彼女は妖精
廊下の床は赤いじゅうたんが敷き詰められている。その赤も今では薄汚れ、すすけていた。僕ははやる気持ちを抑え、ゆっくりと光の差し込む方向へ向かった。榛奈さんは僕の後ろを静かについて来る。
「ほんとに緑色の光ね」
榛奈さんが僕に話しかけた。
「うん。何だか幻想的だったから、最初はほんとに見たのか、ただのイメージだったのか、わからなかった」
「何となくわかるわ。だってこんな景色、どこにもないもの」
「そう、そうなんだよ」
きしむ床は、それでも僕たちの体重ぐらいではびくともしないようだった。どうやら突然抜ける心配はなさそうだ。僕と榛奈さんは、ついにその場所に立った。
「ここが見せたかった場所だよ」
不思議な光景だった。張窓は数年前に来た時、そのままだ。床から天井まで張り巡らされた大きなガラス窓は、どれ一枚として割れてはいなかった。床は光に照らされてキラキラ光り、その部分のじゅうたんだけはとても鮮明な赤を残している。窓の外を見やると、ツタが視界をふさいでいるものの、このすぐそばでたくさんの木々がざわざわと揺れているのがわかった。もう秋も深まってきているのに、外に広がる鮮明な緑は相変わらずだ。
「………………」
榛奈さんはじっと窓の方を見ている。その真剣な表情を見て、僕は彼女がこの場所を気に入ったのを知った。
「前に来た時、そのままだよ……」
廃館はどんどん古くなっていくはずだ。誰も手を入れなければ、恐らくそのうち自壊するだろう。だけど、光に照らされたここだけは、時が止まったかのように永遠に残り続ける。本当にそんな気がした。魔法にかかっているんじゃないか……そんなことを考えてしまうほどに。
「ここにしばらく……」
僕と榛奈さんが同じことを同時に言いかけて、僕たちはクスリと笑った。
「イスがあったんだ。今もあるか、見てみるよ」
榛奈さんがうなずくのを見届けてから、近くの部屋に入った。薄暗くなったその部屋は、やっぱりただの廃墟で、明らかにあの場所とは違う。僕は床に転がるイスを二脚見つけると、それらを慎重に起こし、順番にゆっくり座ってみた。まだ使えそうだ。
「あったよ。ちょっと汚れてるけど、いい?」
「うん。ありがとう」
僕はイスを窓の方に向けて並べた。榛奈さんがゆっくり座り、僕も座った。
~~
どれくらいたったのか、たぶん数分くらいか、いや、何時間もいたのかもしれない。僕たち二人はずっと窓の外を見ていた。日の光は木々が揺れるたびに繊細に形を変える。ひんやりとした館内でも、この場所には心地よい暖かさがあった。
「………………」
僕たちは喋らなかった。それでいいと思った。同じ光景を見て、同じことを感じている。僕たちは言葉がなくても心が通じているに違いなかったのだ。少なくとも、ここを好きだという思いに関しては。
(ここに住んでいた人も、こうやって一日中この張窓のそばに座って外を眺めていたんだろうか)
僕は、そんなことを考えていた。その時。
「ここに住んでいた人たち……」
榛奈さんが小さくつぶやいた。僕は言葉を継いだ。
「……今も元気だといいね」
「うん……」
榛奈さんがゆっくり目を閉じるのが見えた。何か考えているんだろうか。しばらくチラチラと様子をうかがっていると、彼女は可愛い寝息を立てはじめた。僕はなぜだか新鮮な感動を覚える。
(あの榛奈さんが、僕の隣で寝てる)
疲れたんだろうか。そういえば、ここまで歩いて来たと言っていた。帰りは一緒に電車で帰りたいな。
「……すぅ」
榛奈さんを見る。こんなにじっくりと榛奈さんを見たのは初めてだ。彼女の肌は本当に透き通るように白かった。夕暮れに染まる彼女もとても綺麗だったけど、洋館の張窓のそばで静かに座る彼女はさらに素敵だ。
「魔法だ」
思わずつぶやいてしまった。彼女はこの場所を守る妖精に見初められ、魔法をかけられたんだ。その証拠に、榛奈さんのすべてがこの場所に何の違和感もなく溶け込んでいる。いや、彼女こそが妖精なんだ。
「………………」
幼稚な考えがどんどんエスカレートし、僕は何だか自分自身が恥ずかしくなる。もう一度榛奈さんの方を見ると、彼女の頭がかすかに傾き、絹のような髪の毛がさらりと肩から垂れた。
「……しまった、なぁ」
もう少しイスを近くに寄せるべきだった。僕の肩を貸してあげるのに。二人で肩寄せあってこの場所にずっと佇んでいられたら、どんなによかっただろう。だけど、それも今は無理なことのように思える。僕は物音を立てまいと、金縛りにでもかかったかのように身動きが取れないのだ。
(ひょっとして魔法にかかったのって、僕じゃないか?)
そんなことを考えていた。いいさ。僕はこの状況にとても幸せを感じているんだ。心地よい榛奈さんの寝息を聞きながら、僕は再び窓の外に目をやった。
~~
「………………」
うう……どうしたんだろう……。何も見えない。耳を澄ましても、かすかに風の音がする以外は何も聞こえない。
「……ああ、そうか」
僕はいつの間にか眠りこけていた。ゆっくりと目を開ける。そのまま隣の方を向くと、榛奈さんがほほ笑みながら僕を見ていた。
「寝ちゃったね。お互いに」
「はは……そうだね……僕、長い間寝てた?」
「どうかな。私もほんの少し前に目が覚めたから」
「そっか」
窓の方を見ると、日は大分傾いているようだった。差し込む光も弱まり、来た時よりも肌寒い。
「そろそろ、行こうか」
僕が彼女に言おうとした、その時。
どたどたっ!
廊下の向こうの階段の方でものすごい足音がした。ハッとしてそちらを見ると、階段を駆け上がる人影。
「おい! ちょっと邪魔するぞ!」
「何だよ、端島。騒がしいな」
「先輩が……摩耶先輩が……!」
端島の雰囲気を見て、何かが起こったんだと直感した。
「先輩が?」
「いなくなった!」
「え? 外は?」
「外にもいないんだよ! 白石先輩は見てないって!」
僕は榛奈さんを顔を見合わせた。彼女も心配そうな顔をしている。
「今、白石先輩もこの中を探してるんだけどさ! 俺、退屈してちょっと一人で探検してたんだよ! その隙に消えちゃって! 今まで一階をずっと探してたけど……」
「わかった。一緒に探そう」
僕はイスから立ち上がった。
「榛奈さん、この階に先輩が来たかどうか、見てない?」
「さあ……私が起きているときは、誰も来なかったけど……」
「僕も寝てたから、よくわからないんだ……端島、僕たちはこの階を探すよ」
「そうか? 頼む!」
端島はそう言い終わらないうちに階段を駆け上っていった。上の階を探すつもりらしい。
「困ったな」
誘った僕の責任もある。もし兵庫先輩の身に何かあったら大変だ。僕は暗い気持ちになった。
「大丈夫……何となく、そんな気がする」
榛奈さんは少し考え込んだ後、僕に言った。
「でも……」
「だって、素敵な場所だもの。私たちにとっても、先輩にとっても、ね」
「………?」
榛奈さんはやっぱり不思議な子だった。
~~
彼女の言うとおり、兵庫先輩は何事もなかったかの様子で上から降りてきた。
「おい端島……人騒がせな奴だな」
「いえ、私が悪かったのよ。ごめんね、端島君」
「……いえ」
兵庫先輩が端島に謝っている。どうにも状況がよく呑み込めない。何となく真剣みを帯びた声で話す二人と違い、一緒に降りてきた白石先輩は相変わらずの落ち着きようだ。
「いやいや、まぁやがふざけて隠れたら、端島君が心配してくれたってわけさ」
「そうなんです……か?」
「ごめんね、端島君、ほんとに。君たちも。お騒がせしちゃったわね」
「いえ、先輩が無事でよかったですけど……」
「いやいや、先輩。勝手に騒いだ俺が悪いんですよ!」
端島が大げさにおどけて見せた。薄暗くてよくは見えなかったけど、兵庫先輩の表情は何だかいつもと違っているような気がした。