彼女は可愛い
「何か嬉しそうだな、お前」
授業が終わって急いで教科書をかばんにしまう僕を見て、端島が近くに寄ってくる。こいつは僕の友達だ、だが親友というわけじゃない。普通の人間にはよくいるしゃべり友達という程度なのに、僕には友達自体がほとんどいないので、周りの連中からは親友同士と思われているようだった。
「顔ニヤニヤさせてんぞ、朝からずっと」
端島は小ばかにするように僕に言った。こいつに僕のことは微塵もわからない。僕が愛する廃墟のことも、なぜ僕が嬉しそうなのかも。
「あ、ああ……最近成績が上がってきてるから」
適当にごまかして早々に立ち去ろう。
「うっそつけ! テスト返された時はやたら落ち込んでたくせに!」
こいつはなぜか僕の言動をよく知っている。本当に気持ち悪い奴だ。今だって放っておいて欲しいのにこうして勝手にそばにやってくる。
「な、何でそんなこと知ってんだよ……」
「は? お前が言ったんだろうが、俺に。『こんな点じゃ家に帰れない』って」
そうだ、思い出した。僕はこいつにひとしきり愚痴った後、廃墟に向かってそこで一人ボーっとしてたっけ。あの時も僕のオアシスである橋げたは僕を優しく慰めてくれた。こいつと違って。
「なあ、どうしたんだよ。あ、さてはお前」
端島を無視して帰ろうとする。僕にはこいつに構ってる時間なんてない。早く夕暮れ廃墟倶楽部に集わなきゃ。
「好きな子がいるな? そうだろ?」
端島が笑いながら俺の背中に叫んだ。こいつ、妙に勘がいいからいつかはバレるだろうと思っていたけど、こんなにも早くバレてしまうとは。いや、僕が隠すのが下手なんだ。
「何言ってんだよ、ばか」
僕は捨て台詞を吐きながら自転車置き場へと向かう。そうか、やっぱりこれは、恋なのか。あいつに言われて、何か言いようもないしっくり感があった。からかわれてるはずなのに、どこか心地よくも感じた。
好きな子、か。
あの子の名前も、どの学校に通っているかも、何もわからない。でも、今日も二人っきりで会える。昨日のあの夢のような出来事が、本当に夢でなかったのならば。僕は自転車置き場に思いっきり走って行き、自分の自転車のカゴにかばんを放り込んだ。
「ねえ」
突然後ろから呼びかけられる。振り返ると、そこには知らない女の子が。もちろん、あの子じゃない。
「確か、地学部でしょ、あんた」
「へ?」
僕はどの部活にも属していない。いや、それは正確な言い方じゃない。この学校は、必ずどこかの部に所属しないといけないことになっている。それで、僕は適当に所属部を決めた。帰宅部の巣窟と聞いていた、あの部へ。たしかそれが……。
「地学部なのよ、あんたは」
女の子は僕に何だか怒ったような口調で言った。
「へ、へぇ」
「当番よ、今夜。いいわね?」
「な、何の……」
「まったく! 一度も顔を出さない人間が何十人もいるんだから! いつも探してるこっちの身にもなってよ!」
「あの……」
「いいわね! 今夜七時! 地学部室!」
「ちょ、ちょっと!」
「何よ」
「君、だれ?」
「兵庫よ! 兵庫摩耶! 部長のことも知らないなんて!」
そういえば、そんな名前だったかな……。所属後の見学会でそんな名前を聞いたような気がする。
「それで、兵庫さんは僕に何をして欲しいんでしょうか……」
あまりの威圧感に僕は自然と敬語になってしまう。
「天体観測準備! 部員が持ち回りでやるのが決まりなんだから! 帰宅部ったって、ちゃんと活動には貢献してもらうわよ!」
「ああ……そう……」
地学部って、空も見るんだ……。
「ちょっと急すぎるので、また今度ということで……」
「ダメよっ! あんたのことずっと探してたんだから! もう三日も!」
何で探す必要があるんだよ……さっさと伝えに来ればいいのに……。
「ほんっと! あんただけじゃないけどさ! 自分のクラスも書かないし、写真撮影にも来ないし!」
兵庫さんがうんざりしたように言う。そうだっけ。適当に書いたからもう何も覚えていない。僕は校舎に据えつけられた時計を見上げた。四時半か。廃墟倶楽部で過ごして、日が暮れたら戻ってきて……。七時には間に合うかな。
「わ、わかったよ。七時に来ればいいんだろ」
僕は急いでいるんだ。用が済んだらさっさと行かせてほしい。
「いいわね! 絶対来るのよ! 先輩の命令なんだから!」
兵庫さんは一人で大騒ぎした後、さっさと走って行ってしまった。地学部、ねえ。突然活動に駆り出されるなんて、何だか不思議だ。
……そういえば。
「そっか、部長だから、僕より先輩なんだ」
兵庫さん、いや、兵庫先輩はそれで僕のことを知らなかったんだ。自転車を走らせながら地学部のことを思い出してみた。だめだ。どんな部だったか、どんな部員がいたかさえわからない。
「いいや、どうでも」
僕は昨日からあの子に会えることが楽しみで仕方がなかった。もちろん廃墟だって好きだ。でも、僕が今日廃墟に向かう目的は、昨日までのそれとは明らかに違う。
「はぁ、はぁ……」
僕は思いっきり自転車をこいだ。あの子、もう来ているだろうか。今日はちゃんと名前を訊かなきゃ。弾む息と胸を必死に押さえながら、僕は廃墟へと急いだ。
橋げたは遠くからでもよく見える。この街は寂れている。昔、ここに大きな炭鉱があって、たくさんの人でにぎわったというけれど、今ではその面影は微塵もない。親から聞いた話だと、たくさんのホテルが立ち並び、常に満員状態だったらしい。今こうして辺りを見回してみると、まるでそれは別世界の話のようだ。一面のススキ野原。ところどころ残る建物の壁。やたらきれいなのに車の全く通らない道。
「いるかな……」
僕はいつもの場所で自転車を降りると、ススキ野原に入っていく。そのまま小走りに橋げたまで近寄っていった。
「す、すみません……」
近くまで来て、とりあえず声をかけてみる。
「こっちよ」
いた。僕の胸は高鳴った。橋げたの柱の向こう側へ回ってみると、地面に落ちた大きなコンクリートブロックの上に、彼女はいた。
「こんにちは」
微笑みながら僕を見ている。昨日はまともに見られなかった彼女の顔、やっぱり可愛い。
「あの……遅れちゃって」
「早いも遅いもないのよ。だって、そういう所でしょ、ここって」
彼女が楽しそうに笑った。
「それに、ほら。まだ日が沈むまでは時間があるわ」
「うん……」
僕は突っ立ったまま情けない声を出す。どうしよう……そばに近寄るのは、やっぱり変かな。彼女はコンクリートブロックに座ったまま、空を見つめながら足をぶらぶらさせている。そうだ、名前を訊こう。彼女が誰なのか、僕はまだ知らない。
「あの、君……訊きたいことが……」
「ふふ、約束したでしょ?」
「え?」
彼女が僕の言葉をさえぎる。
「お互いに邪魔しない、って」
「………………」
その一言で、僕は金縛りにかかったように固まってしまった。どういうことだ? 僕は彼女と話すこともできないって事なのか?彼女はこっちを見ながら、いたずらっぽく笑っている。そんなの、あんまりだ。
「邪魔しないよ! しないけどさ」
「うん」
「名前だけでも、訊こうと思って」
「榛奈」
「はるな……さん」
「ええ、伊香保榛奈」
いかほはるなさん、か。何か珍しい名前だな。
「ありがとう、僕は……」
「ううん、いい」
「えっ……どうして」
僕の名前を教えようとした時、伊香保さんは再び僕の言葉をさえぎりながら、空を見上げた。
「だって、知ってるもん」
知ってる……? 僕の名前を?
「ほんとなの?」
「うん。ほんと」
「じゃ、じゃあ、言ってみてよ!」
彼女が笑いながら口を開く。
「……会った事、あったっけ……?」
僕は自分の名前を知っている彼女が不思議でしょうがない。
「ね、もう終わり。だってこのままじゃ、おしゃべりばかりになっちゃうもん」
彼女はコンクリートブロックから飛び降りて、軽やかに地面に着地する。
「あ……」
スカートがふわっとゆれて。
「……あ……見え……ない」
バカバカ! 僕のバカ!
「さあ、夕暮れよ」
彼女は僕の動揺に気付く様子もなく、夕日を指差した。僕は彼女の横顔を見る。紅く染まってはいるけれど、真っ白な肌だってことがよくわかる。ガラス細工のようにきれいな肌で、昨日もニキビができた僕の顔とは大違いだ。ほんとに同じ人間なのか……?
「きれいね」
彼女が口を開いて、僕は慌てて目をそらす。退廃的な場所にこんなに可愛い子がいるなんて、ひどく滑稽に感じた。