっと走ったせいだけじゃない。そんな普段見たことがないほどにか弱い様子の先輩を見て、僕は思わずどきっとして言葉を失ってしまった。
「はぁ……はぁ……あの……」
「はぁっ……はぁっ……」
お互いに息が荒くて会話にならない。
「はぁ、はぁ……僕……責めるとか……ちっとも」
「はぁっ……はぁっ……」
「はぁ、はぁ……助けに……なりたいだけなんです……先輩の」
「はぁっ……はぁっ……」
「逃げないで……ください」
「はぁっ……はぁっ……わ、わかった……」
先輩の言葉を聞いて僕は安堵し、廊下の壁にもたれかかった。こんなに真剣に人を追いかけたのは久しぶりだ。いや違うな、最近はある人を追いかけてばかりかな……。
先輩は改めて準備室のカギを探し出すと、扉を開けた。
「……入って」
そう言いながら部屋の中へ進む。僕は無言で後に続いた。
~~
「……はい、コーヒー。もうっ、あんなに全力で走ったのは久しぶりよ。女の子に汗かかすなんて」
「すみません……って、先輩が逃げるからじゃないですか」
「別に、逃げたわけじゃないわよ……ただ、追いかけてくるから」
どういう理屈なのかよく分からないけど、とにかく先輩とゆっくり話す時間が取れた。一緒に廃洋館に行って以来だ。
「先輩、洋館の事、ありがとうございました」
僕はまず、ずっと言えずにいたお礼を言った。
「いいわよ、私は付いてっただけでしょ。ちょっと迷惑もかけちゃったしね」
「いえ、聞いたんです。白石先輩から。端島も言ってたでしょ?」
「え? 何?」
「いや、あれは兵庫邸だって……あれ?」
もしかしてこれは秘密だったのかと考えた時には後の祭り。僕はもうそれを口に出して言ってしまっていた。
「……もぅ。白石ったら」
僕の不安とは裏腹に、兵庫先輩はそれを聞いても怒りも驚きもしなかった。
「先輩、秘密にしていたんですか? だったら、すいません」
「ううん、別に。言う必要もないかな、って思っただけよ。あなたと榛奈ちゃんのデートがメインでしょ」
先輩は意外なほどにあっさりとした口調で言った。
「榛奈ちゃん、その後どう? あの子の制服、見慣れないけどどこの学校かしら。あんまり話したがらない子だったから私も訊かなかったけど。でも、いい子だって事はよく分かるわ。可愛いしね。あんたもなかなかやるわね」
先輩がだんだんといつもの調子に戻って、榛奈さんの事を楽しそうに話し始めた。それに釣られ、榛奈さんの話題に思わずのめり込みそうなった僕は慌てて自分を制する。こんな話をするために兵庫先輩を追いかけたわけじゃないんだ。
「……いや、ええと。榛奈さんの事は置いといて、訊きたい事があるんです」
僕の真剣な表情を見て、兵庫先輩の顔がほんの少しこわばった。
「望遠鏡。先輩は売るつもりだと聞きました」
「………………」
それを聞いて、先輩のさっきまでの笑顔が完全に失われた。しかしここでひるむわけにはいかない。僕は言葉を継いだ。
「僕も地学部員ですし先輩のやりたいことには協力したいです。先輩が榛奈さんとの事に協力してくれたように」
「………………」
「誰にも言っていません。僕は白石先輩から聞いたんですが、先輩も、端島も、他の人には誰にも言っていないと思います。端島は僕にさえ秘密にしていたくらいですから」
「そう……」
「どうして望遠鏡を売りたいのか、教えてくれませんか?」
「………………」
「あの……協力できるかもしれないし」
「ふふっ」
突然、兵庫先輩が笑った。僕にはさっぱり意味が分からなかったが、それは自嘲を込めたような退廃的な笑いにも感じられた。
「ありがとう。嬉しいわ。気持ちだけ受け取っておくね」
「だったら……教えてください」
「望遠鏡。新しいのをね、買いたいの」
そう言った先輩の眼の奥が少し鈍く輝いた気がした。それは先輩の強い決意の表れだったのかもしれない。
「え、今のじゃなくて、ですか」
「もっと性能のいい、小惑星だって追尾できるような、ね」
僕には望遠鏡の性能の事は詳しくわからなかったけど、先輩が学校の望遠鏡を売ろうとしていた理由だけは、その時はっきりと分かった。
「お金ですね、つまり」
「うん。私、ずっと貯めてたの。この学校に入学したときから、ずっと。他の部を編入させたりして、部費配分を増やさせたりもしたわ。聞いてるでしょ、私の噂」
先輩の噂というのは、おそらく「金色彗星」という異名の事だろう。金にがめつい先輩。次々と部を乗っ取っては地学部に金を流し込む豪傑少女。先輩のそばでは常に金の音がするという評判。どれも半信半疑だったけど、本人の口からそれを認める発言を聞いてしまっては、もはやそれは疑いようもない事実だ。
「あ、ええ……いや、あの」
「いいのよ。本当だもの。それもこれも、望遠鏡のため」
「はぁ……」
「今年、今月、望遠鏡が届く。ただね、お金が足りないの。だから、古い望遠鏡の下取りでまかなおうって考えてる、それだけよ。単純な話でしょ」
「ええ、まあ……いやいや、単純じゃありませんよ!」
望遠鏡の購入は部の活動のために有益だろうけど、そのために学校の備品を横流しするのはよくないに決まってる。
「学校にばれたら、まずいですよ。叱られるくらいじゃ済まないですよ!」
「どうして? 学校の備品を売って新しい備品を買うだけでしょ? おかしい?」
「おかしくない……かな? ん? いや! その新しい望遠鏡、先生は知ってるんですか?」
「知ってるわ。ただ先生は購入に反対してるってだけ。『ただの学校教材でそんな高級なものが買えるか』だって」
「じゃあ、やっぱりまずいですよ!」
「いいえ。後で先生も私を認める事になるわ。あれを見れば」
兵庫先輩がおもむろに窓の外を見た。その表情はなぜか自信に満ちているように僕には感じられた。
「あれ? あれって何ですか?」
「まだ誰も知らない小惑星。十二年経った今年、今月、帰ってくる。私はそれを見つけるの」
「し、小惑星?」
「そうよ。誰よりも早く、私が見つけるの。そうしなきゃいけないのよ」
先輩の力のこもった声に、僕は少し圧倒された。きっとものすごい決意に違いないであろう、そんな雰囲気を全身にたたえながら、兵庫先輩は静かに空を見上げている。
「……その小惑星、確かに来るんですか? その新しい望遠鏡で発見できるんですか?」
「ええ。私ならできる。いえ、お兄ちゃんが助けてくれ……」
そこまで言って、兵庫先輩が唐突にうつむいた。お兄ちゃん? 兵庫先輩にお兄さんがいるなんて初耳だ。
「……公にはならなかったけど、私より先に小惑星を見つけた人がいるの。だから、存在するのは確かなのよ」
「……お兄さん、ですか」
兵庫先輩は黙ったまま答えなかった。